scene 10 …


 

「計画」はセイジの描いたシナリオ通り、完璧に進んでいった。書類選考を難なくクリアし、あれよあれよと言ううちに最終選考の舞台へ。ちなみにそのとき、他に選ばれていた二組のメンバーは、どちらも水城社長の息が掛かったグループだった。
  そのことをセイジから耳打ちされたときも、私は驚くほど落ち着いていた。余計なことを思い悩む必要なんてない、ただ心の声を伝えることさえできれば最高の仕上がりになる。恐れることなんて何もないんだ。

  そして、迎えた当日。
  最後の選考に先立ち、別室に呼ばれたセイジと私に知らされた信じられない情報。
  実は、最初に私たちのデモ・テープを耳にしたときから、水城社長ただひとりが難色を示し続けていたのだという。他の制作スタッフたちが是非この曲で行こうと意見をひとつにする中で、彼はかたくなに自分の意見を曲げようとしない。そうしているうちに撮影現場でもあれこれとトラブルが発生し、気づけば彼の周りは誰もいなくなっていた。
「それで……私どもとしても苦渋の決断であったわけですが……」
  まだ公には示されていなかったが、このたびの制作スタッフから急遽水城社長の名前が消えていた。彼は愛弟子である「サヤカ」と共に、現場を追われる身となったのである。すでに代役のヒロインが決まり、撮影は滞りなく続いていると言うことだった。
「そんな……そんなことって」
  すべては自分の思い通りになったのである。そのはずなのに、私の心はそのときに大きく混乱していた。目指していたゴールテープが目の前で消えて、行き着く場所がなくなる。憎しみだけに支配された感情が、宙ぶらりの状態になってしまった。
「私たちスタッフは『羽未』さんにお任せしようとの意見で一致しています。審査には気を強く持って、臨んでいただければと思います」
  この人は実は悪魔の化身ではないだろうか、そんな想いが私の胸をかすめていった。どこから見ても風格のある「責任者」という名にふさわしい男性、でもその胸の奥には負の感情が渦巻いている。
  そうなのだ、飛ぶ鳥を落とす勢いで業界を牛耳っていた水城社長には、その一方で敵対する陣営がいくつもあった。隙あらばその足を引っ張り蹴落としてしまおうとする者たち、いくら類い希なき才能を持ち合わせていても越えられない壁は確かにある。
  彼は果たしてそれを知っていたのだろうか。―― 否、もしもすべてを承知の上で自分の運命を受け入れたのだとしたら。
「―― マナミさん?」
  気がつくと、セイジとふたりきりに戻っていた。自分の足がガクガク震えているのがわかる、このままではとても選考の舞台などに立てる状態ではない。
  ついさっきまでは、たとえ何が起ころうとも乗り越えてみせる自信があった。でもこれはどういうこと? 自分たちの前に立ちはだかった何よりも大きな壁である「彼」が急に姿を消したことで、逆に不安定になってしまっている。
「私、無理。もうステージに立つ自信がない」
  それは絞り出すような言葉だった。今の想いをセイジだけにはきちんと伝えなくてはと思うのに、上手くいかない。
  でも、混乱の極みの中にある私を見つめて、何故か彼は微笑んだのだ。
「大丈夫、マナミさんなら歌えるよ。届けようよ、俺たちの歌を。アイツの心まで響かせるように歌おう」
  そう言って、セイジは私の手を強く強く握りしめた。そのとき私は気づく、セイジの手も身体も私に負けないくらい震えていることに。きっとその瞬間の衝撃をひとりで乗り越えるのは無理だったと思う、だけど私たちはひとりじゃない。わかりあえる相手がいる。
「だけど、……すごく怖い」
  素直に胸の内をさらけ出すと、セイジはホッとしたような泣きたいような不思議な表情になった。
「俺も、すごく怖い。だけど、ここで逃げちゃ駄目だと思う」
  この世界は、私たちが考えるよりもずっと複雑な力に大きく支配されていた。今まで怯え続けていた「影」がある日突然その姿を消す。でも、その一方でもっと邪悪な者が忍び寄ってくるのかも知れない。食うか食われるか、それでも己の才能だけを頼りに這い上がるしかない。
  そして、その先に……どこまで進めばいいのだろう……?
「ねえ、一緒に歌おうよ」
  私たちが本当に戦うべき相手は「彼」ではなかったのかも知れない。どこまでも自由に飛べるはずの羽をもぎ取るのはいつも自分自身。彼もまた、自らが創り上げた「影」の前に堕ちて行ったのか。
「まずは俺たちのために、それから別の誰かのために。その順番を決して間違えないように、これからも歌い続けていこう」
  その瞬間、本当の意味で私たちの心はひとつになれたのだと思う。ううん、もしかするともともとはひとつだったはずが、何かの間違いでふたつに分かれてしまっただけなのかも。そうだとしたら、これですべての説明がつく。
  ただひとりの男に同じく心を奪われ、そして同じように捨てられて恨み続けてきた。その足枷をようやく外すことのできた今、すべてが解き放たれる。

  その晩、私はあの部屋には戻らなかった。月が傾いた頃、ふっと目を覚ます。
「……起きてたの?」
  セイジの腕の中はとても温かかった。今までだって簡単にこんな風になれたはずなのに、ここまで何もなかったことがとても不思議。
「うん、何だか眠るのがもったいなくて」
  そう言って、彼は私を抱きしめる腕に力を込める。誰かの吐息をこんなに近くで感じるのはすごく久しぶり。だけど、こんな風にしていることがとても自然で当たり前のような気がする。
「そう? 私は何だか疲れちゃって。このままずーっと眠っていたい気分なのに」
  走り続けていた、もがき続けてきた。自分から求めることをやめたら、何も手に入らなくなる。たとえばそれが負の感情だったとしても、私を生かし続けるためにどうしても必要なものだと信じていた。
  だけど……もう、これくらいでいいよね?
「いいよ、マナミさんのしたいようにすれば」
  突き放したような言葉だけど、その響きは優しい。
「きっとしばらく経てば、そんなの退屈すぎて我慢できなくなるはずだからね」
  彼自身が私をもう一度求めていることに気づいて、何だかとてもくすぐったい気持ちになった。柔らかい愛撫に身を任せながら、ぼんやりと白い夢の中を漂う。
  ―― 同じ色を持った誰かのそばにいると、こんなにも安らげるんだ……
  唇からこぼれ落ちる甘い吐息を、ひとしずくもこぼさずにこの人の心へ落としたいと願った。

「おめでとうございます、これで契約は成立となります。それでは今後ともくれぐれもよろしくお願いいたします」
  半月後。
  何枚かの書類に連名でサインしただけで、すべての手続きは終了した。「羽未〜umi〜」は実態を明かさない音源のみの活動に終始するのだから、記者会見などの煩わしい露出もない。
「ありがとうございます、こちらこそよろしくお願いします」
  セイジがにっこり微笑むと、目の前の制作プロデューサーは少しだけ顔を歪めてみせた。私たちふたりの姿をひとめ見たときから、彼は本格的な音楽活動を始めるようにと強く勧めてきている。そのためには知り合いの音楽事務所に働きかけてもいいし、個人的にも全面的にバックアップしてくれると言う。
  しかし、セイジは目の前にどんな餌をぶら下げられようとも、決して首を縦には振らなかった。自分たちは色々と曰く付きであるし、あくまでも日陰の存在に徹したいというのが彼の言い分。それは柔らかいその雰囲気からは想像も付かないほどの強い意思だった。
「水城社長のことを気に掛けているのでしたら、ご心配には及びませんよ」
  そちらの胸の内はすべてお見通しですよとばかりにそう告げられても、セイジの答えは変わらない。その口元に浮かぶのはいつもと同じ淡い微笑み、しかしその表情から彼の心をくみ取れる人間などいないと思う。
「お気遣い感謝いたします。それでは、僕たちはこれで失礼します」
  一礼して部屋を出たあと、私たちはどちらからともなく手を繋いでいた。そして窓の外に見上げる灰青の空、透き通っているのにどこかくすんで見える大都会のそれがどこまでも広がっている。
  ―― でも、大丈夫。きっと、迷うことなく飛んでいけるはずだから。

  数日前、写真週刊誌が「彼」の消息を伝えた。ようやく判別できるほどの乱れたショットには、彼と彼に寄り添う小柄な女性が映っている。彼女の瞳の輝きが信じれないほど強く感じられて、私はそっと目を背けていた。
  すべてを失った彼が私の元に戻ってきてくれるなんて、どうしてあんなにも強く信じていたんだろう。人の心を自由にできるなんて、とんでもない思い上がり。彼が私の目の前から去ったのは彼のせいではない、でも私自身のせいでもない。それは多分、あらがえない運命。
  恨んではならない、嘆いたって始まらない。どんなに心が乱れようとも、歯を食いしばって前を見る。喜びも悲しみも、すべての感情は自分の中から生まれるもの。

「さ、帰ろうか」
  耳元で囁かれた声に、そっと微笑み返す。私たちの空が、ずっと続いていることを祈りながら。

了(100526>
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