大島哲蔵さんからの便り 1998年     HOMへ
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 1998−7−4−2:19

佐藤敏宏様
FAX拝見しました。9日よろしくお願いします。大阪で若い連中と佐藤さんの話を聞く会を囲めることは、大変なたのしみです。

一昨日予感はありましたが、ギックリ腰になりまして、昨日は寝かえりもうてずにウンウン言ってました。今はやっと物につかまって伝え歩きができる一才ちょっとの状態に回復したところです。

 また一昨日は楽しみにしていたバルセロナ・コンペに落ちたことを知り、「やっぱりそうか」となったのですが、本日ワタナベ氏のコンペ落選(職人ダイガク)を知り、何と「ヤマシタ設計」がとったそうです。いよいよ、談合の疑いが濃いのですが、「やっぱりなぁ」という感想です。お歴々が審査に当たって騒いだ揚げ句これですから、白河の中学校と同じですね。「差し戻し判決」というやつです。10案のうち組織事務所が3社であとはウチイやイソザキやトミナガだったそうです。(それでなぜヤマシタ設計なのか?)

初夏のお楽しみはすべてもろく崩れてしまいましたが、もちろん別にショックなどありませんが。でもワタナベさんは口惜しいことでしょう。私は10パーセントの確率、彼は3〜4割いけると思っていたようです。奇跡は起こらなかったのですが、彼にはもう一度引退の花道がやってくるように思います。

ニッタ氏とは「資金繰りの暑い夏がやって来るね」と、二人でつぶやいておりました。30代ぐらいまではこんなことにもまったく平気でしたが、50ぐらいになるとさすがに疲れてきます。建築界というのは見かけだけが前衛で内容は超後衛というのがよくわかりました。私達はどんどん我慢強くなっていき、何が起こっても驚かなくなってしまうでしょう。自分では変ることがない社会に進歩派として居残ることとは、そういうことなのでしょう。

今日は関西も暑い一日でした。仕事は一件だけに絞ったのですが、何人か来訪者があり、老人のようにスローモーで背を曲げて昼飯を食べに出掛けたのですが、またビールとチャイを2杯も飲んだので、調子がなおさら悪くなってしまいました。本当に不摂生も極限にまで来ています。こんなことができるうちはまだ大丈夫なのかもしれません。家出も出来ない年ですから、家にこもって、不善をなおすことのみが大事なのではないでしょうか。いまの楽しみは9日のイベントです。気をつけていらっしてください。  大島哲蔵


 1998−7−10−21:17

佐藤敏宏様 大変遠いところから一家総出で到着して下さり、感謝の極地でした。関西の若い世代にはとくに激励 そして、得難いチャンスとなったように思われます。様々な条件をおさえたうえで、自分たちのやりたい設計を大胆に推進することができるし、そうする方が良い(周囲にとっても)ことが明らかにされたのではないでしょうか。ここ数年間を乗り切れば、まだまだ多くの好機が訪れるのではないかという期待と希望があります。

もし暇が続くようなら、自伝的建築作法の発端と展開と今後について、まとめる方向で構想をされたらどうでしょうか?(どこから出すかはともかく)空間論、人間論、社会論を地方都市で起こりつつあること(今や都市と農村(地方)との区別は限りなくなくなっている)との関係のなかで論じるわけですね。

芸術(文学)と実社会の接点や技術論なども関係するし、コインロッカー論も良いですね。性と建築というのも一章必要な気がします。今までと違う建築論が必要でしょう。家を語るとときに家出編から入るのも楽しそうですね。出家論でもイケルかも。すべてがじゅうりんされるなかで、どうやって踏み止まるのか考えてみたいものです。

ワタナベパターンやヒラヤマパターンを言外にケーススタディーするのも有効のような気がします。誰に向けて書くのかも、はっきりさせておいたほうがよいようで(レクチャーの時のように)若い世代の人に絞って呼びかけるのが一番正解のようです。

留学なんかするな、とか(留年なら良いが)メディア・アキテクスはバカばっかり、など説得力があります。

浄土寺論やハレルヤ洗礼論も面白くためになりそうです。何だったら私共のニュースに連載されますか?内輪のようでいて、全体状況論になっている書き方が今や一番良いのではないでしょうか。とにかく奥さんや犬二匹にはとんだ災難だったかも知れませんが、私達にとっては夏の入り口の出来事として理想的な数日間でした。

コンペの希望がうち砕かれるなかで。資金繰りの夏に向けて、これをしおに何とかもちこたえたいと思います。思っていたのとは違ってろくなもてなしも出来なくてそれだけでは残念に思っております。また若い人達と交流していただく機会も作りたく思っています。ありきたりのパターン外で驚異と不思議と発見に満ちた建物を作りましょう。大島

● 1998年7月15日頃

大島哲蔵様
ぼんやりしてたら一週間が過ぎてしまいました。大阪での話は充分ではないとも言えるし充分であったとも言えます。実体を言葉で伝えるのは困難な作業には違いありませんが、貴重な機会を与えていただきよい経験になりまいた。個人にスポットを当てる作業が有効であるのか意見の分かれる所ですが、日本ではまだ充分建築で実験されていないので有効であると思います。社会全体を理解掌握しようと思えば役所的解答しかとりあえず しょうがないわけですから、もっと多くの実験がなされてもよいと思っています。

不況になれば一斉に不況を唱える、バブル時はその反対でしたから、此地で生をかけて実験する意味があるのかと考えたりもします。とりあえず建築を好きな者が好きにやり続けることが唯一有効なことだと思います。

例のはれるや教団のようなインチキ宗教の建築に関わることがないだけ私の方が思想を手に入れる近道に入っていることは間違いのない現実です。キッチュな形態こそ現代の宗教には相応しいと思いますが、例のサティアン建築以来、宗教と建築の蜜月は解体されてしまっているのに。上品に振る舞うインテリアとカルトトランス状態ですり寄るオバタリアンの取り合わせはなんとも絶妙で病の深さを大地に刻み込んでいました。

基壇の看板と(土地との記憶)の対比がそれを強く照らしていて妻も私を見て笑っていましたが、私はその風景の中で行われる行為がとてもおかしくって笑ってしまいました。神も私の身体 のなかにのみ存在するものですから、不在の神を保証する建築はインチキそのものなのです。サティアン建築は宗教がそれを証明しました。

私はコモインチキや虚構のなのかどうか激しく追求(建築で)してみようと思い続けていいますが、いろんな人に問いかけますがどうもそのように認識している人が少ないので面白い答えがありません。ワタナベさんに反省されてしまっては一寸ひょうし抜けです。かれらも成り上がるためのテクニックと判断せざるを得ませんでした。コスモロジーや癒しはインチキだった。

公共建築が選挙資金の金集めの手法とすればいずれ建築がすさぶのは道理ですから財政がたちゆかなくなりそれらが放棄され雑草や昆虫や鳥たちのすみかになるのでしょう。都市の山奥の捨てられた木造校舎のように、軍艦島のように、はたまたカンボジアのポルポト記念館のように人の人格を根こそぎ殺してしまう処刑場になるのでしょうか、ひっそりとある自生する建築の出現を静かに眺めるのが楽しみです。

建築は言葉によって構成された物ですから完成した物から新しい言葉がにじみ出して、当所の機能を解体してしまうのは美しいことです。

また一つ発狂する建築をこの手で作ってみたいと思うのは悪趣味でしょうが、大地を走ることも、空を飛ぶことも水中を泳ぐことも思想にしてしまったパナマレンコのように建築を作ること、そのものが思想になってしまう、それが唯一の目標です。長い時間をかけて静かに作ってみます。それほどやり残したことは多くなさそうなので(個をめざすのは)次に集合や都市の問題も考えてみます。(解体された個の集合) 佐藤敏宏


 1998−7−19−22:4

佐藤敏宏様
旅行の疲れはもうとれましたか?誰の話を聞いても、うまい人には腹立たしい、下手な人には問題外ということで、登場願ったわけですが若い人には勇気を伝えられたと思うし、ベテランには初心を思い出させてくれた良い機会となりました。

先日ミヤジマ君がやって来て、「ああいう個人色の濃い建築世界は外部にどれだけ有効なのか」と言うから、「充実した個人性、深められた意識しか外部には通じないし、個人的世界の確立を欠いた公的性格は成立しない」、などと言って応えました。

よっぽど立場やキャリアに恵まれた人なら、あらためて公的性格とは何か、を問えるかも知れませんが、そんなタイプの人は、うまく行っても政治化してしまうのではないでしょうか。趣味性のきついものでも、それをとことんまで、展開して行かないと、ダメでそれは宿命的に課せられた道筋で、結果的にオープンになるか、クローズになるかは、その人の心のあり方次第で決まって来るように思います。

佐藤さんの場合はその両方が絡み合って最終的には区別できない形で結晶化と拡散を同時進行させるでしょう。「都市を考える」ことも有効で、と言うよりその視点は前からあって、場所や風景や都市センターとの関係(周縁性)は論点の一つになっているように思います。反感と共感をまぜこぜにしているのが良いのですね。

都市を批判して、重要な都市のレパートリィとして機能することもできるようです。インチキな教団(ハレルヤ・オウム)の建物も画期的でありうるように思います。人格破綻の作家でも名作が作れる場合があるようです。(そのほうが多いか!?)建築や表現に狂う能力があるかどうかがキーかも知れませんね。勉強を欠かさないこと。それから無価値なレベルを知っていること、決してあきらめないこと。現実を受けとめるが理念を捨てないこと。これらがあれば問題はないように思うのですが・・・。大島

●1998年7月19日頃

大島哲蔵様
9日の話が役立ったようで嬉しく思います。FAX感謝いたします。長いこと私は個が分列増殖する現状を見続けて考えた結果あのような建物になったのはそれなりに評価できるようで私にとってもよかったと思いました。地球や公共といってもその全体を知ることは困難であり、不可能なことでしょうから。

春秋のパンフのマイヤーの文にあるように一人一人のレベルで言語化し解読し続けることが肝要なことと私も思います。

私には破綻や狂い方がどうもまだ足りないようで世に出る力がないのが残念です。もっと個人的に追求して楽しく作ってみます。最近は電化製品の個人化がすすんでいて 個人が直接外部と接続するようになり、そこらじゅう透明になったような気分が強くなってきているのでしょうか。 あらゆるものがスケスケばって落ち着きが悪いように感じます。スケスケは均質化がすすんでいるので世界を理解しやすくなった、見通しが良くなったと錯覚している気分の顕れでしょう。

気分を単純に表出すると公共的に見えるのでしょうか。視覚的なイリュージョンをガラス・鏡を使用してつくることは遊びとしては良いと思いますが、実物が混乱錯綜しているのが私の好みです。

あらゆる「もの」がインチキにもみえ、あらゆる「もの」が真実にもみえる。私の網膜と血液に身をゆだねて生活してゆきます。

医者に水泳を禁じられて私は はれるや教団の拷問的洗礼で中耳炎になってしまいました。 血液だって抵抗する。 意思もないのにそれを言語化するのが人間の楽しみでしょうが。血液や内臓が言語を持ったら現状の世界認識が一変してしまうような楽しみに襲われます。 血液検査やレントゲンを用いないで直接聞くことができる装置があれば「窓下のアンパンマンは山形よ」などといった会話を聞くこともないのに。「総理大臣は肝臓に選ばせよう」などと腹を聞き愛をする。腹をさすり合う社会は楽しいかもしれません。

桃もうしこしで出荷できるようです。もうすこしまってください。



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