大島哲蔵さんからの便り 1998年    HOMへ
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1998−11−13−12:35

佐藤様
昨日は久しぶりに来阪されたフクダ氏と皆さん(とくにワタナベさん)と話に熱が入って、つい3時となってしまい、結局小生が田原本まで送るほかなくなってしまい、さっき帰ってきました。昨日春秋塾へ行く前に簡単な英文で質問書をFAXしましたが、今のところ返事は来ていません。

 ニッタ・ワタナベ氏にも少し話しましたが、彼らは大量の水を使い案は嫌われるから、今回はその方式は採用できないといっており、領事さんの返答と関係なく別の案を作ってほしいようです。別案を提示するか、放っておけば彼らが代案をつくると思います。案のシステムが不明確で分担の範囲もハッキリしないので、佐藤氏の案を撤回するにも固執するにもあまり意味がないように思いますが、これは余り傍観者的な意見でしょうか?

別便にてフクダさんのお話をまとめた(本人が作成されたもの)を送らせてもらいます。スライドを40枚ほど使われましたが、それはないと少し印象が違うかもしれません。私は個人的には大変興味深く拝聴しました。もう少し推敲する余地も残っていた議論だともかんでいました。ではまた  大島哲蔵

1998年11月17日前 本に同封手紙

佐藤敏宏様
福田さんの講義内容と小生+ドーケの訳書を送ります。大変申し訳ありませんが。生活が苦境にあるので、本来なら献呈しなければならないのですが、訳書は代金をお願いします。同封しましたナカオヒロシはそれなりに興味深いないようだと思いますので御高覧ください。
telで申しました学会については日時が11月21・22です。どちらか半日付き合ってください。場所はまだ私も判らないので判明次第お知らせします。いろいろ勝手ばかり言いますが、よろしく。大島哲蔵



● 1998年11月17日
大島哲蔵様
今日福田氏の講義と「不気味な建築」をそれにナカオ氏の作品記録集頂きました、。荒俣宏の「幻想文学縁起」古代から明治初期までの怪物物語を読んでいたので、福田さんの二種類の「反美学」は面白く読ませていただきました。福田さんはデリだの尻馬にのったヴィドラーに対して勝手に思いなさいと言っていますが、打ち上げ・反省会ではその後どのような会話になったのか興味が持てました。ヌアンドレ・シャステルのグロテスクが日本語であれば読みたいです。

不気味な建築の方はまだ読んでいないので読んだら感想を伝えたいと思います。
福田さんのヴィドラー批判にもあるが、明確な作家的造形意を示すナカオヒロシ氏の作品と文章に強くひかれるものがあります。ブラックマライアとシデン トランシのコメントは作品も良いですが、文があきらかなのがよいです。写真家のナカサタケシも作品との距離感がいいですね。作家の語り尽くせぬ感情や言葉が理解できるように感じていますので、そう感じるのかもしれません。 知識が無いので、なるだけそのことを文章に出来るよう心がけなければならないと思っています。

11月21日又は22日に所沢にあるナカオ氏の生け花作家のためのスタジオを見学に行って見ませんか。時間があればですが。

いつもいろいな建築周辺の情報をいただき感謝いたします。少しずつ理解し深みと厚みのある建築が作れるようにしたいと思います。BOX13は1階のRC打設前。千万家は開発申請に少しずつ進展しています。

明日は里に雪が降るようです。これから半年をかけいろいろな想いが実現するように努めたいです。とりあえずお礼まで。

白鳥が深夜飛び回ってるので不思議な気分です。 佐藤敏宏



 1998−11−17−2:48

佐藤様

早速メッセージを下さりありがとうございました。二次会はとても楽しい時間でしたが、まだ本当の話はしていません。(これからです)3年間、少しずつなんどもテクストを読んだ身としては「エクリチュールのパラドックス」がよくわかるところがあって、例えばデリダが「すべてのエクリチュールは抑圧的だ」と言うとき「全てのエクリチュールは快楽である」とも同時に言っているわけで、またそのテクスト自体が抑圧と解放がないまぜになったものでもあるわけです。ヴィドラーはフクダさんが書いておられるような形では立論していないのです。

ですから不気味な建築ではなく建築の不気味さなのです。主眼はいかにもいかにも不気味さを漂わせている建築ではなく、何でもないむしろ親しげに思われた建築(空間)が自分に対立し、もしくは信じていた世界が変質して疎遠なものに転化する契機、その傾きをしてきしているわけです。グロテスクでもグロテスカでもなくhomelyな空間がUNhomelyになるパラドックスが確かに認められるのです。ナカオ氏のオブジェクトもそんな性格を与えられているようです。

過日古い資料を捨てているとき、10数年前の自分のメモが出てきましたがほとんど忘れ去ったメモですが、間違いなく自分の筆跡でしかもほとんど今の自分が書きそうもないことが書かれています。自分でなくなりつつあった、コメントが呼び戻されてしまったわけです。忘れたままにしておきたかった、いくつかの出来事もたぐり寄せられるように、再浮上しようとしています。

昔よく知った人と偶然出会って次第に記憶が戻る時のような、デジャビュの逆感覚が「失われた時を求めているのに」回帰して来る不快と快が背中合わせになった感覚がある種の場所、ある種の人物、ある種の写真によってかきたてられるわけです。

21日の午前中、または22日午後もし住所がわかっていれば、生け花の師匠の家には勿論行けません。私はいまのところ20日の夕方には東京か浦和かその近所に泊まって21日の午後から始まる、分科会に備えるつもりです。22日の午後には全体の多分つまらない、催しがあるようなので私は関係ありません。その日の終電で大阪に帰るかもう一泊するつもりです。 大島哲蔵

 

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