1995年 1996年 1997年 1998年 2000年 1999年 大島哲蔵さんと佐藤敏宏の私信交換 home 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12 01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 ●1999年1月6日 0:37 佐藤敏宏様 年賀状ありがたく拝見しました。 私も最近めっきり眼が悪くなり、本を一冊翻訳するたびに進行してるのがよく判ります。焦点があわなくなったり、いわゆるカスミが入ったりする別の症状も現れ始めました。身体の基準の劣化を身体自身が感知した時、黙って笑うほかないことわかってしまいました。そのうち美しい女が「して良い」というような態度をしても(まずないことですが) 別の動機から「自分をもっと大切にしなさい」とか言うほかなくなるのでしょう。 今世紀末は前の世紀と違って退廃や美学に酔い疲れることもできずに真面目に「これではいけない」と一部の頑張って来た人が説教しなければならない(しかも人々は一切そんな忠告を受け入れないことを知っている)という辛い世紀末です。まさにやっってられない状態が襲ってくるのですが、そうであるからなお、一部の自覚ある人の重要度が増すのではないでようか?地球が滅びても、まだ警告する位の根性がないとヌルイのではないでしょうか。誰も評価しないし、恐らく後世も気ずかないことが確実だからこそ、真実の声を今たった一人で叫び続けるkとが大事だと考えます。 自分が貴重な絶滅種であることを自覚して、きっと危険な状態にある仲間に謹んで新年のごあいさつをもうしあげます。大島哲蔵 ●99年1月21日 4:36 佐藤敏宏様 近況をお知らせ下さり楽しく拝見しました。「特殊解としての住宅」というのは何を求めての主題だったのでしょう。よくある議論としては住宅に一般解はない、から住宅はすべて特殊解で、施主のパーソナリティーや家族構成を表現すべき、となるわけですが、これはもう余りにも一般的なので誰も信じないでしょう。 また建築家はそんじょそこらに無いリアリティを追求せねばならないから、独自の世界を競い合って設計しなければならない、とうものバカな話です。それは作家イコール神という話でしかなく、素朴な多神教というやつですね。ワタナベさんのような教祖様がそうのたもうのなら多少わかりますが、今やそれで動くのはわずかな部分でしょう。 アンドウさんがそんなマインドコントロールに成功しているから、あと一人ぐらいしか席が空いていないと思います。 それよりも現代社会の構造を読み込む必要があると私も思います。住宅会社やそれらの設計家はほっといても、現代社会のメカニズムの歯車として働いているわけですから生産関係と社会関係の枠内に結局は収まるわけで、新しい局面は切り開けないわけです。 ほんの一部の自覚的で責任的な人がその悪しき循環から離れて、異質な偏向を加えることで人間の主体性が発揮できるわけです。どんなコンセプトでもオリジナルな思考から生まれた内容をなし切ったものは魅力がある。 若い人のよいところは、何人かの人は当人にとってはぴったりくるアイディアを率直に動かしている点で、結果が多少貧しくても我慢できることです。残念ながらスバ抜けたものはありませんでしたが、やはり思考の組み立てが常識的なものが多いです。「フリキシビリティ」とか「意外な出会いがある」とかいうタイプが多かったですが、もっと自分の体験や小説などに固執した凝り固まったやつの方が魅力がありますね。 川合健二邸などはその意味で特殊解ですが、一人よがりにはなっていなくて今に至るまでもっているのでしょう。 2月13日に信州大でこないだの野尻湖の家で学生プラス若手建築家で軽いレクチャーをやります。また1月末から埼玉県美で開かれるドナルド・ジャット展のカタログの翻訳などやっています。正月から本屋の方はほとんど働いていません。これで原稿書きがなかったら、半分世捨て人のようになっていたかもしれません。 1〜2週間に一度 ニッタ、ミヤジマ、ハシモト がやって来て飯を食って1〜2時間話して帰って行きます。あと2週間に一度名古屋に行って勉強会があります。今年もこんなことで始まり、すこしづつ変化しながら一年がおわるのでしょう。 働き盛りで、未曾有の国難と言える時期に、これと言った寄与をさせてもらえないのは淋しいですが、仕方ないのでしょうか? 自分の能力不足で納得したくはありません。いつか自分たちの50代前半を振り返って、あの時の時間は惜しかったなと思えるようなときが来るのでしょうか。それともこのまま「やりたいことがほとんどできなかったな」と思いながらクタバルのでしょうか。また書きます。大島哲蔵 ● 99年1月 22日 1時50分 大島哲蔵様 道路は10日ほど前に降り積もった雪が、薄汚れたうえに凝り固まり、ガリガリ、ズリズッリと足にまとわりついてきます。これから二月は時々雪かきをせねばなりません。何もする事がないので、パソコンやキャドに少しふれていますが何となく図面が書けるようになりそうです。 先日のFAXですと、自分が貴重な絶滅種であることを自覚して、もっと危険な状態にある仲間にと、丁寧な挨拶に感謝いたします。 今年の初仕事は雑誌企画による、「特殊解としての住居」のタイトルでの話し合いでした。、雑誌氏の司会でアベ氏、ヤエガシ氏チノ氏の五名での話し合いになりました。テーマは「地方における現代建築としての住居」でした。皆生き延びることが大切なのに変わりはないのでしょうが、私が確認したかったのは、職業としての建築家は死滅死しても純粋建築が死滅するわけではないので楽観的態度いいじゃん。冬枯れの後目を吹き出す力を信じましょう、と煽りましたが事務所経営があるので、と軽く流されました。こうなると大方の予想はついてしまいます。現代建築の可能性の追求や原型探しに話が発展しませんでした。今は様式の展開期といった様子です。大学や社会の人間関係にくたびれているので、その事に注意を払う様子。すこし気の毒におもいました。私が世間知らずのようです。三月号だそうですから、出たらコピー送ります。 大量に田舎から都市へ流入した流民は、ささやかな団地暮らし。後持ち家制度により、労働による果実としての家(財産)を、ローンの担保にされる。地震による被害に至てはインフラばかり過大に投下される税。消費の神は矢継ぎ早に欲望の化身としての商品を、突きつける。自らの内にわき出る欲望の泉はとうに封印されている。 目の前に吹き出る情動は自らのものか、他の者ものなのかを確認するため。電子機器に占領されてしまった部屋やワンルーウムマンシの中から凶器を振りだす。他者や自らの身体(どちらもおな意)を傷つけてなお、想像の地平を開墾する若い魂の存在に可能性を感じるのですが。 そんなような状況下で考えなければならない現在の家族の姿やその可能性・人は家族をどのように認識するのか、 将来家族はどう構成されるのかといったことが話題になりませんでした。 しかたがないので嘘ですが、仕事がなから、柳美里作ゴールドラッシュの主人公かずき少年(14歳で父を殺し地下室の金庫に遺体を隠し持っている)の家を考えてる と言ったのです。が興味なさそうでした。近代の家父長制がもたらした役割分担(天皇制と家父長的家族制やよい子の演じ方など)によって家が東北ではどう変容したのか、など 確信に近づく気配すらありませんでした。退屈なことこの上なしです。私も少しずるくなってきたのでしょうか、皆さんにお会いできて感謝していますと上手にいえました。 手法の展開やプランニングをゲーム化するのは解があらかじめ設定されてしまうことですから、他者(発注者)を巻き込む正当な理由も権利も、実現する価値も見いだせないないと思います。未だに神のように振る舞っていいものかどうか、少し長い目で見たいとも思いましたが、とりあえず近いうちにアベ氏の建築をみることにします。感想送ります。 BOX13はRC部の型枠がはずれ、建具を付け始めました。木箱(千万家)はスライドやプラン で参加する予定でしたが、忘れてしまいました。住宅の課題いかがでしたか。 近況まで。 ● 99年1月 25日 1時28分 大島哲蔵様 先日はFAXありがとうございました。現代社会の構造を読み込む必要性があり、オリジナルな思考から作り出す。結果は貧しくても恐れない。それらは大切なことですね。 私は他者に対する認識が少し変なのかも知れません。他者は自分の身体の中にある自らの変容ではないか、と考えてるからです。寺山修司に影響受けたので、こう思ってしまいます。人は自分のために世界を編集し直すことが許される。歴史だろうが個人史だろう書きかへて良いのだ。悪い影響なのでしょうか、そう考えない周りの普通の考えに馴染めず困ります。寺山の私は限りなく増殖し続け、他者に対し犯罪的な・生・になります。 演劇(虚構)と現実の境があやふやになり・生・が暴力や犯罪の源になる。寺山のシナリオは今でも新鮮です。母殺しのテーマが家族制度の解体に連動して魅力的です。戦後あらゆるものが壊れたはずでしたが。心の中に根をはる旧来の家族制に気づき、家からの解放を唱えていました。才能豊かで貧しくて孤独でしたから作家になるか犯罪者か・・ですよね。家族は血縁によらないで作れないか? 鰥寡孤独からの家造りですね。 天井桟敷は、疑似家族と言われています。友情や演劇仲間による。 現代は物に溢れ欲望の増産と開拓が成されているので単純に欠乏感が生まれないが物扱いされてしまう。人は夥しい情報に呑みこまれ自分の言葉を失ったのでしょうか、深層部で発生している欠乏感を表現できないでいる。 バブル期に文学は冗長な会話ものが目立ちましたが、最近は引間徹・阿部和重・花村満月などがおもしろい。私は柳美里に興味があります。彼女の「魚の森」〜「ゴールドラッシュ」へ続く著書では家族は始めから解体しています。 「魚の森」は兄弟姉妹の一人が自殺をし、自分の葬儀を出させて家族を家族を引き合せる演劇です。円形の舞台が印象的です。後者は父が暴力と金に物言わせ家族形態を無理に作ろうとします。が金の力は個人の心を支配できないばかりか、友情や他人との愛情と信頼に父の権威が壊される。父は子に殺される。友情は血縁を乗り越え家族の絆足り得るのか。次作は援助交際娘と客である爺が共に悪しき社会壊すコメデイものだそうです。父や金の破壊は制度の破壊と同じですから、日本人からも韓国人からも賛否やら迫害を受けているようです。 彼女の家は金持ち、たぶんパチンコ店だと思います。寺山は母に捨てらたので父母貧富とも逆です。友情による家族作りは共通です。女性だけの女情家族、老人が集いできるか老情による家族、援助の家、これから発見せねばならないようです。 彼らの文学の中にある家族はとても面白いものがおおいです。上野千鶴子のフアミリィ・アイデンティティのゆくえの中にある家族形態を体験している のでしょうね。引間徹 の屋根裏のアルマジロは私の「千万家」を裏保証してくれていると思います。 解体された家族の互いがラジオ番組のFAXを通じて心を探り合う。完結出来ない家または家族にとって神は電子機器である ばらばらに離れた個(家)が電子機器の力でなんとか家族でありえる。古い家族制度(認識)は崩壊寸前ですね。今家族の様が面白いですね。同様に住宅の設計も。 パソコン練習につき手書きの方がいいですけれど失礼します。自分の将来はどうなるのか、予想できません。希望は「もう少し設計を続けたい」ことです。ここまでも予想外でしたから。先も面白いことがたくさんおこるでしょう。なんとか乗り切りたいです。失う物がありませんが、若い建築家にたくさん会いたいと考えています。具体的な事がなければ文字で建築を作りたいと思います。大阪のように若い人が大勢居るところがうらやましいです。若者を励ましましょう!また連絡します。 佐藤敏宏 私信1999年2月分へ |