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     1999年 大島哲蔵さんと佐藤敏宏の私信交換    home 

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●99年2月2日 23:14分 

佐藤敏宏様 コンピュータのワープロは大分上達されたようですね。自分ではやりたくありませんが許容範囲やりたいことが簡単に出来るという点でやはり便利ですね。本もバリバリ読んでおられるようで、私も小説は大好きですが、このところ古い時代のものしか原則的に受け付けなくなっていて、現代ものは全然知りません。いけませんね。昨日アベ君が大阪にやって来ました。うわさに聞いていたとおり、出来る若者ですね。応用力や適応性があるので、彼はきっと建築家として成功する人ですね。人柄も良さそうなので、たまに付き合うには良さそうです。

佐藤さんも近いですから、これからも接点が多いことだと思います。私は個人的にはああいう丸い人はノダ氏などと同じく本当は少し苦手です。結局主流派になっていくタイプの人は実は苦手です。どこかで不適応の人が好みなので困ったものです。

回りの親しい人で世俗的にいまく行ってない人が少なくて大変です。ミヤジマと以前訳したABC構成主義の本が、どうも出そうになくなってショックを受けたのですが、同じように以前訳したまま日の目をみてなかったジャッドの論集が出版されそうになってきました。おかしなものですが、両方ポシャルよりよいですから、まあ良かったのかも知れません。少し寒さがぶり返したようですが体調に気をつけて元気にコンピュータを弾いて下さい。では叉 大島哲蔵



1999年 2月3日 14:31 

  大島哲蔵さま
 昨日
ワタナベさんからサウジの最終案が送られてきました。大阪のお好み焼きのように見えます。卵やアスパラまで付いていて、豪華な仕上がりになつていました。縮小図なので文字が読みとれないのが、卵に傷です。タカマツ氏のミカンの輪切りのようなトップライトが付いて、かつての、破壊力がなくなつていますかね。

お好み焼きの上にマヨネイズのうねうね三階建ての宿泊施設はなんとも美しい光景です。バベルの塔ならぬバベルのバラのようです。痛々しくも枝を伸ばさざるを得ない(作り続ける、生き続ける)建築家の無情で空虚な魂が見えるからです。唯識論者ゆえに脱出できぬ人間の生が、私にはとても古典的な美しさで迫るからです。イスラム寺院の透かし彫りの美しさです。

 存在論や認識論が陥る自分の存在が絶対だ、はとうに破産していますが、なかなか頑強です。それに変わる自分も主張するが、相手の主張も聞く互いの見識の実践による間違を常に補足修正続ける良識が生まれるか?です。強い意志を要求される建築の実現の場に置いてです。八方美人的若者の出現はその(わがままな建築家の欲望に対する反動)現状を良く現しています。表面的にはとても柔軟に見えますが強引に「作る」事に変わりません、状況に機敏に反応するご都合主義者がやはり現れてきますね。

 さて先日の話し合いで感じた事です、「他者をいかに他者として認識するか」「他者のためや、公共とは存在するのか」といった設問をせづ、作ってた、いるのだ !です 。皆には当然のことなのに、私にはどうしても解決できない難問です。

「他者は自分の中にある他者つまり、自分自身一部なのだろうに」と考えていました。外部から入る食べ物の逆で、胃や腸にある食物を誰も他者・異物と考えない事の逆です。自分自身の中の他者なのにあたかも他者は他者であると、疑いを持ちません。私は他者は存在しないと仮定してきました。ですから自分の中にある他者の開拓や拡張に要点を置いて建物を作っくつていたのです。そうすることが他者がもし存在すれば私の中の他者の様に、快適であろうとです。自由は極小さく限られた世界だと思いますし、枷や縛りのない自由を、私が認識できないですから、ルールを作りました。

それを実践確認する為に、漢字が持つ抽象化の力を使ったのです。田の字に、私の中の他者を加える事です。そうすることで当然ですが内部(部位)だけの展開と、限りなく進展する内部が目の前に出現しました。初めて私の建築写真を見た
ワタナベさんの第一声が「狂ってる 建築が無い」でした。 建築はバラバラな部位、これを包む事だ。

私はバラバラで収集つかない方法を求めていましたから、とても感動しました。よく見抜くなぁーと、今もつてそう語る建築家はいません。
ワタナベさんの建築の限界が、私の鏡の中に出現した時でもありました。とても悲しいことでしたがね。できたら同じ世界を見ていたかったのに。 また言葉や漢字はそのものに自立した意味やアイデンティティが存在しますから、それに寄りかかる仮説的実験も完全ではないのでした。絶対の私は自立し存在する事は無いのでした。ここでも常に追加と修正補足の持続が要請されることになります。

 田の字に、私の中の他者を加えるは、設問と方法だけで結果や従来の完結した完成を追求しませんから、たいした成果があるわけでないので、小さな建築で作らざるを得なかつたのです。コスモスがあり統一されるの逆で、カオスではありません。ルールがありますが。収集のつかない方法は、あらゆるものの侵入を許容しますし、そして一時も安定しません。これは権力の構造には馴染みません。(電子器機が生み出したデリバテブが国家と国境を、解体してしまいそうですから 違う展開がありそうですがね)

公共は秩序の展開や教化(規律訓練)を推進しますから馴染まない、と考えたのです。しかたがありませんから、重力のように人間の力が及ばない、部位を配置整理する「建築重力」の存在を想いました。私製の秩序追求(力の発見)は、公共の秩序に転換する可能性を孕んでますが、言葉が見つかりませんでした。 

トンチンカンな建築家との話し合いで、自分の中にある他者(自分自身の一部)の開拓や拡張が公共性を、持つかも知れないと想えるようになりました。自分の中にある他者の開拓や拡張を、公共と言い放つ手法も許されるようでした。単に公共と個人に疑いを差し挟まない呑気な人より、許容されると感じたのです。

核分裂し続ける太陽自身より核分裂の結果発生する熱や光を太陽と思いこむようなものです。人は安定した光や熱に太陽のイメージを追い求める愚を重ねいますが、人に害のある核分裂でも距離が離れれば問題が派生しなように、自分の中にある他者の分裂と増殖の害を、私自身で距離の操作をすれば他者は気づかないでしょう。行き着く果てがあると宣言した途端収縮が始まる。行き着く果てわ ? 、と問うてもならないのでした。

他者の為と言いつつ、どんどん自分の中の他者を開拓し進展させ距離の操作をすればよいのです。また保守反動が常にあるように存在論や唯識論の巻き返しが現れるでしょうが、ルールーのなかで修正と追加を繰り返続ければいいのだとも。こんな事にオーバーに言えば20年も悩まされていたのです。

 これは今までの方法を公共の場で展開して良いことになると、さつそく試してみたくなるのが私の悪い癖せです。先日の話し合いで聞いた、建庁の建築の実力者の所へ 、今までの雑誌を持参し自論を展開にいつたら、とても受けがいいのでした。私は、他者を確認(認識)する術を知らないので、「公共とは私の仮説の展開とたゆまぬ補強と修正をし続けるプロセスと態度である。」「こんな事にオーバーに言えば20年も悩まされて、モグラのように土の中に潜っていました。」と言いましたから、それはなにもしない役人の存在を裏保証するようなものです、受け入れられるのでした。

珍しい動物、と哀れな動物でも見るようにです。しかしそう思うのも私自身です。秩序の解体が進んでると、彼らは語りませんが、やわらかき愚民論を展開します。なるほど。私はやわらかに愚私論で対応し続ければいいのです。

 「つみはガウデになれるよ」とか「ワタナベやモズナのようだな」と私にとつては、退屈な、論を展開・開陳させます。私製のシステムによる構成の可変性を証明するための方法で、派手な身振りで気を持たせただけですがな〜。なんでもいけます。といつても見たこと無い形では皆さんに理解が進み会話が生まれませんがな。

建築家は作りたいだけだと普通は考えてますから、サービス精神ですとは言えません。ここが辛いところ。形を否定すると理解されずシステムの話まで進まない。形を用いると誰かの形態言語で語りだし、システムやプロセスの更新とその可能性に話が進まないのです。どちらにしてもヘンテコリンでいいのです。

ウエダマコトさんはBOX8の解説で、「佐藤の建築に見られる形態が、他の建築家の影響をそのまま表していると判断するのは無意味だと思う。彼の建築構成を効果的に伝えために、よく知られた建築家のヴォキャブラリーを操作している」とそこをすつかり見通していましたからやはり だませない人はいます。

 建庁で「私は一流になりたいので仕事下さい」と真顔でいうと、なんと太っ腹な対応で「プロポーザルがある」と応える、山のこだまちゃんです。とはいいましてもこちらは本気ではありません。そんなことがまかり通るなら、誰も政治献金などしません。

 これからは今までのBOXの持続と若者の激励と公共建築を作り出す準備に努めるつもりです。、コンペで少し準備はしてましたが、美術館の模型はもう少しで完成です。今までのBOXシリーズの整理をしたり、大島さんの忠告のように本作りの下準備もするつもりです。最後の春秋塾へは何とか参加したいものです。

 「主流が苦手」、講師はそんなことは言えませんよ、大島さんに講師の話がすすんでるとのこと、おおいに若者に未来を語って下さい、これからの主流派にです。世代を貫く、ものの考え方を語り、小賢しいご都合主義者でも、滑稽な存在論者でも、講師の一言で 世界を変える能力を持つ若者に変わります。 そしてその若者達が新しい世界を実現しますよ。大阪のお好み焼き風建築の未来も心配ですが、講師の話とてもたのしみですね  佐藤敏宏



● 99年2月6日 11:19

佐藤敏宏様             from 大島哲蔵

FAX楽しく拝見しました。コンピュータでも肉声に近い書きつぷりになって来たのが良く分かります。慣れれば機械も人間化するのがよくわかります。車の運転と同じでコンピータのオペレートも、私達が心配するよりか、慣れればこっちのもの、なのかも知れません。

同じことが「公共性」にも言えるかも知れません。役人は勝手に作った「公共というイメージ」を自由に操作して共同主観的な像を定立してますし、佐藤さんタイプの人は(私も似てますが)「他者」と言っても自分の影でしかないでしょう。せもそう言ってはお終いですから、一応「公共」とか「他者」が居るような言い方を死他方が良いのかもしれません。(対外的には)役人やクライアントを相手にするときは、そのへんは適当でよいような気がします。

都市でわがままに育ってわがままやって来た人間は、人嫌いと都合の良いときだけは誰かが居て欲しい、見ててほしいというのが常ですから、別のご都合主義なのですが、私が許せないと思うのは、役人やアベ君は自分がご都合主義だと思っていない点です。それをそれこそ「公共性」や「優秀さ」にすり変える技術や狡猾さを本能的に身につけているわけです。従って私達は彼らよりもっと素晴らしく画期的な御都合主義を会得せねばなりません。責任をもって堂々とご都合主義を自認して、しかし責任のがれやごまかしをしてはならないのでしょう。

 それが個人主義コンミューン主義、独我論=普遍論ではないでしょうか?釈迦でもキリストでも結局は同じ結論になります。私=他者=世界というやつです。夫婦でも親子でもその等号が成り立たなくなる瞬間が多く、皆が一人になりたいがるというのも解りますね。 「一人こそ良ければ」でもそういう人に限って、本当は他人といういうか人好きなのです。好きだから裏切られるのが(自分に裏切られているようなものですが)いやでも自閉するのでしょう。

 最近の人嫌いは少し違う人も多いようですね。下手をすると自分も含めてイヤな人も多くなっているようです。私は瞬間として嫌になること無いわけではありませんが、概ね大変気に入っています。別の人格になれるにはなれるとしてもなりたくありません。

客はどんな人でも説得して発注させる必要がある。その可能性がない、評価しない人物とは私は一切付き合いません。自分の回りの人は客筋の人と好みの人だけに整理されました。これからもこれで行こうと思っています。学生にも全力で語りかけて、わからない人は相手にしないようにするつもりです。


●1999年2月8日 1:59  

大島哲蔵さま
職業の分業化が、さまざまな主体の存在を可能にしたのか。人の特徴として分業化が必然的なのか。道具や家などを作るまではさほど、効率上のことですから、それでよかつたのですが、身体と思考の関係の認識が混乱したままで分業化が進むと、泣くことも、笑うことも大きなスクリーンに向かって成されている、泣かされ笑わされるのか。

今日では受像器から送り届けられる映像の影響を無視して人や他者を考えることは許されません。受像器が世界だと思いこんでいる人が大勢いますから。それが人によって予め編集された情報であると自覚し、編集者の考えを推測したり、検証しようとしたりする人は少ないのです。

モノを作り出し情報として世界に発信したり、建築のように存在し続けるモノ(情報)を作る場合は、世界(セカイ)編集の為の仮説の検証と改編と修正の繰り返しが必要と思います。  私=他者=世界(その様に有りたい)が、宗教の世界観であったのは事実でした。

私=他者=世界が解体した今日では、世界の果ても他者の存在も私の中の出来事。 私の死が世界の終焉。またその様に認識する人間が混在しているのが、世界だと確認しています。言葉が主体を保証したり、創造的世界の元だったりと。常に他者との確認行為を持続しなければ成り立たない世界です。また個人が持つ主体と言葉自身が持っ主体の存在も知られるところです。

大変面倒な世界が生まれました。面倒な相手でも商売にならなくても、あきれた学生でも、異教徒でも。それよりそうした面倒なモノの集合が世界と言えます。世界とはそうしたモノでしたが統治し難かったのでしょうか。ようやく原点に返ったと考えた方が良さそうです。

以前の原点と異なる点は、世界を認識する方法が個人にとって大変都合良く整いつつあることでしょうか。編集された情報世界でも神やキリストの為ではなく、経済や消費と言った新しい大衆(神)の出現を保証するためなのかもしれませ。

 今日雑誌が届いていました。ホンダツネトモさんの評はとても腑に落ちます。建築家の存在に希望を持っていることが良く伝わってくるからです。とても真摯な態度ですし、割り切り方が、心地いいのです。確か大島さんの知り合いの方ではなかつたですか。

フクダさんとと比較するのは、良くないかも知れませんが、現実の世界を透徹した目で見ているのが良く理解できます。学者ではないですね、これから求められる学者(講師)像ではないでしょうか。もし知り合いなら、是非私の建築を見ていただいて、話をしてみたいと思いました。ミヤジマさんの文も有りました、彼はアベさんの提灯持ち、たんなるスター好きの心象が現れていていけません。ホンダさんの爪の垢でも呑ませてやらないと、将来が心配です。

 先日のFAXで役人やアベ氏が・・狡猾的 ご都合主義のことが書かれていました。私はもっと素朴であると思います。現状に対する適応の努力をしていて、自分が答えを予め準備するのが、職能であると勘違いしているように思えます。旨く現在の閉塞した建築界に填ったので調子にのっている。 勇み足でしょうね。 今度の座談会では建て売りに変わる、売り立てなんてなんてことを、延々と話してました。

 私がくさすのですが、乗ってるんですね。「統一した身体が売り立て屋」ですからあきれます。 彼の本来いい性質・ユウモラスが裏返りましたね。残念です。若手で有望ですからいじめませんが、温かい目で見守ります。

環境を旨く捉え、建築言語化して新しい建築観を創り出す良い感覚を持っていたのですが、ほめ殺しに合いましたか・・・ですかね。 

 もう少しで美術館の模型が完成します。BOX13だいぶ施工へたです、どんどん変更して作るので、笑えます。 私が完成の姿を理解してないと思っているので、どんどん間違いますが、かまわず作らせています。笑えます。 佐藤敏宏


●99年2月8日3:24

佐藤敏宏様 
人間は適応力の大きい人と小さくて世界が変化したり、高度化しても、それと関係なく自分を貫いている人(少ないですが)います。後者は当然矛盾にどこかで苦しみますが、あまり気にしないでそのgapをうまく埋め合わせる能力を持つ人もいます。ホンダさんはその典型的な人で、佐藤さんも、仕事が順調に入ってくるようであれば、そのgapを感じさせない希有な例だと思います。

ホンダさんは皆に好かれる人ですから、世界の方から学校の教授という地位と年収を用意してくれて、月評もなんなく務めているし、そうかと言って強いところにおもねたり、怠惰に流れるひとではないので、友人ですし、生き方のライバルだと思っています。

世俗的には圧倒的に彼が勝っていて家庭生活もうまくやているし、よく出来ている人です。今度の住宅が出来たら声を掛けてみましょう。忙しいからなかなか動けないとおもいますが・・・。ミヤジマも一時ホンダ課で自由にやらせてもらっていたし、助手にしたかったみたいですが、「ミヤジマ君には将来があるから、ワカヤマにこされるのは気の毒」と言って諦めたのでした。

ただ思うに、僕は佐藤さんの方が画期的だと思うのですが。女性達が支持しているようですが、男は結局だめですね。自分が何を欲しいのか知らないし(文系の果てにそうなってしまったのか)周囲世間)を気にして決断が出来ないようです。

あの刑務所(box10)の看守さんは立派だと思います。田んぼの横の住宅(box11)の男たちもなかなかよく出来た人たちだと思います。そんな人がもうすこし居れば、地方都市も農村もこれまでズタズタにはならなかったのではないでしょうか? 私は建築家ではないのですから、他者はあまりシリアスではなく、観念として重要ですが、皆さんは皆さんの考え方と道があるので、勝ってにしたら良いと思うのが関の山です。

私は正しい分析をして、2人でも3人でもハートのある人をサポートできればそれで良いと最近は思っています。そう言う人たちがまた まわりにマシな人を形成して行くことでしょう。

メディアを牛耳っている人や建築界のスターがどうなって行くのかは既に見えていますし、多少の正論をその一角で吐いていたって仕方がありません。(といっても吐くのですが)そんなわけで主流や正統派からは仲間に入れてもらえないのでしょうが、それで良いような気もします。アベ君は能力ある青年ですが、もう後戻り出来ない主流派予備軍になっています。 それなら無能な近くの若い衆を相手にした方が良いと思います。 大島哲蔵


●99年2月23日 0:29

佐藤敏宏様 その後いかがでしょうか?私の方は長野の方のレクチャーやアウトクラスを終え一段落したところです。ポスト・オリンピックの長野は悪事を働いた後の子供のように決まりの悪そうな様子でした。作りかけのインフラがやってしまった重たい意味を無言のうちに語っているようでした。 タロウニッタ氏が付き合ってくれたのですが、私が結構元気だったので喜んでくれました。 その後別荘に行って厳冬の豪雪地帯で一夜を過ごせたのは収穫でした。やはり冬が良いですねああいう処は。

都知事選は色んな人が立候補しましたが、大阪は火が消えたようです。一人でも横山ノックの対抗馬になれば勝てるかもしれないのですが、誰も大阪府なんか興味ないのですね。末野興産が一社で住専と同じぐらいの赤字を出したのですからローカルですね。最近の情報ではナカジマタツヒコさんという古手の建築家が行き詰まって 夜逃げしたそうです。 民間のデベと組んで結構大きい仕事をしていた人なのですが・・。これからもこのようにとうたされる人が多く出てくるのだと思います。

ニッタ君と言っていたのですが、私達は最初から倒産しているようなものだから、行き詰まりようがない、変な感興がありました。

これから年寄り社会になって、操作主義の社会と向き合うのは骨が折れることですね。どこかで見切りを付けて田舎にでも引きこもりたいなと思っています。掘っ立て小屋で小さな畑でもしてのんびり読書するのと、金に追いまくられて、強制的に介護されるのとを比較すれば、圧倒的に前者が良いと思うのですが・・・。タダそうなるまでは徹底的に批判して嫌がられる存在で居たいと思っています。

ますます偽物が幅を利かす時代になります。本物がないのですから、実はもう区別などないのですが。日本には中間層が小金をためてその結果どうしようもない地点にきてしまいました。中間層は無趣味で凡庸な人が多い多いから無理もありません。皆が使えば使うし、使われなくなったら一切眼中にないようです。

金がなくなって無理をしている人だけが、建築家に依頼する時代になるのでしょう。コンビニやキャッシュコーナーが根本的に変化しない限り世の中は変わらないと思われます。本格的なものは一切いらないというのが彼らの本音でしょう。全てがまがい物で済んでしまうわけです。

私達も大いに反省して、自分のことと、彼らに何を与えるかは分けて考える必要がありそうです。分からない人には分からせようと必死になっても無駄というわけです。それぞれにふさわしいものを与えられる人がプロと言うものでしょう。それだけに終わったのでは元も子もありませんが。この両立させる戦略がなかなか難しいところです。しかしそれをやり遂げる必要がありそうです。

あと10〜20年しか活動はできないのですから。1000万ハウス(千万家)や将来の減築計画のある家が出来たら、新聞記者に取り上げてもらってください。「やりたいことはやって楽しく生活するための家」というのがキーワードになるでしょう。黒姫もよく使われていて施主は撮影が終わったら手お入れようとしてるようです。なかなか逞しいひとです。 大島哲蔵


1999年2月24日23:44 

 野尻湖の山荘は美しい雪に囲まれてあの斜面に、恥ずかしそうに建っているのが目に浮かびます。FAX感謝いたします。
ニッタさんも私同様あまり仕事が無いようですか。でも一つ一つ着実に実現させ発表する態度は心強いかぎりです。雑誌に掲載し緊張感を持続させるのはなかなか大変、よく頑張ります。一日も早く良い仕事に巡りあってもらいたいものです。

 不況ですし建築に対する一般の認識が専門家とかけ離れたりして優れた建築に出会うのはまれなことですね。質の悪い専門家も多くいますから、発注者が玉石混交の中から玉を探し当てる為には多少の知識と見識と教養が要求されますし 必要ですね。

とりあえず雑誌の話し合いでも言いましたが、専門家の私たちは冬枯れの後、芽を吹き出す力を蓄えておく必要がありそうです。

ニッタさん同様に最初から潰してかかった私としても、なんら対面を保つ必要がないので、気が楽で その土地にふさわしい建築を求め、私の住んでいる所で強く芽吹くしかありません。着実に準備はしてきたつもりですがあとは運次第です。

知人が見かねて、入札参加資格申請の仕方を教えてくれたので、無理をしない程度、書類を提出しているところです。それに雑誌の話し合いの後、公共建築作りに参加して問題点を自分なりに把握してみたいと思っていましたし良い機会と考えました。 新都白河計画や昨年の4件のコンペの参加で公共建築に対する道が出来てしまったようなので、歩き出しました。

 白河での話し合いは困難で実りがありませんでした
(相手もそう思っているでしょう)しかし現実社会で建築と人の関わり方をより明確に出来たのは幸いでした。おかげで多くの価値観が存在する現況で 私は何を成さねばならぬのかが鮮明になりました。

建築家の心がけと、専門家を選択する選者の見識が偶然良い方向で一致しなければ優れた建築物を私たちが手に入れるのが困難なようです。ほとんど可能性は無いのですが、偶然の出会いが生まれれるように当たり前のことをするしかないようです。大島さんが考えるように、私も「15年ぐらいだろうな」と、仕事が出来る期間を思ってます。自分で始めたのが15年前なのでこれから生が続くとすれば折り返し点です。

大阪の人たちと知り合いになつて8年ぐらいなのですが雑誌に参加する機会を作って頂いたり、多くの知識や情報をたくさん得ることが出来ました。それを全部使い切るのには時間が足りませんが、少しづつ完成する建築に厚みを保証してくれてます。ありがたいことです。

 書類を持って山奥にある役場に足を踏み入れると、大企業の役員室のような庁舎が寒ざむとその土地に何ら存在の根拠を持たぬ顔で迫ってきます。大した歩いたわけでもないのに嫌な気分になります。それを計画した建築家の貧しさを見てしまい、正視するのがとても辛い時もあります。

回りは畑や田だけなのに玄関には泥を落として入れと張り紙があります。泥だらけで入る農家の人がいても良いのですが、「泥を払え!」と決めつける傲慢さです。

BOX11のようにメッシュの橋を架ければ済むのですがね。山間のとても立派な変な庁舎を眺めているとアアルトのセイナッツロの役場やロヴァニエミの市庁舎・図書館、セイナヨキの市庁舎を思い出すから不思議です。体感したこともないのにです。ロの字崩しやチュブが生物に変化するような、なま暖かい湿り気のある空気の懐かしさと恋しさが同時に生まれ、意を強くします。

山間のそれらはモダニズムの出来損ないなのかもしれませんが、空虚で無関係な風をあたりにまき散らしています。普段着のような快適な施設を手に入れるのには、何度かの失敗と反省の経験が必要でしょうから、私が生きてる間には、合いそうにありません。どうしてこんなものを作れるのか不思議です。発注者も建築家もピンからキリまで、いるから大変なんですと、知り合いになったある市役所の担当者が嘆いてました。

やはり凡庸な連れション思想は蔓延してますから、理想を手にいれるためには奇人変人に属さねばならないのかも知れません。

 美術館の模型が今日完成しました。「織る建築」を指向しましたが、部分的にはこれから建築に使えそうです。古い建築の糸と新しい建築を糸を混ぜて撚ったり、欠け接いだり、真新しい生地や古布を混ぜ合わせたりしながら一枚の布地を織り上げるように構成してみました。うまく行かないところが多く出現しますが、これからこちら腕を上げればいいわけです。

 BOX13は例の屋根が昨日乗り、ようやくRC部の姿が何となく固まりだしました。取り壊される木造部はこれから基礎を作り始めます。それにしても、施工が下手で困ります。心とは裏腹に会社の経費無しなので、偉そうなことは言えませんから、ほめてばかりいます。my妻の病気以来人に気を使うのがうまくまりしたかね。

現実には、怒鳴り散らした方がテキパキ進み良い建築になるのですが、下手な方が私が作った模型のように迫力がマスなあーと話しています。雨漏りしなければ、それで吉です。

パソコンは、図面が書けるようになりましたが、まだまだです。文章は本を読みながら指の練習のためだいぶ打ち込みましたがどうしても、隣のキーを押したりして変な文章になります。手書きよりは読みやすいかも知れません。文章も図面も暇を潰すために この機械(PC)はすぐレモンです。使いこなして情報を発信出来るようにします。

 木箱(千万家)は土地の造成をしているようで、もう少しで開発許可の仕事が終了です。
 
 長野は大変でしょうね、どのみち客を呼んで儲けようとしたことですから、そう品のいい話にはならないでしょう。小布施のミヤモトさんの町作り論は全国でもてはやされていますが、現地は観光客ばかりです?!。 その土地の一部が商売し金儲けで喜んでるだけですから、普通の住人にはどう映るのでしょうか。

景観とは観光客に受けるだけでいい、他人からの評価が大切のようです。総テーマパーク型観光化社会ですね。仮想の世界でそれを知りながら楽しめる人はいいですが。小布施の町はきらいですね。

北斎の絵が無ければだだの土産物屋の集まりです。人の暮らしが物流と経済やサービスによつて成り立つているのですから美しいと思った方がいいのですかね。そうであれば商業施設を本格的にですか。唯箱論的ショピングセンターは全国に出来てしまいましたから。唯箱論の展開期を迎えるのでしょうか。

 長野では
ニッタさんやコウケさんと地元の人たちはどんな関係でしたか。佐藤敏宏


●99年2月27日 7:23

佐藤敏宏様          from大島哲蔵
FAXありがとうございました。考えてみるとすでに佐藤さんが私の一生のうちで最大の私信を交わした相手となってしまいました。とてもよかったと思っています。近ければそうは行きませんし、また幸いにも(!)福島で芸術表現と社会両方に興味のある人がそれほど多く居るとは思えませんし、東京のそれなりの人はまた余りにも多忙なのではないでしょうか。

ニッタ氏は(本人が言うには)意外とシャイですぐには人と打ち解けないので(意外!)長野の人達とは距離を置いている感じです。これも意外なのですが、彼の無意識のプライドのようなものがあって、よっぽど建築家として認められた人達なら別ですが、「まだこれからの人」には私達に対するほどfamiliarではありません。これはむしろ良いことのように思います。

私などは最初からBorderlerssにすぎて、「ナメられてる」と感じたときには余計に腹が立って仕方がないので付き合いないようになってしまいます

コウケ君はパンフレットを用意して概ね好評のようでした。刺激的なデザインをしているのと、好ましいキャラなので得をしているようです。ただ小生とニッタという若干敷居が高い者とはちがって 彼が居ると皆が安心ですし、交流を広めるためにも彼を同道したのですが、その考えは正しかったとおもいます。彼のためにも良かったように思います。

長野の人達には「福島に面白くてスゴイ建築家が居る」と言って「呼ぶように」売り込んでおきました。もし彼らがその気になったら、こちらにも足を伸ばしてもらおうという寸法です。どうなるかはまだ解りませんが・・・。

住宅建築家から脱却するためにも公共団体の仕事が出来るとよいですね。あの学校のような集会所のような建物も見たいですからね。ニッタ君の営林所のシリーズもキャラに良くあっていました。彼は「バロックとマニエリズムを研究する」と言って張りきっています。持ち前のひねりや張りだしに、うねりや弾性が加わるとかなり面白いことでしょうが、坪単価がない近年の仕事では難しい気もしますが・・・。彫塑性が彼の体質に本当に合うのかどうかは少し疑問があります。

下手くそな工事屋と付き合うもの大変なのでしょうね。珍問答やすれ違いが毎日のように起こるのが目に浮かびます。ウマい人達と上手くやっていくよりは芸術的な感じが、実際にはそうも言ってられないのでしょう。建て主さんは満足しておられるのでしょうか?ほとんどの作品は見ておられるのでしょうから理解は十分だと思いますが。

それにしても日本の低迷はまだまだ、続くのでしょうね。気の重いことです。実体経済や実質労働が意味のないものになるのは困ります。


1999年2月28日 15:37

 昨日はFAXと雑誌2冊が届き、一日それらを眺めていました。 大島さんの私信の最大の相手が私であるとは光栄です。福島で建築の話をするのは建て主とがほとんどです。専門的な知識を持った人と話すのは、大阪に伺った時ぐらいです。福島に建築家が存在するのか、調べたことがありません。サイトウさんとは時々現代が抱える表現の困難について話す程度です。

独立当初はBOX2に多くの表現者が集まってきました。舞踏、絵描き、写真家、詩人、学者、映画・演劇人等とわいわい話しました。多くの人は一線で活躍してます。福島で面白い人が生活出来ないのですね。建築はどこでも作れますから、福島に住んでいます。今までの私信が大島さんに役に立つたとは想えませんが、暇つぶしになっていれば幸いです。

 私は現場でアルバイトをしたりし 学校の先生も見ていたので、建築に対して過剰な期待も幻想もありませんでした。 寺山のように社会現象をすべて自分のために再編してしまう人間がいたので感動したのがスタートです。ワタナベさんも再編の仕方が似てますね。寺山との相違は私の存在を保証せず建築家存在の保証行為に向かった点ですね。建築家の発言の根拠のなさは皆そうです。

人は社会の存在より個の保証に惹かれるのですが、今までの建築家は違いました。今が大説から私(小)説の集合に代わる、転換期ですから両方が混在して解り難いのでしょうね。

 家族と住居の話も、社会的私と私(身体・個)の認識に混乱があるので、整理せずに話を始めると、社会的私の強化だけに力を使う雑誌の記事のようになります。モダンマニエラの進化に手を貸すものを評価するようでは建築の先行きは困難を伴うのは当然です。

上野千鶴子や斉藤和弘(ブルータス)の会話の方が魅力的でした。モダンマニエラを叩きつぶす道具は出揃ったようです。

 長野でのプライド存在は、古典的と言えるでしょう、私は他者を社会的評価で見ないのでその様なことはありません、ある線で無意識に区別してるが、最近は効率的に自分の考えを、伝えようとしないので、他者に対しての怒りを感じなくなりました。

怒りをガソリンにした車ではなく認識の差異をエネルゲぇー(芸)にした車にモデルチェンジしました。どこにでも差異は存在しますから芸達者になれそうです。長野の人から見れば私は変ですがスゴクはありません、彼らはデザイン的技法を必要とするのが常ですから、大島さんの期待通りには進展しないと思います。

モダンマニエラの宝庫探しには心血を注ぐでしょうが建築と個の関係の解明には向かわないでしょう。話がきましたら鳥の視力のように遠くから全体と獲物を同時に見える、鳥眼鏡の装着を勧めてみたいです。

工事のbox遺産主は建築設計をしていたようです。父の存在を娘を通して感じることが出来ます。 死んだ父に引導を渡さねばなりません。 父の不在を補うため二人が時々同時に父を演ずるので困ります。 個人の自由と存在を愛する私にはあまりにも、古くさい家族劇を見せられ退屈です。 二人に「近代の父や母や子を演ずるのは捨てるよう」注意してますが長年染みついた考えは抜けません。それに頼り無い姉 と思い、支援してきた妹夫婦が焼き餅を焼き、一総話が重複し世間並みになり凡庸な近代家族劇に変わります。近代と現在に引き裂かれた家。 当初から混乱は予想していたので、建築屋も混乱してるほうが整うと思い、現在に至ります。予想に応え 図面からはどんどん離れ、発注者の混乱を表現する建物になってきています、もう少し下手に納めればスプリッテングされる バラバラ近代家族の家は完成です。


 私信交換 1999年3月分へ