大島哲蔵さんからの便り 1998年   HOMへ
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 1998−10−4−1:02

今日はニッタ展の最終日でホンダ氏やイソノ氏がやって来たそうです。イソノ氏は帰りに寄ってくれたので、一緒に夕飯を食べて(例の豚モヤシのところで)満腹して帰っていきました。「大阪は盛りだくさんで満足させてくれる」というのが彼の弁でした。ポストヒューマンの話は面白く拝見しました。チョト読んだだけでそれだけ言ってくれるのはさすが読書家だと思いました。

ヤツカ氏は基本的なところで誤認していて、以前はアンビルドでもイデオロギーとして読み込んでいたのに自分が作家として本格的に設計し始めた途端に「観念的な」思いだだけではだめで、保守的な方向であっても「充実した実作」の方が社会的影響力が(説得力?)大きいというような立場に変心しています。これでは建築家は信用されません。

 ハンネスマイヤーは非妥協的でしたからファシズムにも資本主義にも「社会主義」にも受け入れられませんでしたが、彼の活動、建築論、行動様式、人格、全てにわたって独自の意義があることが判っていません。アルトやライトが偉大だったのと同じく、別の意味で偉大だったのに、それを一番判らないといけない人が、ヘイズなどに対するつまらない対抗心から、的はずれを平気で活字にしているなんて呆れたものです。本当にこんなことがまかり通っている所から逃げ出したくなりますね。

 私はマイヤーが「ポストヒューマン路線」を突っ走っていてもヒューマンに思えます。一見ヒューマンに見えてもその実アンチ・ヒューマンな連中がワンサと居る中で、改革と挑戦の連続で次第に没落していった人で、しかもいくつかのプロジェクトは彼以外の人ではなしえなかった質と発想を持っているのです。 実際にあったらイヤナヤツだったかも知れませんが、フィンランドのような自然に囲まれたエリート社会とは本質的に異なるイデオオロギー闘争の中で脇目も振らず突っ走ったのですから、別の評価軸を与えるべきです。

 バシュラールはある思考の質を問うときに「逆行率」と言って、どれだけ外から抵抗に会うか、によってその画期的な「異質性」を測るという論点を提示しています。

 建築家が社会性を持つのはその社会が基本的に肯定できるモノなら一定の意味がありますが、(現今のように)否定的なら、変に受けること自体がオカシイわけです。若いマツハタがなりふり構わず左派をこと挙げてしているのに、実作転向しようとする疲れたオジサンが屁理屈をこねて水を差すことはミットもないです。大島哲蔵


 1998−10−27−16:49

佐藤敏宏様

オープニングに駆けつけてくださりありがとうございました。おおくの関係者が集まって思い思いの話を咲かせるのはよいものです。皆があそこを時々利用できればなを良いのですが。若い人が多かったのは、手伝った人が多くバイト代の代わりに招待したわけです。そこでまた少しお金が必要になったわけで、恩返しになったかどうか・・・。しかし建物をいろいろ見ることは、大きな意味で彼らにとっては大きな成長材料となるでしょう。ニッタ氏が建築家の古典的なもの、つまりヒーローとしてのそれですが、建築の質はキムラ氏が「渡辺臭が無くなったら全面的に認めざるを得ない」という域に達してきたようです。今の建築家の中では独特の体質を持った人ですが、ご指摘のように成功したらメディアに持ち上げられ、皆にちやほやされる「大衆建築家」のような存在になるでしょう。

 ドーケ君は彼の才能を認める、発注力のあるスポンサー筋を見つけないと今後も当分は苦労することになるでしょう。気分的には妥協しないので、苦しみが多い分当分苦労することになるでしょう。ヒラヤマ氏という失敗例があるだけに困難ですが、応援はしたいと思っています。実作のプロジェクトでは私は才能のある人が好みですが、その才能が発するバリアや自分本位にはついていけない性格だということを知りました。ワタナベさんも人当たりは良いですが、そういうところが芯にあって他人を寄せつけませんので本当の意味では打ち解けません。

ミヤジマ君は表面上はそうですが実際はそうではないので共にプロジェクトを推進したり旅行することが出来ます。疲れはするけど、過度に気を使ったりサービスしなくても良いというわけです。傑物というものは自分も回りにも大変なものですね。(発狂したりする人が出て)それは冗談ですが、タダでは済まない困ったモノのようです。私は偉人を目指さないつもりでやっています。

帰りに毛綱・みかん組・ハラヒロシ・の建物を見て帰って来ました。学生が「とても勉強になりました」と言って嬉しそうに帰って行きました。一人ずつ降ろして最後のドライバーと二人になり、「君が一番大変だったなー運転と皮肉で」などと言って別れました。年内にはもうお会いできないかも知れませんが、雪の降る季節をどうぞ有意義にお過ごしください。    大島哲蔵

● 1998年10月27日対応

野尻湖や 秋の銀鱗 ふるわせし

見学会は雨にあうだろうと思っていたので、朝日を見て湖面のかがやきがとても美しく感じた旅行でした。 千万住宅の実施設計を終えてなにもすることが無くなったような気軽さで参加しました。

多くの施工関係者やジャーナリストそれに友人や学生の参加におどろきました。どうしてこんなに沢山の人が集まってしまうのか不思議です。

一見とても充実しているように感じられるられるのですが、私が好ましいと感じる方向とはちがっていて、ニッタさんの従来建築家象に吸収されてしましそうだな〜と寂しくおもいました。すっきり美しく感じるだけです。それは私の建築感がズレズレのせいだと感じた見学会の前後でもあったのです。

ドウケ氏と5分ほど話せたのがとてもうれしく楽しくおもいました。彼も主体の問題にとても敏感でへたをするとそのことで自らの身体へさい傷つけかねません。現代人としてはそこを越えるしかないと思います。社会(言葉)がもつ主体と自らの主体と区別整理しなければ社会を傷つけず、自分を傷つかる可能性がだいですから、整理が急がれるところです。 技術のアップはその後で良さそうです。彼にはそこを突き抜け従来にない建築家になってもらいたいと思いました。

ミヤジマ氏の社会性発言はどうも流行のようで、ドウケ氏の行き詰まりとは質と重さがちがい気楽な建築家として成長するだろうなと思いました。個人がもつ発想力に私も問題がないとは思いませんが 社会(言葉=田の字型)がもつ発想力を無視しては又は想いもつかないようでは大したものにはなれないのです。想いついたとしてもそれさえも万像の一部であると いった静かな想像力を身につけたいものです。

BOX13の発注者であるsちゃを野尻湖につてて行き建築の人々にあってもらうことが出来ず残念です。 kちゃんは効果大でした。

帰り路 南会津郡金山町になる小さな村の温泉に村人と浸かり豊かさを感じた次第です。その湯は有馬温泉の湯のように鉄分の多い塩からいゆでした。湯口の塩分の造形は火星のようでした。

湯の縁の 火星の秋を そっとなで



1998−10ー28ー1:23

佐藤敏宏様 今日FAX書いた後にニッタ君が寄ってくれて、山小屋の最終的なお金の開きを建築会社がもってくれることになり、追加予算150万で決着したそうです。その社長はこないだローソンを近くに開店したのですが、9月の売り上げが6千万あったとかで、東京で表彰されたそうです。(全国で4位)多分純益が千万ぐらいあったのでしょう。帰りはその社長が車で送ってくれたそうですが、まだ彼の手持ちで400区画ほど土地があるそうで、「またお願いするよう頑張ってみます」と言っていたそうです。

私たちとは違う所で世の中 流行っているのですね。ちなみにニッタ君は今日電話を止められ、NTTに払いに行った帰りに寄ってくれたのです。

 私は帰り道 学生三人から道路代とかガソリン代4000円づつ徴収して宮島から5000円とったところ「学生からも取るのですか!?」と言われみじめな思いをしました。

来月24日に九州でフクダさんの学会祝いの会があっりまた、3〜4万必要で今度はすっぽかせないので行かねばなりません。(なんと言っても恩人ですから)ワタナベさんも大恩人なんですが、1/3位は恩を返していると思っています。

建築文化の「後記」に佐藤さんの名前が出ていて嬉しく思いました・・明日は早起きして名古屋にいかねばなりません。晴れがましい場所と下積み活動が交合に来るので切り換えが大変です。大島哲蔵



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