scene 11 …


 

 半年も前のことを、こんなにはっきりくっきり思い出せるなんて嫌になる。余計なことに貴重な記憶の領域を使ったら、他の大切な情報が入らなくなってしまうじゃないの。
  とにかくそのまた数日後、チケットに書かれている時間に指定の映画館を訪れると、彼の方が先に到着していた。
「良かった、間に合って。今日は監督の舞台挨拶もあるみたいだよ、ラッキーだったね」
  別に待ち合わせをしたわけでもないんだけどな、とか思いつつも隣の席に座る。まあ、すぐに照明が落とされたしね、正直上映が終わるまでは彼の存在なんてすっかり忘れていた。
  映画は前評判通りの面白さだったし、すごく満足。そんな気分で振り向いたからなんだろうな、彼の顔がさっきまで大写しになっていた主演男優にほんの少しだけ似ているような気がしたんだ。
「時間、まだ平気?」
  何だかこのまま別れるのももったいないかなとか、そんな風に思えてきた。
「あ、……うん。もう少しだったら」
  とはいえ、ふたりともコーヒースタンドに入るくらいの余裕しかなかったんだけどね。そのときに何を話したのかも良く覚えていない。ただ、何となく話しやすい人だなとか考えてた気がする。
  その後も、気が向くと誘ったり誘われたり。どうしても、という構えはお互いになかったと思う。都合が悪くて断れば、それ以上深追いはしてこなかったし、私の方だって同様。
  ――もしかして、これこそが「男女間の友情」って奴なのかな……なんて、考え始めていた。街角にふたりで立つその姿は恋人同士そのものなのに、実は違う。そんな風に周囲の人たちを欺いているような気分も楽しかった。
「比留間さんたち、ずいぶんいいムードになってるじゃないですか」
  部署内で、雑談のついでにそんな話が出ることもたびたび。別に否定するまでもないかって、曖昧にして過ごしていた。

  でもある日、いつものようにその話題が出たら、鈴木さん・その2から意外な言葉が飛び出す。
「あら、でも昨日、私見ちゃった。 啓太さん、可愛い女の子と一緒に歩いてたわよ。あれは絶対に普通じゃない関係だったわね」
  もちろん、そのときだって何でもないようにやり過ごしていたわ。だけど、内心「面白くないな」と思ったのは事実。何故なら昨日、彼は私の誘いを「他に用事があるから」と断っていたんだ。
  別にそれくらいいつものことだし、全然気にしてなかったんだけどね。だけど何だか急に、すごくモヤモヤして来ちゃって。どうしてそんな風になるのか自分でもわからなかったけど、次に彼に会うときまでにはもう黙ってなんていられなくなっていた。
「この前の日曜日、素敵な女性と歩いていたんだって?」
  うだうだして回り道するのも癪だったから、いきなり本題に入っちゃった。彼は当然、すごく驚いていたな。それから、口の中でごにょごにょと小さく呟いた。
「素敵……っていうのかなあ、あれは」
  なんかね、その言葉にむかついたの。急に私から視線を逸らしたりして、まるで照れてるみたいじゃない。おしゃれなカフェで小さなテーブルに向かい合って座っている男が、自分以外の女性の話で頬を染めるのってどうなの?
「他に相手がいるなら、無理して誘ってくれなくてもいいんだけど」
  彼がハッとして向き直るのと、私が椅子から立ち上がるのはほぼ同時だった。このテーブルに案内されてから、まだ五分と経っていない。水の入ったグラスを運んできた店員さんが、すごく驚いた顔をしていた。
「……え? ちょ、ちょっと待って! 比留間さんっ……!」
  よくよく考えてみると、あんな話を切り出さなければ厄介な関係になることもなかったのかも。あのとき、私がもっと大人になって感情のすべてを飲み込むことができていれば、今でも良好な関係を築いていられたんだ。
  ――でも悔しかったんだもの、どうして断るときにはっきりとした理由を言ってくれなかったのかって。
「なっ、なんで追いかけてくるのよ!」
  思ったよりもずっと早く追いつかれていた。私の予想では、どうにか振り切れると思ってたのに。
「だ、だって! まだ話が最後まで終わってないから……」
  片腕を掴まれてしまった、これではもう逃げることも出来ない。
「いいよ、別に。これ以上は何も聞きたくないし」
  力いっぱい握りしめられて、手首が痛い。互いの一部が触れ合ったのもそのときが初めて。もちろん、私がここまで感情を露わにしたのだって、それまでに一度もなかったことだ。
  ……だいたい、何で私はこんなに腹を立ててるの?
  そりゃ簡単なことよ、彼が嘘をついたんだもの。こっちは友好的な関係を続けてきたつもりだったのに、裏切られた気がした。
「あれ、……妹なんだけど」
  思わず振り向いちゃったら、どうしたらここまでってくらい真っ赤になってる彼がいた。
「り、両親の結婚記念日のお祝いをふたりで選びに行ったんだ。どうしてもあの日しか空いてないって言われて、だから仕方なくて」
  そんなことを聞いてしまったら、今度はこっちが顔色を変える番だ。
「……え……」
  あんまりにも苦しい言い訳なんじゃないの? なんて、ばっさり切り捨てられなかった自分が悲しい。とにかくその日を境に、私たちの関係は一気に違ったものになっていった。

「あのとき、本当に嬉しかったんだ」
  ずっとあとになってから、啓太はあの日のことをしみじみと思い起こすように言った。
「沙砂があんな風に怒ってくれるなんて、思ってもみなかったから。それでやっと、自分の気持ちに気づいたっていうか……」
  ようするに、どこまでも適当なふたりだったって訳。何となく居心地がいいから一緒にいて、それ以上もそれ以下もなくて。そのままずーっと続くはずが、妙なところで歯車が狂いだした。

  その後も、すべてが私のペースで進んでいった気がする。初めて手を繋いだのも、キスをしたのも、それから……親密な関係になったのも。女の方から関係を迫るのってすごく情けなかったけど一向にそういうことにならないし、思わず「もしかして、その気になれないの?」って聞いちゃった。
  自分から手を出してこないくらいなんだから、そういうことが好きじゃないのかな? って思ったりもしたのよね。でも、意外や意外。彼はベッドの中では驚くほど積極的で、これは嬉しい誤算だったと言ってもいいかも。
  「だけどまさか、別れを切り出すのもこっちからとはね……」
  私は言いたいことはおなかに溜めずに、ばんばん口に出すタイプ。だから、啓太に対して積もり積もった不満なんてなかったし、適当に上手くやっていたと思う。でも、よくよく考えたらその「適当に」っていうのが良くなかったんだと思う。
  そういえば、啓太は私のことをあれこれ言うことってなかったな。こういうところが気に入らないとか、これだけはやめてくれとか。必死に思いだそうとしても、何ひとつ浮かんでこない。
  自分がそんなに出来た人間じゃないことくらいわかってたし、実際過去に付き合った男たちは聞いてるこっちがブチ切れるくらい色々並べ立ててくれた。もちろん、そのどれもが「まさにその通り」っていう指摘だったけどね。
「結局は、どーでもいい相手だったってことなんだ」
  思わず口に出してしまったら、いつの間にかぽっかりと空いていた穴にすううっとすきま風が吹き込んできた。お互いにすごく上手くやっているって信じてたのに、そう思ってたのは私だけ。啓太にとっては、私なんていてもいなくてもいい存在。だからこんなにあっさり別れることが出来たんだ。
  ここまで来て、自分の考えに大きな矛盾があることに気づく。
  後腐れなくあっさりと別れられる関係が一番いいって、ずっとそう信じていたのに。それなのに……相手からも鏡を見ているみたいに同じようにされると、気に入らないなと思ってしまう。
  私、一体啓太に何を望んでいたんだろう。どんな行動に出て欲しいって、出てくれるはずだって、思っていたんだろう……?

「本当にありがとうございました! 比留間さんのお陰で、無事に済ませることができました!」
  無事、帰還した年下くん、またの名を今村くんは、出掛けるときには想像も付かなかった晴れ晴れとした表情になっている。
  まあいいでしょ、私の無駄な記憶力もたまにはこうして感謝されることになるんだわ。そんな風にあっさりと通り過ぎようとしたそのとき――
「そうそう、啓太さんもすぐに出てきてずっと同席していてくれたんです。部長さんのことも上手に取りなしてくれて……俺、本当に感激しました! これも全部、比留間さんのお陰です!」
  半泣き状態で感激されているのは、まあ良しとしよう。でもその理由のほとんどが啓太の手柄であるってどうよ? そりゃ、啓太は年下くんとだって顔見知りだし、泣き付かれれば放っておけないとは思う。
  だけど……でも。
「啓太、啓太って、うるさいわね。悪いけど、その名前を私の前で連呼するのは止めてくれる?」
  ほら、とうとう本音が口から飛び出しちゃったじゃない。もちろん、年下くんはそりゃ驚いた顔をしてくれたわ。ここまで感情表現がストレートだとわかりやすくていいかも。
「ど、どうして……啓太さんの名前を出しちゃ駄目なんですか?」
  でも、さらにこの念押しはいただけない。じろりと睨み付けてやったら、今までの上機嫌はどこへやら血の気が引いた真っ青な顔になっている。
「けっ、けっ、けっ……ケンカでもしたんすか? でっ、でも、啓太さんは全然そんな感じじゃなかったし……きっ、きっ、きっと、比留間さんの勘違いですよ〜っ!」
  完全に腰が引けてるのに、それでも啓太の肩を持とうとする今村。何なの、あんたは啓太にどれだけ入れ込んでるのよ? いつも尻ぬぐいしてやっているのは、啓太じゃなくて私たちなんだよ?
「何? 啓太が私のことを何か言ってた?」
  でも、一応聞いてみたんだ。そしたら首を横にぶるんぶるんと振るし……全く、正直者過ぎ。
「い、いえ……でもっ、いつも通りだったし。もしも何か後ろめたいこととかあったら、あんな風には出来ませんよっ!」
  あまり虐めすぎても良くないかなと、ちょっと反省。だけど実際、何だかすごく馬鹿らしくなってきた。
  どうして私、こんなに啓太のことばかりを気にしているんだろう。もしも、本当にもうどうでもいいと思う相手だったら、ここまで熱くなる必要ないのに。
  ――あっさりしすぎなんだよ、啓太は。
  私が「さようなら」って言ったら、そこまでなの? おかしいじゃない、そんなのって。私たち、半年も……そうだよ、半年も仲良くしてきたじゃない。そんなに長い時間、どうでもいい相手と一緒にいられる? 私はそんなの絶対に無理だから。
「……もういいわ、どうでも」
  呆然とする部署内のみんなの視線を感じつつ、私はさっさと帰り支度をした。今日は急ぎの仕事もないし、さっさと帰ろう。もう嫌だ、このままいても気持ちが悪い方へ悪い方へ行っちゃう。
「お先、失礼します」
  いつもテンションの低い私だけど、今日は特別だった。

 

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