scene 11 …


 

 今夜も空が低い。べったりとねずみ色の雲に覆い尽くされて、星のひとつも見えない。せっかくこっちが気分を変えようとしているのに、周りが全然その気にならないなんてむかつく。
「本当……いつも通りなんだ」
  私の方ばっかり、こんなに嫌な気分になって。そういうのって我慢できない。そんなつもりで別れを切り出した訳じゃない、もっと違う全く新しい自分に生まれ変わりたかっただけなのに。
ふわふわと、気持ちが地上五十センチのところを漂っている。飛び立てず、かといって降り立てず。いつまでも啓太を吹っ切れない私、一体どうしたらいいの。
「……」
  知らないうちに携帯を握りしめていた。
  だいたい、着信拒否なんて必要なかったんだよね。呼び出し音は鳴らないようにしていたけど、着信は確認できるようにしてたんだ。だけど、いくらチェックしても、啓太からの着信は一度もない。
――でも、どうでもいいってことは、どうも思っていないこと? くっついても離れていても、同じってこと?
  急にすべてが馬鹿馬鹿しくなってきて、そうしたらとんでもない理屈が湧きあがってきた。
「電話、しちゃおうかな」
  私たちは、メールでのやりとりがあまり好きじゃなかった。とりあえず連絡を入れて、もしも相手が都合が悪ければあとで掛け直してもらえばいいってことで。声が聞けないと、どんどん遠くなる気がする。出来ることなら、顔を見て直接の方がもっといい。そこだけはふたりの意見がぴったり合ってた。
  だからきっとナンバーも覚えていたんだな、もしも携帯を忘れたり電池が切れて電源が入らなくなったりしたら連絡の取りようがないと思ったんだろう。
 私は言いたいことはおなかに溜めずに、ばんばん口に出すタイプ。そして、やりたいことは我慢せずにぱっぱと行動してしまう方。だからすっかり覚えているナンバーを押すくらい、何でもない。
「……」
  コールが三つ、そして一瞬の空白。
『何?』
  それは背筋がぞっとするほど冷えた声だった。ちょっとは素っ気なくされるかなと思ったけど、まさかここまでは想像も出来なかったほどの。
「え、ええと……」
  何か言わなくちゃ、言わなくちゃ駄目だよと思っても、言葉が何も出てこない。喉の奥に何か気持ち悪い感情が貼り付いている感じで。
『あのさ、こういうのってやめてくれる?』
  頭の中が真っ白になってた。啓太は今、一体どんな顔をしているの? それが全く想像つかない。
『迷惑なんだけど』
  そのまま、ふつっと通話が途切れた。だけど私は、しばらくその場所に立ちつくしたまま。生ぬるい風が頬を通り抜けて、すべての風景がぼんやりとかすみ始めた。
  白くすすけたアスファルトの上に、ぽつんぽつんと丸い粒が落ちてくる。それでもまだ動けなかった、きっと誰かが私の肩を叩いて言ってくれる。「これは夢なんだよ」って、優しく囁いてくれるはず。だから、待っていたい、その瞬間にすべてをつなぎ止めたい。
  ――でも。
  雨脚はどんどん強くなる、髪の先からもぽたぽたと雫がこぼれ始めていた。私はひとりだ、ひとりぼっちなんだ。頭に打ち込まれる雨粒の強さに、そのことを思い知らされる。
  啓太に別れを告げて、しばらくの間不思議な空間を漂い続けていた。でもようやく、地面に足を着けることが出来た気がする。
  これが、もしかして啓太の力?
  私はどこかにたどり着きたかった、鬱々した気持ちを吹っ切って真新しい気持ちになりたかった。そのすべてを叶えてくれるのはやっぱり啓太だったのかな。
  だから、……きっともう大丈夫。
  その日はもう、どこをどう歩いて家まで戻ったのかも覚えていない。一人暮らしで良かった。もしも家族と同居だったら、どんなに驚かれただろう。
  どんなに打ちのめされたところで涙は全く出てこなかった、私の代わりに空が泣いてくれたから。

「比留間さん、大丈夫?」
  先輩の鈴木さんズが口々にそう言うようになって久しい。だけどいくら声を掛けられても、私の心は少しも動かなかった。心が揺らがないということは、平穏な日常を取り戻したということ? でも、何だか何もかもが虚しい。
「何言ってるんですか、全然元気ですよ?」
  そう返した自分が、一体どんな顔をしているのか見当も付かない。でもきっと、大丈夫。私はすべてから解き放たれて、なりたい自分になれたんだから。
「そ〜ぉ? とてもそんな風には見えないけどーっ」
  疑い深い足音が通り過ぎていったあと、またもうひとつの靴音がやって来る。でもすぐにそちらを向き直ることはしないで、ボーッとパソコンの画面を見つめる。そこには小さな「っ」がいっぱい並んでいた。
「比留間さん」
  ぽん、と肩を叩かれる。だけどこの人がやるとセクハラには思えない。こういうのもきっと人格なんだね。「悪いんだけどさ、ちょっとお使い頼まれてくれる?」
  振り向くと、半田課長が申し訳なさそうな笑顔で立っていた。

  「すみません、S物産の比留間と申します」
  この会社を訪れるのは、半年……ううん、そろそろ七ヶ月ぶりくらいになるのかな。だけど、受付のお姉さんはあのときと同じ人だった。
「はい、承っております。……少々お待ちくださいませ」
  綺麗な笑顔もあの日のまま、大きな会社って受付もグレード高いなとか思ってたんだっけ。あのときのやりとりの一部始終も、まるで昨日のことのように覚えている。
  このエントランスホールの様子も、柱の位置も。だけど確か、あの角に大きなグリーンが置かれていたんだよな。今はもうなくなっているってことは、リースだったのかも。
  受付のお姉さんは手慣れた様子で内線を操作する。そして短いやりとりのあとに受話器を置いて、にこやかにこちらを向き直った。
「ただいま、今村様がこちらにいらっしゃるそうです。少々お待ちくださいませ、ラウンジでお待ちになりますか? 何かお飲み物でも……」
  いえいえとんでもないと、私は首を横に振っていた。悪いのはこっちなのに、そんな風に気遣ってもらう必要はないわ。少しの時間なら、ここで待てるもの。
  お騒がせ男の今村くんが、また失敗した。今日お届けするはずの資料一式を他のものと取り違えてしまったのだという。本人が戻ってくるよりは、誰かに届けさせた方が時間のロスが少ない。そんなわけで以前の土地勘が残っている私が選ばれたってわけ。
  今頃、情けない年下くんは手持ちの資料だけで四苦八苦しながら説明を続けているはずだ。ちょっと可哀想だとは思うけど、少しは痛い目を見るべきだと思う。本当に、また再びここに来るなんて思いもしなかった。ふらっと引き受けてしまったのも、ぼんやりしていたからなんだろうな。
「失礼ですが、……比留間様。以前一度こちらにお出でになりましたね。わたくしのことを覚えていらっしゃいますか?」
  私は驚いてそちらを向き直っていた。すごい、確かに珍しい姓ではあるけれど、半年も前のことをちゃんと記憶に留めているなんて。
「は、はい! その節は大変お世話になりました」
  そうそう、カウンタに置き忘れてしまった資料をこの人が応接室まで届けてくれたんだっけ。慣れないことに焦りまくっていたとはいえ、あれはとんでもない失態だったと思う。
「いいえ、その後はなかなかお見えにならないのでどうされたのかなと思っていたんですよ」
  ここまで来て、ああと気づく。きっとこの人は手持ちぶさたにしている私の話し相手になってくれているんだ。すごいなあ、そんなことにまで気が回るなんて。こんな綺麗な人だし、きっと社内でも人気あるんだろうな。
「うわっ、比留間さん! すみませんっ、お手数お掛けして……!」
  どどどっと、転げるような靴音がして、予想通りに現れる今村くん。あああ、せっかくの一張羅のスーツなのにあちこち乱れちゃって。しかもネクタイの結び方もすごく変。今回、初めて課長なしの単独で任された打ち合わせなのに、こんなんじゃ先が思いやられるわ。
「はい、とにかくは落ち着いてこちらの話をお伝えしてね」
  もう一度、中身を確認してから封筒を手渡す。以前の失態をご存じの方の前で先輩面しても説得力がないけど、まあ仕方ないか。
「はいっ、ありがとうございました!」
  歪んだネクタイの結び目もそのままに、足早に戻っていく年下くん。まあ、彼もこれからいろんな経験をして、だんだん一人前になっていくんだろうね。
「ふふ、彼のことも良く覚えていますよ。先日、課長の半田様と一緒にいらっしゃった方ですね?」
  くすくす笑いも嫌みがなくて素敵。すごいなあ、こんな風に人当たりがいい人って、きっとどこに行っても上手くやっていけるんだわ。こんなに簡単に相手を心地よいホッとした気持ちに出来るなんて、すごい羨ましい。
「ええ、本当に……お騒がせしてばかりで申し訳ございません。では、私はこれで――」
  これで私の用事も終わり。ホッとしたような、ちょっと寂しいような複雑な気分。
「……あ、お待ちくださいませ、比留間様」
  そのまま立ち去ろうとした私を、受付の女性が再度呼び止める。何ごとかと振り向くと、今までとどこか違う親しみを込めた温かい微笑みが投げかけられていた。
「その後、ウチの高橋とはどうされていますか?」
  意外すぎるその言葉に、「はあ?」と驚きの表情が貼り付いてしまう。すぐにそれを見て取って、彼女は申し訳なさそうな照れ笑いになった。
「あ、……いえ。すみません、失礼なことを伺ってしまって」
  呆然とその姿を見詰めている私に対して、彼女は再び口を開き掛ける。でもそれよりも早く、先ほどの今村くんのものとは明らかに違う力強い靴音が聞こえてきた。

 

 

 

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