scene 11 …


 

「……あ……」
  そのかすれた声が、自分のものだったのか目の前の男のものだったのかわからない。とにかく、意味深な質問をしてくれた受付のお姉さんの目の前で、私たちは感動の再会を果たしていた。
「ええと、その……来てるって聞いたから」
  何、その目。まるで幽霊でも見ているみたいに怯えてるじゃない。私、そんなに怖い顔している? 失礼しちゃうわ。
「もう帰るところです、今村くんが忘れた資料を届けに来ただけですから」
  何で出てくるのよ、勘弁して欲しいわ。そりゃ、ここはあんたの勤務先なんだから仕方ないかも知れないけど……私たちには「大人の事情」ってものがあるんだし、ここはお互いが考慮して上手く切り抜けるべきでしょう。
「あ、うん。それは聞いているんだけど……」
  まだ口の中でごにょごにょと続けている。面倒くさいからこのまま吹っ切っちゃおうかな? そう思ったとき。
「高橋くん、ここは他のお客様の邪魔になるわ。込み入った話があるなら、他に行ってくれない?」
  相変わらず綺麗な笑顔の彼女は、すごく嬉しそうな眼差しを私たちに向けていた。

 薄い雲の向こうに、淡い青空。それでも久しぶりに傘の心配をしなくていい一日にホッとする。昼下がりの公園に人影はなくて、誰も乗っていないブランコが風に揺れていた。
「はい、これ」
  そう言って差しだしてくれるのは、私の好きなブランドの缶コーヒー。黙ってそれを受け取りながら、ちらとその表情を盗み見してた。
「自分の会社では『高橋くん』って呼ばれているんだ」
  それは当然と言えば当然のことだけど、私にとってはすごい違和感のある事実だった。ウチの会社のみんなからは当たり前みたいに『啓太さん』って呼ばれていたのに。いつの間にか礼儀正しい半田課長までそんな風になっちゃって、もうすっかり『高橋さん』は忘れ去られていた。
「え、まあ……普通はそうでしょう」
  こうやって顔を合わせるのは半月ぶりくらいかな? だけど、もうずっと長いことご無沙汰だった気もする。付き合っていた頃の私たちって、二日に一度とか、三日に一度とかの頻度で会っていたもんね。歴代の男の中でもかなりマメに連絡くれる方で、でも不思議とそれを鬱陶しいとは思わなかった。
「うん、そうだろうね」
  会話が続かない。そんなの当然、だってもう私たちは終わっているんだもの。ふたりで楽しい時間を過ごす必要なんてどこにもない。だから……こんな風にしてたって、時間の無駄だよね。
「その、……この前はゴメン」
  いつの間にか、啓太は私の隣に座っていた。握り拳三つ分くらいの隙間が、今の私たちの距離を表しているみたい。彼の視線は自分の両手の中にある、まだ栓も開けられていない缶コーヒーに向けられていた。
「せっかく電話くれたのに、あんな風に切っちゃって。……悪かったって、思ってる」
  そんなこと、わざわざ言わなくたっていいのに。全く、変なところで律儀なんだから困っちゃう。
「いいよ別に、こっちこそ悪かったわ。もうあんなことしないから、安心して」
  いつもの私らしく、あっさりとかわす。そうしているつもりなのに、次の瞬間には胸の奥から何かがこみ上げてきそうになった。
「じゃ、私はこれで」
  やっぱり、ここに来るべきじゃなかった。この役目は課長にでも他の誰かに頼んでしまえば良かったんだ。やっと、両足がきちんと地上に降り立ったのに、それなのにこんなに辛い気持ちを抱えている。
「……待って」
  立ち上がった私を、啓太が呼び止める。
「あんな風に言うつもりはなかったんだ。沙砂から連絡をもらえて、本当はとても嬉しかったんだよ。俺、ずっと待ってたから。きっぱりと終わりにされたってわかっているのに、それでもいつかまた、って期待していたんだ……そんな自分に気づいて、すごく情けなくなって」
  ごくっと、啓太の喉が鳴る。私は後ろを振り向くことが出来なかった。
「あのままいたら、とんでもないことを口走ってしまいそうで、すげー怖かった。それくらい、俺の中、全部が沙砂でいっぱいだったんだ」
もうおしまいにしたのに、全部をなかったことにしたのに、それなのに……何でまだ、そんなことを言うの?
「嘘よ、そんなの。啓太は全然そんな感じじゃなかった。私なんていなくたって、少しも変わらずにいられるでしょう……?」
  違う、これは私自身が啓太に対して抱いていると思っていた感情だ。何となく付き合うようになったから、何となく別れても大丈夫。ずっとそんな風に考えてた。
「……そんなわけ、ないだろ」
  それはまるで頭上の小枝を揺らす音にかき消されてしまいそうな、小さな声だった。
「俺が沙砂を手に入れるために、どれくらい必死だったか知らないだろ。沙砂に気に入られたくて嫌われたくなくて、どうしたらいいのかいつも考えてた。考えて考えて、考えすぎて……しまいには訳がわからなくなってた」
こんなの口から出任せに決まってる、そう思っても身体が動かない。
「念のために断っとくけど、こんな風にするのは沙砂限定だからな。沙砂に会うまでは、こういうの面倒なだけだと思ってた。仕事以外のことに時間を割かれるなんて、冗談じゃないって考えてた」
  私はようやくそこで、後ろに振り返った。
「じゃあ、……なんで」
  啓太はこっちを見てない、やっぱり缶コーヒーに向かって話をしている。
「決まってるだろ、あの日に沙砂が俺の信念も何もかもをぶち壊したんだ」
 私たちの間を、涼しい風が通りすぎていく。ふたりの髪が同じ方向になびいて、そのことで啓太が本当に目の前にいることを実感する。
「あれは、単なる事故じゃないの」
  出会い頭の衝突。もしも車同士だったら大変なことになっていたかもだけど、軽傷で済んで良かった。
「俺にとってはそれだけで終われなかったんだ」
ゆっくりと啓太が顔を上げる。不安げな眼差しが揺れながらこちらを見つめていた。
「終わりにするの、やめてもらえないかな」
  いつになく、たくさんの言葉を口にする啓太が不思議で仕方ない。確立していたはずのイメージがぶれる、って感覚だろうか。つかみどころがなくて……だからとても不安になる。
「沙砂は強いから、ひとりでも生きていけると思う。でも俺は沙砂がいないと駄目だ。出会う前は当然のように出来ていたことが、ひとつも上手くいかない。今では二本の足で立って歩くことすら難しいんだ」
それは、私にとって初めての啓太からもたらされた「お願い」だった。だけど、同時に私が啓太に対して言いたかった言葉でもあった。
「私は……そんな、ご大層なものじゃないわ」
  わがままだし、ひねくれてるし、可愛い台詞なんて全然言えないし。世間一般の男性が最も敬遠するタイプだと思う。昔はそれなりに努力して相手に合わせることも試みたけど、そうやって無理を続けるといつか必ず爆発してしまうってことがわかった。
「でも、沙砂がいいんだ」
  まっすぐに差し出された手に、自分の手を重ねる。その瞬間にようやく「自分」が戻ってきた気がした。

「そうだな、種明かしをすればたいしたことじゃないんだけど」
  半月の時間を埋めるのは想像以上に大変だった。私たちはコトが済んでも離れることが出来なくて、ずーっとくっついている。
「沙砂の会社に出掛けていったときに、自己紹介のときに必ず言ったんだ。『高橋啓太です、啓太って呼んでください』って、とにかくしつこいくらい繰り返した」
『啓太さん』が定着してしまった謎がまだ解けていない、私がそのことを指摘すると彼は渋々という感じで白状した。
「何で、そんなこと言ったの?」
  それって学生気分が抜けてない人みたいで変だよ、って笑いたくなった。だけど、啓太の方は真顔のまま。
「だって、早く『沙砂』って呼びたかったから。そのためには沙砂に下の名前で呼んでもらう必要があったからね」
  ……何かそれって回りくどすぎ。
「それに、私はそんな自己紹介をされてないわ」
  気がついたら、周りがみんな『啓太さん』になっていて、何となくひとりだけ『高橋さん』とは呼べない雰囲気になってた。そのことを指摘すると、彼は喉の奥で低く笑う。
「本人に直接言うのは恥ずかしいんだよ」
  そこでお互いの背中に腕を回して、くすぐったいキスをした。こういう風に身体のどこかがくっついていることですごく安心できる。
「……こういう風にしているのは、恥ずかしくないのに?」
  今夜の私たちはすごく変、どうでもいいことを話し続けて、それでとても満足しちゃってる。
「そうだな、考えてみればおかしな話かも」
  そこでまた、ふたり顔を見合わせて笑う。肩で風を切って格好つけているのも心地よかったけど、こんな風に馬鹿っぽい部分をさらけ出しているのも悪くないかなと思う。
  意外だったのは、啓太も自分の会社では粋がって生きてたってこと。私たちの前ではあんなにフレンドリーだったのにね、そんなの信じられない。
  最初の日、私が戻ってしまってからあの受付のお姉さんに色々と質問したことで『何であの高橋さんが!?』とかなり驚かれていたみたい。女性社員の間では一時すごい噂になってたみたいで、そうなると彼女の今日の反応も納得ね。
「だけど、沙砂が相手だとどうしてもやりたくなるんだから仕方ないだろ?」
  そう言って、彼はまた私をベッドの上に仰向けに押し倒した。

 ふわふわ、地上五十センチのところを歩いていく。ちょっと気を抜くと靴底が沈んでしまう不安定な道だけど大丈夫。隣に啓太がいてちゃんと手を繋いでいてくれるから、どこまでだって進んでいける。
  私が想っているのと同じくらい、啓太からも想われている。ふたりの気持ちがちゃんと釣り合っていることがわかったもの、もう怖くない。

 泣き出しそうな夜空までが、私たちを祝福してくれているみたい。そんな風に思えるようになったなんて、私もずいぶんおめでたいな。

了(100711)

 

 

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