「県立真中高等学校の音楽室には『魔女』が棲んでいる」―― そんな噂がまことしやかに囁かれるようになったのは、いつの頃からなのか。少なくとも、奏斗がこの高校に入学したときには、すでにこの場所には「魔女」がいた。
芸術選択の授業初日、ざわめく音楽室に現れたのは細身の身体をレース素材の黒いワンピースで包み、およそ日本人とは思えないほどのくるくるカールの黒髪を腰まで伸ばした「年齢不詳」な彼女だった。そう、その姿は某長寿連載漫画のヒロインの師匠に限りなく似ている。
「こんにちは、音楽の世界へようこそ。私はこの音楽室に棲む『魔女』、真面目に授業を受けない生徒は私の魔法でネズミに変えてしまいますよ。心していなさい」
あまりにも現実離れしている台詞、今時ではファンタジー映画の世界でもお目にかかれないほどのベタな演技であるにも関わらず、彼女のことを笑う者は教室内にただのひとりもいなかった。
何故なら、それがあまりにも「はまりすぎている」姿だったから。
いったい、コイツはいくつなんだ。三十くらいにも見えるし、五十くらいに思えたりもする。血の気のない白い顔も、厚化粧なのかスッピンなのか判断がつかない。
―― なんだなんだ、どうしていきなりこんな変な奴が出てくるんだ!?
そう思っていたのは、なにも奏斗ひとりではなかったらしい。両隣の席の奴も、斜め前の女子も、自分の課目選択を心底後悔しているように見えた。
まあ、実際に始まってみれば、拍子抜けするくらいに普通の音楽の授業だった。そりゃ、よくよく考えてみれば、県立高校でいきなり黒魔術の授業なんて行えるはずもない。奏斗と同じ音楽選択者の皆も、ホッと胸をなでおろす一方で、いつこの「魔女」が本性を出すかと恐怖に怯えながら過ごしていた。
しかし、最後の最後まで変わったことは何もなく、先日めでたく二年間の芸術選択の課程をすべてを終えたところだ。
その……「魔女」が、どうして今、目の前に……!?
「お前たち、もういいですよ。パート練習に戻りなさい」
その声を受けて、奏斗の周りにいた一年生たちは各自バラバラと教室奥の個室に入っていく。ドアの開閉のときに漏れてきたピアノの音や歌声。そうか、ここでも部活動が行われているのか。……ということは?
「何を呆けている、竹本奏斗。お前のパートはトップ・テノールと決まっている、まあ最初にその自己流の発声法をじっくり矯正しなくては使い物にならないだろうがな。さあさ、それがわかったら、練習! 練習!」
……なんなんだ、この展開。
「え、ええと! ちょ、ちょっと! ……ちょっと、待ってください!」
相手は「魔女」だ。下手に口答えなんかしたら、本当にネズミに変えられてしまうかも知れない。そんな不安もちらりと胸を過ぎったが、それでも果敢にも奏斗は口を開いた。
「俺、入部するなんて、ひとことも言ってませんけど! こういうのって、まずは本人の意思を尊重するものですよねっ!」
こっちにも、いろいろと予定があるのだ。今日だってこれからいつも入り浸っている近所のゲーセンで、中学時代の仲間たちと遊ぶことになっている。奴らは皆、気の置けないオタク仲間だ。そんな中で不毛に萌え話をするのが、今現在唯一の楽しみとなっていた。
「そっ、それに! 入部希望者を募るなら、あと一ヶ月待って新入生を当たった方がいいですよ。俺はもう、来月から受験生ですし……」
そんなにじっと見つめないで欲しい、魂を吸い取られてしまいそうな気がしてくるじゃないか。
まあ、反論もせずに黙り続けているということは、こっちの言い分を素直に受け入れてくれたということか。それならば、それでいい。一刻も早く、こんな場所からおさらばしたい。
「で、では! 俺はこれで失礼します」
こうなったら、あとは逃げるが勝ちだ。そう思って「魔女」に背を向けて、一気に入り口まで走る―― つもりが……。
「何を寝ぼけたことを言ってる。そもそもお前には異を唱える権利などない、私の言うことに黙って従いなさい」
―― え、どうして!?
確かに今、俺は「魔女」に背を向けた。なのに、背後にいるはずの彼女が目の前にっ。これはどういう瞬間移動なんだ……!?
「なっ……なななっ!」
「お前は知らなかったようだな。ここの合唱部は完全スカウト制になっている。私に声を掛けられたら、問答無用で入部することになっているのだ」
そっ、そんな馬鹿な!? あり得ないだろう、それはっ!
有無を言わせぬ口調でそう言い終えた「魔女」は、次の瞬間するりと視線を動かす。
「ほら、如月。コイツの音取りを手伝ってやれ。その前に発声体操もひととおり教えてやれ、頼んだぞ」
魔女が振り向いた先には、今の今までその存在すら確認できなかった第三者が立っていた。それは――
「きっ、如月、如月美音(きさらぎ・みおん)ちゃん……!」
奏斗は自分でも気づかないうちに、大きな叫び声を上げていた。
無理もない、想像すらできなかった人物がそこに立っている。あっという間に手のひらは汗をかき、心臓はバクバクと大きく波打ち始めた。
うっわーっ、どうして彼女がここに! まさか、美音ちゃんも魔女の魔法で!? ……いやいや、そんなはずはないだろう。それにしても、本当に本物なのだろうか……?
まずい、額からは冷や汗までが流れてきた!
「こんにちは、竹本くん。では、早速始めましょうか?」
慌てふためく彼に対し、彼女はにっこりと花のような微笑み。これが邪悪な魔女の作り出したダミーなどであるはずもない。でもしかし、どうして。
彼女に見えないように後ろ手でもう一方の手の甲をつねってみたが、とても痛かった。やはりこれは現実らしい。奏斗は自分の置かれた状況を受け入れるしかなかった。
「えっ、えっとぉー。もしかして美音ちゃん、いや……如月さんも合唱部の一員なの?」
気がつくと、広い音楽室にはふたりきり。魔女は煙のように消えていた……のではなく、たぶんとなりの準備室に戻っていったのだろう。
こうなると、黙ったままでいるのは気まずいと思う。だからどうにかして話の糸口を探るが、これがなかなか上手くいかない。それもそのはず、美少女ゲームのキャラであってもそうそうにお目にかかれないレベルの女の子がいきなり目の前に現れたのだ。あまりに不慣れな状況に慌ててしまうのは仕方ない。
「如月美音」―― 彼女は奏斗と同じ二年生。入学式では新入生代表挨拶をした才媛で、もちろん泣く子も黙る特進クラス。その中でも常にトップクラスの成績を保っていると聞いている。賢いだけではなく、性格も温厚で誰にでも分け隔てなく接する心優しい乙女。さらに、すでに解説したとおり、思わず目を見張るほどの美少女だ。
さらさらの黒髪は背中を覆うほどに長く、ビー玉のように大きな目、くりんと上向きのまつげ。程よい高さの鼻にちょこんと桜色の口元。ほっそりしているのに、出ているべきところはきちんと強調された理想的なボディ。とにかく、どこを取っても完璧すぎる仕上がりなのだ。
……あああ、どんどん動悸が激しくなっていくっ。どっ、どうしたらいいんだ……っ!
「ええ、そうなの。とは言っても、伴奏専門なんだけどね」
うう、声まで可愛いぞ。しかも愛らしい微笑みは常に奏斗に向けられている。こんな幸運、あっていいものか。ここまででも、今年一年の運をすべて使い果たしてしまったような気分になってくる。まだ三月なのに、本気でヤバイぞ!
「合唱って、とても楽しいよ。それに竹本くんは期待の大物新人だって、山田先生が仰ってたし」
ここでいきなり出てきた「山田先生」、これはあの「魔女」のこの世界で用いている仮の名前だ。ちなみに下の名前は「麻里衣(マリー)」だったりする。やっぱりなというか、そんな感じだ。
「そっ、それほどでも……」
ほ、褒められてしまった。しかも純情無垢な瞳にキラキラ見つめられながら。ほーっ、これだけのことでも、まさに天にも昇る気分。いつもの奏斗ならば「マジっすか〜!」とかおどけられる場面だが、とてもそんな心の余裕はない。
「じゃあ、挨拶代わりに一曲歌ってみてくれる?」
つい先ほどまでは、こんな場所からは即刻脱出しようと思っていた。だがしかし、今となってはそんな決心もどこかに吹き飛んでいる。
「じ、じゃあ……『菩提樹』を」
せっかくリクエストしてくれたんだ、ここは格好いいところを見せたい。「菩提樹」は先日の歌のテストで魔女から「ようやくシューベルトに巡り会えたよ」との批評をもらった。それだけにかなりの自信がある。「あ、それなら伴奏は任せて。去年の定期コンサートのときに弾いたから」
……なっ、なんなんだ。この鳥肌並みにハッピーな展開は……!?
彼女はピアノの前に座ると、すぐさま手慣れた手つきで前奏を弾き始める。木々の枝が優しくこすれ合うようなくすぐったさが、奏斗の心の中に柔らかく響き渡っていった。
つづく♪ (110627)
<< Back Next >>