魔女の巣窟である「音楽準備室」。
もちろん足を踏み入れるのは、今回が初めてのことである。
その部屋に入って真っ先に気づいたのは、ガラスの戸棚に並べられた、驚くほど大量のメトロノームだった。しかも、それらは同じテンポで今も拍子を刻み続けている。
ずらりと並んだそれらをじっと見据え、魔女はぽつりと言った。
「今のところ、どこも変わったところはなさそうだがな」
いったいどういうことだ、これはただの音楽用具ではないのか?
しかし、魔女は怪訝そうに視線を送るふたりの生徒には見向きもせず、窓際の揺り椅子にひとり腰を下ろした。その上に、黒猫がよじ登ってくる。
「ねっ、猫っ!?」
魔女に黒猫、これもベストマッチだ。しかし、学校の校舎内でペットを飼っていていいものなのだろうか。しかもこの艶やかな毛並み、どうにても野良猫のそれではない。
彼女はけだるげに長い髪をかき上げると、無駄にフェルマータのきいた伸びやかな声で言った。
「竹中奏斗、そして如月美音」
そして、息継ぎ。
名前を呼ばれたのだから、ここで返事をしたらいいものか。でももしかしたら、まだ話の途中かも知れない。ふたりはどちらからともなく顔を見合わせると、無言のままで魔女に向き直った。
「おまえたち、本当に大変なことをしでかしたな」
そして、蝋人形のような目でじろりと睨まれる。
これはかなり怖い、半端なく恐怖といえよう。だがしかし、奏斗は思う。
いったい自分たちがなにをしたというのだ、別に責められるようなことをした覚えはない。もしもなにかしらの過失があったとしても、自分たちが責任を負う割合は果てしなく低いはずだ。
「でっ、ででで、でもっ、ですね、先生」
ここで、さらりと言葉の出てこないところが情けない。だが、これが今の奏斗の精一杯だった。
「俺たちは、俺と如月さんは、ですね――」
「合唱曲のパート練習をしていただけだ、そう言いたいのだろう」
まさにそのとおりである。すっかり先回りをされしまい、奏斗は口を閉じるしかなかった。
「それ自体は、別に悪いことではない。だが、問題はその方法だ。確かに私は、あの部屋の使用を許可した。なぜなら、テノールパートの音取りをするのならば問題ないと思ったからだ。しかし――結果としてお前たちは余計なことをしでかした。その結果、あの男の封印を解いてしまったじゃないか」
そして、魔女は美音をじろりと睨み付ける。
「あのピアノは使用頻度の低い高音のキーに封印の呪文を仕込んでおいたのだ。いくつか音のでない鍵盤があったろう。それを偶然順番通りに叩いてしまったらしいな」
「ピ、ピアノ……封印……?」
特進クラスの才媛であっても、あまりに非科学的な単語の羅列には的確に反応できないらしい。彼女の愛らしい口元は小刻みに震えているため、そこから生み出される言葉もたどたどしくなってしまう。
「まあ、起こってしまったことをいまさらどうこう言っても始まらないだろう。だから、済んだことはもういい。そして、重要なのはこれからのことだ」
魔女は、そこでコホンと咳払いをした。
「あの男が言っていただろう、この高校の上空に亀裂が入っていると。このままでは世界が闇に取り込まれてしまう、それを阻止するためにはお前たちふたりの力がどうしても必要なのだ」
「は、はあ……」
――それって、「伝説の勇者」とかそういうオチですか!?
迫真の演技もここまで来るとさすがに嘘っぽい。ここは一応、突っ込んだ方がいいだろう。
「そ、その……空にできた亀裂を修復する方法なんて、俺は知りませんけど」
しかし、魔女は奏斗の言葉には答えず、さらに話を続けた。
「お前たちもすでに知っているとおり、この高校は今を遡ること百年近く前、洋裁学校として始まったものだ。以来、県下でも稀少な存在である女子校としてこの場所に根付いていた。しかし、時代の流れには逆らえず、数年前に共学校として生まれ変わることになったことは記憶に新しいだろう」
「ええ、それはもちろん」
以前にも話したとおり、奏斗は元女子校であった県立真中高校が共学化したのちの四期生になる。まだ、歴史は新しく、制服姿であるいていてもどこの高校の生徒なのかなかなかわかってもらえない。
「共学化により、我が校の偏差値は上がり、また今年卒業した共学三期生の進学率も格段にアップした。すべてが良い方向へと動き、学校としては万々歳といったところだろう。だがしかし、均衡が破れたことによるしわ寄せがすべてこの土地の上空に現れたのだ。今はまだ、ほころびが少ない。だから早期修復を試みることができる。お前たちにその役目を与えよう」
魔女はそこでやおら立ち上がると、メトロノームの揺れるガラス棚の方へと進んでいった。そして、引き出しの中から、大判の古びた冊子らしきものを取り出す。
「決戦は次の新月の夜だ。それまでにこれを完璧に歌いこなすことができるようにしておけ。そうすれば、亀裂は元の通りに塞がれ、よって世界の平穏は守られる」
差し出されたぼろぼろの本を開くと、中には五線譜が書かれていた。ところどころは紙の傷みがひどく、読み取りが不可能になっている。しかし、奏斗の目がその部分まで来ると、音符たちが紙の上をどこからともなく滑ってきて続きを教えてくれた。
「なっ、……なななっ……!」
今までにもすでに、信じられない出来事がいくつも起こっている。だから、いまさらという感じもあるが、やはり目の前でいきなりアニメーションまがいの現象が展開されては焦ってしまう。
「驚くほどのことはない、魔界の書物としては初歩的な作りだ。まあいい、曲はアカペラで男女の二重唱構成。完璧なハーモニーを響かせることが大切だ。古典的な曲調であり、そう難しところはない。ただし、ふたりの息をしっかりと合わせることが大切だ」
「は、はあ……」
実は、未だに話が見えてこない。
ただ、魔女の言い分によれば、ここに書かれた曲をふたりが歌いこなせば万事オッケーらしい。
「そ、そういうことならば……」
「無理です! 私、できませんっ……!」
どうにかなります、と続けようとした奏斗の言葉を、美音が遮った。
今の今までは信じられない面持ちのままで魔女の話を聞いていた彼女が、いきなりの豹変である。
「だが、如月――」
「嫌っ、絶対に歌えませんっ! こんなの駄目です……っ!」
彼女は魔女の声さえも振り切ると、そのまま音楽準備室から飛び出していった。
つづく♪ (111023)
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