四階までの階段は、果てしなく長い道のりに思えた。
「あのー、山田先生」
「なんだ」
「如月さんは瞬間移動したのに、どうして俺たちは自力で階段を上がらなくてはならないんですか?」
前を行く魔女は、呆れ顔で振り向いた。
「あのな、そう軽々しく魔力を行使するもんじゃないんだ。この世界はもともと空気がよどんでるからな、あれしきのことでもずいぶんと体力精神力を消耗する」
でも……そもそもここって、先生の作った世界なんじゃなかったですか? ――と、奏斗は質問しようとしたが、さすがに身の危険を感じてやめた。
「さあ、どこから話そうか」
やがて音楽準備室まで戻ってくると、魔女は勝手に自分ひとり分だけのお茶をいれた。そのカップを片手に、揺り椅子に座る。彼女の膝には当然のように黒猫が乗ってきた。
当然のことのように流れていく動作。一方の奏斗の方は促されたパイプ椅子に腰を下ろすことすらできず、その場に突っ立ったままである。
この部屋に入ったとき、すでに如月美音はソファーに横たわっていた。その上にはチェックの毛布が掛かっている。
今日は何度か「怪奇現象」としか考えられない事態に直面していたが、これが最たるものであろう。生身の人間が空間移動するなんて、ファンタジーかSFの世界。だが、これが夢だと片付けるのは、もはや無理であった。
――山田先生は本物の魔女? だがしかし、それでは……
第一印象から、見た目もそこから醸し出される雰囲気も半端なく異様だとは感じていた。でも、本当にそうであるのではないかと確信すると、かえって疑問が生まれてくる。これではあまりに話が出来過ぎている、もしかして派手に担がれているのではないか?
よくよく考えれば、昨日も合唱部員の男子たちに拉致られてここへやってきた。あのときから、すべてが始まったと考えて少しも不思議はない。
「お前たちがこれからやるべきことは先ほど伝えたことがすべてで、あれに付け加えることはなにもない。選ばれてしまった以上、死力を尽くして取り組んでもらわねば困る。しかし、今のままではどうにもならんだろう」
何度も話してきたとおり、奏斗の目の前にいる「山田麻里衣」という名の音楽教師は年齢不詳の女性である。楽器の扱いは超一流、歌唱力もたいしたものだとは思うが、その言動や動作はいちいち芝居じみていて恐ろしい。決して笑って済まされるレベルでないところがなんとも言えないのだ。
「は、はあ……確かに」
奏斗は魔女の言葉におずおずと頷くと、ソファーで眠っている如月美音の方をちらりと見た。眉間にわずかに皺を寄せているその表情からも、安らかな心地でないことが容易に推察できる。
先ほどの彼女の告白はあまりに意外でとても信じがたいものであったが、とても口から出任せを言っているようには思えなかった。
「お前の方は能力面はともかくとして、どうやら格好だけはつきそうだと期待できる。しかし……こちらの娘の方はそう簡単にはいかない」
こういう事態が訪れることを、魔女は最初から予想していたのだろうか。大きく落胆した素振りもなく、淡々と話を進めてくる。
「あの馬鹿が、また余計なことを口走ったのだろう。まったく困った奴だ、油断も隙もあったもんじゃない」
黒ずくめの服を着込んだ魔女は、揺り椅子の瀬にもたれかかると悩ましげに額に手を当てた。その膝で、黒猫がのんびりとくつろいでいる。彼女(彼?)にとって、ご主人様の心内などはまったく関係ないのだろう。
「そ、そのっ……山田先生。あの、黒い男が言ったことって――」
そうだ、あまりに色々なことが起こりすぎてもう少しで忘れるところだった。そうそう、とても重要な話を聞いたような気がする。
「ああ、音大受験が云々という話のことか?」
さすがは魔女、その場にいなくても事態をすべて把握している。
「別に歌が上手くなくたって、問題ないじゃないですか。如月さんはあんなにピアノが上手なんだから、その特技を生かせばどうにかなるでしょう」
芸術方面についてはあまり明るくない奏斗であったが、確か体育大学などは学力よりも実技の方が格段に重視されると耳にしたことがある。だとしたら、音楽大学もそれに同じなのではないか。
「うむ、そう簡単にいく話じゃないんだ」
魔女は、腕組みをするとさらに難しい表情になった。
「確かに楽器専攻であれば、受験においてはその能力が一番重要視される。しかし、音楽大学とはそれだけでは済まされない部分がある。ほとんどの大学では専攻の実技試験の他に、『楽典』や『聴音』、そして『新曲視唱』が課せられる。ようするに、人前で歌うことができない人間には致命的であるのだ」
「は、はあ……」
「この娘のピアノの腕前については、私もかなりの評価をしている。だから、この先もさらに精進して欲しいと願っていた。だが、本人は入り口の扉をノックすること自体を拒否しているのだ。これではあまりにも勿体ないことではないか」
正体不明の魔女の言い分であったが、この話については奏斗にも異論はなかった。素人目に見ても、如月美音のピアノの腕前はかなりのものである。しかも音楽教師のお墨付きまで頂いているのだから、間違いはないだろう。
「受験の課題としても重要であることは確かだが、進学後もことに音楽専攻であれば歌うことを避けて通ることはできない。決して、人並み外れて優れた能力が必要という訳ではない、自分の音感が確かであることを聞く者に伝えることができれば十分なのだ。だが、それをいくら諭したところで、この娘は動じない。はなから諦めて掛かっている」
奏斗には美音の気持ちが少しは理解できる気がした。
人間誰にも「苦手」な分野はある、どんなに努力しても上手くいかず、さらに劣等感ばかりを上塗りしてしまうような悪夢が繰り返される。それが己にとって越えなければならない壁であると言われても、挫けてしまう場合も多々ありそうだ。
彼女も、かつては必死に挑戦してきたのだろう。しかし頑張っても頑張っても報われることはなく、かなり辛抱強い性格でもついには音を上げてしまった。
「いわゆる『音痴』と呼ばれるものは、運動性によるものと感受性によるものとの大きくふたつに分類される。前者の場合は、本人はしっかりと耳で正しい音程、音階を聞き取れているのに、発声する際に咽喉の運動や筋肉の緊張、呼吸の乱れなどが原因して音程がずれてしまうという症状である。恥ずかしくて声が出なくなる場合の音痴も、過度の緊張による喉の筋肉の収縮が原因しているもので、このカテゴリーに属している――こいつもこちらに分類されると考えて、ほぼ間違いないだろう」
なんだか音楽教師っぽい専門的な話になってきた。日頃から意識して歌ってない奏斗にとっては、すでに理解不可能である。
「このような症状は本人が正しい音階を把握できていることから、ボイストレーニングや声帯訓練などを行えば比較的容易に矯正できる」
「そ、そうなんですかっ!?」
それならば、回りくどい説明などせずに、最初からそう言ってくれれば良かったのに。思わず身を乗り出してしまった奏斗に、魔女は言った。
「しかし、すべてはこの娘の意識をそこまでもってこられるか、それに掛かっている」
つづく♪ (120112)
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※「音痴」の定義につきましては、Wikipediaより引用させていただきました。