大掃除とロングホームルームだけの午前中日課が終了し、奏斗はまっすぐに特別棟四階の音楽室へと足を向けた。如月美音は今日も必ずその場所にいる、そんな確信があった。
「あ、竹本くん――」
そして、やはりその確信は当たっていた。ただ、そこにいたのは彼女ひとりではなかったのだが。
「ああ、懲りずにまた来たのか。新入りくんが」
この上なく忌々しいものをうっかりと視界に入れてしまった、とでも言いたげにこちらを振り向いたのは、あの男。こちらとしてもいけ好かない、生徒会長の原田だった。
「ああ、もちろん。俺は他の部員よりも遅れているからね、とにかくは音取りを完璧にしておかないと」
特進クラスの生徒に対しては、どうしても劣等感を持ってしまう。だが、昨日からいろいろなことがありすぎて、現実の出来事とは思えないような怪奇現象に遭遇した。あの黒ずくめの浮遊男と比べたら、ただの人間であるコイツなど、まったく怖くない。
「へえ、わかったような口を聞くじゃないか」
原田は如月美音の姿を隠すようにその前に立ちはだかると、わざと斜に構えて威圧感のあるポーズを取る。どうもこれが彼の「決め」姿勢であるようだ。
「ずいぶんと自信があるようだね、新入りのくせに。そこまで言うのなら、僕と勝負してみるかい?」
ニヤリと意地悪く笑う口元からは、絶対的な自信がはみ出している。全く、その行動のひとつずつにいちいち腹が立つ男だ。
「いや、今は止めておくよ」
奏斗は原田の挑発をさらりとかわした。別に受けて立っても一向に構わないのだが、今はそれよりも大切なことがある。
「なんだ、逃げるのか。口ほどにもないな、やっぱりお前は負け犬なんだ」
「……ち、ちょっと! 原田くん、その言い方は失礼じゃない? 竹本くんは同じ部活の仲間じゃないの」
原田の言葉に覆い被さるように、美音の非難の声が飛んでくる。
「いいんだよ、如月さん。こんな奴の肩を持たなくたって」
しかし彼は、美音の怒りには全く関知せず、自分本位に話を進める。
「負け犬ったら、負け犬なんだよ。こういう奴は、一生地面を這いつくばって生きていればいいんだ」
「原田――」
「如月さん、行こう」
奏斗は胸くそ悪い言葉を吐き続ける男の前を素通りし、美音の腕を取った。
「え?」
そして、驚いて顔を上げた彼女に真っ直ぐ向かい合う。
「話があるんだ」
制服越しでもわかる、美音の腕はとても細く柔らかかった。
「あ、あのっ……」
「とにかく、こっちに来て」
慌てる彼女の腕を引き、奏斗はずんずんと歩いていく。その足が向かう先は、昨日と同じ「二番」の小部屋だった。
「おいっ、待て! こっちの話だって、まだ終わってないぞ? お前、いったい何様のつもりだ。こんな態度を取って、ただで済むとは思うなよ……!?」
――もういい、なんとでも言え。
背中に飛んでくる声には一度も振り向かず、奏斗は「二番」のドアを開けた。そこには昨日と変わらず、埃臭い空間がある。曰く付きのピアノも鎮座していた。
「は、話って……」
この部屋は狭い。壁に沿って置かれたピアノの前に彼女が座ると、その後ろを通り過ぎることも出来ないほどだ。たぶん四、五人も入れば一杯になってしまうだろう。
「昨日のことだったら、もう話すことはないから。私、ちゃんと理由を話したでしょう、どうしても歌えないって。こればっかりは無理なの、だからなにを言っても無駄」
黒目がちの目は伏せ気味で、その上に長いまつげが目隠しのように掛かる。さっき、音楽室に入ったときにはごくごく普通に見えた彼女の態度だが、やはり昨日受けた打撃は続いているらしい。大きく首を左右に振ると、長い黒髪が夢のように舞い上がった。
「俺、別に如月さんに無理を言うつもりはないんだ」
奏斗がそう切り出すと、美音はわかりやすくホッとした表情になった。
「え、……じゃあ、わかってくれるの?」
「ううん、無理しなくていいから、頑張る必要なんてないから、ただ歌って欲しいんだ」
「……え?」
彼女の表情は再び曇った。
「どうして? 私は無理って言ったのに」
「そんなの、如月さんの思い込みだよ。きっと如月さんは、他のことはなんでも完璧にできるから、歌もそうじゃなくちゃならないって考えているんでしょう。でも違うよ、別に誰もそこまでは求めちゃいない」
奏斗の言葉に、美音は悔しそうに唇を噛んだ。
「竹本くんには……私の気持ちなんてわかるはずないよ」
今にも泣き出しそうな彼女が、とても痛々しく見えた。これじゃあまるで、苛めているみたいじゃないか。そう思ったが、かろうじて残っている今少しの勇気を絞り出す。
「もちろん、俺にはわからないよ」
あまりにきっぱりと言い放ったせいだろうか、彼女は驚きを含んだ眼差しをこちらに向けた。
「俺には、どうして如月さんがこんなに簡単に諦めてしまえるのか、それがわからない」
「え、だって、それは――」
「如月さんは、なにも始める前から諦めてしまうような人じゃないよね? だったら、とりあえず歌ってみてよ。それで、できるかできないかを判断しよう」
美音は奏斗の呼びかけに絶望的な表情になった。
「……竹本くんって、酷い人なんだね」
――いいんだ、なんとでも言ってくれ。
彼女にしては最大級にきつい言葉を投げつけたつもりだったんだろう、でも奏斗はそれがわかっても少しも動じることはない。それどころか、どんどん穏やかな気持ちになっていった。
「そこまで言うなら仕方ないね。じゃあ、聞いてみて。校歌の一番を歌ってみる」
美音はそう告げると、柔らかな旋律の前奏を弾き出した。さすがの腕前、楽譜がなくてもまったく動じることはない。和音が軽快なリズムを刻んだあと、彼女はそっと口を開いた。その横顔はかなり厳しい。
奏斗は耳をすませて、その歌声を辿っていった。
確かに音が微妙に外れているような気がする、しかも大きく違っている訳ではなく、ほんのちょっとずれているだけだ。だからなおさら、違和感があるのだろう。
彼女の声は終始震え続けていた。極度の緊張を強いられていることは手に取るようにわかる。だが、一度覚悟を決めたら最後までやり抜くつもりなんだろう、ところどころ歌詞に詰まりながらも、どうにか校歌の一番をすべて歌い切った。
「やっぱ、……なんだか変」
必要以上に恥ずかしがる様子もなく、彼女はただ淡々と事実を述べる。奏斗もその声に静かに頷いた。
つづく♪ (120623)
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