「……うわあっ……!」
いきなりのことにバランスを崩しかげたが、もう少しのところで持ちこたえた。しかし、安全な場所に出られたからといって、恐怖が終わったわけではない。先ほどの黒い物体が背後にいることを振り返らずとも察することができた。
――と、そのとき。
「いったいなにをやっているんだい、お前たち!」
またも、視界が真っ黒。
そして、恐る恐る顔を上げると、想像どおりの顔にたどり着いた。人間の限界を遙かに通り越した真っ白な肌、ぞっとするほど赤い唇。
「なんだか、外が騒々しいと思って出てきてみれば、案の定。本当に人騒がせな奴らだな」
そこまできて、奏斗はどことなく違和感を覚えた。
なんだろう、空気がよどんでいる。というか、止まっている? ……えええっ?
「なっ、なんでぇっ……」
奏斗が驚くのも無理はない。
この音楽室では、ソプラノパートの音取りが行われていたはずだ。なのに、今は物音ひとつしない。というか、グランドピアノの周りに集まった女子生徒たちは、まるでショーウインドのマネキンのごとく制止していた。
「驚くほどのことでもないだろう。こんなことが大勢に知られると面倒だから、時間を止めてみた。それより、お前たち、なんてことをしてくれたんだい!」
腕組みをしたポーズで高い場所から睨み付けられると、完璧に恐ろしい。あっちは立っていて、こっちは座っている、というか腰を抜かしている状態。この目線の違いも一役買っている。
だが、こんな風に一方的に怒鳴りつけられるのも、どうかと思う。
「べっ、別に……俺たちは、なにも」
本当は、心臓が飛び出るくらい恐ろしかったが、それでも勇気を振り絞って奏斗は魔女に向かった。
そうだ、自分たちはなにもしていない。ただ、パートの音取りをしていただけじゃないか。合唱部の部員として当然の行動をしていたのに、こんな言われ方は変だ。
「なにも?」
魔女は容赦なく奏斗たちを睨み付ける。
「ええ、ただ普通に音取りをしていただけです。……ね、如月さん?」
「は、はい。そのとおりです」
奏斗が同意を求めると、美音も弱々しい声ではあったが応えてくれた。
「そうか、なにもしていない、そう言い切るんだな?」
魔女は鋭い視線を、ドアの向こう側に向けた。
「この状況でも、か?」
こうしている間にも、もうもうとした黒い煙がどんどんあたりに立ちこめていく。
確かに、普通ではあり得ない光景だとは思う。でもこれを、自分たちのせいにされたらたまらない。
「よ、マリィ。久しぶりだな」
そのとき、宙に浮く黒い男が、おもむろに口を開いた。そして「魔女」も当然のように答える。
「ああ、そうだな。ほんの……百年ぶり、ってところか」
――って、ふたりは知り合いっ!? しかも、百年ぶりとか、とんでもないことをさらりと言っているような……。
「こいつら、マリィの子分か。じゃあ、もうちょっときちんとしつけてくれ。こっちは昼寝から無理矢理起こされて、大迷惑だ」
「ああ、悪かったな。それは謝る」
魔女は長いカーリーヘアをかき上げると、大袈裟なため息をついた。
「最近、いろいろあって忙しくてな。管理を怠ってしまった」
「あっ、あのー……、山田先生?」
このままでは、延々とふたりの会話が続いていきそうである。
そう思った奏斗は、さらなる勇気を奮い立たせて、ふたりの会話に割って入った。
「こちらの方は、いったいどなたですか? そして、おふたりはどういうご関係で……」
古ぼけたピアノの中から、突然登場した黒い男。宙に浮いているし、無駄に黒煙を出すし、どう考えても普通の人間ではない。世界的なマジシャンで、テクニックを駆使して惑わせている……という説明をされたとしても、かなり無理がある。
「ああ、コイツのことか」
魔女は、あっさりと説明してくれた。
「この男は、エドリアン。魔界においては、音の魔王と呼ばれている。そして、私の恋人だ」
「えっ、……ええーっ!?」
この発言には、半端なく驚いた。
この宙に浮いた男が、魔女の恋人? しかも「魔界」っていったいどこだ? ……当然のことのように説明されても、さらに謎は深まるばかりだ。
「とは言っても、百年前にちょっとした喧嘩をしてな。その腹いせに、私があのピアノにコイツを閉じこめた。まあ、それきり忘れていたわけだがね」
……ううう、さらに意味不明。
すると、背後の男、つまり音の魔王も負けじと口を開く。
「マリィのヒステリーは昨日や今日始まったことじゃない。だから俺様としては、これくらいのことは驚きもしないがな。……あ、そうそう、マリィ。昼寝の最中に、物騒な情報を手に入れたぞ」
「なんだ、それは」
魔女の恋人が魔王。これではあまりに出来過ぎている。
だが、今現在、目の前で繰り広げられている「現実」であるから、受け入れざるを得ない。
すべて「悪夢」であって欲しいが、残念ながら床に転がったときに打った尾てい骨が猛烈に痛かった。
「闇の魔王が復活したらしい」
「なにっ!?」
「それで、こっちの世界に悪さをしようと企んでいるようだ。まー、こんなチンケな世界がひとつやふたつ滅びようが、俺たちにとってはたいしたことではないがな。とりあえずは、マリィの遊び道具がなくなると可哀想だし、親切に教えてやる」
さらに、話が難解になっている。今度は「闇の魔王」なんてのが出てきた。
「ど、どういうことだ! あいつは私たちが谷底深くに封印したはずでは? 未来永劫、姿を現すことはないはずだが」
さすがの魔女が慌てている。もしかして、これは本当に大変な状況なのだろうか。
だが、ふたりの姿といい、言動といい、すべてが芝居じみているために、イマイチ説得力がない。
「時空が歪んだんだ、それで封印の力が弱まったらしい。これはゆゆしき事態だぞ」
「でも、どうしてこの世界がターゲットに?」
魔女が眉を動かしながら訊ねると、魔王はもっともらしく頷きながら言う。
「どうも、ここの上空に亀裂ができているらしい。そこから入り込もうという計算だ」
「亀裂? まさか……」
「そう、そのまさかだ。――あ、俺はそろそろ限界だ。向こうに戻らなければ。じゃ、またそのうちに。またな、マリィ」
その声と共に、黒い男が忽然と消えた。
そして、その瞬間。元のように時間が動き出す。音楽室のグランドピアノが、なにごともなかったかのように、曲を途中から奏で始めた。
そんな中、さっと黒いスカートを翻す魔女。
「ふたりとも、音楽準備室まで来い」
その「命令」に、奏斗と美音は黙って従うほかなかった。
つづく♪ (110928)
<< Back Next >>