TopNovelさかなシリーズ扉10111213


〜みどりちゃんの妹・ぼたんのお話〜
…5…

 

 

 ――何、コイツ。

 私は自分のはらわたがぐつぐつと煮えたぎってくる音を心の耳で聞いていた。どういうこと、何考えてるのっ!? 人のこと、馬鹿にするのもいい加減にしなさいよねっ、冗談じゃないわっ!

 

 馬鹿じゃないの、全くもう。

 やり直すもやり直さないも、ないわ、そういう次元の話じゃないんだから。あんたが私を選ぶんじゃないのよ、私があんたを選ぶのよ。そんな風に決めつけられるのは不愉快だわっ、腹回りがだぶついた中年体型がよく言うわよっ!?

 

「別に、私は――」

 必死になって腕を振りほどこうとしたら、今度は肩をつかまれた。こうなると、どうしても体力的に不利である。耳元に、口臭隠しのミントの香りが広がった。コイツのことをそれなりに想っていた当時は我慢できた匂いも、今となっては吐き気を覚えるだけ。ああ、離れなさいってばっ! 全身がチキン肌になっちゃうじゃない……!

「まあ、これも素晴らしい運命だよ。な、いいだろ? 今日はこれであがることにするから、ふたりきりになれる場所で落ち着こう。お前も寂しくなった頃だろう、今夜は心ゆくまで話をしようじゃないか……」

 ――え?

 ちゃりんと音がして。ハッとして振り向くと、すぐそこには見覚えのある黒塗りの外車が止まっている。うわあ、ここってもしかしてコインパーキング!? ちょっと待ってよ、まさかこのまま押し込まれるんじゃないでしょうねっ! これってそのまんま犯罪行為だよ、許されることじゃない。

「あっ、あのねぇ……!」

 じょっ、冗談じゃないっ!? そう叫ぼうと口を開いたそのとき、今度は背後からのほほんと声がした。

 

「あれえ、……どこに行っちゃったのかと思ったら。ぼたんちゃん、どうしたの。こんなところで」

 目の前の男が顔を上げて視線を向ける。きっと私に連れがいたことには気付いていなかったんだろう、かなりの狼狽ぶり。その先にどんな人物がいるのか、すぐに察しがついた。

「……何だあ、お前は」

 口からこぼれ落ちたタバコを足で踏みつけて、どうにか格好を付けている。でも、背後の彼はそんなこと気に留める様子もない。もしかしたら、この勘違い男が視界に入っていないのかも。

「ぼたんちゃん、ごめん、はぐれちゃったね。……良かった、すぐ見つかって」

 

 にこにこにこ。いつもと同じ笑顔。彼ははぐれた五分前と少しも変わらない態度で、こちらに手を差し出してきた。

 これには私もびっくり。ほらほら、ちょっとよく目の前を見なさいってっ! 車のドアが開いてるでしょ、私がどういう状況にいたのか、少しは考えなさいよ。

 

「おいおい、若造。何考えてるんだ、お前はっ……!」

 さすがに男もブチ切れたのだろう。いつもの「自称」ニヒルはどこへやら、やくざ映画のように凄んでる。彼と私の間に身体を割り込ませて、強気のポーズを取った。

「人のこと、コケにするんじゃない。ぼたんは俺の女だ、横取りするなんて百年早いぞ。だいたいなあ……、コイツはそうとうに金がかかるんだよ。親のスネをかじってるような坊やに相手できるはずがないんだからな」

 ……どうも男は大吉くんのことを、そのまんま学生だと勘違いしたらしい。まあ年齢的には近いものがあるし、あの通りのほほんとしていれば仕方ないか。

「可哀想だから、今のウチに忠告してやるよ。コイツの相手なんかしていたら、今に金が続かなくなってやばいことになるんだぞ。映画はもちろん指定席、食事はどこぞの料亭で個室を取ってくれなきゃとのたまう。挙げ句に、ホテルにも色々注文付けるしな。止めとけ、止めとけ、年長者からの有り難い言葉はしっかりと受け取っておくのが賢明だ――それとも」

 男は何かを思いついたように、クククッと喉の奥で笑う。

 私はもう、とても大吉くんの顔を確かめられる心境ではなかった。出来ることなら、一刻も早くここから立ち去りたい。この馬鹿がこれ以上ひどい言葉を吐かないように。けどけど、掴まれてる腕がどうしても抜けないのよっ! ……もう泣きたいっ!!

「お前がそういうつもりなら、仕方ないかな? 今夜は趣向を凝らして、三人で一緒に楽しむのもいいだろう。コイツはいつもは場違いな服をご大層に着込んでいるが、ベッドの上ではまた格別だからな。どうだい、そっちももう、存分にご賞味頂いたかな?」

 

 ……なっ……!

 一体、どこまで下品な男なのっ! そんなのぺらぺらとしゃべるもんじゃないでしょっ……!? もう我慢ならない、信じられないっ。人のことをなんだと思ってるのっ!!

 

「うわっ、何するんだ……!」

 私から飛び退いた男の腕には、幾筋ものみみず腫れが描かれていた。プータローになってから暇に任せて磨き上げた爪が見事に食い込んで、なかなかの圧巻。おまけに束縛されていた腕も解けて、私はようやく自由の身になった。でも、思い切った行為は相当に男のことを怒らせてしまったらしい、振り向いた顔が赤鬼になっている。振り上げた腕はそのまま拳ごと、私の上に落下してきた。

 

「――いけないなあ、女の子を虐めちゃ。彼女、困ってるじゃないですか」

 しかし、未だにひとりだけこの状況をきちんと把握していない人間がいる。寸前のところで固まった鬼男の肩越しに見えたのは、昼下がりの柔らかい日差しに照らされた笑顔だった。

「行こうよ、ぼたんちゃん」

 

 呆然とした男を残して。大吉くんは私の手を取ると、すたすたと『安寿』目指して歩き出した。

 

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「あのぅ……」

 とりあえず、ってことで店内にある喫茶コーナーに座って。御抹茶をオーダーした後で、私はおずおずと口を開いた。もう、何からどう話したらいいのか見当が付かない。本当に、運が悪いったらないわ。よりによって、一番厄介な奴に会ってしまったんだもの。

 

 だってさ〜、とにかく誘いがしつこかったのよ。再就職した先の上司だし、ちょっとは立てておいた方がいいかなって思ったのよね。女子社員たちの評判も上々だったし、髪型も服装もおしゃれにまとめているし。結構な上玉かな? な〜んて信じたのが間違いだった。

 ああ、情けないったらない。出来ればあのまんま、二度と大吉くんの顔を見たくはなかった。別にこの期に及んでカマトトぶるつもりもないし、いいんだけど。でもさ、私にだってプライドってものがあるんだから。あんな男と付き合っていたことは知られたくなかったよ。

 

「さっきは、ごめんね」

 なのに。向かい合う席に座った彼は、通り過ぎた出来事なんて全然気に留めていない様子。いつもと少しも変わらない声に驚いて顔を上げてしまったら、申し訳なさそうに微笑む姿が目に映った。

「人混みにはあまり出ないから、あんなにすぐにはぐれるとは思わなかったよ。最初から、手を繋いでいたら良かったんだね」

 

 ――そんな風に、言われるなんて思っていなかった。

 ううん、心の中ではやっぱり軽蔑されてるのかも知れないな。だけど、彼の大福餅みたいにすべすべの頬は、そんな当たり前の感情すら包み込んで隠してしまう。いたわりの優しい気持ちだけが私の胸に届いて、泣きたいような気分になった。

 

「……ううん。そんなこと、ない」

 しっかりと繋がれた手のひらはとても温かかった。毎日、美味しい和菓子を丁寧に作り上げていく優しい手。振りほどかなくちゃって、何度も思ったのにそれが出来なかった。だって、自分の本当の気持ちがそんなことを望んではいなかったから。

 そうなんだよね。分かりにくい状況だったけど、あれって私のことを助けてくれたんだよね。あんまりにも自然だったから、思い過ごしかと疑っちゃうくらいだよ。

 

 ――そうだよ、大吉くんが謝る必要なんて少しもない。

 もとはと言えば、ちゃんと後をついて行けなかった私が悪いんだから。本当に馬鹿だよね、何をひとりでぷりぷりしてたんだろ。彼のこと、責めることなんてなかったのに。ああ、もうっ! 自分でも訳が分からなくなってる。

 

 悔しくて、悔しくて……嬉しくて。運ばれてきた御抹茶を一口いただいたら、深い苦みが胸一杯に広がっていった。


つづく (050323)


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