〜みどりちゃんの妹・ぼたんのお話〜 …8…
相手が私に惚れ込んでくれるのは当然だけど、問題はその人を私自身が気に入るかどうかと言うこと。本当に、それだけなんだけどなあ……って思ってた。 そりゃあさ、私は万人受けするタイプじゃないよ。何しろ、こんな格好してるしね――「何だよ、可笑しいの」とか思う奴も多いって分かってた。ううん、その辺の割合を考えてもまだ選ぶのは大変なくらいの好意を寄せられていたんだよ。少女趣味なファッションはいわば「ふるいに掛ける」ために必要不可欠だった、って言ってもいい。 恋愛はともかく結婚はひとりの男としか出来ない。まあ、相手を変えて何度も繰り返すことは可能だけど、芸能人じゃあるまいし現実的ではないと思うわ。だからこそ、失敗は許されないと思ってた。そこまでの過程で何度も失敗して転んでも、最終的には一番いいものを手に入れる。そう信じて生きてきた。
ごろん。ベッドの上に寝そべって、天井の幾何学模様をぼんやりと見上げていた。いつもだったら、せっかくの服がシワになったら大変だって、帰宅すると同時に脱いでハンガーに掛けてお手入れを開始する。どんなに疲れていても、それだけは忘れなかった。やっぱり大好きな洋服たちだもん、大事にしなくちゃ。 けど今日は、申し訳ないけどそこまでの気力がない。ばたんと倒れ込んだら最後、もう起きあがれなくなっていた。腕にも足にも全然力が入らないんだ。柔らかい布団にずぶずぶと沈んでいく感じ。頭の中は白くかすんでいて、でも頬に当たるシーツの冷たさが唯一現実に引き留めてくれてた。少し角度を変えた視界の先、ドレッサーの上には、朝使ったコロンやメイク道具がそのまま並んでいる。 「……そうなんだよなあ……」 ずぶずぶと沈んでいくのは身体だけじゃない。それよりももっと、心が重かった。鉛が胸の中に埋め込まれたみたいで、吐き気もする。「ななひきのこやぎ」に出てきたオオカミみたいで、身動きが取れないよ。
「ぼたんちゃんは、このお店の大切なお得意様だもんね。だから、おもてなしするのは当然だよ」 こともなげに、大吉くんは言った。いつもどおりに柔らかくて、辺りをほんのりとさせる微笑みで。きっと私が喜ぶって、そう信じていたみたいだ。そうだよね、他の女の子たちとは違うんだよって言ってくれたんだから。 ……でも。 すごくすごく、辛かった。そうやって言い切られたときに。何でか分からなかったけど、どうしようもないくらい悲しくて口惜しくて。気が付いたら、お湯のみを置くと立ち上がっていた。 「私、今日は帰るね。……お茶、ごちそうさま」 作業場の方に声を掛けてから、くるりと向き直ると。途端に、どっと涙が溢れてきた。
――馬鹿だなあ、私。一体何を期待していたんだろう……? 絶望の沼から、ぼんやりと浮き上がる。水面まで出ないと、思考することも出来ないんだ。いろんなことがありすぎて、今日は疲れ切ってる。でも、時計を見たら、まだ朝の10時半。お昼ご飯にもならない。昨日は観劇のあと、向こうでお泊まりしたパパとママ。今日は夕方まで戻らない。家の中はしーんと静まりかえっていた。 楽々亭のストック棚に、無造作に押し込まれたチョコの包みたち。それを見てたら、私も一緒にそこに押し込まれてる気分になった。ぎゅうぎゅうって、せっかくの綺麗に結んだリボンがかたちを変えて、痛いよって言ってる。その叫び声がはっきりと聞こえてきた。チョコレートの気持ちになったのって、今日が初めて。だからとてもびっくりしてる。自分がこれほどまでにファンタジーだとは思ってなかったな。 そうなんだよね、私もあのチョコレートたちと同じ存在。こんなのって迷惑だよって、しまい込まれて忘れられる。そう思ったら、たまらなくなった。 大吉くんの気持ちも知らないで、私は今まで好き勝手してきた。暇にかこつけて、お店に居座ってはお菓子の試食したりべらべらと聞かれもしないことをしゃべったり。きっとどうしようもないくらい軽蔑されてるんだろうな、「お得意様」じゃなかったら、もっと早くに追い出されていたと思う。
人混みで手を繋いで、とっても温かかった。見た目よりも大きな手のひらは私の心まですっぽりと包み込んでしまう。あの馬鹿な男と再会したショックだって、瞬く間に吸い取られていた。すごくすごく、嬉しかった。だけど、それは私の一方的な感情でしかなかったんだね。 ――何かが、始まるような気がしてた。 どうしてか分からないけど、春の芽吹きのように少しずつふくらんできた木の芽がふわっと開いていくように。私の心も長い長い冬から目覚めて、ようやく足の裏が地に着くみたいで。やさしかったから、温かかったから、春が来たんだって勝手に思いこんでいたよ。 「ぼたんちゃん、お早う」 お店に入ると、笑顔で迎えてくれて。当たり前みたいに用意されたショーケースの陰の椅子、いれたてのお茶。嬉しかったんだ、特別扱いが。すぐにじゃない、でもきっと「始まる」って……そんな風に信じていたのかも知れない。馬鹿みたい、本当に。
今まで、私が「いいな」ってちょっとでも思った相手は、必ず私のことを気に入ってくれていた。それどころか、私の存在が射程距離に入ったことに喜んで、どうにかして手に入れようって頑張ってくれる。だから、私はただ待っていれば良かった。
「ほら見て、今日のは上出来だよ。皮がつやつやしてるでしょ?」 嬉しそうな笑顔でそう言って、その中でも一番かたちがいいのをお皿に乗せてくれる。長い指がいとおしげに蒸しまんじゅうに触れたとき、胸がいっぱいになった。
……なんで、気付かなかったんだろう。もう、とっくに私の心は始まっていたのに。
「すごいね、ぼたんちゃんが作ったんだ。とっても嬉しいよ、ありがとう」 あのチョコ。きっと、そんな風に笑顔で受け取ってもらえるって信じてた。私はそのときに「何でもないわよ」って態度に出ちゃったと思う。でも、それが単なる照れ隠しだってこと、大吉くんなら分かってくれる。 まさかね、あの状況で差し出せるはずもないわ。私は「その他大勢」の女の子と同類になって、もっともっと大吉くんに軽蔑される。そんなの、絶対に嫌だった。じゃあ「お得意様」の顔をして、何気なくあそこに座っていれば良かったの? それも無理、やっぱ出来ないよ。 特別な恋愛って、もっと簡単だと思ってた。そうだよ、相手の気持ちは最初から100%私に向いている。だから、私がきちんと見つめ返せばそれで成立だったんだ。ずっとずっと、そうしてきた。そんなもんだって信じていた。 だけど。残り5メートル、ラストスパートってときになって……気付いたんだ、隣には誰もいないって。我ながら猛スピードで進んでしまったんだな、本当に情けないったらありゃしない。
……もう嫌、こんなのは最低。不幸な星の下に生まれた美少女は、どこまでもどこまでも孤独に生きるしかないんだわ。
ごろん、ごろん。ごろごろごろ……。 「――痛っ……!」 知らないうちにベッドから転げ落ちて、気が付けばカーペットの上。どすん、って可愛くない音もしたけど、無人の家だから大丈夫ね。指先に絡みついたのは、落っこちていたピンク色の細いラッピング用リボン。ギフトボックスに一緒に付いてきたものだった。先っぽがとんがってつんつんしてる。半分に折って、ハサミでカットしたあと。 それを見てたら、また泣けてきた。 数時間前、この部屋を出るまでの私は、どこまでも幸せな女の子だった。ばっちりメイクして、悩みに悩んで服を決めて。心の中では「別に大したことでもないのよ」って思いつつも、うきうきした気分が溢れ出しそうだった。 「あのチョコ、どこに行っちゃったんだろう……?」 大切に持っていた小さな紙袋が消えていたのに気付いたのは、家にたどり着いてから。 途中、どこかで落としてしまったのかも知れない。小さなカードは添えていたものの、まさか住所や名前が書いてあるわけもないし、きっと見つからないな。もう一度探しに戻るのも、絶対に嫌。メイクの崩れた顔はぼろぼろだし、それを綺麗に落としたところで、ぷっくりと腫れ上がった瞼は隠せない。
――もういいよ、捨てちゃえば。この気持ちごと、全部すっきりと可燃ゴミの袋に詰めて。
きっと今頃、大吉くんはこんな私の気持ちなんて少しも知らないで、午後の仕込みなんかしてる頃。湯気の上がったせいろ、ふつふつと粒あんの煮立つ音。まだ寒い二月の風景をちらっと眺めながら、額の汗を拭う。……駄目、思い出しちゃ。もう忘れるんだから、何もかも。 ぱちんと目の前がはじけた。ぼんやりと浮かび上がった笑顔が粉々に砕けて、胸に突き刺さってくる。その痛みを感じ取ったとき、また泣けてきた。
つづく (050412)
Novel index>さかなシリーズ扉>ななめ上の予感・8 |