〜みどりちゃんの妹・ぼたんのお話〜 …9…
これでもかってくらい打ちのめされて、ずたぼろになってしまった乙女心。 分かっていたのは、もう大吉くんには会っちゃ駄目ってこと。面と向かったときに自分がどんな行動に出るか、全く見当が付かない。取り返しの付かないことになったら大変だし、これ以上彼に悪い印象を持たれるのは絶対に嫌だ。 ずぶずぶと地の底まで沈んでいく。落ち込む時って、ホント、海の底に引きずり込まれて行くみたいだね。自分でも何がこんなに悲しいんだか分からなくなってくる。そのまま、部屋の中が夕日色に染まるまでごろごろしていた。
玄関で物音が聞こえたのと同時に、むっくりと起きあがる。泣くだけ泣いてすっきりしたのかな、身体がとっても軽くなっていた。両方の腕を肩をくるくる回す。うん、なんかパワー全開だ。よしよし、そうじゃなくちゃ。私はちょっとやそっとでへばるようなへなちょこじゃないんだよ。大丈夫、もう大丈夫だ。 落ち込むときはとことん落ち込むというのが私の持論。中途半端だと、無駄なところにエネルギーが分散しちゃうから。一番底まで沈み込んだら、地を蹴って浮上できる。そうよ、今までの私って、何となく癒されてそれでいいと思ってた。ぬるま湯に肩まで浸かってのんびりしてたら駄目なんだよね。そろそろ現実をきちんと見なくちゃ。 「お帰りなさい〜っ!」 部屋のドアを開けたところで元気よくそう叫んで、私はぱたぱたと階段を下りていった。
----------------------***---------------------- パパのお仕事は貸しビル経営。一応、有限会社ってかたちになっている。 駅前の一等地にどどんと建ったビルには銀行やブランドショップのテナントがずらりと入っていた。地下には食料品を扱うスーパーもあって、駅を利用する人にとってはとても便利。10階建ての8階から上はコインパーキングだ。 「お金は汗水流して稼ぐものだ」っていうのがパパの口癖。 そうよね、地道な努力の積み重ねがあってこそ、今日のパパの会社があるんだ。一番最初は小さな街の本屋さん、それも貯金をはたいてまだ足りなくてかなり苦労して手に入れた大切なお店だったって言ってた。パパとしてはそれで十分だったみたい。大好きなママとも結婚できたしね。ただ周りの状況が変化したことから、パパも方向転換を余儀なくされたんだ。 思いがけずに成功を収めたパパのこと、守銭奴みたいに言う人もいるけど……でも、私はパパをとても尊敬してる。口に出したりはしないけど、ちゃんと分かってるつもり。 いくつもの契約相手との交渉を直接やっているのは、パパとコハダさん。コハダさんはパパの学生時代からの親友なんだ。最初は普通の証券会社に勤めていただけあって、数字にはとても強い。会社では会計事務所と契約して税金とかのお金関係を任せているんだけど、コハダさんがいることで更に心強いわ。
「私、会社辞めたから」 退職届をあの男に投げつけてから、早いもので半月が過ぎていた。だけど、そんなこと知るはずもない両親にとっては寝耳に水。それはそれは驚いて、ママなんてお得意のおろおろ歩きを始めちゃった。一方パパはいつの間に用意していたのか、押し入れから一抱えのお見合い写真を出してくるし。 「む、無理をして働くことはないんだからな。いいんだよ、パパはお前が可愛いぼたんでいてくれれば」 やだなあ、パパってば。そんなに気を遣わなくてもいいから。 まあ、普通に考えても最初に入社した会社はあっという間に倒産するし、せっかく再就職した先でも上手くいかなくなるし……こうなると本人はどれくらいショックだろうかと思うんだろうね。でも大丈夫、私は強いんだもん。 両親と向かい合ったリビングのソファーで、私はにっこりと微笑んだ。 「あのね、決めた。私、正式にパパの跡取りになるから」 パパの考えとしては。経営者としてふさわしい人間を私のお婿さんに迎えて、今まで通りに家族経営で会社を続けたかったみたい。だけどさ、どうしてそこまでする必要があるの? いいじゃない、私が直接頑張るわよ。二代目社長になって、更に巡田商事を盛り立ててあげるわ。 誤解されちゃ困るんだけど、これは逃げてるわけではないの。私だってその気になれば、再就職の口は自力で探せるよ。何も親の会社に頼ろうなんて思ってない。何となく、何となくなんだけど「腹を据えた」って感じかな? この辺で自分の本当に取るべき道をしっかりと歩み始めなくちゃならないと考えたの。
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就職活動の時に買ったリクルートスーツを取り出して、久しぶりに袖を通す。いくら何でも、仕事にふりふりぴらぴらは頂けないわよね。それくらい、分かってるもん。髪もきちんとひとつにまとめたわ。なんか、素敵。まるでばりばりのキャリアウーマンみたい。 「いきなりたくさんは無理だから、ゆっくり行こう。でも手加減はしないよ。それじゃ、ぼたんちゃんのためにならないからね」 コハダさんはそう言ってくれた。うん、頑張るよ。何も分からないことだらけだけれど。 会社の経営なんて、最初はどこから手を付けたらいいのやら。普通、会社にお勤めしていても私たち下っ端社員がすることは経営のほんの一部だけ。難しいことは上層部のお偉いさんが全部取り仕切ってくれてる。だけどウチの場合は、社長から平社員までを全部やらなくちゃならないんだ。
そうなんだな、今まで私は「大家さんのお嬢さん」って存在。だから、テナントの人たちからもちやほやされたし、経営の裏側なんて少しものぞくことはなかった。年に何回かあるテナントを集めたパーティーや旅行に同行して、そこでだけお付き合いをすれば良かったのよね。 「よろしくお願い致します」――そう言って深く頭を下げて。辺りの空気がぴーんと張りつめていくのを感じていた。今までは全部、パパやコハダさん、時にはママが私を守ってくれていたんだね。だから、難しいことを考えなくても済んだし、真実から目を背けていることも出来た。
何しろテナントの数が多いから、次から次へと問題が起こる。直接対応したわけでもないのに、夕暮れになる頃にはすっかり疲れ切っていた。すごいよなあ、パパとコハダさん。ふたりで何もかもやっちゃうんだもん。パパなんて朝の5時には起きて、ビルの周りを掃いてるよ。ついでに花壇の手入れもしてる。コハダさんは飲んで午前様になった翌日もすっきり元気いっぱいだ。 私も、負けていられないわ。アフター5にはパソコン教室の集中講座を申し込んだ。ワードはどうにかなるけど、エクセルがかなりヤバイ感じだから。最初の会社では一通り使えてたはずなんだけど、……変だなあ。簡単な表計算も出来なくなってる。昔気質のパパは今でも文書とか全て手書きなんだけど、データー処理とか少しした方が効率いいんじゃないかと思うのね。
ぎゅうぎゅうに詰めたスケジュール。 だから、もう余計なことなんて何も考えられない。お夕ご飯もそこそこにベッドに倒れ込む毎日。すううっと意識が途切れる瞬間に、少しだけ胸が痛くなった。
つづく (050415)
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