報告・感想・ひとりごと  BACK NUMBER 2

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中野山遺跡現地説明会報告 10/12/5

 12月4日四日市市北山町の中野山遺跡の現地説明会に行ってきました。この遺跡は朝明川左岸、伊坂ダム西方の丘陵上に位置し、東海環状自動車道と新名神高速道路のジャンクションが建設されるために今年8月から発掘調査が始まった遺跡です。

 約1,700uが発掘され、もっとも古いものは弥生時代中期の土器、そして飛鳥の竪穴住居6棟とそれに伴う土器、そして奈良時代の堀立柱建物7棟が見つかりました。堀立柱建物のうち5棟は総柱建物であり、倉庫群のようにも思われます。

 この付近は古代朝明群の大金(おおがね)郷に属する地域で、近くの西山遺跡や、小牧北遺跡、広山B遺跡などからは地名を象徴するかのように製鉄に関する遺物が見つかっています。この遺跡でもその期待が持たれましたが、残念ながら今回はそういったものは発見されなかったようです。

 しかし高速道路の建設はこの丘陵を縦断するように計画されているのでそれに伴う発掘調査が来年度以降も予定されており、今後とも目が離せません。
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多気町の「石組み遺構」の現地説明会に行って来ました 10/8/30

 8月29日、多気町相可高校敷地内であった飛鳥時代の石組み遺構の現地説明会に行って来ました。北勢地方からは遠く離れた遺跡ですが、かなり注目株の遺跡と思われるのでレポートします。

 遺跡名は相可出張(おうかでばり)遺跡と言い、相可高校の実習棟建築に伴う発掘調査です。「石組遺構」は幅約8m、深さ約2mの大溝の底面や側面に握りこぶし大から20〜30cm程度の石が意図的に造形をしながら敷き詰められており、調査を担当した県埋蔵文化財調査センターの担当者によれば湧水を利用した祭祀遺跡ではないかとのことです。時代は遺構の中から出土した土器の様式から飛鳥時代後期と判定されるそうです。

 飛鳥時代後期の石組み遺構では明日香村の水落遺跡や亀石が有名ですが、あちらは大陸の影響がうかがえる切り出した石を並べているのに対して、この石組みは自然の石を並べるという古墳時代の手法が取られているのが特徴で、飛鳥時代の石組み遺構が地方で発見されるのは全国的にも珍しいそうです。

 相可の地は式内社の伊蘇上(いそのかみ)神社や佐奈神社が所在しており、古代において水銀を採掘した丹生も隣接していることから、磯部氏や飯高氏など古代豪族との関わりも考えられる遺跡のようです。

 新聞の写真で見た時には川原石が散らばっているだけのように感じられましたが、現地で見ると石積みや石張りのテラスのような部分がはっきり見分けられ、やはり考古遺跡は現場に来ないと分からないことが多いなと痛感しました。

 桑名から現地までは「快速みえ」を使って比較的スムースに行けたのですが、帰りの列車が3時間に1本で相可の駅の周辺には喫茶店もなく、炎天下に無人駅のベンチで2時間列車を待つはめになってしまいました。紀勢本線はもう死んでいますね。

 相可高校の前は、大和から伊勢へ向かう「伊勢本街道」が通っていて連子格子や土蔵を持つ古い町並みも残っています。また学校の付近には西行法師が伊勢詣の際千鳥の歌を詠んだという「千鳥ヶ瀬」や道標のある「札の辻」という史跡がありました。
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「桑高百年展」を見て 10/8/6

 8月5日桑名市博物館で開催中の「桑高百年展」を見てきました。桑名郡立高等女学校の誕生から県立高等女学校、県立桑名中学校、県立桑名高校と歩んで今年で百年、桑高の歴史をモノで示す初の展覧会です。

 郡立高女第1回卒業生の写真や当時の生徒が使ったミシン、教科書、賞状、通知簿など卒業生らから提供された資料約500点が出品されています。これらの貴重な資料を収集・展示された関係者のご努力には頭が下がります。

 小生が入学した年に伊勢湾台風が来襲し、罹災した校舎の写真などを見ると、自宅も浸水し、1ヶ月余り学校へ行けなかった当時のことが思い出されます。当時の高校生活を振り返ってみると、受験勉強で追いまくられてあまり良い思い出はありません。今でも朝の始業時間に遅れそうになって焦っている夢を見るくらいです。

 しかし、今になって当時の先生方の中には『桑名日記・柏崎日記』の翻刻をされた澤下先生などのように優れた業績を残された方々がおられるのを知りました。当時は余技でそんな仕事をされているとは微塵も感じられませんでした。先生方とのコミュニケーションをもっと深めておけば良かったと悔やまれます。

 今回の展示では卒業生や先生方の業績を紹介するコーナーは特に設けられてはいませんが、少なくとも桑柏日記はこの博物館に所蔵されているので、それらも含めた展示ができればなお良かったかと思われます。

 会場を見渡すと卒業生らしき年配の人々が興味深そうに展示品に見入っておられるのが印象的でした。それに対して夏休み期間中なのに在校生らしき若い人を見かけなかったのは残念でした。もっとも青春時代は「あとからほのぼの思うもの」と歌謡曲のフレーズにもあるように、年を重ねてからこういうものへの関心が生まれて来るのかも知れません。

 会場には学校のどこに保存されていたのか、元禄時代の桑名城下図や吉田初三郎の1930年代の桑名の鳥瞰図3種も出品されています。今回初めて見るものであり、大変興味を引きました。また、松下幸之助像を造った砂原放光氏が1983年に寄贈された松平定信のブロンズ像も一見の価値があります。この展覧会は8月8日(日)までです。

「名古屋400年のあゆみ」展を見て 10/2/19

 2月16日、名古屋市博物館で開催中の「名古屋400年のあゆみ」展を見てきました。特に目的を持って出かけたのではなく、時間ができたので入館しましたがなかなか見応えのある展覧会でした。
 慶長15年の名古屋城築城に始まり、平成4年の伊藤みどり選手のオリンピックで銀メダル獲得に至るまでの名古屋の400年の歴史が40のトピックスにまとめられてそれらを象徴する事物が厳選され、わかりやすい解説を加えて展示してありました。

 桑名に関係した事柄では元和2年(1616)の七里の渡しの開設です。当時の絵図が沢山展示され、これまで見たことのないものもあり、江戸時代中期以降には新田開発が進み、宮から下之一色、亀ヶ池を経て前ヶ須(現弥富市)までの陸路が描かれたものもありました。

 また藩主が兄弟でありながら桑名藩とは明暗を分けることになった戊辰戦争では、尾張藩の佐幕派への粛正である青松葉事件の関係文書やそれを題材にした小説本や芝居のポスターが出品されていました。また徳川林政館から出品されている北越長岡城の攻防の図には桑名藩の守備位置も描かれています。

 名古屋港は明治に入り早々に開港されたと思っていましたが、四日市港の方がはるかに早く、名古屋港の開港は明治末だそうです。当時は熱田港と称し、伊勢湾の再奧部で水深が浅く工事が難渋して一時は中止案も出されたそうです。昭和12年にここで開催された汎太平洋平和博覧会(杉本健吉画伯の手になる当時のポスターが今回の展覧会のポスターにも使われている)の際に配布されたという吉田初三郎のパノラマ図を見ると、名古屋港と桑名の間が随分近く描かれていて興味を引きました。

 桑名の話題からは離れますが、空襲で消失した名古屋城に使われていた飾り金具や金の鯱の鱗片も展示されていました。金鯱の残骸の大部分は名古屋市旗の旗竿の先端飾りと茶釜に加工されたのだそうです。

 昭和34年の伊勢湾台風では2階まで浸水した民家の庇に引っ掛かって動けなくなったミイラ状のサヨリが庇部分を切り取った状態で展示されていました。
 昭和47年にグアム島で発見された横井庄一さんのコーナーでは密林の隠れ家の中で使用していた生活用品が展示されていました。水筒を縦半分に切って食器や鍋に改造したり、パゴの木を剥いて繊維を取り、それで糸を紡いで上着や半ズボンに仕立てたものなど、その執念と工作の丁寧さには改めて感動しました。

 大変盛りだくさんの展示で最後まで見るのに2時間近くかかってしまいましたが、それだけ見応えのある展覧会だと思いました。
この展覧会は3月7日まで開催です(月曜休館)。

2010年 明けましておめでとうございます10/1/1

 明けましておめでとうございます。
 月日の経つのは早いもので小HPを開設してから今年で9年目に入ります。
その間Webの環境は随分変化してきており、開設当時はアクセスしていただくのにややこしいURLを伝えるのに苦労したものですが、現在では検索技術が発達して「桑名歴史案内」という言葉で検索してくださいと伝えるだけでアクセスしていただけるようになってきました。

 また制作技術も進んできていて、小HPも随分旧式なページになっています。一度抜本的なリニューアルを図らなければと思うものの時間的な制約からコンテンツの部分的な更新に終始しているというのが現状です。
 しかし正月の夢は大きい方が良いそうなのでここで構想だけ述べておきます。桑名の東部、西部地域の史跡紹介、そしてなんといっても多度、長島地区の紹介、それに「北勢の考古学」のページの充実を図りたいと思います。これらをフレームを使った手法で作ろうと思っています。これはマニフェストではなく、夢としてこれを目標に頑張りたいと思います。

 ところで、今年はいよいよ2月に壬申の乱ウォークが桑名にやってきます。このウォークは久留倍遺跡を考える会が主催してこれまでにこの乱に関係する土地で開かれてきました。桑名はこの乱では天武天皇が後の持統天皇を留め置いたとされる重要な地でありながら、桑名郡家の位置がいまひとつ確定されていないことからかいつもこのウォークからは外されていました。しかしこのウォークもいよいよ終盤に入り、訪れるべき場所も少なくなってきたためか遂にこれが実現し、今回は額田廃寺跡をメインにウォークが組まれるようです。桑名人として大いに歓迎したいと思います。

「古代朝明の風景」展を見て09/12/25

 12月23日四日市市立博物館で開催中の「古代朝明の風景」展を見てきました。久留倍官衙遺跡の展示会です。先ず会場4階の入口を入るとこの遺跡で見つかった八脚門が再現してあってこれが三重大学の山中先生がブログでも褒めておられるようになかなかの迫力です。

 会場は@久留倍官衙遺跡とは、A古代と現代の役所の比較、B他国の古代の役所、C古代朝明郡の風景、D壬申の乱と聖武天皇東国行幸、E古代前後の久留倍の姿の6つのテーマで構成されています。

 @のコーナーでは遺物が少ないと言われるこの遺跡の須恵器の碗や円面硯の破片などに久しぶりに再開することができました。

 Aの時代を超えた役所の比較では木簡をツールとした古代の役所とパソコン中心の現代の役所の展示が面白いと思いました。

 Bでは各地の博物館から借りてきたジオラマが興味を引きます。その館を訪れないと見ることができないのですから。ただパネルの説明文が報告書から引いてきたような文章で、もう少し分かりやすい文章にならないかと思われます。それにしても、どの遺跡でも円面硯は小さな破片からでもそれを組み入れて想像たくましく全体の姿を修復再現しているのには感服しました。それほど重要な遺物なのですね。回転体であるため全体の姿が想像しやすいからでしょうか。しかし久留倍遺跡の円面硯はまだ破片のまま置かれています。修復するには問題が残されているようです。

 Cでは遺跡の紹介もさることながら、文字資料がパネルで紹介されており、これが大変興味深いと思いました。日本後紀延暦24年11月の条に記載のある伊豆国の役人が使者と共に上京の途上、伊勢国の榎撫と朝明駅の間の村で休息を取ったところ、毒酒を飲まされ従者が伊賀国との堺で死亡、役人は京に辿り着いたところで死亡という有名なエピソードや、天平20年に写経所に務める朝明郡蘆田郷出身の秦家主という22歳の若者が出家を願い出た記録が正倉院文書に残されているが、同じく正倉院文書で17年後には大般若経の写経の功績により位を授かっている記録があり、この男は結局出家は認められなかったことが分かるなど興味深い例が紹介されています。このコーナーでは桑名に関係する物として額田廃寺の軒丸瓦と專仏が出品されています。

 Dはパネル展示と地図だけであまり迫力はありませんが桑名の天武天皇社も紹介されています。Eはこの官衙遺跡周辺に広がる弥生から中世の遺構の紹介です。久留倍遺跡は最初は弥生〜古墳時代の遺跡と思われていたのですから。そのために一室が設けられており今までのこの遺跡の発掘成果の集大成という趣で大変迫力がありました。でも期待した今秋の現説でパネル紹介だけだった東麓の大溝からの出土品の紹介はありませんでした。木製品が多いので保存処理に時間がかかるのでしょう。次の発掘展を期待したいと思います。

 それにしてもこの日は天皇誕生日で休日だったのですが、観覧者が少なくて寂しい気がしました。新聞社等との共催でないのでPRが行き届いていないのでしょうか。国指定史跡となったこの遺跡をまるごと知ることのできる絶好の機会だと思われるのでもっと見に来てほしいと思います。またこのような展覧会にはいつも出動しているボランティアガイドの姿も見られませんでした。年末とは言え郷土のいにしえを伝える展覧会ですからもっと活躍してほしいと思いました。

四日市市立博物館の関係ページはここから

纒向遺跡現地説明会報告09/11/17

 11月15日奈良県の纒向遺跡の現地説明会に行ってきました。桑名の歴史とは離れますが小生の興味を持つ分野ですのでここに少し報告を記します。

 新聞報道などで卑弥呼の宮殿かも!と言うので1日で3,600人の考古ファンが詰めかけ、寒空に1時間半の待ち行列、上空には取材のヘリコプターまで飛んでくる現説でした。この遺跡は邪馬台国の有力候補地として今年の3月に3世紀前半の3つの建物が東西方向に一直線上に建てられ、それらを囲む柵列が発見されたとして話題になった遺跡です。

 その後今年の9月からその直線上の背後を発掘したら、なんと19.2m×12.4mの弥生時代としてはとても考えられないような巨大な堀立柱建物跡が発見されたというものです。もっとも建物の半分は古墳時代に掘削された大溝によって削平を受けています。しかしこの大溝が素晴らしくて石張りになっていたようです。そして建物の柱は全て抜き取られた跡があるようです。

 ちなみにこの巨大建物の大きさはローカルな話題で恐縮ですが、桑名の諸戸氏庭園の重文に指定されている御殿とほぼ同じ大きさになります。このような大きな建物を含む建築物が軸線を揃えるよう建てられていたとは確かに大変な発見だと思います。

 それにしても付近は住宅開発が進められていて、たまたま空き地部分での発見とは誠に幸運だったと言えます。この現場の背後(東側)はJRの線路でその向こうは既に人家となっています。
 纒向遺跡はまだまだ何が出てくるか分かりません。そしてこれが卑弥呼の宮殿であるとはまだ言えません。桜井市では今後周辺地区の空き地の調査をさらに進めるとしているので、今後の調査を期待を持って見守りたいと思います。

 なお現場ではアマチュア考古学者として有名な俳優の刈谷俊介さんが作業服姿で見学者の誘導をしておられるのを見受けました。
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久留倍官衙遺跡現地説明会報告09/10/12

 10月10日久留倍官衙遺跡の現地説明会に行って来ました。絶好の現説日和で100人近くの考古ファンが詰めかけました。 この遺跡の調査ももう16次になるそうです。

今回の調査では柱の抜き取り跡が残った大型の総柱建物3棟が見つかりました。 そのうち2棟は政庁の背後(西側)にあって整然と立ち並び、大きさは東西9m、南北8mと畳数で言えば45畳敷きはある大きなものです。政庁の東側で確認されている正倉院の建物が大きいものでも9畳敷き位であったのに比べ、いかに大きいかがわかります。総柱建物なので高床の倉庫のようですが、この大きさは三重県内でも最大級で奈良の都クラスのものだそうです。

もう1棟はこの建物の南にあって建物の向きは2棟とは揃わず、また規模もこれほど大きくはありませんが3棟とも柱が引き抜かれた跡があることです。この建物群の柱はいったい何処へ持っていかれたのでしょうか。

 この遺跡は官衙遺跡で有名になりましたが、最初の頃は弥生から古墳時代にかけての遺跡として知られていました。今回も官衙遺跡の東麓の大溝の中から沢山の木製品や井戸などの遺構が出土しているようですが、残念ながら道路の工事箇所の近くで狭くて公開は危険であるとのことでパネル展示だけだったのは残念です。せめて遺物だけでも見せてほしかったと思います。
今冬、四日市市立博物館で久留倍遺跡展が開催されるようですから、その際にはぜひ公開してもらいたいと思います。
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講演会「北勢の産業遺産〜近代化遺産としての北勢線〜」を聞いて09/3/23

 3月21日メディアライヴで北勢の産業遺産〜近代化遺産としての北勢線〜を聞いてきました。講師は一昨年NHK教育TV「知るを楽しむ」で講師を務められた科学博物館の清水慶一さんです。

 近代化遺産という言葉が使われ始めたのは20年ほど前で、当時はダムや工場等を寺院やお城などの文化財のカテゴリーに含めるのには抵抗があったようです。しかし欧米ではこれらも文化財に入れていることから、文化庁から国立科学博物館で産業・交通・土木の遺構を中心とした産業遺産について研究していた清水氏に調査が依頼されたそうです。

 この日のお話しではそれらの中から国内では富岡製糸場(群馬県)や碓氷峠鉄道施設、綾小路機関庫など、海外の事例として英国のダーベント渓谷紡績工場群、アルバートドッグ・アイアンブリッジなどがスライドで紹介されました。いずれも建造物や鉄道ひとつだけでなく、その周辺にある関連施設が一体となって保存されている事例です。
 地域の営みや、なりわいを残しながら保存して行こうというのが近代化遺産の理想的な保存方法で、それを使って地域の活性化に役立ててもらいたいということでした。

 北勢線は130以上あった軽便鉄道のうち残っている2例のうちの一つという貴重な鉄道で、もう一つは近鉄内部・八王子線であり、奇しくも北勢地方にその2つが現存しているのだそうです。これは日頃利用している我々も気が付かなかったことだと思います。

 北勢線については、関連施設として楚原の「めがね橋」や「ねじり橋」、阿下喜の「転車台」そして最近出来た「軽便鉄道博物館」、また桑名の3つの線路巾が揃っている「三崎踏切」などがあります。また沿線には「刻限日陰石」や「桐林館」、「まんぼ」、「六把野井水」そして「阿下喜の街並み」など見どころがたくさん残っています。

 「阿下喜の街並み」は、小生も前日に開催された歴史散策「昭和ロマンの阿下喜を訪ねて」に参加して再認識してきました。これらを含めて近代化遺産として捉えれば最近流行の産業観光としても十分通用すると思われます。

 先生はこの日の朝、西桑名駅を見に行かれたそうで、その感想として、駅がハンバーガーショップの陰に隠れて目立たない。沿線にどんな魅力的な場所があるのだろう、乗ってみたいなという感じを今ひとつ沸き起させないと言っておられました。我々市民から見ても確かにそう感じます。

 でも三岐鉄道になってからの主要駅のパーク&ライドシステムの導入、駅の統合やレールの強化による高速化、魅力的なカラリング(ラッピング車両はいただけないが)の導入などは十分評価できると思います。

 講演を聞きながら以前に訪れた北勢町の治田鉱山跡のことを思い出しました。あそこも現在は荒れ放題になっていて、さらに昨年の集中豪雨で沢に入れなくなっているそうですが、手掘りのトンネルや精錬窯の跡、坑道口、トロッコの軌道跡、稲荷社などがそのまま残っており、また麓の神社には精錬に使った石臼も残っているそうなのでこれらを含めて近代化遺産として保存・活用することは出来ないでしょうか。

2009年 新年あけましておめでとうございます09/1/1

  新年の挨拶を書くのも今年で8回目になりました。毎年やりたいと思っていることができていないと書いてきましたが、今回もまた同じことの繰り返しになってしまいました。コンテンツの充実・拡張、今年も目指します。でも丑年なので歩みが遅いかも。しかしアクセス・カウンターがもう間もなく2万回の大台に乗りそうなので一層頑張るつもりです。 沢山のご来訪ありがとうございます。

 最近はWebの世界も小HPを立ち上げた当時とは大分様相が変わっていて、このような感想文はブログが盛んに用いられるようになっているようです。 この欄を書くのに毎回四苦八苦している小生は、よく毎日書き加えられるものだと感心しながら見ている次第です。

しかしながら、小HPは桑名の史跡や名所の紹介を通じて桑名の歴史を考えようとするサイトなので、あくまでもHPならでわの持ち味ににこだわって運営して行きたいと思っています。 ご支援の程よろしくお願いいたします。


久留倍遺跡現地説明会報告
08/12/26

遺跡を跨ぐ北勢バイパス

 12月21日、朝明郡衙跡とされ国の史跡にも指定されている四日市市大矢知の久留倍遺跡の現地説明会に行って来ました。久留倍遺跡のこれが最後の説明会のようです。天候が心配されましたが、どうにか午後3時の終了まで持ってくれました。説明会のアナウンスが直前だったためか、参加者は50〜60名程度と今ひとつでした。

今回は官衙遺跡の学術調査と、それより東の山裾に位置する主として弥生時代の遺跡の発掘調査です。前者は保存が目的なのであまり深くは掘り切っていません。後者は官衙遺跡から外れるので全面発掘です。
 官衙遺跡の調査では、これまで正殿、脇殿、八脚門を備えた東を向いた政庁から、東西に長い建物が並ぶ配置へと移り変わることが分かっていましたが、今回の調査で東西約29m、南北約7mの長大な堀立柱建物は建て替えの跡が見られること。 その後この建物とほぼ同じ位置に東西約18m、南北約6mとやや小規模な建物が建てられ、これにも建て替えの跡が見られることがわかりました。

 弥生の遺跡では調査区のほぼ中央を東に向かって流れる谷があり、この中から壺、甕、高杯などの弥生土器、木製品、石製品が多数出土しました。中にはミニチュア土器も見られます。木製品は鍬、鋤などの農耕具とそれらの未製品です。石製品にも未製品が見られることからこの集落で農耕具を製作していたようです。また弥生時代後期の方形周溝墓も2基発見されました。これでこの遺跡の方形周溝墓は8基になりました。 出土した遺物量と、これまで発見されている竪穴住居跡や方形周溝墓の数から考えると、県内有数の集落跡になりそうです。

 もともと久留倍遺跡は最初の調査では弥生〜古墳時代の集落跡と考えられていました。それが丘陵の上部から官衙らしき建物群が出土して大変なことになって来たわけです。
 官衙遺跡の方は今回は遺物は全く出ていません。これは遺跡保存のため柱穴などを完全に掘り上げていないこともありますが不思議なことです。担当者は役所と言うところは本来何もないところだからと言いますが、丘陵下の弥生の大溝の木製品を精査してみたら上の遺跡で使っていた木簡などが混入していたということが将来あるかも知れません。期待を持ちたいと思います。

 それにしてもこの遺跡の発掘の原因になった北勢バイパスの建設はもうかなり進んでいて正倉院のあった位置には橋脚が建ち橋桁が横切っています。史跡公園として整備するそうですが、大海人皇子や聖武天皇も望んだ?とされる正殿から八脚門を通した東方の海の眺望は橋桁に遮られて全く損なわれてしまっています。 参加者の中からも落胆の声が漏れました。 写真はここから

新薬師寺旧境内遺跡特別公開に行ってきました08/11/23

 桑名の話題からは外れますが、11月22日、奈良教育大学の構内から見つかった新薬師寺の大型建物基壇遺構を見てきました。 新聞報道で見て午前中2時間だけの公開というので朝5時起きで出かけました。

 期待にそぐわず立派な遺構が出土していました。全面に巾52mもの総階段が取り付く巨大な建物の基壇で、推定東西68×南北28.5mにもなるようです。基壇はかなり削平されていますが礎石の下の地固め石も5箇所ほど残っています。階段の基壇と思われる石列と地覆石と称する基壇の化粧石組みも残っており、凝灰岩に切れ込みを入れた丁寧な加工が施されています。

 現地ではペーパー資料は置いてあるものの説明は全くなく、自由に見学するという方式だったので畿内の遺跡の現説には珍しく滞ることもなく伸び伸びと見学できました。このお寺は東大寺大仏を建立した聖武天皇の后、光明皇后が天皇の病気快癒を願って造営した寺院で、この遺構は七体の薬師像が並ぶ金堂跡ではないかと言われています。仏像の一部と思われる黒漆を施した乾漆像の小さな破片も出土し、別室に展示されていました。南北軸に方位線を揃えたこの遺跡の真北約1Kmの所には大仏殿があり、昔の絵図と合致するそうです。

 なお新薬師寺の「新」とは「あらたかな」という意味で、現在この遺構の東の地に伽藍を構え本堂が国宝に指定されています。高田好胤さんが管長だった西ノ京の薬師寺とは直接関係のない寺院だそうです。
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桑名ふるさと検定を受験して08/3/24

 昨日、 桑名ふるさと検定を受験してきました。受験者が500人余にもなり、会場が予定された中学校一箇所だけでは足らず、急遽もう一箇所別の会場を増やすことになったようです。桑名市以外からの受験生もかなりあったようで主催者としては大成功ではないでしょうか。

 試験はテキスト「桑名のいろは」持ち込み可だったので気楽に受けたのですが、桑名市の緯度経度の正確な数字とか、 十念寺の七福神祭りの開催日とか、 北勢線のナローゲージの線路の幅とかやはりテキストがないと答えられない問題が出されました。
 反面、安永立場で売られていた名物の名称とか桑名盆に描かれている野菜の名称を問う設問などは少し易しすぎるのではないでしょうか。

 そして2月に行われた直前セミナーでは「桑名が東海道の42番目の宿場」といったようなあまりに易しい問題は出ないような話がありましたがその設問がそのまま出題されていました。

 100問90分の時間を少しもてあまして早めに切り上げ、出口で渡された正答表を家へ帰って点検したら芭蕉の野ざらし紀行の問題でひっかっかてしまったのに気が付き、もう少しテキストを参照すればよかったと後悔しましたがあとの祭りです。

 この検定試験は主催者の商工会議所や市観光課の話では点数評価よりも桑名への愛着、観光振興、今後のまちづくりへ啓蒙を目的としているためテキスト持ち込みを可としたということのようですが、やはり検定試験であるからにはテキストなしで回答するという方式の方が望ましいのではないでしょうか。そうでないと冒頭に書いた緯度経度の問題のような試験のための設問が多くなってしまうような気がします。

 それよりも今回のテキスト「桑名のいろは」には誤りが多く、事前セミナーで配布された正誤表が130箇所余りにも及び受験会場でも話題になっていました。写真の裏焼も数カ所あり公式ガイドブックと銘打つ以上ぜひ今回の収益金で改訂版を出していただきたいと思います。それと前回にも書きましたが文責「桑名市」ではなく、各項の執筆者を明記していただきたいと思います。

2008年 明けましておめでとうございます08/1/1

 新年あけましておめでとうございます。

 昨年の新年の挨拶を書いてから早一年、このHPも年末にコンテンツの記述の一部に手を加えるという小改訂のみで、年頭に予定したことを何も果たせずに新しい年を迎えてしまいました。

 年末の改訂は、昨秋商工会議所から発行された桑名ふるさと検定向けの「桑名のいろは」にハテナと感じたり、明らかに誤りだと思われる箇所がかなり含まれているようなので、「人の振り見て・・・」のことわざ通り我がHPもチェックのふるいにかけて記述の修正とコンテンツの追加を図ったものです。 まだ見落としているところがあるかも知れません。こういう点は印刷物と異なり、HPは小回りが自由ですので時間さえあれば修正が効きます。お気づきの点はぜひメールでご意見をお寄せいただきたいと思います。

 昨年果たせなかった計画は、今年の宿題として新年を踏み出したいと思います。

ふるさと検定ガイドブック「桑名のいろは」を読んで07/11/27

 桑名ふるさと検定のための「桑名のいろは」という本が桑名商工会議所から発刊されました。桑名の自然と歴史、文化と観光、桑名のくらしなどがオールカラーでわかりやすく紹介されており、桑名について知るための格好のガイドブックです。

 会議所ではこれに基づいて来春に昨今流行の「ふるさと検定」を実施するそうです。したがってこの本はそのためのテキストにもなっているようです。しかしそのつもりで読んでみると、歴史分野で古代の記述が少ない反面、近世では大名の種類がこと細かく紹介されているなどテキストとしては内容に粗密があるようです。

 また史跡紹介では東海道筋の寺院がたくさん取り上げられてているのに対して、丘陵部の勧学寺や聖衆寺が落ちているのも気になります。さらに春日神社前の「しるべ石」を紹介するコラムに多度大社前にも現存することが全く触れられていません。また「桑名のくらし」の方言や歳時記の記述もテキストとしては少し長いと思います。

 そして短時間で制作されたためか、人名、地名、固有名詞、俳句の表記などに誤記がかなり見られます。検定試験にはこの間違い探しを出題したらとの冗談も出ているようです。

 また地質の項で「奄芸層群」や「東海湖」など現代では古くなってしまった用語が使われているのも気になります。そういえば「ミエゾウ」の骨が多度で発見されていることも触れられていません。何のために昨年桑名で三重県博移動展が開かれたのでしょうか。

 批評めいたことを書きましたが、この本はテキストという観点から離れて桑名を紹介するガイドブックとして見れば、「ふるさと自慢」のコラムや「桑名日記にみる下級武士の生活」などおもしろい切り口からの桑名の紹介。そしてこれまであまり目にすることのなかった珍しい図版が随所に散りばめられているのは魅力的です。

 残念なのは行間に対して活字が少し小さいことと、巻頭の地図が大まかすぎること(本文に登場する史跡の場所が外部の人にはわからない)、本文にあって索引に反映されていない単語があること、監修者には立派な先生のお名前が挙がっているのに対し、各項の執筆者は全く覆面で誰なのか書かれていない。特に最後の点は改めないといけないと思います。
「桑名のいろは」の詳細はここから(桑名商工会議所HP)

三重の古墳「発掘大図鑑」展を見て07/9/21

 9月19日桑名市博物館で開催中の「三重の古墳発掘大図鑑」展を見てきました。
タイトルから子供向けの展示だろうと思って入りました。ショウケースの中には大小の埴輪や土器が所狭しと並んでいていつもの桑博とは違う賑やかさがあります。三重県下のみならず今城塚や東殿塚古墳など県外の著明古墳からの出陳もあり約170点が展示されています。しかし内容はなかなか高度で、とても子供向きとは言えません。

 構成は古墳以前のお墓→古墳時代の幕開け→巨大前方後円墳の時代→古墳のひろがりという時代を追ったストーリーに主として県内の古墳から出土した遺物がキャストとして登場するような構成になっています。来場者には台本としてオールカラーの立派なブックレットが配られますが、展示には台本にはない箇所があったりして少しとまどいます。例えば展示では淡輪(たんのわ)式技法という埴輪の作り方がキーワードの一つとして紹介されていますが、台本にはこれが全く触れられていません。また珍しい形の土器として三足壷や鈴付壷をコーナー展示してありますがこれも台本にはありません。印刷の都合からかブックレットの方が先に出来て、展示構成が後から付いてきているという印象です。また県内の古墳がたくさん紹介されているのですが、それらの位置を示す地図パネルが必要だと思います。

 2階の会場は一昨年試掘された桑名の高塚山古墳の位置づけを考察する「高塚山古墳と埴輪技術の東方波及」というミニ企画展になっています。ここでは埴輪作りの2系統の東遷マップがキーパネルとして掲げられていますが、一般の人が展示構成からその流れの違いを見出すのはかなり難しいように思いました。もう少し補足的なキャプションがあってもよいのではないでしょうか。特にカゴ型土製品やミニチュア土器などには説明が絶対必要だと思います。そしてできればこれらを含めて高塚山古墳に対するもう一歩踏み込んだ考察もほしかったと思います。

 この博物館で考古関連の企画展が開かれるのは'02年に行田市との交流展「東国の埴輪たち」が開かれて以来5年ぶりとなります。今回の展示会は副題が三重県埋蔵文化財展となっているように県埋文センターが主導権を持った展示会ようですが、桑員地区で考古関連の展示会は非常に少ないので今後もこのような企画展をぜひ続けてほしいと思います。
 会期は10月23日まで。9月23日(日)には記念講演会、その他連続講演会、こども古墳講座なども開かれます。詳細はイベント情報のページを見てください。
また、会場で配布しているブックレットは下記の三重県埋蔵文化財センターのページからダウンロードできます。
http://www.pref.mie.jp/MAIBUN/HP/moyooshi/H19mai/index.htm

治田鉱山跡探訪記 07/5/2

 4月30日、治田(はった)鉱山跡へ行ってきました。
 4月15日付け伊勢新聞に三重大学考古学の山中章先生がリポートを書いておられるのを見た歴史案内人仲間のO氏に誘われて同行しました。

 治田鉱山は2代桑名藩主本多忠政の嫡男忠刻のもとへ嫁いだ*徳川千姫の化粧料として幕府から与えられたと伝えられて来たいなべ市北勢町にある銅や銀の鉱山跡です。
 先生のリポートにもあるように青川峡のキャンピング場から林道を進み、丸太を渡しただけの橋や沢に露出している飛び石伝いに山に分け入っていかなければなりません。 小生は丸太の橋の渡り方を知らなくて最初から思い切り足を滑らせて左半身ずぶ濡れになってしまいました。

 石が累々と堆積した河原や手堀りの隧道や一人が通るのがやっとの崖沿いの道を1時間近く進んでやっと石垣や焼き釜跡の残る郭部分にたどり着きました。この山は戦国時代から掘り始められ、江戸時代には全国でも有数の銅鉱山に数えられた時期もあり、操業は断続的に明治末頃まで続けられたようです。石垣は最盛期に築かれたものでしょうか、煉瓦で作られた炉の残骸は明治期のものでしょう。

 少し登ったところには先生の言われるように小さく区画された作業小屋の礎石も残っていて近くには日之丘稲荷もありました。採掘坑はなかなか見つけることができなかったのですが、やっと対岸に不思議な石組みがありその上にポッカリ口を開けていました。トロッコの線路跡も確認できました。

 それにしても昔の人はこんな山奥までどうやって資財や食料を運んだのでしょう。さらにこの沢に沿って登っていくと治田峠へ出るそうです。当日は休日で麓のキャンプ場は賑わっていましたが、この山道へ入る人は少なく、すれ違ったのは数人でした。新緑が目に鮮やかで狸にも2度出会い、帰る頃には濡れた服もすっかり乾いて爽やかな気分で下山できました。

*最近の研究によると千姫の姑の熊姫(ゆうひめ)の化粧料のようです。

青川峡 この河原を遡る 鉱山跡の石組み 日之岡稲荷
採掘抗 トロッコの足場が残る 採掘抗内部 石組付近で見付けた一升徳利片

亥年 明けましておめでとうございます 07/1/1

 新年明けましておめでとうございます。

 昨年は年頭に小HPのコンテンツを増やすべく欲張った抱負を述べましたが、絶滅寸前の文化財のレッドデータを探す仕事を手掛けたりして、HPの方は目標を達成することができませんでした。

 わずかに年末になって東海道の七里の渡し跡のページを更新することでお茶を濁してしまいました。積み残した多度・長島や旧桑名市の東部・西部地域の史跡紹介、北勢の考古学の充実は今年の宿題ということで手を付けて行きたいと思います。

 今年は亥年ですので少しピッチを上げる積もりですが、どこまでできることやら。

「紅葉の多度山を満喫しよう」に参加して 06/11/27

 11月25日「紅葉の多度山を満喫しよう〜山の案内人によるガイド付きハイキング〜」に参加しました。これは桑名市や多度山活性化協議会が広域合併で新しく桑名のシンボルとなった多度山の再生を図るために多くの市民に多度山の姿を知ってもらおうと企画したもので、専門の先生による植物や地質の話が聞けるためか100名を越える参加者がありました。

 コースは眺望満喫コースと健脚コースがありましたが、解説は前者に付くとのことで眺望満喫コースを選んで登りました。道は舗装され自動車でもなんとか入れる(関係者以外は乗り入れ禁止です)ダラダラ坂の登山コースですが、紅葉を楽しみつつ、要所で立ち止まって先生の話を聞きながら標高403mの山を約1時間半かけて登りました。

 昭和20年代から多度山に登っておられる植物の葛山先生によると多度山は京都の嵐山にも匹敵する自然の宝庫で、年平均気温が15.3度あるため、三重県では松阪以南にしか生えないとされるナチシダやカギカズラが見られるそうです。また、登山道には江戸時代に山の崩落を防ぐために植林されたといわれるオオバヤシャブシが多く植えられていることや、山を手入れする人が減ってシダが繁茂し、アカマツの林が急激に枯れ出しているという危機的状況も教えていただきました。

 また、地学の宇佐見先生によると、多度山が属する養老山脈は中生代のジュラ紀(恐竜の時代)にハワイあたりの海底に堆積した地層が2億年かけてここまで運ばれ、数千年に一度の頻度で起きる地震の繰り返しによって生まれたものだそうです。登山道脇の露頭には強い力で断ち切られた地層が見られました。

 山頂に着くとあいにく曇り空で、晴れていれば木曽の山並みまで眺められる眺望はいまいちでしたが、宇佐見先生から濃尾平野の成り立ちや、木曽三川は人間の力で今の流路に押さえられているが、放っておけば濃尾平野の中をのたうち回りたがる性質があり、そういう意味では川がかわいそうだというお話をうかがい、人間と自然のせめぎ合いにも心が至りました。

 山頂はじっとしていると少し寒く、小学生のボランティアさんに入れてもらった抹茶と多度豆をいただき、この山にだけ生える三本杉の不思議な現象の話も伺いました。帰りには葛山先生からケヤキ、エノキ、クスノキの葉の見分け方も教えていただきながら下山し、少し膝が痛くなりましたが、自然満喫の1日でした。

紅葉の説明をされる葛山先生 断層により砕かれ断ち切られた地層 登山道まで押し寄せるシダの群落

徳川美術館「幕末の残像〜尾張の殿様が撮った写真」展を見て報告 06/9/23

 9月22日、徳川美術館で開催中の「幕末の残像〜尾張の殿様が撮った写真〜」を観てきました。
尾張徳川家14代藩主徳川慶勝が撮った名古屋城内やその周辺の人々を撮った写真展です。最後の将軍徳川慶喜は晩年、写真を趣味にしていたことはよく知られていますが、尾張の慶勝も藩主時代から写真にのめりこんだ一人でした。

殿様だからこそ撮影できた名古屋城天守閣や本丸御殿の様子、自身をはじめ身の回りの人々の肖像写真、そして今は徳川美術館に収蔵されている調度類の当時の写真など慶勝自からシャッターを切った写真が展示されています。また江戸や京都、広島などの風景写真も見られます。慶勝の弟の桑名藩主松平定敬が藩主になった頃の写真や、同じく弟の会津藩主松平容保が京都守護職に就任した年の写真もあります。

これらの写真を見ているとリアルであるだけにその時代にタイムスリップしたような気がしてきます。写真だけでなく慶勝が蘭学者から聞き取った薬剤の調合法を記したメモなども残されています。尿から尿素を抽出する方法や、卵白を塗って印画紙を作る方法もなども記されています。これらの中には薬液をこぼした滲み痕も生々しいページもあります。藩主自らハイテク技術に悪戦苦闘している姿が偲ばれます。この展示会は10月1日まで開かれています。

三重県立博物館移動展示「桑名いま・むかし」展報告 06/7/27

 今日から三重県立博物館の移動展示「桑名いま・むかし」展がくわなメディアアライヴで始まりました。これは約23万点ある県立博物館の所蔵品を手狭な本拠地の津での展示だけでなく、もっと多くの人々に見てもらおうと今年から始まった展示会です。

 その手始めが桑名からで、「いま・むかし」といっても自然科学系の所蔵品が多い同館ですから太古の昔から現在までといった時間軸を大きく取った展示構成になっています。

 会場を入っての圧巻は原寸大のアケボノゾウの全身骨格模型やミエゾウの足跡化石で、こんなものが太古の昔には北勢地方にも住んでいたのかと驚いてしまいます。この他、さらにもっと昔に南方の海洋で生息していたフズリナやウミユリが大陸移動によってこの地方にまで運ばれ、その後地殻が隆起して現在藤原岳などの石灰岩中に化石となって見られる様子や、いま北勢地方で見られる昆虫や動・植物の標本類がたくさん出陳されています。

 いわゆる歴史に関する展示は「くわなの歴史 むかしの’みち’をたどってみよう」というテーマで桑名に関する名所図会や浮世絵版画、そして江戸時代の旅道具などが出陳されています。これらの中には桑名の城が攻められた場合の守りを図示した地図、広重の東海道五十三次の桑名から構図を借用した源頼朝の渡海図、一巻物の東海道分間絵図など珍しい資料があります。このほか桑名のハマグリにちなんで、東海地方最大の貝塚といわれる中縄遺跡の貝殻層の地層断面標本と出土土器などが桑名市教委から出陳されています。特に断面標本は堆積層の実断面を剥ぎ取ったもので畳1畳くらいの大きさがあり、一般に公開されるのは今回が初めてと思われます。必見です。

 今回の展示にあたっては小生もサポートスタッフとして展示飾り付け作業などに参加させていただきました。そしてひとにものを見てもらうための準備作業、特に博物館から外に持ち出しての展示がいかに大変なことかということが身にしみてわかりました。今回のアケボノゾウの組み立てなどは大変な労力がかかっています。ぜひ多くの人々に見に来ていただきたいと思います。
 この移動展示は8月6日(日)までです(8月1日(火)は休み)。
 移動展示は、このあとテーマを変えて志摩市、名張市、亀山市、熊野市で順次開催されます。

高塚山古墳出土埴輪展を見て 06/7/22

写真は桑名市教育委員会の許可を受けて掲載しています。無断転載・利用をお断りします。
円筒埴輪 朝顔形埴輪 盾形埴輪

 いま桑名市博物館で高塚山古墳出土埴輪展が開催されています。(9月10日まで、(月曜休み))
これは桑名市教育委員会が平成15年から3年間かけて行った保存に向けての基礎調査で出土した埴輪や土器を今回初めて展示したものです。

 この古墳は桑名市街西北の最も高い丘陵上に築かれた前方後円墳で、江戸時代には「丸山」とも呼ばれ風光明媚な遊覧の地として知られていました。古墳としては戦後、桑名高校地歴部の踏査で埴輪片が採集されたり、三重大学と共同で簡単な測量調査が行われたようですが、本格的に調査されるのは今回が初めてであり、その成果が期待されていました。

 会場に入り先ず驚いたのは想像以上に大きくて立派な埴輪が3点復元されて並んでいることです。5段構成で丸い透かし穴を持った高さ1m位の円筒埴輪。高さ70cm位の朝顔形埴輪の上部。やはり1m位の高さの盾形埴輪。盾面は入れ子状の矩形で区画され、外周に綾杉文が施されています。3点ともしっかりした造形で、丁寧な作りの埴輪です。畿内の古墳から出土したと言われてもおかしくないような埴輪です。

 今回は範囲確認の基礎調査であるため、トレンチが数箇所掘られただけのようですが、それでもこれだけ立派な埴輪が出てくるのですから、この古墳にはどんな被葬者が葬られているのでしょうか。
 出土品はこのほか表面に笊(ザル)の編み目が付いた土器片、小型器台、坩(かん)と呼ばれる底が丸い壷そして高坏などがあります。いずれも埴輪と同じ土師質(はじしつ)のものです。

 古墳の規模は試掘のほか地中レーダー探査も行った結果、全長56m、後円部径32m、前方部幅24mで、葺石や造り出し部などは今回の調査では検出されなかったようですが、遺物の大半はくびれ部周辺からの出土だそうです。築造年代は今回の出土遺物などから4世紀末から5世紀にかけての古墳時代中期初頭に位置づけられるとしています。

 高塚山古墳は現在私有地の竹林となっており、立ち入り難いこともあって古墳の場所さえ知らない市民がほとんどだと思います。桑名の黎明期を示すこれだけの歴史的遺産が眠っているのですから、ぜひ公有地化して保存・整備し、誰もが訪れることのできる史跡公園として公開してほしいと思います。

 なお、この展示会は子供の夏休み向け学習支援展示の一環として催されていて、埴輪の展示のほか「ちょっと昔のくらしと道具」というコーナーもあって、赤須賀の漁船や江戸時代の御座船の模型、昔の教科書や蓄音機、東海地方におけるグラフィックデザインの草分け神内生一郎の戦前の観光ポスターなどが展示されています。
 また、埴輪を中心にした展示解説が8月9日(水)・19日(土)・27日(日)午後2時から開催されます。

桑名市博物館展示説明会を聞いて 06/4/17

 4月15日、桑名市博物館で開催されている「花見にゆこう〜くわな華暦〜」展の展示説明会に行って来ました。学芸員による展示説明は他の博物館ではよくありますが、桑名市博物館ではおそらく初めての試みではないかと思います。

 学芸員さんは今回の展示は絵画、陶磁器といったカテゴリー別の展示ではなく、花を扱ったデザインいう視点で館蔵品のほかに近隣の他館や個人からも借用して構成したと展示の意図を説明されました。

 そして展示構成は最初に梅をテーマにした作品を持ってきたこと。日本では古くは花と言えば梅であったこと。桜と月を描いた田中訥言(とつげん)の絵の前では大和絵が帆山花乃舎へ伝わる過程を、今回諸戸会から出品された鈴木大麻の「桜堤」の絵の前では構図と描かれた時期についての話題、そして同名の題でコンドルの西洋館を描いた絵があること、加賀月華の花瓶の前では月華が板谷波山の影響下にあり、この作品も波山の作品のように絵付けの下に彫刻が施されていること、いつかは月華と師匠の波山の作品を並べて桑名で展示したいこと、そして2階の展示室に出品されている館蔵品の「洞仙」という銘のある大きな狩野派の屏風は、調査の結果秋田藩の佐竹家と関係のある津村洞仙の作品であること、これがなぜ桑名に伝来したのかについての謎解きの説明もありました。

 これらの説明を聞いてこの展覧会を企画した学芸員の思いがよく伝わり、仕事に対する愛着も感じられました。芸術作品を鑑賞するにはよけいな説明は要らない、自分の感性で見れば良いのだという意見もありますが、今回のような歴史的な作品については、やはり説明があった方がより深い鑑賞ができると思います。

 それにしても開始時間に集まった市民はわずか5名、途中から鑑賞に訪れた方も加わって終了時には10名ほどになっていましたが、これだけの内容の説明が聞けるのに全くもったいない話だと思います。小生も周りの人たちにもっとPRしたいと思います。
 この説明会は4月22日(土)午後2時からもう1度あり、展示替えを行った後半の5月27日(土)、6月3日(土)にも開催されます。

六華苑のバイオリンコンサート 06/4/15

 小HPの更新が遅れイベントニュースには掲載出来ませんでしたが、4月14日六華苑の洋館ロビーでバイオリンコンサートが開かれるというので出かけました。開演の20分ほど前に着きましたが、ロビーに並べられた30脚ほどの椅子はほぼ満席、後から来た人は座布団席になりました。

 演奏者はセントラル愛知交響楽団のコンサートマスター大久保ナオミさん。以前ここを見学した際に、この洋館で一度演奏してみたいと思われたようでそれが今回実現したのだそうです。演奏曲目は「愛の挨拶」や「ユーモレスク」、「チャルダッシュ」など誰もがよく知っている小品ばかりです。

 司会は夫君がされ、バイオリンの音は2階で聴くのが最上だと言われたので、小生は途中から階段の踊り場へ行って聴きました。なるほど響きが素晴らしく建物全体が楽器になったような雰囲気です。木造洋館は天井が高く弦の響きと良くマッチングするようです。休憩を挟み大久保さんは観客のリクエストにも応えられ、興に応じて食堂、2階のロビーなどでも弾かれました。

 楽器はアマティーという300年前にイタリアで作られた名器だそうです。300年前の楽器が約100年前の建物で演奏されるという試みです。弦の響きにうっとりする至福のひとときはあっという間に過ぎてしまいましたが、これだけの試みの演奏会が300円の入苑料だけで聴けるなんて桑名市民はなんて幸せなんだろうと思いました。
 このような演奏会は秋にも予定しているという苑の方のお話しなのでまた次回が楽しみです。

愛宕山城趾発掘調査現地説明会報告 06/3/13

 3月11日、愛宕山城跡現地説明会に行って来ました。矢田城跡(走井山公園)の隣の山で戦国時代の矢田城の出城として知られていた部分です。江戸時代に建てられた庚申碑がたくさん残っていました。桑名市街が一望に見渡せる絶景の場所柄から戦前には呑景楼という料理屋があったそうです。その後は荒れ果て松林と竹藪になっていましたが、ここが宅地開発されることになり、昨年の12月から緊急発掘調査されていました。

 説明会には200人近くの人が詰めかけました。これは平成8年の桑部城跡の現説の以来の人数だと思われ、中世城郭遺跡に対する関心の高さがうかがえます。小生は当初、部分的な発掘だろうと思っていましたが、現場に入ると大きく掘り出された土塁や空堀が目に飛び込みました。全く全面発掘の様相です。土塁は高さ約3m、堀も3m近くの深さがあり、また切岸も設けられ強固な守りの山城のようです。土塁の内側には郭の形がはっきりと浮かび上がっています。遺物には 中世城郭遺跡には付きものの天目茶碗や花瓶そして中国産の青磁や白磁も見られます。 また驚いたことに土師器の高坏や須恵器の子持器台そして碧玉製の管玉も見つかっています。付近に古墳があったことは間違いありません。

 また戦国時代の遺物には織田信長の時代以降に作られた物もあるようで、今までこの城は信長の北勢侵攻によって滅ぼされたとされてきましたが、疑問符が付くことになるのかも知れません。
 調査は3月末で終了し、土塁も削平され宅地化されてしまいます。桑部城と同じ運命をたどることになり全く残念なことです。でもこういう計画でもなければ発掘調査できなかったとも言え、複雑な思いです。なお、庚申碑は走井山公園に移設されるようです。
写真はここから

「幕末親子絆〜桑名・柏崎日記〜」を観て 06/2/26

 2月25日桑名演劇塾公演「幕末親子絆 桑名・柏崎日記」を観てきました。

 桑柏日記の内容をタテ糸に、父親が転勤辞令を受けた現代のサラリーマン一家の話ををヨコ糸に織り込んで、演劇として表現するには平板になってしまうような日記の内容を透し彫を見るように立体的に浮かび上がらせた構成になっていました。

 桑柏日記の部分はコラージュ風に展開されているので切り替えの暗転部分が多く、話を面白くするために日記にはないエピソードも挿入されていたりして、首を傾けてしまう部分も見られましたが、今の我々と180年前の先人の生活とを時代を超えて重ね合わせて考えてみることのできる演劇だったと思います。

 出演者は一般公募で決められたそうで、声の通りが悪くてセリフがよく聞こえないところもありましたが、皆なかなかの熱演だったと思います。水谷桑名市長も勝之助を七里の渡し場で見送る家老役で出演されておられました。
 この桑名演劇塾の公演は2年ごとに行われており、桑名の歴史に関係した演目を取り上げているので次回がまた楽しみです。

 小生は昼の部を見ましたが、夜の部は柏崎演劇研究会の「おとし文」という柏崎騒動を扱った番組も加わっていました。会場の入口でもらったプログラムを見て知ったのですが、柏崎騒動とは勝之助が柏崎陣屋勤めとなる2年前に起きた陣屋への切り込み事件だそうで、そんな中へ勝之助は行ったようです。広報ではこの劇については題名だけで内容については紹介されておらず、そうと分かっておれば夜の部のチケットを買ったのにと悔やまれました。

「聖武東遊〜騎馬軍団東へ〜」を観て 06/2/1

 1月29日、四日市市立博物館で開催中の「聖武東遊〜騎馬軍団東へ〜」を観てきました。この展覧会は久留倍遺跡の発見に併せて開催されたもので従来、聖武天皇が藤原博嗣の乱を避けるために起こした行動とされていた東国行幸について、考古学と文献史学の両方からスポットを当てて考えてみようとする展覧会です。

 内容は壬申の乱や倭姫命の巡幸までも遡り、各地の博物館や資料館からの出陳物が網羅され、四日市市博物館渾身の展覧会になっています。

 この博物館は開館当時はイベント業者の持ち込み企画のような展示会も見られましたが、今回は非常に充実した展示になっています。丁寧に観れば2時間はかかる展覧会です。古代史を通覧するにはまたとない機会で歴史・考古学ファンは必見です。また図録が展覧会に輪をかけて充実した内容となっています。

 なお当日はこの展覧会を企画された学芸員の方の講演がありましたが、開演10分前に満席になってしまいました。

久留倍遺跡現地説明会報告 06/1/31

 1月28日久留倍遺跡の現地説明会に行ってきました。今回の説明会は北勢バイパスの側道にかかる部分の発掘調査成果の公開で、この遺跡の調査の締めくくりとなるものです。

 今回の調査では概略次のことが分かりました。
@郡衙が作られる以前の弥生時代後期の竪穴住居跡や谷などの確認。以前の調査と併せると50棟以上になり弥生時代にはこの地に大規模な集落が営まれていたことが分かります。谷から鹿が描かれた土器が出土しました。
A弥生の集落を潰すような形で古墳時代後期の古墳群の確認。墳丘は削平されているが、周溝から内部に耳環を納めた須恵器が出土。
B郡衙の周辺施設(館、厨)の一部の確認。以前の調査で確認されていた建物の続きと新たな大型堀立柱建物1棟の発見。
C郡衙廃絶後の平安後期から鎌倉時代初頭の集落の一端の確認。溝で区画された木棺墓の中から舶載の青磁碗と小皿が出土。

 説明会には鈴鹿降ろしが吹き付ける寒い日にもかかわらず300人近くの考古ファンが詰めかけました。久留倍遺跡も今年度の文化庁の考古速報展に取り上げられたためか知名度が着実に上がってきているようです。しかし道路建設に伴う調査はこれで終わり、バイパスが遺跡の上を橋脚で跨ぐ形で通るようです。市では今年度中に国史跡の申請を行い、史跡公園として遺跡の保存を図ると言っています。しかし肝心の官衙遺跡部分の発掘調査を行うか否かについては未定のようです。いずれにしても天武天皇、あるいは聖武天皇がこの地から望んだかも知れない伊勢湾への眺望はかなり削がれてしまいます。このあたりのことの詳細については来る2月11日の久留倍遺跡シンポジウムに期待したいと思います。
写真はここから

2006年 明けましておめでとうございます 06/1/1

桑名春日神社の狛犬

 新年明けましておめでとうございます。このHP開設5年目のお正月を迎えることになりました。昨年は「東海道みちくさ」をコンテンツに加えることができました。現在、桑名歴史案内人の会の方の仕事で「多度・長島の史跡ガイドブック」を作る準備を進めており、この正月休みはその仕事に忙殺されています。完成した暁にはその成果を小HPにも取り入れたいと思っています。

 その他、桑名の西の方の史跡の紹介も加えたいと思い、写真取材はしてあるのですが原稿が進んでいません。「北勢の考古学」も2年間放りぱなしなのでなんとかしなければなりません。というわけで新年早々焦りを感じていますが、まあ今年もマイペースで進めますのでよろしくお願いします。

桑名市博物館「江戸のよそおい」展を観て 05/12/25

 12月25日桑名市博物館の「江戸のよそおい」展を観てきました。今回は平成に入ってから博物館に寄贈された1400点あまりのにものぼる松本、田中両コレクションの中から、江戸時代の雰囲気という切り口で書画、陶磁器、刀剣などをピックアップしたものです。

 中でも見ものは「博物館で初夢〜一富士・二鷹・三茄子〜」というテーマの特別展示で横山大観の富士、狩野派の雪渓の鷹図、作者不詳の茄子形花生(はないけ)が出品され季節感を表した展示になっていました(もっとも全て江戸時代の作品でという訳ではありませんが)。

 今秋、某新聞に展示のマンネリズムを書かれましたが、決してそんなことはない、少ない予算の中でいかに展示に工夫を凝らそうかと努力している学芸員の意気込みが伝わってきます。博物館で観覧者に訴えかけるのは作品、陳列方法、キャプションだと思いますが、今回は陳列方法が抜群、キャプションもルビが振ってあってわかりやすく、無料のわりには豪華なカラー印刷のリーフレットを見ればより詳しく作品の見どころが分かるという構成もよいと思いました。

 ただ、田中コレクションの中から弥生土器が1点展示されていましたが、作者不詳という表示には今回のテーマとの関連とともに違和感を覚えました。完形品で出土地不明の壺のため、考古資料ではなく美術品として見せたいためでしょうがおもわず笑ってしまいました。

「歴史案内人と歩く東海道」を案内して 05/11/29

11月27日(日)午後「歴史案内人と歩く東海道」を案内人として参加しました。
 当日観光案内所前へ集合された方は16名、観光案内所へたまたま立ち寄られて参加された方もあり、新聞等で積極的にPRしなかった割りには盛況だったと思います。

 案内人は5名。4人ずつの4グループに分かれて出発。11月末とは思えない暖かな日よりに恵まれて八間通りを桑名東海道の起点の七里の渡し跡まで一目散。七里の渡しでは新しく完成された幡龍櫓のミニ博物館を見学。歴史を語る公園ではちょうど大潮の満潮で桑名城で唯一残る石垣の堀が満々と水をたたえていました。石取会館を案内して吉津屋町では「桑名は仏壇屋さんが多いね」との声。新町、伝馬町を過ぎて本願寺の梅花仏鏡塔を案内している辺りで急に空が暗くなってきてぽつぽつと雨が、南の方の空は明るくて陽も差しているので大丈夫と矢田立場を過ぎ歩を進めましたが雨はかなり本降りになる様子。

 小生の案内したグループは四日市など市外から参加された方が多く、傘を用意されていましたが、小生を含めて桑名市内の人は雨具の用意が無く大福の了順寺で雨宿り、先発のグループから安永の大桑国道の横断地下道で雨宿り中との携帯連絡。帰りのバスの時間があるので少し小降りになってきたのを見計らって一路安永を目指し歩き始めると晴雲寺の辺りで雨はほとんど止み、「時雨蛤の名付け親の各務支考の史跡で雨に遭い、晴雲寺で文字通り晴れたね」と語り合いました。

 それにしても北勢地方の冬の天気は不安定なので街歩きには傘が必要なことを痛感しました。また雨の中で説明が不十分だった史跡や、入り道を間違えてしまった箇所など反省することが多い歴史案内でした。次回はもう少し規模を大きくして開けるといいなと思います。

「鏡よ鏡よ鏡さん−北伊勢の古鏡−」を見てきました 05/10/16

 10月16日、鈴鹿市考古博物館で開かれている「鏡よ鏡よ鏡さん−北伊勢の古鏡−」という特別展を見てきました。古墳から出土の鏡の展示会だろうと思って出かけたのですが、古墳時代の鏡ももちろんありますが、平安時代から江戸時代にかけての和鏡がたくさん出品されていました。

 桑名の関連では、多度経塚出土の30面の重文の鏡のうち5面と銅鈴、経筒容器、柚井遺跡出土の鏡と銅銭、鎮國守國神社所蔵の江戸時代の鏡5面、さらに相川町の道路工事で出土した江戸時代の柄鏡まで出ています。さすがに(伝)桑名市出土といわれ、熱海のMOA美術館所蔵の三角縁神獣鏡は実物大の写真出品となっていました。その説明文に4面が出土と伝えられ、1面が現存していないとありました。4面出土というのは初耳です。

 今日は展示の他、「伊勢湾をめぐる鏡の文化史」というテーマで京都国立博物館の久保智康先生の講演会がありました。その中で多度経塚出土の30面の鏡は多度式鏡と呼ばれ、日本の鏡が中国風のデザインから絵画風の和鏡へ移っていくプロセスがたどれること、和鏡には2羽の鳥が描かれるケースが多いのは、中世以降、鏡には男女の仲を繋ぎ止める役割があったことなど興味深いお話が聞けました。また蓬莱山としても信仰された熱田神宮に奉納されている室町時代の鏡が多数スライドで紹介されました。

 この展示会は12月11日までです(月曜休館)。


「いるるは走る」を読んで
 05/10/12

 小サイトの「東海道みちくさ」でも取り上げた渡部平太夫親子の「桑名日記・柏崎日記」を素材にした「いるるは走る」という本が新聞に紹介されていたので、早速買って読んでみました。

 作者は大塚篤子という京都在住の児童文学作家です。両親のお役替えで桑名に残された長男鐐之助を「いるる」という女の子に置き換え、身辺に起こる出来事や柏崎にいる顔も知らない父母や妹への憧憬を当時の子供の視点から描いたものです。

 エピソードは「桑名日記」から取られているようですが、最後の結末(これがこの本の題名になっています)など「日記」から離れた部分も多く、「天狗の子取り」など作者のイメージをふくらませたSF仕立てのファンタジーも感じられます。

 町人の祭りである石取祭に士族が参加したり、桑名の城下町には無い町名が出てきたり、地理上の設定や方言の使い方など不自然で気になるところもありますが、当時の人々にとって目に見えないものの力、伝染病などがいかに恐ろしいものであったかということが子供の目を通して伝わってきます。

 構成がしっかり組み立てられており、大人にも十分読み応えのある作品だと思いました。そして石倉欽二の手になるイラストも現代的で素晴らしいと思いました。

出版は小峰書店。この本は新聞に紹介されたためか現在、市内の書店ではほとんど売れ切れの状態のようです。

朝日町の古萬古窯跡保存されず 05/9/21

 今年5月に見つかった朝日町の古萬古登り窯跡が保存されないことになってしまいました。この窯跡は住宅団地造成工事に伴って発見されたもので、朝日町は当初、遺跡にかかる道路を迂回させて保存する方向に傾いていましたが、今月の町議会で町長はこの案を断念し、県への史跡指定の申請も取り下げることを発表しました。

 新聞報道によると保存には約4億2,600万円かかり、そのうち国、県からの補助金を見込んでも2億7,000万円の保存費用が必要で、財政事情から町議会の理解が得られないとの判断だそうです。

 団地開発による人口流入で保育園や小学校の増設を図らなければならず断念したとのことです。この窯跡は江戸時代中期の萬古焼の開祖沼波弄山の時代に遡るもので、萬古焼のルーツを示す遺跡でした。萬古焼の業界団体も保存を強く望んでいましたが、海外製品の流入に伴う不況で支援どころではなかったようです。

 住宅開発によって250年の時を隔てて発見され、住宅開発に伴う人口増への対応という理由によって貴重な遺跡がこの世から葬り去られてしまうことに何ともやりきれない思いがします。

縄生廃寺の出土品展 05/7/27

 今、朝日町歴史博物館で縄生廃寺の出土品展が開かれています。これは昨年の7月ドイツのマンハイムで「日本の考古 燭光の時代」展の展示作業中に破損してしまった重文の塔心礎納置品と唐三彩飾蓋が文化庁での修復が終わって里帰りして来たのに伴う展示です。

 特別展とは銘打ってはいませんが、普段は収蔵庫に収まっていて見ることのできない風鐸の破片や釘、そして塔を塗装するときに付いた朱の痕跡が残る瓦などが展示されています。肝心の修復された重文はガラス越しでは修復箇所は分からないほど見事に復元されています。

 展示はこのほか、瓦の作り方や、塔心礎の構造などが図解されています。また昭和61年の発見当時の新聞記事も拡大展示されています。普段見ることのできない遺物も多く、考古ファンは必見です。展示期間は8月30日までで、入場無料です。(月曜休館)

桑名の御木曳きまつり 05/6/10

 6月8日、桑名の御木曳きまつりを見てきました。平成25年(2013)に行われる第62回式年遷宮に向けて、木曽山中で切りだされた御神木を伊勢神宮へ届ける儀式です。

 すでに新聞報道されたように、3日と5日に長野県上松町と、岐阜県中津川市で切りだされた樹齢約300年の檜の丸太を上松の木は愛知県を経由し、中津川の木は岐阜県側を通り、桑名の住吉神社で合流するというものです。

 昔は船で木曽川を下って船頭平閘門を経て、七里の渡しまで来ていましたが、今は途中に堰があったりして、水運では不可能なので、トラック便になってしまいました。

 式年遷宮はこの前あったばかりで、まだ先の話だと思っていましたが、8年前から既に準備が始まるのですね。

 桑名では今回は23台の石取祭車が繰り出し出迎えました。南魚町の祭車が御神木を載せたトラックを先導し、その後を残りの祭車が随行するという形で、住吉神社から七里の渡しを経て春日神社までのお木曳きです。桑名の町は二ヶ月あまり早い石取祭の雰囲気に一変してしまいました。

 御神木は春日神社に一泊し、9日朝「皇大神宮(内宮)御用材」と「豊受大神宮(外宮)御用材」に積み分けられて、伊勢へと旅立ちました。
 写真はこちらから

宅地開発と自然破壊(古萬古窯跡発見について思う)05/5/21

 5月15日、どうしても聴いておきたいコンサートが四日市にあったので朝日町の現説には行くことができませんでした。

 それで前日にどんな現場か見ておこうと思って、小向神社裏の宅地造成地へ入って、あちこち探し歩きやっと見つけて写真を撮っていたら、現場監督に立ち入っては困ると怒られてしまいました。

現場の工事の進捗はめざましく、3月の現説の際に見た森有節の墓碑の上の樹木も刈られており、墓碑から急斜面を上った反対側真下に現場はありました。白梅の丘とかいう住宅地を造成するようで、開発の手は縄生廃寺跡のすぐ南まで及んでいて、小向の山の景観は一変してしまっています。

 怒られた腹いせにいうわけではありませんが、これは全くの自然破壊です。同じような宅地開発は多度町でも行われていて、南小山廃寺跡から多度ふるさと文学館にかけての丘陵の破壊も目を覆うばかりです。もっともこういう宅地開発などがなければ、今回のような遺跡も見つからなかったでのしょうが。

 そしてそう言う小生の住む大山田団地も、昔は国有の松林だった丘陵を大規模に切り開いて造成した街です。現代文明は自然を破壊する事でしか発展できないのでしょうか。 今、開催されている「愛・地球博」のテーマを思い考えさせられます。

 今回の発掘ですが、後日、朝日町の博物館から頂いた現説の資料によると、ここは室町時代の幕府の祈願所であった正治寺跡の伝承があり、遺跡分布図にも登録されていた所ですが、調査をしてみたら、室町時代に遡る遺構や遺物は出ずに、近世の登窯が確認されたということです。

 この窯跡はその構造や遺物から今年の3月に現説のあった名谷A遺跡、B遺跡より古く、沼波弄山が開いた古萬期に遡るものと考えられるそうです。

 窯の全長はおよそ12m、幅3.5mで9区の焼成室から成っているようです。天井は失われていますが、壁や床面はよく残っており、焼成室に段が設けられているそうです。遺物は、鍋や、土瓶、向付けなどの雑器が多く、「萬古」の刻印や、小堀遠州七窯の一つで京都の「朝日焼」によく似た印が押された陶器も出土しており、萬古焼の系譜を探る手がかりになるということです。

 この開発で発見された遺跡の内、保存されるのは有節萬古の名谷B遺跡のみで、今回の現場も住宅地になってしまいます。

怒られながら撮った写真はこちらです

三重大学久留倍遺跡発掘調査現地説明会報告 05/3/21

 3月20日、三重大学久留倍遺跡発掘調査現地説明会に行って来ました。これは三重大学人文学部考古学研究室が文部科学省の補助金を受けて、郡衙遺跡と見られる久留倍遺跡の周辺で市による調査がされていない南側の谷の部分を2月初めから調査していたものです。

 地形的に谷の部分だから上部の郡衙遺跡から捨てられた土器や、ひょっとして木簡でも出土するのではと期待されましたが、奈良時代の遺物は全く出土せず、弥生時代中期から後期と平安時代以降の遺物ばかりでした。

 弥生時代の遺物は市による一昨年の調査で集落跡が見つかっていることからそこからの流入が考えられます。平安時代の人々の痕跡はこの地域が伊勢神宮の神郡となっていく歴史と重なっているようです。

 当日は140人もの見学者が訪れました。発掘の指導に当たられた山中教授は、こんなに予測が見事に外れた現場も珍しい。このことは逆に郡衙遺跡に伴う遺物は反対側の北側の谷に捨てられている可能性が高くなった。来年度は北側の低地をぜひ掘ってみたいと言っておられました。

 説明会の後、山中教授の案内で近くの小山から久留倍遺跡本体の見学がありました。現地は遺跡保護のためブルーシートで覆われていましたが、伊勢湾が望める絶景の地に築かれた郡衙の地形的条件がよくわかりました。この上を北勢バイパスが高架で跨ぐとしたら、遺跡としては残ったとしても、遺跡からの眺望は全く変わってしまいます。なんとか地下式で実現できないかと思われます。
写真はここから

有節萬古窯現地説明会報告 05/3/16

現地説明会風景(B遺跡)

 3月13日、桑名の隣町、朝日町小向(おぶけ)で発見された森有節の萬古焼窯跡の現地説明会に行ってきました。

 現地は東芝三重工場とJRの線路の西側、小向神社背後の丘陵地で、平成13〜14年度の遺跡分布調査で陶器片が出ることから名谷(めんたに)A遺跡、B遺跡として登録されていた所です。

 今回、宅地造成に伴う範囲確認調査で窯跡が発見されました。両遺跡は谷を挟んで立地しており、A遺跡は有節の墓碑の南直下で、窯の近くに墓碑を建てたという伝承がありましたが、伝承どおり窯跡が発見されました。東向き斜面に築かれた登窯で下部は後世に壊されているようですが、上部4.2mほどが残っていました。

 B遺跡からは残存状態のよい大規模な登窯が出土しました。A遺跡から約20m離れた南斜面に築かれ、全長約17m、幅は推定で3.6mで燃焼室や、焼成室の奥壁の残存状況から、炎が次室に水平に通過するような横狭間(よこさま)構造を持った窯のようです。当初は古萬古の沼波弄山の窯跡かと思われましたが、天保7年銘の遺物の出土から、こちらも有節の窯であることが分かりました。

 A遺跡は宅地造成に伴う調整池になってしまうため消滅してしまいます。したがって今後、全面発掘される予定です。B遺跡は史跡公園として保存されるようです。

 当日は小雪の舞う寒い日でしたが、100人近くの見学者があり、NHKのTV取材も入りました。萬古焼の歴史を解明する上で貴重な発見です。
写真はここから

第2回久留倍遺跡シンポジウム報告 05/2/20

 2月19日、四日市の久留倍遺跡シンポジウムに行ってきました。この遺跡については、昨年9月に四日市市内で作家の永井路子さんを迎えて第1回目のシンポジウムが開催されました。今回は第2回目として地元の大矢知地内での開催です。講師は司会の三重大学の山中章先生を入れて3人という小規模なシンポジウムでしたが、雨の中、地元の住民を中心に300名近くの出席がありました。

 内容は、皇學館大学の岡田登先生から、「朝明評と大海人皇子」というテーマで日本書紀や万葉集などの文献資料にあらわれた壬申の乱や聖武天皇伊勢行幸と久留倍遺跡との関係が語られました。また三重大学の山田雄司先生からは「北伊勢と伊勢神宮」というテーマで遺跡が廃絶したあと、平安から鎌倉期にかけて、租庸調などの税を伊勢神宮に納める神郡の発達と変容についてお話しがありました。

 興味深かったのは岡田先生から出された、聖武天皇の行幸の折、丹比真人屋主が現在の志で神社付近で読んだという歌「万葉集」(1031)「後れにし人を偲はく四泥の崎木綿取り垂でてさきくとぞ思ふ」の後れにし人とは一般に解釈されているように都に残してきた作者の妻ではなくて、当時10歳であった大津皇子を指すのではないかという説。そして古地名の考察や、条里制の不整合から考えて「迹太川」とは海蔵川のことではないかというお話しでした。

 この久留倍遺跡は北勢バイパス予定地にかかっていて、市によって保存は決定しましたが、遺跡の上に橋脚を建てて高架でまたぐという案で、遺跡の全壊は免れるとしても東の伊勢湾を通して遠く伊勢、志摩方面を望む古代からの景観は大きく損なわれてしまいます。

 遺跡は文化庁が言うように、周辺環境と一体のものであり、古代の情景が目に見えるような保存が必要だと思います。なんとか道路を地中化して遺跡の完全保存ができないものかもう一度考え直す必要があると思います。

 シンポジウムの締めくくりでも言われましたが、万葉のふるさとと言えば、おおかたの人は畿内に目を向けるけれども、こんな身近なところに万葉集や日本書紀にゆかりのある史跡があるのだ、私たちが住んでいる場所はどんなところなのか、それを発見し、子孫に伝えて行く役割が、今に生きる我々に課せられているのではないかと思います。

 遺跡は一度破壊してしまったら永遠に取り戻すことは出来ません。目先の利便性や経済性に左右されてはなりません。そういう意味でこのような催しをもっともっと地元で開いて啓蒙してほしいと思いました。

久留倍遺跡について

住吉神社の初日の出

2005年 明けましておめでとうございます 05/1/1

 このHP「桑名歴史案内」も開設以来4年目のお正月を迎えることができました。その間、コンテンツを少しずつ増やして桑名市内の主要史跡を紹介してきましたが、昨年12月6日に桑名市と多度町、長島町が合併し新桑名市が誕生しました。それに伴ってこのHPのテリトリーも一挙に拡大することになりました。

 合併した2町はいずれも古い歴史を伴った地域です。多度大社、長島一向一揆の願証寺など紹介すべき史跡がたくさんあります。 旧桑名市の史跡もまだ十分に紹介し切れていないのに、また新たな仲間が増えて、どこから手を付けたものか正月早々思案に暮れていますが、昨年手を加えたくて出来なかった「北勢の考古学」を含めて、まあ、マイペースで手の付けられるところから始めていきたいと思っています。

揖斐・長良川河口クルーズに参加して 04/7/21

 7月17日、このほど木曽三川に就航した洋風遊覧船「トロワ・リヴェール」に試乗させて頂きました。この船は桑名市内東部商圏の商店主らが出資する(有)くわなリバークルーズが桑名を川から眺めることによって、もっと桑名の魅力をPRしようと、東京お台場で活躍していたディナー船をインターネットオークションで手に入れ、お金を出し合って就航させた遊覧船で、六華苑のデザインに合わせたという触れ込みの窓の大きな50人乗りの船です。トロワ・リヴェールとはフランス語で3つの川という意味です。

 当日は七里の渡しがまだ工事中なので伊勢大橋上流の上の輪乗船場を出発し、揖斐・長良川を国道1号の伊勢大橋、名四国道の揖斐・長良大橋、それに今度出来た伊勢湾岸道路の吊り橋、揖斐川橋をくぐって河口まで下り、また遡って長良川河口堰を見て帰港するという1時間半の行程です。

 桑名側の揖斐川の護岸は風致を考慮して石張りの工事がかなり進んでおり、江戸時代の石垣の復元とまでは行きませんが、なんとなくCG風の幾何学的な印象は残りますが、それなりにお城の雰囲気は感じられる護岸が出来つつあるようです。 ただ七里の渡しは護岸に閉じこめられて、海上からは水門の隙間からわずかにうかがえる程度です。海上から見る桑名の街は大きなビル(ほとんどがマンション)が建ち並んでいるのに改めて驚かされました。湾岸道路の吊り橋は伊勢大橋が老朽化してきた今、新しい桑名の河口のモニュメントと言えるかも知れません。

 帰りは長良川河口堰付近を通りましたが、堰から流れ落ちた水の色の悪さと、悪臭に辟易してしまいました。本当に利水になっているのでしょうか。

 河口から北上すると多度山が別名、鯨山といわれる意味がよく分かります。 大きな鯨の背中のような山が川を遡るに連れて近づいてきます。この様子は今も、昔も変わらない郷土の姿だと改めて認識できたクルーズでした。

 この遊覧船「トロワ・リヴェール」はさしあたって8月に入って長島温泉の花火大会の納涼遊覧船として活躍するそうです。

写真はここから

トロワ・リヴェールのHPはここから

久留倍遺跡現地説明会報告2 04/5/2

久留倍遺跡全景 4月25日四日市市大矢知町の久留倍(くるべ)遺跡現地説明会に行って来ました。昨年に続いて2回目の現説です。

 今回の収穫は昨年度見つかっていた総柱建物がさらに何棟かL字状に配置されて続いており、それらを囲む区画溝が見つかったことです。そしてその区画の西方には、正殿、脇殿とおぼしき建物、さらに法隆寺東大門と同じ柱配置の八脚門が東に方位軸を合わせた形で発見されました。

 このことから新聞紙上で朝明郡衙(あさけぐんが)の正倉院とか、聖武天皇が伊勢行幸の際に立ち寄ったとされる朝明頓宮との関係も報道されたため、400人あまりの見学者が訪れました。現地は近鉄富田駅の西方約1qの東に緩く傾斜した標高約30mの洪積丘陵上で、北勢バイパスの建設予定地にあたっています。

 このままで行くと2年後には正倉院跡を縦断する形で道路が建設されます。区画溝に囲まれた正倉院が発見された例は全国的にも珍しく、遺跡の規模や建物の配置などから注目すべき遺跡となりそうで、地元でも保存を望む声が上がっています。
写真はここから

「巷説桑名萬古焼 沼波弄山物語」を観て 04/2/29

 2月28日、桑名市民ホールで上演された「沼波弄山物語」を観てきました。萬古焼の開祖、沼波弄山の生涯を描いた演劇です。歴史書や沼波家の末裔沼波達成氏のお話をもとに脚本家の栗本英章氏が台本を書かれたそうで、博物館で弄山の作品を鑑賞する娘と老婆の対話を織り込みながらストーリーが展開する劇画風の構成になっています。

 プロジェクトX風のわざとらしい作為が感じられる場面も出てきますが、弄山の生涯と業績について啓蒙するわかりやすい良い演劇だったと思います。キャストは地元の劇団「すがお」と一般公募で選ばれたアマチュアの熱演です。市長さんも桑名から江戸の窯元へ土を届ける船主役として出演されました。

 音楽が出来合いの素材集を使っているためか、少し悲壮感が漂いすぎるように思いました。夜の部を観たのですが、座席は7割くらいが埋まっていました。ロビーに達成氏が出品された古萬古の写真パネルや、沼波家の系図、古文書の解説などが展示されており、興味を引かれました。

 桑名演劇塾実行委員会による創作戯曲の上演、次回は2年後で、桑名藩の下級武士の家族との交換日記「桑名日記」、「柏崎日記」をテーマにしたものを企画しているそうで、今から楽しみです。

志知南浦遺跡第2次現地説明会報告 04/1/17

 1月17日朝からの雪で、桑名市志知の南浦遺跡の現地説明会は中止となりましたが、遺物は昨年と同様現地事務所の中に展示しているというので見学に行ってきました。昨年度の現説も雨でお流れとなった遺跡です。

 今回は昨年度の東部分約2,200uの発掘調査で、鎌倉〜戦国時代にかけての周囲に区画溝を持つ屋敷地跡が見つかりました。屋敷地の中には堀立柱建物、井戸、お墓が見つかっています。お墓は火葬墓で胸に数枚のお金を抱くように埋葬してあったそうです。

 遺物は記号や「佛」、「僧」、「富」、「安」と書かれた墨書土器、硯、高級な青磁碗、天目茶碗、志摩式の製塩土器、土錘、加工が施された鹿の角、そしてふいごの羽口や鉄さい(鉄が溶けて固まったもの)も出土しています。

 昨年の調査区の下層には縄文時代の遺構があって現説後に石剣が出土して話題になりましたが、今年度の調査区からは縄文の遺物は見つかっていません。

 なおこの遺跡は員弁川のすぐそばにありますが、各時代を通して洪水の影響を受けた形跡はないようです。
 また、この遺跡の近くには、平安時代に平景清(たいらのかげきよ)と呼ばれる人物の屋敷があったという伝承地がありますが、この遺跡の屋敷跡とは時代的に離れており、直接の関係はないようです。写真はこちらから

明けましておめでとうございます 04/1/1

 明けましておめでとうございます。
 小HP昨年は5月に山辺の史跡、11月には諸戸氏庭園のページを増やすことが出来ました。

 今年は早々に市内中心部の史跡をアップするべく準備を進めています。次いで北勢の考古学に新しいコンテンツを入れたいと考えています。また、東海道の史跡にも追加したい項目が出てきています。写真も入れ替えたいものがいくつかあります。そして何よりも地図を充実させなければなりません。

 やることはたくさんありますが、マイペースでやって行きます。まあ、少しはご期待ください。


七和廃寺発掘調査現地説明会の報告 03/11/30

 11月30日、市内森忠にある七和廃寺の発掘調査現地説明会に行って来ました。前日に開催される予定でしたが、雨で一日延期になりました。当日も明け方まで雨で、遺構が浸水して見られないのではないかと心配しましたが、市教委のご努力で開催できました。

 七和廃寺は平安時代の寺院と伝えられ、これまで表面採集で瓦や須恵器の破片が見つかっていたそうです。今回はここに宅地が造成されるための緊急発掘調査です。この遺跡の本格的な発掘調査が行われるのは今回が初めだそうで、調査面積は1300平米あります。

 今回の発掘では残念ながら寺院の遺構は見つかりませんでしたが、複数の竪穴住居や区画のためと考えられる溝や、様々な柱穴が検出されました。遺物は主に包含層から6〜7世紀にかけての須恵器や土師器、それに川魚捕りに使ったと考えられる小さな土錘が、 竪穴住居からは煮炊きに使ったと考えられる土師器の甕が出土しています。

 調査地は笠坊谷という地名で、また地元ではこの付近を「ヤマデラ」、「テラヤシキ」とも呼ぶそうで、今回の調査では出土しませんでしたが、かつて古代瓦が表面採集されていることから、市教委では今回見つかった遺構は寺院の周辺の集落、もしくは寺院に先行する集落と考えられるとしています。

 この遺跡の立地は額田廃寺同様、員弁川を見下ろす標高45mほどの丘陵上です。付近はまだ雑木林や畑がかなり残っており、七和廃寺の伽藍はこれらのどこかにいまだ眠っているのでしょうか。

遺跡全景
右側ピンク色ののテープ内が竪穴住居、床面に焦げ跡あり。
中央の細長い水溜まりは区画溝か。
遺物
6〜7世紀の須恵器や土師器
下列右側の箱の中上方に小さな土錘が見える

「くわな」まちづくりブックの紹介 03/8/6

表紙写真
伊勢大橋から見た桑名市街、画像加工によって正面に多度山が見える

 このほど「まちづくり極意くわな流」という本が出版されました。これは市民参加型の町づくりを目指そうと市の肝煎で組織された?「蛤倶楽部」というグループによって作られた本です。

 この本の説明によると「蛤倶楽部」とは、桑名が大好きという市民、歴史家、市役所の職員、都市計画の実務家、建築家、大学の先生、デザイナーなどで構成された集まりで、2000年の年末からミーティングを開始し、1〜2ヶ月に1度、夕方から終電まで議論を積み重ね、時には実際にまち歩きをしたり、桑名に住むいろいろな人にインタビューも重ねて作られたそうです。

 内容は1.桑名にみる暮らしの豊かさ、2.「石取祭」とまちづくり、3.桑名まちづくり物語史、4.まちづくり極意、5.まちを識る術、の5章からなり、桑名のまちの特色、歴史、文化、そしてそれらを踏まえた上でのこれからのまちづくりの方向と市民への参加の呼びかけが熱っぽく、しかし専門用語を使わず分りやすい言葉で語られています。

 この本は写真やイラストも豊富で編集デザインも完成度が高く、特に地図の扱いが見事だと思います。また、巻末に「桑名の千羽鶴」の型紙が付いているのもうれしい企画です。ただ本のタイトルが内容を端的に表すとこういう事になるのだろうけれど、もうひと工夫ほしいと思いました。

 また本の出版だけで終わらせず、「蛤倶楽部」はHPも持っており、新しい情報やデータはそちらに盛り込まれるようです。なおリンク集には小HPへのリンクも設定されています。
 この本は桑名市内の書店のほか、名古屋市内の主要書店にも置いてあるようです。(発行:中日出版社、定価1,200円+税)

「蛤倶楽部」のHPはこちらから

「スパイ・ゾルゲ」に六華苑登場 03/7/5

 六華苑で一部のロケが行われた篠田正浩監督の映画「スパイ・ゾルゲ」を先日見てきました。上映時間3時間有余の長い映画ですが、六華苑が主として近衛文麿邸として登場します。

 正面車寄せや、二階サンルーム、和館一の間、畳廊下などで撮影が行われたようです。一の間は近衛文麿が自害して寝かされている部屋として出てきます。さらに驚いたことには洋館の食堂がなんと天皇の御座所に想定されており、東条英機らの上奏を受ける場として登場します。

 この映画は太平洋戦争直前に日本とドイツの軍事機密情報を盗み出し、モスクワに送り続けたソ連のスパイ、ゾルゲとその協力者尾崎秀実らが関係する「ゾルゲ事件」をテーマにしたものです。

 篠田正浩監督の最後の作品という触れ込みで、20億円の予算と上海、ベルリンのほか日本各地でのロケ、それに実写では再現不可能な戦前の都内の風景は3次元CGを組み合わせて作られています。キャストはイギリスの舞台俳優イアン・グレン、本木雅弘、葉月里緒菜、夏川結衣などで、特にグレンの演技はよかったと思います。また30年代のアメリカ車やベンツ、BMWのオートバイなども登場します。

 いまどき3時間の映画は長く、衣装デザインなど不自然な作り込みも目に付きますが、日本が破滅に向かって進んでいた時代背景など、戦争を体感していない世代にはいろんなことを考えさせる映画です。
 

映画「スパイ・ゾルゲ」の公式HPはここから

四日市市博物館特別展「仏像東漸」を観て 03/5/25

 5月24日、四日市市博物館で開催中の展覧会「仏像東漸」を観てきました。この展覧会は当館の開館10周年記念展で、インドから中国大陸を経て、朝鮮半島から我が国に伝わった仏教が、国内をさらに東に伝播していく過程で重要な位置を占めた伊賀・伊勢の国にスポットを当てこの地方が仏教美術に果たした役割を考えてみようという展覧会です。

 会場には三重県下を中心とした重文27点を含む主要な仏像約100体が集められており、荘厳で壮観な展覧会です。近年白鳳仏であることが分かった伊賀の見徳寺の薬師如来像も当館へ3度目の出陳だそうです。

 桑名からは勧学寺の千手観音像と額田廃寺出土の專仏が出陳されていました。勧学寺の千手観音は普段は拝観できない仏像ですが、ここでは間近に拝観することができます。しかも壁面が格子になっているので背面の様子も分かります。

 このほか亀山の不動院に伝わる2m近くもある不動明王像の断片や、江戸時代に制作された鞘仏と呼ばれる仏像の胎内に安置されていた久居善応寺の鎌倉時代の阿弥陀如来像があります。県下にあるこれだけの仏像が一堂に会するのはこれが最初で最後かも知れません。

 ただ今回の企画の意図である仏教が東漸する過程での伊賀・伊勢の位置づけが展示では説明不足で、門外漢には分からないのではないかと思われました。図録には詳しく説明されていますが。

 展示を見終わって、学芸員による「仏像の見方」という講座があるというので会場へ行ってみたら、満員の盛況です。通路にも入りきれないので係の人がモニター室を解放してくれました。そこでガラス戸越しに聴きましたが、巷に溢れるハウ・トゥだけに終わらず、学芸員の企業秘密や仏像の見分け方を戦闘機のそれに例えて、形式と個性の違いを説明するなど大変興味深い内容でした。

なお、この展覧会は6月1日(日)までです(月曜休館)。

蟠龍櫓の復元に思う 03/4/6

 七里の渡し跡の隣に桑名城の蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)が鉄筋コンクリートで復元されました。これは防潮堤で揖斐川と隔絶されてしまった七里の渡し跡の正面とその付近にある水門を一括して遠隔操作する統合管理所として建設されたものです。国土交通省と桑名市はこの施設の建設にあたって、景観整備の見地から、外観を広重の版画に描かれているような隅櫓に模して完成させました。

 場所は当時の絵地図で蟠龍櫓(天に昇る前のうずくまった龍が鬼瓦の上に据えられていたため、水に映るその影におびえてこの櫓の下には魚が寄りつかなかったと言われています)のあったとされる一画です。

 復元にあたっては、昔の絵図や幕末に描かれた三代目広重による東海道改正道中記(これまであまり知られていませんでした)なる絵画資料も動員され、相当の考証のもとに再現されたようです。石垣も復元され、外観からは機械が入っている建物とは思えない出来映えです。
 地下1階、地上2階建で、2階部分は桑名城の歴史を紹介するミニ展示室兼展望室になっています。七里の渡し跡が川から隔絶されて景観が損なわれてしまったため、せめてもの罪滅ぼしの意味で復元されたのかも知れません。

 この建物は少し上流の六華苑のあたりから見ると七里の渡しを示す良いランドマークになっています。しかし行ってみると七里の渡し跡の前には大きな堤防と水門がそびえ、渡し跡は縮こまっています。その横にこの建物が申し訳のように建っているわけです。
 しかしここまで史跡の景観を破壊してしまうなら、昔の建物の一部の復元ではなく、むしろ新しい景観美になるような造形でも良かったのではないかと思います。川の眺めを期待して2階部分に上がると展望室とは言うものの、城郭の防護施設の復元であるために窓は少なく、しかも格子窓であるため、眺望はほとんどききません。

 この場所は七里の渡しの隣にある旅館のキャッチフレーズにもあるように川を縦に眺めることの出来る絶景の場所です。この地の利を生かした展望室を持ったモニュメントというのは無いものねだりでしょうか。

七里の渡し跡から見た蟠龍櫓1階と地下が水門
操作室、2階が展示室兼展望室
蟠龍瓦 防潮堤建設の発端となった
長良川河口堰を睨んでいます
七里の渡し跡の眼前にそびえる堤防と水門
景観に配慮して堤防上部からの突出物をなくした
構造だそうです

近鉄ハイキング「桜の森と竹トンネル散歩道」に参加して 03/3/30

 3月29日、近鉄桑名駅主催の桑名の西方丘陵地(小HPの山辺の史跡)を歩く約7Kmのハイキングに参加しました。参加者はそれほど多くはなかったようですが、照源寺、土仏山、式部泉、笹山溜池、増田神社、太夫の大樟、冷水庵、御膳水、走井山、大福田寺という古刹、竹林、桜がテーマの今の季節に絶好のコースでした。

 ところが駅西口で1枚のイラスト地図を渡されただけで、コース途中には道案内の矢印標識も出ておらず、道に迷う人が続出。途中から帰ってしまうグループもあったようです。

 特に土仏山から式部泉を抜けて笹山溜池までは途中に鬱蒼とした竹林があって、単独ではこの道を本当に進んでよいのか不安になるような箇所があったり、増田神社、冷水庵付近の入り組んだ道は矢印なしでは桑名の人でも歩ける人は少ないのではないでしょうか。
 小生も僭越ながら名古屋や稲沢から来たというおばさんのグループを案内して喜ばれました。 

 帰りに駅で助役さんに聞いたら、今まで駅主催のハイキングには矢印標識は人手がかかるので出していなかったが、検討したいとの話でした。
 先週のJRのさわやかウォーク(こちらは矢印は完備していました)もそうですが、このような行事は駅の片手間でやろうとせず、市観光協会なり、歴史の案内人の組織などと連携して開催すれば、もっと良いイベントになったのではと思いました。

JR東海 春のさわやかウォーキング「七里の渡し跡と九華公園」に参加して 03/3/23

安永の旧東海道を歩くウォーカー

 3月22日、JRさわやかウォーキングに参加しました。朝から曇り空で、あまりさわやかな空模様ではありませんでしたが、家の窓から鈴鹿の山々がかすかに見えていたので午前中ぐらいは大丈夫だと思って桑名駅へ駆けつけました。駅では関西線の列車が着くたびに改札口からリュックを背負った一団がはき出されてきます。さすがにJRの宣伝力は大きいなと思いました。これまで桑名では近鉄のウォーキングはよく開催されていましたがJRのさわやかウォーキングは初の開催です。受付で案内地図をもらっていざ出発です。

 桑名駅から線路沿いの道を矢田立場まで南下し、そこから安永の常夜灯まで旧東海道を進みます。参加者は歩き慣れた人が多いようで、早足でさっさと歩かれます。矢田立場も含めて街道沿いには了順寺、城南神社、晴雲寺など史跡も多いのですが、地図に表示してないためか、立ち寄る人は少なく、ただひたすら歩く雰囲気です。安永立場の小公園のベンチで小休止。

 ここからは国道一号線に入り相川交差点まで戻って、市街地を東進、伝馬町でまた旧東海道に合流して森陳明の墓所、十念寺に立ち寄ります。十念寺は地図でも経由地になっていたため参拝する人が多かったようです。隣の萬古焼きの開祖、沼波弄山の墓がある光徳寺は彼岸桜が満開でしたが、奥の方にあるためか気付く人は少ないようでした。コースはここからまた東海道を離れ、並行する広い県道を京町の市博物館へ向かいます。博物館はWCの指定地になっているため立ち寄る人が多く、11時過ぎで300人以上が入館したようです。しかし近くにある石取会館はトイレがあるにもかかわらず閑散としていました。

 会館を出たら小雨がパラパラ。 桑名城の石垣に沿った歴史を語る公園を横目で見て九華公園へ、園内は広いため参加者は方々に拡散しているようです。コースはさらに芝生のコミュニティパークを横切って七里の渡し跡へ、ここは今、眼前に大きな締め切り堤が出来上がりつつあります。また桑名城の隅櫓を模した水門管理所も姿を現しています。この建物は新聞報道によれば展望室や展示室もあり、2日後にオープンだそうですが、このウォーキングと連動できなかったのかと悔やまれます。雨が降り出し、七里の渡し跡へ降りる人はまばらで、先を急ぐ人が多いようでした。

 コースはここから住吉神社へとなっていましたが、この神社は現在、解体されて河川改修工事の現場となっており立ち寄れないので、西諸戸邸前を経て桑名の新名所として整備された赤煉瓦の河堀沿いに八間通りへ出て、薩摩義士の墓所のある海蔵寺へ向かいました。 しかしここも雨の影響で境内へ入る人は少なく、門前から参拝して桑名駅へゴールしてしまいした。

 久しぶりに10Km近くを歩いて少々疲れました。所要時間は途中で写真を撮ったりしたので3時間以上かかりました。全体的にこのウォークは史跡を楽しむというよりも、ひたすら歩くという印象です。

 JRは道路に矢印の標識や旗を設置するなどして力を入れていますが、地元の受け入れ態勢が全くありません。例えば安永立場や七里の渡し跡などに安永餅や焼き蛤の店でも出ていればもう少しゆっくり楽しめるウォーキングになったと思われます。また歴史の案内人によるガイドも加わってもよいでしょう。先述した隅櫓のオープニングも含めて、JRと地元の観光協会との協働が必要だと思われます。

 旧東海道の見所を大幅にはずしたコース設定も検討を要すると思います。いっそのこと山の辺を加えたらどうでしょう。あるいは朝日駅から旧東海道沿いに七里の渡し跡までというコースも考えられます。

 また参加者に手渡されるイラスト地図も毎回思うのですが、イメージ図の要素が強すぎて史跡や川の位置などもう少し正確性がほしいとおもいます。 ともかく桑名で初開催のさわやかウォーキング、秋期もぜひ開催していただきたいと思います。

NHK人間講座「風景を愉しむ風景を創る」の紹介 03/3/16

 紹介するのが遅くなってしまいましたが、NHK教育テレビの人間講座「風景を愉しむ風景を創る」と言う番組がなかなかおもしろいと思います。我々が何気なく見ている風景でも陸上から、川から、上空からなど 視点の移動や見る距離によって全く違ったものに見えてくる。風景は入れ子構造になっている。風景には枠がない。人は自分の視点と視線で風景を創り出しながら愉しんでいる。回遊庭園としての国土。高速道路とランドマーク。風景の共有と参加などこれまで思ってもみなかった角度から風景論が展開されています。(講師は東工大名誉教授中村良夫先生)
 これからの歴史景観や環境を考える上でも、ここで紹介されているような視点が大変重要になってくると思われます。

 この番組は2月、3月の毎週水曜日の午後11時からで、もうほとんど終わりに近いのですが、再々放送を翌月土曜日の午前2時15分から行っていますので、今だと第4回から視ることができます。なお、余談ですが同講座の永六輔さんの「人はなぜ歌うか」も意表を突く視点と語り口で見逃せません。

久留培遺跡現地説明会報告 03/2/5

遺跡全景
遺跡中腹から東方を望む。沖積平野から丘陵に移る部分に立地しています。当時の海岸線は遠くに見える市街地付近にあったと思われます。

 2月1日、四日市市大矢知町の久留培(くるべ)遺跡の現地説明会に行ってきました。場所は大矢知町の垂坂丘陵の東斜面(県道402員弁四日市線沿い一号館大矢知店の南方丘陵)で古くから遺物が多く採集されていました。ここに北勢バイパスが通ることになり、平成13年から四日市市教育委員会によって発掘調査が進められてきました。調査面積は12,600uでこれまでの市教委の発掘では最大の広さだそうです。見つかった主な遺構や遺物は次のとおりです。

@横穴式石室を有する削平された古墳1基(古墳時代終末期・7世紀)
 石室内からは副葬品である須恵器の杯・高杯・壺、小玉、管玉、鉄鏃が出土。
A木棺墓1基(古墳時代終末期・7世紀)
 鉄製の大刀(たち)1振りが出土。完形品での出土は市内で2例目。
B掘立柱建物18棟以上(奈良時代)
 その一部は大型で方位を揃えて計画的に建てられていること、やや時代は下るものの溝に取り囲まれた正倉(税としての稲などを納めた国有の稲倉)と考えられる総柱の掘立柱建物を伴うことから、律令制下の豪族の居宅あるいは郡か郷(当時は朝明郡訓覇(くるべ)郷)の役所と思われます。
C弥生時代中期の木製品
 鍬などの農耕具、鉢・高杯・液体をすくう杓子などの木器、弓、杭などが出土。木製品の出土も市内で2例目。   
Dその他
 弥生時代中期〜奈良時代までの竪穴住居や弥生時代後期(3世紀頃)の方形周溝墓、それらに伴う多量の土器・石器などが見つかっています。

 以上のことからこの遺跡は弥生時代中期〜奈良時代まで集落が断続的に営まれてきたようです。丘陵東斜面のふもとには弥生時代後期(3世紀頃)に墓域が造られ、古墳時代終末期(7世紀頃)になると丘陵の頂に地方豪族により古墳や大刀を納めた墓が築かれる。律令制が整った奈良時代には、丘陵東斜面に豪族の居宅あるいは役所が築かれたとみられます。

 当日は前日の寒さも収まり風もなく穏やかな日だったので、300人以上の見学者が訪れました。調査は来年度も継続されるようですので新しい発見が期待されます。
写真はここから

宇宙塾「キトラ古墳の謎」報告 03/1/26

 1月26日、四日市市博物館のプラネタリウム宇宙塾「キトラ古墳の謎」に行って来ました。この催しは同館で開催中の「飛鳥・藤原京展」に併せたもので、講師は中国科学史、天文学史が専門でキトラ古墳の星宿図の解明に携わられた同志社大学の宮島一彦教授です。

 キトラ古墳の天井に描かれた星宿図は星を金色の点で、朱で結んだ線で星座を表したもので、四季を通じて地平線に沈むことのない北天の領域(内規)、天の赤道、見える星空の範囲(外規)を示す3つの同心円と太陽が季節によって星座の間を移動して行く道筋(黄道)が描かれています。中国では星座を地上の社会制度になぞらえており、皇帝を頂点とした官僚組織とか、生活用具、建物、役所など地上にあるものはなんでも天にあるという考え方で星座が作られ、星空の異変は地上の異変の反映であるとされたそうです。キトラ古墳の星宿図は13世紀の南宋の星宿図とよく合っていますが、それよりも500年も遡るものです。

 講演ではエジプトや、ミャンマーなど他の文化圏の星座の紹介や、北極点と内規の円の大きさから原図が制作されたのは北緯38〜39度の地域で、おそらく高句麗の首都平壌ではないかという推定や、デジタルカメラによる調査で天井に星宿図があることが分かってTVのビデオを何度も再生して参宿(しんしゅく)と呼ばれるオリオン座と、市場を表す軍市(ぐんし)の円形を見つけたものの、黄道が赤道と交わる春分点と秋分点の位置が歳差運動による移動を考慮してもおかしいので、記者発表がヒヤヒヤものだったなど裏ばなしも聞けました。これはおそらく当時の画工のトレスミスのようで、キトラ古墳の星宿図はかなり忠実に中国の星宿図を再現しているものの、隣同士の星座が入れ替わっていたりするミスも混じっており、星座の位置を理解しないまま描き上げた面もうかがえるようです。

 講演はコンピュータ制御のプラネタリウムの機能をフルに使った星空での説明も入り、楽しめる1時間半でした。なお同プラネタリウムでは3月9日まで、冬の星座と「キトラ古墳の夜」というテーマで一般投影を行っています(水曜休館)。


明けましておめでとうございます 03/1/1

  「桑名歴史案内」開設2年目の春を迎えました。昨年はパソコンをXpに切り替えたら、TAの設定などにつまずいたりして時間を取られ、コンテンツを増やすことができませんでした。今年はハードにはかまうことなく、桑名西方丘陵地の史跡の紹介や、「北勢の考古学」などコンテンツの充実を図りたいと思っています。

 年末に三重県立博物館主催の「養老断層と東海層群を見る」研修会に参加しました。養老断層は数10万年単位で垂直に動いて現在の地形ができたのだそうで、海津橋あたりから見る養老山脈は、教科書に取り上げられるほど典型的な断層地形をあらわしているそうです。それに続く桑名断層は、県道多度四日市線の力尾付近では水平に堆積した地層が垂直にそそり立っている露頭も見られ、地殻変動の力の大きさを知ることができました。

 そして今までこれらの地層は今から200万年前の東海湖と呼ばれる大きな湖に堆積したものだと言われてきましたが、最近の学説では琵琶湖や海外の湖沼の研究から、湖の底に貯まったものではなく、のたうちまわる巨大な河川の堆積物だと言われはじめていることです。東海地方の多くの街の市史、町史には最初に東海湖の話が出てきますが、見直しが必要な時代になってきたようです。

 地質学など人間の感覚をはるかに越えたスケールの時間を相手にする学問は、時代とともに解釈が変化してくるようです。もっとも歴史や考古学でも同じ様なことは言えますが。

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