TopNovel>世界の果てまで追いかけて・3




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 楓さまにそっくりな彼女に射るように見つめられて動けなくなっていたあたし。その耳に次に届いたのは渡り廊下を進んでくる慌てた足音だった。
「莉子ちゃんっ、ちょっと待って―― 」
  振り向かなくてもわかる、その声の主は「本物の」楓さまだった。しかも、かなり気が動転しているらしく、声が普通に男の子に戻っている。
「あら、楓。ずいぶんと早い登場ね」
  その姿をこぼれそうな瞳に映した彼女は悠然と微笑むと、こちらに向かってゆっくりと歩き始めた。何でコツコツ靴音がするのかと思ったら、何故かこの人って土足厳禁の校舎内なのに革靴を履いてるの。
「―― 葵(あおい)」
  楓さまの低い声が絞り出されるそのころには、彼女はもうあたしたちの横を通り過ぎるところだった。
「葵、いったい莉子ちゃんに何を言ったんだ? だいたい君がこの学園に編入するなんて話、俺はひとことだって聞いてなかったぞ」
  どうもふたりは元からの知り合いみたい。……そうだよね、こんなに似てるんだもの。全くの別人って方が納得いかない。
「あら、それは当然よ」
  動揺する楓さまに対して、彼女は落ち着き払った態度のまま。これだけのやりとりでふたりの力関係があたしにもはっきりわかった。
「ほんの数時間前に決めたことだもの、もう編入の手続きもすべて終わってるわ。衛と楓には事後報告で構わないと思ったの。良かった、伝える手間が省けたわ」
  高い靴音が連絡通路に響いている。それがだんだん遠ざかっていくのと引き替えに、雨音はますます強くなっていった。

「大丈夫、莉子ちゃん」
  そうやって訊ねてくる楓さまの方が、全然大丈夫じゃない感じ。声が大きく震えていて、今まであたしが知っている中で一番取り乱している。
「とにかくいつまでこんなところにいても仕方ないよ。とにかく帰ろう、今日はご自宅まで送るから」
  のろのろと頷くことしかできないあたし。頭の中がショートしたみたいに真っ白になっていて、何の感情も浮かんでこない。たぶん、それくらいびっくりしているってことだ。
  さあ、とあたしを促すために肩に置かれた楓の手がぞっとするほど冷たい。そのことで目の前で起こった今の全てが本物だって、改めて実感させられていた。

「葵は衛や俺の従妹、こっちでは莉子ちゃんと同じ学年になる。でもずっとフランスに行ったっきりだったから、実はもう何年も顔を見てなかったんだ」
  姿はあくまでも「楓さま」なのに、すっかりと演技のことを忘れている。それくらい今起こったばかりのすべてのことがこの人にとってショックだったということだ。
  だけど、あたしもそのことを指摘する元気なんてない。たぶん、目の前におばけが現れたってこれほどは驚かなかったと思うよ。
「フランスって、ご両親の仕事の都合とかそういうので?」
  信じられないほど、普通に質問できてる自分に驚いていた。楓さまはそんな私を見つめて首を横に振る。
「ううん、葵はプロのピアニストになることを希望していてね。小学校を卒業する頃には国内の指導者じゃ物足りなくなって、知り合いを頼ってあっちに移ったんだ。その後何度か大きなコンクールで入賞したって聞いてる」
  あたしたちの足下には、それぞれ丸い傘の陰が落ちている。頭上から聞こえるバラバラと乱暴な雨音、傘の柄を持つ手が大きく震えた。
「ふうん、すごい人なんだね。さすが大王や楓の身内だ」
  ピアニストとしての将来が約束されていて、しかも数種類の外国語を自在に操るバイリンガル。あの勝ち気そうな話しぶりからも、かなり頭が良さそうだなとわかる。しかも、ものすごい美人。
  何かもう……びっくりだ。
「莉子ちゃんが出て行ったあとに衛から連絡が入って、それで慌ててあとを追いかけたんだ。でも、ちょっと遅かったみたいだね」
  楓さまが何を気にしているのかは、なんとなくわかっていた。それはたぶん、彼が聞きそびれたあたしと「彼女」の会話。一体、どれくらいの情報があたしに渡ったのか、それがわからないから困ってるんだと思う。
「遅いって、何が?」
  そんな風に聞くつもりなかったのに、気がついたらすごくつんつんした声が出ていた。
「だって、あの葵さんって人、この学園に編入してきたんでしょ? あたしと同じ二年生だし、この先は顔を合わせる機会なんていくらでもあるよ」
  そうだよ、そう。大王や楓さまに続く「高宮軍団」がもうひとり増えただけ。そうやって考えればいいはずなのに、どうしてこんなに嫌な気分になっているんだろ。
「ま、まあ……それは莉子ちゃんの言うとおりだけどね」
  一瞬、雨音が止む。と思ったら、ちょうどあたしたちは枝を生い茂らせた並木の下を通っているところだった。
「今回の葵の行動はとにかく意味不明だったから。詳しいことはこれから本人に聞いてみないと何とも言えないけど、あっちの学校での課程もまだ残ってるはずだし、こんな時期に帰国なんてあり得ないんだ」
  交差点に来て、並木が切れた。また傘に雨粒の落ちる震動が伝わってくる。
「あの人、あたしと大王のことを知ってるみたいだった」
  刹那、楓さまがごくっと喉を鳴らした。だけど何も答えない、まるで言葉というものをこの瞬間に全て忘れてしまったみたいに。
  この雨は、止まない。
  その後のふたりは、あたしの家の前にたどり着くまでずっと無言で過ごしていた。

 翌日。寝不足の重い頭のままでのろのろ登校すると、学校内は騒然とした空気に包まれていた。
「ねえねえ、莉子! もう聞いた? 隣のクラスに編入生が来るんだって。こんな時期にやって来ること自体が珍しいのに、しかもその人ってただ者じゃないみたいだよ!」
  教室に入るやいなや、早紀がものすごい形相で飛びついてきた。
「さっき、プリントを届けに行った委員長が学園長室に入っていく彼女の姿をちらっと見たんだって! それがもう楓さまもびっくりの超美少女! その上フランス帰りのバイリンガル才女ってすごすぎだよ……!」
  すっかりと浮き足立っている級友を前に、一体どんな反応をしたらいいものなのかわからない。だけど舞い上がっている早紀はそんな私のことなんて気にも留めてないみたい、そのことに心底ホッとする。
  もちろん、突然舞い込んできたニュースに騒いでいるのは彼女ひとりじゃない。学園内は全てその話で持ちきりになっていた。
  ―― やっぱり、幻だったとかじゃないんだ。
  薄暗い廊下、雨降りの夕暮れ。そこに突然現れた姿は、あまりにも現実離れしていた。昨日の記憶、あそこの部分だけが夢だったことになって切り取られてしまったらいいなとか思ってたんだけど……それは無理だったか。
「それに、今日の一限目は臨時の学年集会になるみたい。ほら、こんな半端な時期の編入でしょう、先生方もいじめの問題とかで気を遣っているのかも。ラッキーじゃん、噂の転入生をいち早くチェックできて!」
  何というか……とにかく「それって、どうよ?」と突っ込みたくなってしまう感じ。
  でも、それは冗談でも何でもなくて、すぐに現実のものとなった。講堂に集められた同級生を前に学園長から直々に経歴を紹介された「高宮葵」はその完璧な容姿と立ち振る舞いで一同を魅了してしまう。多分、私だって昨日のことがなかったら素直に彼女のことを受け入れられたと思う。
  続いて、リクエストにお応えしての彼女のミニ・リサイタルが上演される。会場は水を打ったような静けさ、その中に広がっていく幾重もの音の輪。およそ人間業とは思えないような指使いで、まるでピアノが彼女のしもべになってしまったみたい。
「すごーい……、あれで本当に同級生? あ、でも飛び級でもう高校課程は終わってるんだっけ」
  呆気にとられた早紀に耳打ちされても、返す言葉もなかった。何だろう、この感覚。自分でもわけがわからないままに、禍々しい感情が胸にどっと押し寄せてくる。
  大王も、そして楓さまもそれぞれに信じられないくらい「すごい」人だった。だけど、今目の前にいるピアニストはそんな彼等とも比べようもないくらいの存在。宝石で言うなら最高級なダイアモンド、他の追随を全く許さない感じで。
「うん、本当に素敵な人だね」
  どうしてこんな心にもない言葉が出てくるの、そうやって自分で自分に突っ込みたくなる。だけどこの場で他にどんな言葉を使えばいい? 彼女に対する否定的な感情なんて、誰にも受け入れてもらえっこない。
  ―― ワルイケド、マモルハカエシテモラウワ。
  何であんなこと言ったんだろう、彼女は一体あたしたちの何を知っているの? わからない、本当にわからない。
  だけどひとつだけはっきり言えること。それはあたしよりも彼女の方が誰がどう見ても大王の相手としてふさわしい存在だということだ。

 放課後。いつもの習慣で指導室へと足を運んだあたしは、そこでもまた信じられない現実と出くわすことになる。
「あ、莉子先輩! 遅かったじゃないですか……!」
「勝手に始めちゃってますよ〜!」
  何で、あんたたちがここにいるの? だって、昨日と今日は一泊で校外学習だったはずじゃない。
  ニコニコ顔の一年生ふたりはいつもの椅子にちょこんと座ってる。そして、その奥にもうひとり動く影があった。
「あら、苑田さん。知らなかったの? 一時間前くらいにバスが戻ってきたのよ、ふたりはお土産のお菓子をここまで届けてくれたんですって」
  ―― どうしてっ!? また出てくるのよ、高宮葵っ……!
「さあ、苑田さんも一緒にお茶をどうぞ。あなたの分のカップも用意してあるわ。ふたりともお味はどうかしら、これはわたくしの一番お気に入りのリーフなの。こっちでは手に入らないから、帰国するときにまとめ買いをしてきたのよ」
  彼女が手にしている紅茶ポットもティーセットも今まで一度も見たことがないもの。何これ、もしかしてこれも本人の持ち込み……!?
「はいっ、もちろん。すごくおいしいです!」
「こんなに香りが良くて、その上後味も爽やかなんて感激です……!」
  大絶賛している彼等が、ぱたぱたとご主人様に尻尾を振る飼い犬のように見えた。何なの、今まで一度だってあたしにそんな態度を取ったことがある? どうなってるのよ、これ。
「聞きましたよーっ、莉子先輩! 今日、二年生の先輩方は学年集会で高宮さんの演奏を聴いたそうですね。いいなあ、是非ボクたち一年生にもそう言う機会を与えて欲しいものです」
  子犬その一、春日部くん。富士山のかたちのおまんじゅうを手にご満悦だ。
「あら、それならここにもピアノがあるじゃない。よろしければ一曲ご披露しましょうか?」
  いきなりそんな申し出をされてしまい、慌てる一年生ズ。
「いっ、いえ! それは長いこと調律もしてなくて、音が滅茶苦茶ですよ。高宮さんのような方が触れるようなものではありません……!」
  そうやって彼女を止めようとする大行司くん、でも当の本人はそんなこと少しも気にしていない様子。
「あら、手入れの行き届いた楽器を使いこなすだけでは演奏者は務まらないわ。いつ何時、どのような状況でも最善の仕事をするのがプロというものよ」
  白くて長い指、その先に付いている桜貝のような爪。ピアニストにふさわしく、短く切りそろえられているもののすごく綺麗なかたちだ。彼女は鍵盤の上にそっと指を置くと、軽やかに演奏を開始する。
「まあ、本当にすごい音ね。でもこのピアノ、もともとはとても良い品のようよ。可哀想にね、こんなところに放って置かれたら、せっかくの逸品も台無しじゃないの」
  そう言いつつも、鍵盤の上を自由に流れていく指使いは止まることはない。いったい何の曲なんだろう、一番高い音から低い音まで、あっという間に移動していく。飛び跳ねていたかと思うと滑らかに、静かだと思ったら威勢良く、一曲の中でどんどん変化して行くみたい。
「……す、すごい……」
「これが本当の天才って奴だ」
  壊れかけたピアノで紡ぎ出す神業の演奏に、ふたりはあんぐりと口を開けたまま聴き入っている。
「ふふ、嫌だわ。これは本当に簡単な曲なんだから。それにわたくし、衛の課外授業が終わるまで待ってなくてはならなくて。ほら、まだこちらの地理もよくわからないでしょう。だから、下宿させていただいているお爺さまのお屋敷まで彼が送ってくれることになっているの」
  音楽の上に言葉を乗せるように、彼女はさりげなくそう言う。そして、あたしの方をちらっと見て。
「衛は本当にわたくしに夢中なの、子供の頃からずっとそう」
  乙女の歌声にも似たその曲は、彼女の言葉が途切れるのと同時に静かに終わった。

 

つづく♪ (100730)

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