さて、どっちに行こう。
車止めを飛び越えて五十メートルくらい進んだところで、あたしは足を止めてた。目の前は森、右手は海。そして左手には細い道が緩やかなカーブを描いて続いている。多分こっちが本式の道なんだろう。だけど、そのぶん「地雷」も多い気がする。
ここには見張りがいっぱいいるって、大行司くん情報もあったもんね。今は夜更けで警備も手薄になってるかもだけど、やっぱり目立つような場所は避けた方がいい気がする。それにしても敷地が広そうだな。「別荘」っていうから、いきなりどーんと建物があるのかと思ったのにそうじゃないんだもの。
……やっぱ、ここは森を突っ切るのが一番かな。
車を降りて初めて気づいたんだけど、夜空には星だけじゃなくて月もばっちり出てた。限りなく満月に近い感じだから、暗がりに目が慣れてくるとかなり遠くまで見渡せる。見通しがいいってことは、すなわちあたしの姿もはっきり確認できちゃうってこと。
とはいえ、さらに暗がりになってる森の中では足下もわからない。どこかにセンサーでも仕掛けられていたり落とし穴が掘られてたりしたら一巻の終わりだ。まあ……そこまではやってないと思うんだけどね。相手が高宮葵だけに、油断はできない。
「よっしゃ、ちょっと覗いてみますか」
いつの間にか手にしていた鞄を抱え直して気合いを入れる。非常事態にもかかわらず、よくも持ち出すことを忘れなかったもんだ。教科書とか辞書とかぎっちり詰まっていてすごく重いよ。だけどここで投げ出したりしたら、わざわざ証拠を残すことになってしまう。
そうっと足を踏み入れると、とたんにガサッと大きな音がした。びっしりと植えられた樹の根元には乾いた落ち葉が敷き詰められているみたい。もちろん、すぐに動きを止めて全感覚を集中する。
……うん、平気だ。一瞬前までと変わった様子は少しもないもの。きっと、誰にも気づかれてない。
そして一歩、また一歩。慣れてくるとそれほど緊張もせずに足を進めることができた。太い樹の幹に手をつきながら、ゆっくりゆっくり。すごいなあ、いったい樹齢何十年なんだろう。下手したら百年以上経ってるかも知れない。……ってことは、緑皇学園の歴史よりももっと長かったりね。そう思うと、知らない場所に侵入してるというのに、不思議なくらい気持ちが落ち着いてくる。
遠く近く波の音、森の中を吹き抜けていく潮風。別荘が建ってるくらいだもの、きっとすごく綺麗な風景なんだろうな。それが今、確認できないのがすごく悔しい。
そんな風にして、何十メートルくらい進んだんだろうか。どこまでも続くと思われた夜の闇の中に、突然今までとは違うモノが映った。
「……っ……!?」
それまでもドキドキが続いていた鼓動が、その瞬間に一気に加速する。ティンパニーだけの演奏だったのが、一気にオーケストラ全員になった感じ? 両脇の樹を辿っていた腕にも一気に緊張が走った。
だけど。
見張りの放ったモノだとばかり思ったその光は、いつまで経ってもひとつのところから動かない。人の手で持っている灯りならゆらゆらしたりするはず。それじゃ、外灯とか? ううん、それにしては高さが低いような気も――
ひとつの考えにハッとたどり着いた次の瞬間には、もう足が勝手に動き出していた。物音を立てたら大変とか、そう言う気遣いもすべて忘れている。ただただ、その光の元に早くたどり着きたい。それ以外、何も考えられなくなっていた。
一気に森を抜けて、そこでもう一度立ち止まる。急に拓けた視界、ぐるりと見渡しても何かが動く気配はなかった。
目の前には大きな洋館。この建物には見覚えがある。そう、大行司くんがここの情報を教えてくれたとき、画像を見ていた。建物を囲むように植えられた紫陽花も同じ。
そして、今。
その裏手の方から、淡い灯りが漏れている。
そこまでの距離は、五十メートルくらい? 遮るものが何もないから一直線に進めるけど、下手したらすぐに見つかっちゃいそう。
―― もう一度出直すか、それとも一気に突っ込むか。
あたしはいったん、暗い森を振り返った。そして、もう再び建物の方へと向き直る。
何だろう、この胸騒ぎ。ぞわぞわっとした武者震いのようなものが身体の奥から一気に湧き出てくる感じ。あたしの本能が何かを伝えようとしている。でも言葉にならない感覚をどうやって受け止めればいいんだろう。
―― やる、やめる。迷ったときには、とりあえずやってみる。
結局は、あとに後悔を残さない方を選ぶことにした。「やらなければ良かった」よりも「やっちゃえば良かった」って思うことの方が絶対に多いもんね。
あたしが今、ここに辿り着けたのも、大行司くんに春日部くん、それに松島さんのお父さんとたくさんの人の力添えがあったから。みんながこんなに頑張ってくれてるのに、あたしがひるんでちゃ始まらないでしょう……?
行くぞ!、って心の中でだけ叫んで、一気に走り出す。森を抜けてみると、海は今までよりもっと近くに感じられた。建物の陰に隠れて、一息。そこから壁伝いにするすると身を滑らせていく。
だんだん近づいてくるその場所は、想像していたよりも大きな開口部があるらしかった。正確には天井から床までの窓? ちょっと覗くつもりでも、部屋の中からは丸見えになるだろう。もしもそこが見張りの人たちの詰め所だったりしたら今までの努力は水の泡。でも、後悔するのはすべてが終わってからでいい。
「……」
そろーっと中をうかがってみたものの、残念ながら窓の内側には分厚いカーテンが掛かっていた。だから漏れてくる光が淡かったんだ、そんなことにも今更ながら気づく。でもあたしはそれに懲りることなく、窓伝いにそろりそろりと進んでいった。そしてようやく、中が覗けるくらいの隙間を発見した。
片目でしか確認できない細いスペース、ガラスにおでこをくっつけてじーっと中をうかがう。海に向かって突き出たこの部屋はその三方が大きなガラスで覆われていた。でも出入り口はガラス部分のどこにも見あたらない。何だろう、すごく不思議な場所だ。そして何故か、昼間みたいに明るく電気が灯っている。
「……あ……」
その瞬間。またひとつ、あたしの心臓が跳ね上がった。
部屋の一番奥、壁際にあたしの視線は集中している。毛布にくるまった黒っぽいもの、じっとして動かないそれから目を離すことができない。
そう、だよね。間違いないよね。絶対に違うって世界中の人から言われたって、あたしはきっと信じない。
「―― だっ、大王っ! 大王ってば……!?」
気がつけば、ゴンゴンと乱暴にガラスを叩いていた。部屋に他に誰かいるかなんて、そんなことも全然考えることができなくて。とにかく気づいて欲しい、あたしを見て欲しい、それしか思いつかなかった。
ビンゴだよ、大行司くん。あんた、すっごいお手柄っ! 帰ったら、頭なでなでしてあげる……!
「……大王っ……!!」
これって、強化ガラスとかそういうのなのかな。握り拳を思いっきりぶつけてもびくともしないし、あたしの必死の呼びかけも中に全然聞こえてないみたい。
こんなのってひどい、あれは絶対に大王なのにどうしてわかってくれないの? あたしはここにいるんだよ、こんなに近くにいるんだよっ、……それなのに……!
そして、風が止まる。
誰かに強く呼ばれたように、黒い塊がびくっと大きく揺れた。それからもそもそと身じろぎをして姿勢を起こし、ゆっくりとまぶたが開く。
「―― 大王っ……!?」
やっぱりそうだ、絶対に間違いない。だけど……どうして? 何だか目の焦点が定まってないみたいだよ、あたしの方をちゃんと見ているのに何の反応もしないの。
「……大王っ、大王っ! 何してるのっ、あたしだよ! あたしだってば……!」
ゴンゴンゴン、とさらにガラスを打ち鳴らす。息が切れて、喉が痛くなって、ついでに握り拳の先からは血が滲んでいた。だけどどうしても止められない、あたしは馬鹿のひとつ覚えのように同じ動作を延々と繰り返している。
そのとき、黒い物体がのろのろと立ち上がった。信じられないくらい動きがのろい、どうしてなのかわからないけど普段とは全然違う感じ。どうやら膝を真っ直ぐにできたと思ったら、一歩踏み出したところでまたよろける。それでもどうにか二、三歩進んで、そこで足がもつれて倒れ込んでしまった。
「―― 大王っ!?」
何でこんな場所にガラスがあるの? すぐにでもそばまで行って抱き起こしてあげたいのに、それが叶わない。ひどいよ、何もこんな意地悪しなくたっていいじゃない。
少しぼやけた視界の向こうで、黒い塊がまた立ち上がる。最後に見たあの夜と同じ学ラン姿、髪は艶をなくてぱさついているみたいだけど肩の半分くらいまでの長さはそのまま。生気の消えかけた瞳はそれでもあたしを真っ直ぐに見つめていた。唇がかすかに動く、でもその声があたしに耳まで届かない。
「……大王ーっ!!」
彼がふらつく足取りで窓辺に寄っても、その動きを制しようとする第三者は見あたらない。ということは、ここにいるのはひとりだけ? そんなラッキーなことってあるのかな。
(……り、こ……)
苦しそうに歪んだ眉、だけど彼は歩みを止めない。思い通りに動かない足を引きずりながらも、どうやら窓辺までやってきた。
「だ……い、おう?」
分厚いガラスを挟んで、向かい合うあたしたち。
どうにかその肩に胸に触れたくてガラスに手のひらをくっつける。でも冷たい感触がそこから広がってくるだけ。六月下旬のはずなのに、今日は妙に冷え込む夜だ。夏服、半袖のブラウスから見える二の腕にしんしんと月明かりが注ぎ込む。
二度、三度。大王がガラスを叩く。あたしも同じように叩く。でも、その両側からのすべての振動を、分厚いそこは残らず吸い取ってしまう。
悔しい、すごく悔しい。おでこをごつんとガラスにぶつける。気がつくと、大王もぴったり同じことをしていた。あたしのガラスに押し当てた両方の手のひらに、大王の手が重なる。チビなあたしにあわせて、大王はぎりぎりまで猫背になってた。
「大王……っ!」
この部屋、あの奥のドアから入れるの? あたし、どうにか大王を助けることができないかな。……でも、大王が大人しく部屋の中に留まっているくらいだもの、簡単に抜け出せない理由がちゃんとあるんだと思う。じゃあ、このガラスを突き破る? でもどうやって? まさかフラミンゴ色のタクシーを突っ込ませる訳にもいかないし、だったら、その他の方法は――
目の前の強化ガラスの厚みはいいとこ数センチ。こんな近くまで来ているのに、あたしは大王に触れることができない。こんなのってない、あり得ない。あたしと大王、どうして駄目なの? あたしたちを引き離す権利なんて誰にもないはずだよ。そりゃ、大王が本気であたしを嫌いって言うなら、そのときは仕方ないと思うけど……。
(……り、こ……)
涙の雫がこぼれるあたしの頬を、大王の指が辿っていく。目を閉じて、ガラスに唇を押し当てる。わかってる、大王だって同じようにしてくれること。
―― 良かった、気持ちは一緒なんだ。高宮葵が言ってたことなんて全部嘘。大王は今でもちゃんと、あたしのことを想ってくれてる。大切な人がそばにいないから仕方なくつまみ食いなんて、そんなの絶対にあり得ない。あたしたちの気持ちはひとつなんだよ。
と、そのとき。
いきなり背後から真っ白に近い光がどばーっと差し込んできた。目の前の大王が白く霞んで見えなくなる。
「……なっ……!?」
一瞬遅れて振り向くと、そこには予想もしなかった人が立っていた。
「なあに? どうしてそんなに驚いているのかしら」
サラサラと長い黒髪、あたしと同じ緑皇学園の夏の制服。勝ち気そうな微笑みが意地悪く歪んでいく。
「なっ……なんで……」
あまりのことに、声が喉の奥で詰まってなかなか出てこない。そんなあたしをさらに眩しく照らすライト、舞台装置のような白い輝きは全部で三つもあった。
「ふふ、当然でしょ? あなたの行動なんて、わたくしにはすべてお見通しよ。上手くやったつもりでしょうけど、残念だったこと。悪いけど衛は渡さないわ、あなたがこのまま引き下がらないなら、この先どうなるかわからないわよ」
そしてかたちづくられる笑顔は、ぞっとするほど美しかった。転入してまもなく全生徒の心を鷲づかみにしてしまったこの人に、できないことなんてあるのだろうか。
「ど、どうなるっていうのよ……!?」
馬鹿だよね、あたし。ごめんなさい、もうしませんって素直に謝ってしまえばいいのにそれができない。
「決まってるでしょう、あることないことでっち上げて学園にいられないようにしてあげる。……ううん、それだけじゃすまないわ。高宮の力を駆使して、あなたの家族も友達も散々な目に遭わせてあげる。楓の入れ知恵で、あなたお爺さまを丸め込んだんですって? それでわたくしを出し抜いたつもりになっているの? おめでたいにもほどがあるわ。見てなさい、すぐに高宮の家の敷居を二度とまたげないようにしてあげるから……!」
何言ってるの、この人。すっごく偉そうに勝ち誇ったように話し続けているけど、そんなことをしてあたしがひるむとでも思ってる? だとしたら、おめでたい性格なのはそっちの方だと思うけどっ。
「そっ、そんなこと言ったって! あたし、全然怖くないから! やれるもんなら、やってみなさいよ……!」
泣き言をいうのは一番最後でいいと思った。思いつくことを全部して、他に道がなくなったら、そのときになって初めてその後の身の振り方を考えればいい。そうだよね、いくら高宮の一族がすごい権力を持ってるからって、あたしの周りにいる人たちすべてを不幸にすることなんて無理だもの。
「あら、そう」
偉そうに腕を組んだ格好で立っている高宮葵は、よくわかりましたと言うように大きくひとつ頷いた。
「じゃあ、とりあえずは不法侵入で警察に突き出してあげる。そうね、せっかくだから二度と檻の中から出てこられないようにしてあげましょうか?」
その言葉を待っていたかのように、黒ずくめの男たちがライトの陰からざざっと現れた。その数、十人以上。こっ、この人たちって、あの雨の夜、大王を追いかけていた奴らじゃない……!
「―― 逃がすんじゃないわよっ!?」
その声に弾かれたように、どーっと押し寄せてくる怖そうな人たち。白いライトに照らされたあたしは、それでも一目散に逃げ出した。
本当はフラミンゴ・タクシーの方へと戻りたい。
でも駄目、帰り道は彼らに塞がれてしまっている。何しろ土地勘のまったくきかない場所、しかも今は真夜中。どう考えてもあたしに勝ち目はない。でもっ、逃げるしかない。絶対に捕まるわけにはいかないんだから……!
考える暇もなく、砂浜に飛び出す。足場が悪い場所なら、いくら鍛え上げたその手の人たちでも多少は手こずるはず。あたしの方が身軽だし、少しは勝機が見えてくる可能性もある。
「「「「「「「―― 待てーっ!?」」」」」」」
大勢の足音と声があたしを追いかけてくる。振り向くとそのぶんだけ遅くなりそうで、とにかく前へ前へとひた走った。だけど、あっという間に砂浜は終わって、あとは山のような岩場が広がっていくばかり。でもっ、そうなっても逃げるしかない。とにかく岩をよじ登って、そして――
「……んっぎゃあああああああっ……!」
確かに一番高い場所まで登れたと思った。なのに、次の瞬間にいきなり足場がなくなる。
ざっぱーーーーーんっ!
いったい、何がどうなったのか自分でもまったくわからなかった。とにかく、気がついたら水の中に落ちている。そして、ここは海じゃない。だって、全然しょっぱくない、真水だもの。
「……うっ、ぎゃっ……!」
すごく深いところまで沈み込んだと思ったら、いつの間にか浮き上がっていた。
そうか、あたしって何故か浮いちゃう人なんだよね。泳ぎは苦手なのに、絶対に沈まない。潜水のテストのときは大変だったけど、少なくとも溺れる心配はないだろうと担当の先生から嬉しくない太鼓判を押された。
ようやく、ふううっと大きく息を吐き出すと。頭上からスピーカーを通したみたいな大きな声が響いてくる。
「ほーっ、ほほほっ、いいざまね! いいわ、しばらくそこで頭を冷やしてなさい。残念だけど、誰も助けになんて来ませんからね。ここは高宮の私有地ですもの、令状でも出なかったら警察でも踏み込むことはできないわよっ!」
ビート板代わりの学生鞄にしがみついているあたしに向かって、遙か高い場所から投げかけられる非情な言葉。最初からこうなることがわかっていたかのように勝ち誇ったその声が途切れて、辺りは元通り静寂に包まれた。
つづく♪ (100902)
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