TopNovel赫い渓を往け・扉>肩越しの風景・1




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このお話は「赫い渓を往け」に登場する三鷹沢朔也の両親の話です
あらかじめ「赫い渓を往け」本編、及び「並木」外伝「春を教えて」をご覧になることをお勧めします

          


  雑居ビルの二階から眺める風景は、まるでモノクローム映像のようだ。空の色さえも本来の色彩にはほど遠く、白くすすけている。街をふたつに分ける大きな河が流れ、その河川敷に町工場が多く建ち並ぶこの界隈では、高く伸びた煙突から吐き出される煙で晴れた日でも一面が霞がかっていた。これだけの情報では、今が朝なのか夕方なのか昼間なのかも判断が付かない。

 ――ああ、もうすぐ桜の季節も終わりなのね。

 視界の隅に、それでもちらりと映った季節の彩り。川沿いに植えられた並木が、花散らしの風に吹かれていた。
  一番窓際の席、腕を高く上げて伸びをする。同じ姿勢を続けたために凝り固まっていた肩や腰がみしみしと音を立てているような気がして、何とも情けない気分になった。しかし、いつまでものんびりとくつろいでいるわけにもいかない。宵子(しょうこ)は目の前のタイプライターのキーに指を添えると、午前中いっぱいかかって作った手書きの文字に再び視線を落とした。

 

「えー、そうなのっ! いやだァ、いよいよね。羨ましいわァ〜!」

 その刹那、辺りに響き渡るはしゃぎ声。背後から聞こえてくるそれに、集中しかけた気分が一気にそがれる。あからさまに嫌悪の色をその顔に浮かべて振り向くと、そこにいたのは数名の女性社員たちだった。

  申し訳程度の衝立で仕切られたフロアは丁度学校の普通教室の二倍ほどの広さ。しかしそのうちの三分の一ほどは在庫をストックするスペースに割り当てられ、結果人間の方がこんな風に狭苦しく肩を寄せ合う羽目になっていた。半分以上の社員が外回りで席を外していたが、それでも片手では余るほどの人間が残っている。その全員の耳が自分たちの方に向いているなど露知らず、と言った風に彼女たちはなおも声を立てていた。

「じゃあ、夏の金一封を頂いたら寿退社? ああん、もうっ! とうとう同期の第一号が出たか……っ!」

「ひどいわ、抜け駆けは許さないって約束したのにっ! でも、米倉物産って言ったら今や飛ぶ鳥を落とす勢いの成長株でしょう。ここは田中さんのフィアンセに頼んで、私もいい人を紹介してもらっちゃおうかな」

 きゃあ、私も私も、といくつもの声が重なり合う。彼女たちは入社二年目、宵子にとっては二年後輩になる。高卒でそのまま入社した者がほとんどであったから、専門学校で一年多く過ごした宵子より正確な年齢では三歳年下になる者もいた。今、彼女たちの話題の中心でバラ色の頬をしているひとりなどもまさにそれである。

「ねえねえっ、片岡先輩っ! 田中さん、7月に挙式ですってっ……!」

 誰もそんなこと聞いてないのに。一応女性社員として仲間に加えてあげました、という態度で声を掛けられる。その瞬間まで、くたびれたスーツ姿の男性社員と同じポジションで眉間に皺を寄せていた宵子もこうなってしまっては無視するわけにはいかなくなった。

「ねえ田中さん、片岡先輩は絶対にお式にご招待しなくっちゃ。あなた、入社したときに色々お世話になったでしょう? 箒の使い方からお茶の入れ方まで、お金をもらいながら花嫁修業をしたようなものじゃない」

 お節介焼きな取り巻きの有り難くもないひとこと。頭で何かを考える前に、宵子の頬がひくひくと痙攣した。

 ――努力虚しく、ひとつも身に付かないままだったけどね。

 心の中で舌打ちしながらも、仕方なく笑顔を整える。意識しないとそう出来ないのが辛いところだが、こればかりは生まれつきの顔立ちなので仕方ない。

「そうなの、それはおめでとう。退社には色々な手続きがあるから、その旨は早めに社長にお伝えした方がいいわよ。何枚も書類を書くことになるから、覚悟しておいてね。それから、……机やロッカーの整理も早め早めにしたほうがいいわね。ギリギリになると、どうしても慌ててしまうから」

 少し説教がましかったかな、と言い終えてから思う。だが、目の前の後輩たちは何度も頷きながら素直に聞き入っていた。明るくはきはきとして、何でも言うことを聞く―― 一般企業が彼女たちに求めているのはそんなところである。そして、このように腰掛け程度に勤めて退社するのも会社側では計算の上だった。

  十九の春に入社して、早四年……一体いくつ同じ場面をやり過ごしてきたことだろう。毎年似たような顔ぶれの女の子たちが入ってきて、いつの間にかいなくなっていく。その全ての名前を言ってみろと言われても、今となっては多分写真でも指さしながらでなくては無理だろう。
  冬の終わりに一年後輩の最後のひとりが退社してから、さらに自分が女子社員の中で孤立しているのを自覚するようになった。彼女たちとは一線を画し、昨年の秋からは男性社員と同じように責任のある仕事を回されている。
  タイピストとして立派に働くことが目標であったから、ほぼ希望通りと言うことになる。ただし、……性別や学歴でかなりの賃金格差があるのは否めないが。それを指摘したところで始まらないのは承知の上だ。

「それよりも、早く応接室にお茶を出さなくていいの? 急がないと、また社長からお小言を頂くわよ」

 その言い方がいかにも小姑っぽくて嫌だなと思いつつも、宵子は回転椅子をぐるりと戻して机に向かった。今日中にこの文書を仕上げて、エアメールで投函しなくてはならない。ミスタイプをすると修正が面倒なので、出来るだけ気持ちを集中させる必要があった。

 大きく、深呼吸。そして、またカタカタと規則正しい音色がフロアに響き始めた。行末を知らせるベル音で、いったん手を止める。細く開けた窓から風が吹き込んで、宵子の長く伸びた茶色の髪を揺らした。

 

◇◇◇


「あの娘は普通じゃない」――嫌悪の色を浮かべた表情が、あからさまに自分という存在を除外しようとする。
  一番遠い記憶の中でも、宵子はやはり母の背後に隠れながら怯えていた。夕方の買い物帰り、その人は近所に住む主婦。母親に向けられた笑顔とは裏腹に突き刺さるような冷たさを感じ取ってしまう。それは学校に上がってからも変わらず、近所には友達と呼べる同級生は皆無だった。

 一体、何がいけないのだろう。初めのうちは、何故そんな風に扱われるのかが全く分からなかった。他の子と比べて自分は何かが劣っているのではないかと、随分思い悩んだものである。女手ひとつで自分を育ててくれる優しい母にその感情をぶつけることも出来ず、ただ押し黙るしかなかった。
  宵子には物心付いたときから「父親」がいない。高校進学時に初めて目にした戸籍で、自分が私生児であることも知ることになる。もちろんすでにその時までには自分の中で確信めいたものが存在していたので、事実を突きつけられたところで「ああそうか」と冷静に受け止められた。
  折に触れ、親しげに家を訪ねてくる男性がいて、その人こそがそうではないかと期待を抱いたこともある。だが、どうもそれは違ったようだ。「篠塚のおじ様」――そう呼んで慕った人は、宵子が高校に進学した年に母ではない女性と結婚してしまう。当時のことを思うと、今でも胸が痛くなった。

 自宅で仕立物や繕い物を引き受けている母はいつも忙しく、友達がなかなか出来ない宵子は部屋でひとり遊びをするほかはなかった。古ぼけた人形には、母が仕立物をした残り布で洋服を作ってくれる。華やかなドレスをまとわせて姿見に映せば、夕焼けに照らし出された自分の全身が鏡の向こうに浮かび上がった。

 ――多分、あの子の父親は外国人よ。そうに決まってるわ。だって、あの奥様、もともとはさる華族のお嬢様だったって話じゃない。それがあんなにつましい生活をしているなんて、人には言えないような過去があるに違いないわよ。恐ろしいわ、大人しい顔をしてね。

 聞くつもりなどなくても、噂話は耳に飛び込んでくる。一度受け止めてしまった言葉は消えることなくいつまでも胸の奥でくすぶり続けた。でも、そんな話がまことしやかに広まってしまうにも訳がある。宵子はまるで西洋人形のようにすらりとした体型で、くっきりとした顔立ちも友達のそれとはだいぶ違っていた。
  長いまつげに縁取られた目はドングリのように丸く大きく、その色は角度によっては金茶に見えるほど薄い。全ての光を拒絶するような白い肌、どちらかというと西洋や欧米と言うよりはロシアの血を強く感じた。

「私は……生まれてはいけない子だったの?」

 長い時間を経てようやくその言葉をぶつけた相手は、父親のように慕っていた「篠塚のおじ様」その人である。彼は泣き出しそうに頬を震わせている宵子を前にして、しかし少しも取り乱した様子はなかった。
  篠塚氏は宵子の母親に特別の感情を抱きながら、頑なに自分を制している。それは子供心にもはっきり見て取れるほど切なる想いであった。まだ自分を身籠もる前の母が裕福な身の上であった頃、この者はその家の使用人の子供であったという。今となっては昔話に他ならない規律を彼はしっかりと保っているのである。それがもどかしくてならなかった。

「本当に、そんな風に思っているのですか? 宵子ちゃんの今の言葉を聞いたらお母様はどんなにか悲しまれることでしょう。あなたは余計な心配などしなくていいのですよ」

 この人は何かを知っているのかも知れない、とその時に強く思った。そうでなかったら、どうしてこんな風に確信を持った言葉を返してくれるだろう。
  自分の生い立ちには何か深いものがある。だが、まだそれを知るときではないとこの人は考えているのだ。それならば、もうこれ以上は望むまい。誰も教えてはくれない自分の出生の秘密、何としてでも突き止めてやろうと思っていた気持ちがいつしか柔らかく風化していった。

 ――いつか、人並み以上に給金を頂くようになって、お母様に思い切り贅沢をさせてあげたい。

 華やかな社交界を捨てて、自分との生活を選んでくれた母。明るく朗らかに、一点の曇りもなく愛してくれるその人を一生を掛けて守りたいと思った。女だからと言うだけで何もかもが安く見られるご時世、そんな中でもどうにかして自分の道を切り開かなくてはならない。

 老眼鏡を斜めにしながら、夜更けまで針を動かす手を止めない母。あんな風にコマネズミのように働かなくてもいいように、自分が身を粉にして稼ぎたい。古着を仕立て直して今風にした洋服ではなくて百貨店で仕立てた新品の服を、何度も打ち直した古い寝具ではなく温かく軽い布団を。
  決してその願いを口にすることはなかった。もしもひと言でも漏らせば、母は宵子が今の暮らしを不満に思っていると考えて嘆き悲しむだろう。

 進路を決めるときも、吟味に吟味を重ね将来性のある職種を選ぶようにした。最近では女性の社会進出が叫ばれるようになってはいたが、男性と同等に評価されることはまだまだ少ない。公務員であればそれが期待出来そうであったが、戦後ベビーブームの余波を受けた年代ではかなりの狭き門である。それに建前上はどうであれ、やはり結婚と同時に退職する風潮はどこでも根強い様子であった。
  それならば、と選んだのが外国企業との商品取引を手がけている今の会社。きちんと仕事をこなせば、性別に関係なく定年まで勤められると聞いて、必死にすがりついてきた。
  男性社員並みの残業を求められても、嫌な顔ひとつせずに引き受ける。だからといって自分が他の女性社員とは違う特別な存在であるとは思わず、社内の掃除やお茶くみなどは率先して行ってきた。ふたり分の働きをしていても、月々の給料袋は薄いまま。しかしここまで来て弱音を吐くわけにはいかなかった。

 

◇◇◇


「こちらで宜しいでしょうか、確認をお願いします」

 社長がデスクに戻ってきたのは、それから2時間近くが経過してからであった。今日の来客は学生時代からの友人だと聞いていたが、それが理由なのかかなり上機嫌である。まずは一服と運んだ湯飲みが空になるのを確認してから、宵子はもう一度確認した文書を手に彼の前に進み出た。

  きちんと同じタイプ文字で綺麗に並んだ文面は、先日届いた質問状への返信となるものである。今の社長は祖父の代から続いてきた問屋業を少しずつ様変わりさせている。欧米の雑貨を直輸入するようになったのもそのひとつであった。初めのうちは専門の仲買人を通していたのだが、そうするとどうしても経費も時間も無駄になる。何とかして直接交渉出来ないかと今模索している最中なのであった。
  社長も日常会話程度ならどうにかなるのだが、どうしても正式な文書となると上手く行かないらしい。従って箇条書きにされたその内容を英文に訳するのは宵子の役目になっていた。商業英語は専門学校で一通りは学んできたが、やはり実践を伴ってないだけに難しい。だが、弱音を吐けば、そこで終わりである。夜遅くまで空いている図書館などをはしごして、家に戻るのが終電近くなることもしばしばであった。
  努力の甲斐あって、この頃では少しずつ自分の仕事に手応えを感じ始めている。職場での自分の地位が確立すれば、女性だからと軽く見られたり「そろそろお似合いの相手でも?」などと暗に結婚退職をほのめかされたりすることも減っていくだろう。ここが踏ん張りどころだと思い、必死に独学に励んでいた。

「ご苦労」と受け取った社長が英文に目を走らせている間、張りつめた気持ちでその姿を見守っていた。何度も経験してきた場面であるが、未だにその場に居合わせると死刑宣告を受ける囚人の心地になってしまう。
  注意深くタイプしたつもりであるが、それでも見直すと一カ所だけミスタイプを発見してしまった。すでに打ち込んでしまったものを修正するにはいくつかの方法があるが、そのひとつはもう一度該当の箇所に白いカーボンを挟んで同じ文字を打ち込む。そしてさらに今度は黒のカーボンに差し替えて正しい文字を打ち直すのだ。
  パッと見にはほとんど分からないくらい綺麗に直すことが出来たと思うが、もしもこれでは駄目だと言われれば、また一からやり直すことになる。

 やがて、社長はふうっと吐息を漏らすと、文書を宵子に戻した。

「まあ、いいだろう。じゃあ、これを持って先ほどの須藤がやってる営業所に行ってくれないか? 今すぐでいいぞ、もう今日はそのまま上がっていいから」

「……はい?」

 それは意外なひと言であった。すでにエアメール用の封筒の表に宛名書きも済ませてある。いつもと同じようにすぐに投函するものとばかり思っていたのだが、どういうことであろうか。怪訝そうな顔をした宵子に対して、社長はいつになくにこやかに微笑みながら告げた。

「片岡君、君も慣れない作業でなかなか大変そうじゃないか。頑張っているのは分かるが、何もかもひとりで抱え込んでいては今に参ってしまうぞ。何でも須藤の営業所に、先月アメリカ研修から戻ったばかりの社員が出向で来ているそうなんだ。こちらの現状を話したら、それならばと言うことになってね。ここはひとつ、現地で学んだ人間からノウハウを盗み取るのもいいんじゃないか?」

 宵子は常日頃から、思っていることを真っ直ぐに口にするこの社長に好感を持っていた。無駄口を叩かない代わりに、そのひとことがとても重くずっしりと心に残る。女性社員を見るとすぐに恋愛対象や息子の嫁に……などと思いを巡らす輩が多い中、この人に限ってはそのような戯れ言で宵子を惑わすことはなかった。

「あの……」

 この文面で一度OKが出ていたはずだ。午前中に下書きの段階で一応のチェックをしてもらってあるのだから。もちろん宵子としても、自分の仕事に絶対の自信があるわけではない。だが、いままでそれでもどうにかこなしてきたのに、今回に限ってどういうことだろう。
  質問を受けている身である。取引先はこちらの返答を待っているのだから、出来る限り迅速に行った方がよい。一日でも早く相手に届けることが大切だと言うことは社長も承知しているはず。

 しかも先ほどまで社長を訪ねてきていた須藤氏の営業所とは、今や国内でも最大大手と言われる複合企業・一籐木(いっとうぎ)グループの傘下のひとつであると聞いている。名前は異なるので表向きには別会社だが、他にもこちらが知らないだけで一籐木の息の掛かった企業は数え切れないほどあるだろう。
  社長は長いものに巻かれることを嫌う性格だ。大企業への集中合併などはもっとも忌み嫌うところであった。いくら友人の営業所とはいえ、このように関わりを持つことは将来何かあったときに大事に至る原因となるのではないか。

「おいおい、そんなに怖い顔をするもんじゃない。せっかくの美人が台無しだぞ」

 彼はさらにそんな冗談まで口にした後、おもむろに手書きの地図を差し出した。

「駅を降りればすぐに目の前に看板が見えるそうだ。手みやげは寿屋の羊羹がいいだろう、もちろん経費で落としていいからな?」

 

◇◇◇


「一籐木」という存在に宵子があからさまに嫌悪の意を示したのにも訳がある。

 そのグループの現社長の椅子に座っている一籐木月彦という男は、彼女の慕う「篠塚のおじ様」と旧知の仲だと聞いていた。同郷の出身で、男の方は将来性を見込まれて一籐木の養子になったのである。初めはおじ様も月彦の側で職に就いていたらしい。でも、いつの間にか閑職に飛ばされてしまった。表向きは学園の理事長という肩書きが付いているが、グループの上層部とは遠く及ばない離れ小島である。
  一度は生涯の友として苦楽を共にしたいと告げながら、やはり一族企業の重圧に負けてしまうとは何たる情けなさであるか。篠塚氏(今は婿養子に入ったため東城と名を変えている)は多くを語らないが、一籐木氏の側にいた頃もあまり周囲の印象は芳しくなかったらしい。もともと一籐木はいわゆる家族経営でのし上がってきた企業であり、どの業務にも一族の誰かしらが関わっていた。胡散臭いことこの上ないではないか。

 宵子の就職先を決める際にも、何度となく一籐木の名が上がった。なかなか希望にあう企業に巡り会えず困り果てていたのを見るに見かねたのか、もしも希望があれば上層部に掛け合ってくれるとまで篠塚氏は言ってくれたのである。しかし、彼女はその有り難い申し出を頑なに拒んだ。それどころか、どうにかして一籐木の息の掛かっていない企業を求めて奔走した。

 ――それなのに、何で今更。

 桜の頃を迎えても、日が傾けばだいぶ肌寒くなる。男物のコートを羽織った宵子は怒りを込めた足取りで大股に通りを横切った。その姿にすれ違う者たちがちらちらと視線を向けているのも知っている。そりゃあ、年頃の娘がパンツスーツに肩の張った無骨なコートを着込んでいればぎょっとするのも当然だろう。しかも足下までが編み上げの革靴だ。幅広のそれば、やはり一目で男性用と分かる。
  社内でも「サイズがない」ということを理由に、女性社員用の制服を免除されていた。ピンク色のベストに同色の膝丈のスカートという「いかにも」なデザインのそれを身につけなくて済んだのは嬉しかった。しかもロッカールームでの着替えの手間がなくなるのだから一石二鳥である。あの場所での明け透けな会話も出来るだけ避けて通りたかった。

 通りを行き交う人々の中でも、宵子に振り返るのは圧倒的に男性が多い。しかもその顔には怒りにも似た不審の色が浮かんでいた。ぐるりと見渡してみても、そのほとんどのつむじを見下ろすことが出来る。履いている靴が5センチ分かかとがあることも原因のひとつではあるが、それをさっ引いたところで一体宵子と目線が同じになる男性が幾人存在するのだろうか。
  男とはプライドの高い生き物だ。どうにかして己の存在を他よりも優位に立たせたいと思っている。それなのに自分よりも遙かに体格のいい女が肩で風を切って歩いてくれば、嫌悪の感情を抱くのは仕方ないことだろう。
  宵子は中学に進学する頃にすでに靴のサイズが25センチになっていた。友人たちの履くようなほっそりとしたかたちでつま先の尖った靴が自分には手に入らないと知った瞬間に、女を捨ててしまったと言っても過言ではない。それでも高校までは仕方なく制服のスカートを着用したが、卒業後はそんな煩わしさからも解放された。
  そんな中で彼女をかろうじて女性らしく留めているのは、ふわふわと風にそよぐロングヘアであったが、それも「美容院に行く手間と金を節約するため」と言う理由に他ならなかった。まるで品良く染め上げたようなブラウンの輝きで、しかもゆるくウェーブが掛かっている。しっかりと編み込みでもすれば体裁良く収まるのだろうが、それも宵子にとってはもはやどうでもいいことであった。

 

「やあ、君が堀川の言っていた娘(こ)だね? なかなかの才媛だと言うことだが、まさかここまで美しい女性だとは思わなかったな。これでは周囲も黙ってはおれまい、そこら中の男から声が掛かって大変だろう」

 営業所、という名前の通り、ビルの1階フロアを使ったそこはそう広くない場所であった。しかし開放感溢れる都会的なデザインで、所狭しと並べられた机では社員たちが次々に掛かってくる電話の対応に追われている。がやがやと混乱の極みにあるような空間で、それでも皆が和気藹々と楽しそうに見えた。

 受付で名乗ると、すぐに営業部長が自ら招き入れてくれる。カウンター脇の応接セットで差し出されたのはいれ立てのコーヒー。しかも紙コップではなくてきちんと陶器のカップが使用されている。

「ええと……三鷹沢君はどこに行ったかな? 姿が見えないようだが」

 コーヒーを運んでくれた女性社員に宵子が持ってきた手みやげを手渡しながら、須藤所長は気さくな口調で訊ねた。

「彼なら、五分ほど前に出て行きましたよ? ほら、いつもの場所です」

 今風にパーマをあてた髪を揺らしながら、彼女はにこにこと答えた。その指先にパールピンクのマニキュアが綺麗に塗られているのが目に付く。駅を三つ上がっただけなのに、この街は妙に何もかもがあか抜けて感じられた。何とも言えない居心地の悪さを覚える。

「ああ、そうか。……なるほどね」

 まるで親子の会話のようだなと宵子は思った。その時、背後から所長に声が掛かる、どうも電話の取り次ぎらしい。

「悪いな、片岡君。彼はここを出て右に折れたところの公園にいるはずだ。君のことはすでに説明済みだからすぐに分かるよ」

 せわしなく電話口に走り去っていく背中を、宵子はぼんやりと見送っていた。

 

◇◇◇


 確かに詳しい案内などは必要なかった。

 営業所のドアから外に出れば、50メートルほど先に桜並木が見える。夕日を浴びて音もなく散り急ぐ花吹雪を目指して、宵子は歩き出した。
  こんな時に今流行のミニスカートでは都合が悪い。あんなものは結局女性を枠の中に閉じこめる手段でしかないのだ。それが証拠に名をはせる有名デザイナーは皆男性ではないか。結局は女性を鑑賞物として捉えているに他ならない。

 苛立ちがそのまま高く響き渡る靴音。ようやく公園の入り口まで辿り着くと、車止めの前に立っていた長身の男がゆっくり振り向いた。

 

つづく (051026)


 

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