「ほう……いいねえ。やはり現場で叩き込んだ人間の手がける仕事は違うなあ」 翌日。誰よりも早く出勤して、必死で昨日の文面を打ち直した。朱色に書き込まれた文字を目で追うだけで新たな口惜しさがこみ上げてくるが、もうそれをどうこう言っていられる場合ではない。少し遅めに出勤してきた社長が席に着くやいなや打ち終えたそれを差し出すと、彼は予想を遙かに超えて上機嫌であった。 ――何よ、全てを分かったような言い方をして。 喉まで出掛かった言葉を必死で飲み込んでいた。そんな風に感情をあらわにして得になることなどひとつもない。かえって自分の情けなさが明るみに出て恥をかくだけだ。 「では、早急にこちらを出して参ります。他に郵便局や銀行への用事はありますか? 一緒に済ませておきますが」 宵子は意識して感情を押し殺した声を出した。こうしてただ立っているだけでも、未だにあの男に対する行き場のない気持ちが溢れてきそうである。あの勝ち誇った声、こちらの全てを見透かすような瞳。さながら白昼に見る悪夢のようである。 「いや、別に今は何もなかったと思うが」 座した姿勢のままでこちらを見上げた社長の表情には、そのあとに続く「そんなに急がなくてもいいのに」という言葉がはっきりと書き込まれているように思われた。確かにその考え方にも一理ある。この雑居ビルの目と鼻の先にある郵便局では郵便物の集配時間が日に何度と決まっている。確か次は午後1時頃のはずだ。そうなれば、すぐに出しても昼休みのついでに出しても同じことになってしまう。 「そうですか、それでは少し席を外させて頂きます」 宵子は短く答えると、すぐに自分の机に戻って昨日用意した封書に打ち上がった文書を入れてのり付けした。そんな自分の行動が傍目から見ても異常なものに映っているということは承知の上であったが、それでも一刻でも早くこの仕事にケリを付けたかったのである。午後からはまた別件の仕事が入っていた。その下調べを滞りなく行うためにも、苛立ちの原因を自分の近くから追い払う必要がある。 席を立つと同時に、また窓の外を確認した。穏やかな日和である、これならば上着は必要ないであろう。そう判断してコートは羽織らずに外に出た。
◇◇◇
今日に限って郵便局は狭い待合所から路地まで人が溢れるほどの混み具合。ようやく自分の番が来て窓口の前に立ったときには、すでに予定していた数倍の時間が過ぎていた。こんなことなら手の空いた後輩の誰かに頼めば良かったと思っても、それは後の祭りである。
「……?」 狭い辻を過ぎて、ふと立ち止まる。一瞬通り過ぎた、何とも居心地の悪い違和感。そんなはずはないと自分に必死で言い聞かせながら振り向くと、そこには最悪の結果が待ちかまえていた。宵子の姿に気付いた相手はやはり独特の香りのするタバコをくゆらせている。 「やあ」 その笑顔は、昨夕と少しも変わらない。邪心なく、それでいて自信に満ちあふれた成功者の表情。宵子は自分の顔から血の気が引いていくのを感じていた。 「――どうして」 かろうじて絞り出した声は、情けないほどにかすれていた。何故、再びこんなところでこの男と再会しなくてはならなのだろう。もう二度とこの顔は見たくなかったのに。何かこちらに出向く用事でもあったのか、それにしても出会い頭の事故のような嬉しくない偶然である。 「はい、昨日のおつり。何だかいつまでも自分で持っているのも気が引けてね、……会社の方まで訪ねたらこっちだって言われたから」 受け取らないと、このままもらっちゃうよ? ――柔らかく額に落ちた前髪の隙間からこちらを見つめる瞳にはそんな悪戯心まで浮かんでいる気がする。一体どうしたことか、何を考えているのだろう、この男は。 「何で、わざわざ……そんな、宜しかったのに」 全く持って心外なことである。最初から、こんな風に釣りを受け取るつもりはなかった。確かにポケットマネーで出した金額には懐が痛んだが、それも色々教えを請うた代償だと思えば仕方ない。情けないことだ、自分はそんな些細な金額を取り立てるような人間だと思われていたのか。 ――それに、よりによって会社まで足を運ぶなんて。一体、何を考えているのかしら? ひらりと風に揺らぐ500円札。そのすすけた藍色の動きを目で追いながら、宵子はさらなる絶望に浸っていた。 「いや、そう言うわけにもいかないよ? やはり、こういうことははっきりとさせないとね」 雑居ビルが隙間のない程に軒を連ねる通りに、行き交う人影は多い。その全ての視線がこちらを向いているような気がしてくる。これも全て、目の前にいる男のせいだ。 「待って」 これ以上、暇人に付き合ってはいられないと思った。突き出された釣り銭すら、受け取る気にはなれない。さっさときびすを返せば、さらに背中から彼の声が追いかけて来る。仕方なく忌々しげに振り返れば、彼は涼しげな表情で新しいタバコに火を点けるところだった。 「まだ、話が全部終わってないんだけど。まあいいか、あとは戻って社長から直接話を聞いてくれれば――じゃ、またそのうちにね」 思わせぶりな台詞を残して、男は駅の方へと歩き出した。
◇◇◇
こちらから訊ねるまでもなかった。社に戻ると同時に、早速社長から声が掛かる。いや、それだけでは済まされない。ドアを開けたその瞬間から、社内にいる全ての人間の視線がこちらに突き刺さって来る気がしていた。もちろん、おしゃべり好きな後輩たちなどは給湯室の前で集まってひそひそと囁きあっている。 「そうですか、でしたら藤トラベルの須藤営業部長にでも掛け合ってみたら宜しいのでは? 快いお返事が頂けるかも知れませんよ」 自分でも言いすぎだとは思ったが、胸の奥にふつふつとたぎる怒りを静める方法が他には思いつかなかった。社長はこちらの嫌みを真に受ける様子もなく、「いや、片岡君もきついな」などと苦笑いで切り返してくる。我ながら大人げないと思う。でも正直、もうあの男に関する話題は打ち止めにしたいと思っていた。それなのに、こんな風に次々に蒸し返されてはたまらない。 「いやいや、それは冗談としてだな。先ほど、ちらと話を聞いたのだが、彼は現在社内人事の結果を待っている状態でかなり暇をもてあましているそうなんだ。まあ会社としては、有能な人間だからこそたまには息抜きも必要だとの配慮なんだろうな、あれだけの人材なら必要としている部署がいくらでもあるだろうに。 「……は?」 突然のその言葉には、戸惑いを隠せなかった。一体何を言い出すのだ、全く話が見えない。しかし社長の方は落ち着いたもので、その口元には楽しげに笑みすら浮かべている。 いきなりの話に驚くばかりであったが、詳しく聞いていくとだんだんその全容が見えてきた。何も四六時中、あの男と顔を合わせろと言われているわけではないようだ。宵子にも任された仕事はある、それをこなした上で、週に数回定時よりも早めに上がって「藤トラベル」に出向けばいいと言う。 「何でも彼の方も、君のやる気に惚れ込んだと言ってくれてね。こんな機会はまたとあることじゃないし、ここは三鷹沢君の好意を有り難く受け取ろうじゃないか。まあ……ただし、間違っても一籐木からの引き抜きには気をつけてくれ。君は我が社にとって大切な社員だからな」 何やらおかしな雲行きになってきたなと思う。 思えば入社以来、来る日も来る日もタイプライターに向かい、必死でアルファベット・キーと格闘してきた。外回りの多い男性社員と比べれば、単調な仕事も多く変わり映えのしない毎日だったと言っても良い。そうしているうちに、同期どころかひとつ年下の女性社員も全て退職して、これから自分が進むべき方向性を模索している最中であった。 ――どういうつもりなのかしらね、片岡さんの娘さん。あんな風に男勝りにしていては、思うようなお相手も見つからないでしょうに。まあ、……初めからまともにするつもりもないのかも知れないけど。 わざわざこちらに聞こえるようにそんな話に花を咲かせている。暇をもてあました近所の婦人たちの視線に晒されながら、あの者たちに一泡吹かせるにはどうしたらいいのかと考えていた。普段、外に出ている自分がこれだけ不快な思いをしているのだから、自宅に残っている母親などはもっと肩身の狭い思いをしているだろう。それを思うと申し訳ない気分でいっぱいになる。 あの三鷹沢という男の、上から見下ろしたような物言いはかなりの屈辱であった。一度きりだと思ってどうにか堪えてみたが、まさか再び忍耐を強いられることになろうとは。これも男社会で生き残るための試練だと諦めなくてはならないのだろうか。
窓際の席に戻ると、また窓の外を見た。相変わらず春風が吹き荒れ、道行く人も皆背中を丸めて足早に過ぎていく。 ――あの男は、今頃どこを歩いているのだろうか。 ふとそんな思いが過ぎり、次の瞬間に慌てて打ち消していた。
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――まあ、こちらがお願いする立場なのだから仕方ないわね。 そう思いながら通り過ぎる「藤トラベル」が入った雑居ビルの前。見る気もなしに目をやれば、ガラス張りの屋内が想像以上にクリアに見渡せてしまった。 一籐木グループは様々な事業を展開していると聞いているが、その中でも特に力を入れているのがリゾート部門だといわれている。国内外を問わず幅広い活動内容で、誰もが一度は耳にしたことがある各地にあるテーマパークのいくつかも一籐木の企画によるものらしい。 「藤トラベル」は近頃ちらちらと増えてきた海外旅行へのプランを提案する部署だと聞いた。この営業所事態もまだ新しく、この場所に陣を構えてからまだ三ヶ月足らずだという。いくつかの結婚式場と提携して、新婚旅行を主に扱っているらしい。奥の壁に貼られているポスターでは、宵子でも見れば分かるほど有名な世界各国の名所がいくつも紹介されていた。 ――あ。 すぐに向き直ろうとして、何となく視界の端に引っかかった人物で視線が止まってしまう。……彼だ。あの三鷹沢という嫌みな男。机に向かった女子社員の斜め後ろに立って、あれこれと言葉をかけている。その話に耳を傾けているのは、すぐそばのひとりだけではなかった。いつの間にか彼を中心に、数名の若者たちが集まってくる。多分仕事がらみの話なのだろうが、何とも明るくくだけた雰囲気であった。 この、こみ上げてくるものは何だろう。昨日もそうだった、今まで自分が知らなかった世界が目の前にどんどんと突き出されていく。そのたびに感じる、たとえようのない違和感、疎外感。 ……嫌だ、何よ。人を見せ物みたいに……! ガラスの壁の向こうで彼の口元が動き、何かこちらに伝えようとしているのが分かる。でも、宵子に出来ることはそのまま視線をそらして立ち去ることだけだった。
「どうしたの、遠慮してないで中まで入ってくれば良かったのに」 車止めをすり抜けて公園の中に入り、木陰のベンチにしばらく座っていた。軽く息を切らせながら彼が到着したのはほぼ定刻通り。前を開けたままのコートの裾が、風に大きくなびいていた。 「いえ、……そちらの仕事の邪魔になってもいけませんし。私は、あくまでも部外者ですから」 つっけんどんに言葉を返してみても、彼は柔らかく微笑んだまま。それが何とも気に入らない。社長の話では、謝礼も受け取らずに今回の話を引き受けたという。慈善事業というのだろうか、そんな態度も腹立たしいことのひとつだ。 「営業所のみんなに、誰なんだとしつこく聞かれてしまったよ。追及を振り切るの、大変だったんだから」 少しも困った表情など見せず、そんな風にうそぶく。その整った横顔に宵子はちらと冷たい視線を投げかけた。 「その言葉、そのままお返しします。あんな風に社まで来られては迷惑です、後輩たちに『是非、自分たちに紹介してくれ』としつこく言い寄られてとても困りましたから」 かなりきつい口調になってしまったとは思うが、それも仕方ない。来客で社長が席を外したあとは、しばらくは仕事にならないほどの質問攻めにあってしまったのだ。こちらとしても、昨日出会ったばかりの人間に何ともコメントしようがない。そう言って振り切ろうとしても、彼女たちがすんなりと引き下がるはずもなかった。 「ふふ、そう。宵子さんがそんなに困るなら、自己紹介くらい何でもないよ? 必要なときはいつでも言って欲しいな」 目のやり場に困るとはこのことだ。そっぽを向いていれば、何となく彼がこちらを見て嘲笑っているような気がする。かといってそちらに向き直れば、真っ直ぐな視線に心までが見透かされているような心地になってしまうのだ。だが、負けてはいけない。すぐに音を上げるなら、こんなところまでやって来る必要はなかったのだから。 「無駄な会話は結構です、早く本題に入ってください」 宵子の厳しい口調に、三鷹沢はおやおやと首をすくめて見せた。そう言うジェスチャーまでが欧米かぶれしているように思えて気に入らない。 「ここじゃ、寒いでしょう? 昨日の店に入ろうか、それともどこかで食事にする? 昨日は君にコーヒーをご馳走になったからね、今日は僕にもたせてよ」 「は……?」 一体何を言い出すのだ、思いがけないその言葉に宵子は眉をひそめた。こちらの不審そうな目つきに気付いたのだろう、彼は慌てて付け加える。 「ああ、新しい配属先が決まるまでは部屋を借りることも出来なくて、帰国してからはずっとホテル暮らしなんだ。食事のない安い部屋だから、あちこち出歩いているんだけどひとりの食事も味気なくてね。かといって、営業所のみんなと繰り出せば必ずアルコールが入るし。たまにならいいけど、こう毎日ではたまらないよ」 やれやれ、と言った手の動きも大袈裟で頂けない。本当に、いちいち何もかもがかんに障る男だ。 「残念ですが、今日は家族に何も言ってきませんでしたから、外で食事など出来ません。そう言うことでしたら、いくらでもお相手がいらっしゃるでしょう? 何でしたら誰かご紹介しましょうか」 伝えた言葉の後半はそのまま憎まれ口であったが、家族が待っているというのは正直なところだった。調べ物などをして帰りが遅くなることも多いが、ほとんどの場合食事は家で摂るように心がけている。母親もそれが分かっていて、どんな時間になっても待っていてくれるのだ。 「……ふうん」 彼は拗ねるように鼻を鳴らすと、おもむろにアタッシュケースを開いた。そこから薄いパンフレットのようなものを取り出してこちらに差し出してくる。ちらと見るだけで、海外商品の紹介だと言うことが分かった、文章も全て英文で書かれている。 「じゃあ、明日ならいいんだね。それなら、今日のところは宿題を出しておくよ。これの折り目を付けた頁、木製の椅子を30脚注文するんだ。でもこの資料には材質がきちんと明記されてないから、それを問い合わせる文面を考えて。あと、来月末までには手元に欲しいから、それも大丈夫かどうかあわせて訊ねるんだ。――了解?」 こちらが呆気にとられながらも頷くのを確認して、彼はさっさときびすを返す。グラビア印刷の独特の香りが漂う冊子をめくれば、該当の頁に500円札一枚と小さな手書きメモが挟まっていた。
つづく (051111)
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