TopNovel赫い渓を往け・扉>肩越しの風景・9




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 面会は定刻通りに始まり、20分あまりで終了した。

 だが、そうは言っても落ち着いたまま過ごせた訳はない。ロビーに一目でそれと分かるほどの強い存在感を伴った外人男性が姿を見せたときには、緊張のあまり頬が強ばってぴくぴくしているのが分かった。手のひらはその一瞬だけでじっとりと冷たい汗をかき、軽い目眩までしてくる。そんなとき、先に行動を起こしたのが三鷹沢だった。
  前に進み出た彼が、一体どんな会話をしているのか全く聞き取れない。後から聞いてみれば中学で習う程度の簡単な日常会話であったが、それだけ思考能力が停止していたと言うことなのだろう。二言三言のやりとりを終えた後、三鷹沢が振り向いて宵子を紹介する。「Syoko・Kataoka」というフレーズだけがかろうじて聞き取れるだけで、ブラウン社の営業部長・スミス氏が差し出す手を慌てて握り返していた。

 最初からの成り行きで、もしかしたら最後まですべて三鷹沢が引き受けてくれるのかと期待したのだが、その後の彼は宵子よりも一歩下がった位置で立っているだけ。表だってスミス氏の相手をするのはこちらの役目になっていた。会話のすべては把握している様子であっても、自分からその中に加わろうとする気はない様子である。
  必死に耳を澄ませて流暢な話し言葉を聞き取っていく。最初に自己紹介を聞いたときからそうかなとは思ったが、やはりスミス氏はいつも宵子が出しているエアメールを直接受け取るその相手であった。互いにそのことを承知した後は、驚くほどスムーズに会話が進む。気づけば約束の時間はすぐに過ぎていた。

 

「ずいぶん、リラックスしていたようだね。とても実践の英会話が初めてとは思えないよ、もしかして僕が慌てて駆けつけることもなかったかな?」

 客人が去った後、三鷹沢は白い歯をほころばせながらそう言った。宵子はとんでもないと首を横に振る。

「スミス氏の仰っていることはかろうじて聞き取れても、それに対する受け答えが全く浮かんで来なかったわ。きっとどんなにか心許ないと思われたでしょうね」

途中、聞き取りにくい部分があってどうしようかと思ったときには、すぐに彼が耳元でフォローを入れてくれた。自分は出過ぎた真似はせず、それなのにきっちりと役目をこなしていく。どうにかして自分の手柄を取りたいと躍起になる男性ばかり見てきた宵子にとっては、信じられない光景であった。 

「ふふ、そんなことはないでしょう」

 ちょっといい? と断ってから、彼はクロークの方に歩いていく。預けてあった紙袋を受け取ると、再びこちらに向き直った。

「ああいう場になるとね、立派な地位のある人だって緊張してしどろもどろになったりするものなんだ。その点、宵子さんは全く動じないからね。度胸が据わっていて、本当に頼もしかった。いざとなると、女性の方がずっと強いのかも知れないね」

 後から分かったことだが、このときに彼はスミス氏に対して「彼女は初対面でとても緊張している様子です」と断ってくれたそうだ。思いがけず会話が聞き取りやすかったのも、相手にかなりの歩み寄りがあったように思えてくる。
しかしその場ではそこまで気づくことは出来ず、とにかくは大仕事をやり終えた高揚感で心が満たされていた。

「あ、……じゃあいいかな? 僕はそろそろ戻らないと」

 三鷹沢がちらっと時計を見たときに、ようやく思い出す。

 そうなのだ、彼はまだ就業時間内であったのに無理を言って抜け出してきてもらったのだった。目的を済ませたら、すぐにでも飛んで帰りたいのが本心だろう。だいたい、この場にだって来なければいけない責任などなかったのだから。

 ――そうよ、もう彼の役目は終わったのだから。

 回転扉を抜けて外に出た瞬間が夢の終わりのような気がした。まだ学生の頃は「もしかしたら」と将来を期待したこともある。将来は英語に携わる仕事に就いて己の能力でどんどんやりがいのある仕事を掴んでいくのだ。だが、現実はどうだろう。きっと自分は今のまま、一生職場の片隅でタイプライターを叩き続けるだけの日々を送るに違いない。

 それくらいのことは、最初から分かっていたはずだ。高望みをしたところで、縁故も何もない自分がのし上がれる当てはない。それなのに、今は何故こんなに寂しいと思うのだろう。

「今日は本当に申し訳ございませんでした。本当に……なんとお礼を言ったらいいのか……」

 頭を下げるだけならタダだから、とはよく聞く言葉である。宵子も無意識のうちにそうして礼を尽くしていることが多くあった。でも今は違う。自分の正直な心のままに、感謝の言葉を述べていた。ひとりで大役を任されてしまったことで、目の前が真っ暗になっていたところを救ってくれたのは目の前にいる彼ひとりなのである。
  頼り切ってしまったことを申し訳なく思うばかりだが、彼以上の適任者はいなかったことも事実だ。もしも、当初の予定通りに社長があの場にいたとしても、自分がここまでスムーズな会話が出来たかどうかは分からない。

「いいよ、そんなかしこまらなくても。……実は僕としても渡りに船という感じなんだ、これで宵子さんに僕のお願いを切り出しやすくなったしね」

 他に誰が聞いているわけでもないのに、彼は少し小声になって耳元でささやいてくる。不思議に思ってそちらを振り返ると、先ほどの紙袋がすっと差し出された。

「その中に、招待状があるでしょう? こちらも急なお願いで申し訳ないのだけど、出来れば付き合って欲しいんだ。未婚既婚を問わず必ず異性のパートナーを同伴で、と言われちゃったからね」

 大きめの紙袋にはよくよく見ると、脇の方にあの日の靴屋のロゴがしっかり入っていた。

 

◇◇◇


「埋め立て地に新しく建設された見本市会場の完成披露パーティーなんだ。国内外からたくさんの招待客をお招きすると言うことで、社員は残らず駆り出されるらしいよ。丸二日間ぶっ通しで行われるみたいで、僕もそのひとつのナイト・レセプションにに参加するように言われたんだ。まあ、それだけならどうにかなるんだけどね……」

 欧米のパーティーではパートナーの同伴が常識となっているとのことで、今回はそれに倣うかたちとなったらしい。社長である一籐木月彦氏の提案によるものらしく、社内でも波紋を呼んでいるという。既婚者はそれほど迷うこともないが、そうでない者は一同に頭を抱えているらしい。何しろ、海外からの客人も多いパーティーだから、それなりの心構えがなくてはやりきれないのだ。
  家族や親戚が近くにいれば身内の誰かを頼ることも出来るが、彼の場合はそれも望めない。まさか一晩のパーティーのために遠い郷里から誰かを呼び出すわけにもいかないだろう。

「でも……それならば、いくらでもお相手がいらっしゃるでしょう? やはり、こういう場合は社内の方をお誘いした方が宜しいかと思いますけど……」

 三日後に迫った日付も躊躇う要因であった。夕方から開催されるパーティーは、見本市会場の一番大きなホールを使って行われる。立食形式の気軽に参加できるタイプのものだと三鷹沢は言うが、内容を見ると出席者はクラシックダンスにも参加するようになっていた。場慣れしていない人間は入り口のあたりで壁の花になってしまうのが関の山だろう。

「ううん、今日の宵子さんの姿を見て、やっぱり決まりだなと思ったよ」

 にこやかにそう言いきられてしまうと、もうそれ以上反論することが出来なかった。

 

 家に戻ってから包みを確認してみると、入っていたのは布張りのハイヒールだった。宵子の指よりも細いヒールが5センチ以上ある。全体に繊細なデザインが施され、シルバーサテンの色はどんな服装にも似合いそうだった。

「宵子さんは、また必ず靴のことを気にするのかと思ってね」

 さらりとそう言われてしまい、もう俯くことしか出来なかった。高校の卒業時の謝恩会用に母親が奮発して綺麗なドレスを仕立ててくれたことを思い出す。あのときは似合う靴がないと言うことで、ひとりだけ制服のままで参加したのであった。

 ――どうして私が、一籐木のパーティーに……。

 普通に考えて、まず有り得ないことである。全くの部外者であり、さらに三鷹沢と自分は特別な関係ではないのだ。もちろん彼の方もそれを承知の上だと思う。それなのに、何故……。
  それでも 自分はまだいい、周りは知らない人ばかりなのだから。だけど彼は違う、そこら中で友人知人に出くわすだろう。そこであらぬ誤解を受けて嫌な気持ちになるのは彼自身なのに。

 もともと、良い印象など持っていなかった一籐木という企業。もしも三鷹沢との出会いがなかったら、一生縁のない存在だった。大好きな篠塚のおじ様を裏切った、一籐木月彦という男。相手は自分のことなど全く知らなくても、その顔をTVや雑誌で見るたびに怒りがこみ上げてきた。今だって、その気持ちは全く変わらない。

 ……でも。

 そんな気持ちの片隅で、本当に少しだけ諦めきれない自分がいた。後にも先にも、こんな機会は二度と訪れることはないだろう。著名人も多く出席するというそのパーティーを覗いてみたい気持ちが確かにある。そうだ、一瞬だけちらっとだけでも。

 やはり、スミス氏との一件があったすぐ後だったからだろう。そうでなければ、決して首を縦に振ることはなかったと信じたい。

 

  膝下でふわふわと踊るオーガンジーのスカート。バレリーナのチュチュのように幾重にも折りたたまれたそれは、光の当たる角度によって色を変える。ウエディングドレスと同じ純白の素材が使われたそれは、身頃部分は身体にぴったりと張り付くデザイン。最初に仕立ててもらった頃からは若干サイズが変わっていたので、そこは母親にお直しを頼んだ。

「ごめんなさい、急に友達の会社のパーティーに頭数合わせで参加することになってしまって……」

 ここで「友達って、どなた?」と訊ねられたらどうしようかと思ったが、宵子の母親に限ってはそんな心配はなかった。いつでもおっとりと構え、娘のことを信用してくれる。それが有り難く、そして後ろめたかった。
  手直しを終えたドレスをもう一度試着してみると、そこら中に新しくパールが縫いつけられていることに気付いた。ノースリーブの袖ぐりには控えめなフリルまでついている。ローウエストのデザインは幼すぎず、宵子を年齢相応の美しさに見せてくれた。

「宵子さんはこんな大人っぽいデザインが似合うからとても羨ましいわ。私はいつも大きなリボンがついた赤やピンクの服ばかり着せられていたの。他の方の素敵なドレスを見るたびに、早くあんな服が似合うようになりたいなと思ったものよ……」

 背中のファスナーを引き上げてくれながら、母は静かにそう言った。抑揚のない、淡々とした声。でもそこに含まれた全てに宵子の胸は締め付けられた。

 大人のドレスが似合う年になった頃、母はもう「お嬢様」と呼ばれる身分ではなかった。裕福な実家から勘当され、母方の遠縁を頼ってこの家に移り住んだのである。それきり、二度と元の生活には戻れなかった。

「ほら、見て。本当によく似合うわ。髪は上げてしまった方がこのドレスには似合いそうね、そうしたら結び目には共布の造花を付けましょうよ」

 父親のない自分を身籠もってしまったために、母は何もかもを犠牲にしてきた。それなのに、今こうして明るく笑っている。思えば娘らしいことのひとつも、今までやってこなかった。男勝りの格好をして過ごす我が子を見るとき、母は一体どんな気持ちでいたのだろうか。

 ――ここに立っているのは、誰?

 母とは全く似ていない面差し。父親の全てを受け継いだ我が身が、どこまでも恨めしい。それでも母の笑顔に応えるために、必死にゆがんだ笑みをつくって見せた。

 

◇◇◇


「――宵子さん……!」

 夕方。最寄りの駅から少し歩いた埠頭公園で待っていると、少し遅れて彼がやってきた。片手にコートと白手袋を持ち、髪を後ろに流している。普段よりもさらにかしこまったその姿に、思わず目を見張ってしまった。

「ごめん、思ったよりも支度に手間取ってしまって。……良かった、怒って帰ってしまったらどうしようかと思ったよ」

 ブラックのテイルコート(燕尾服)が、三鷹沢の長身にぴったりと似合っていた。男性が正装した姿は結婚式などでお馴染みだが、どうしても「貸衣装」を身体に貼り付けているようなイメージがある。しかし、彼の場合は違った。

「どうしたの、……やっぱりおかしいかな? 何だか、こういう服装は慣れなくて恥ずかしいものだね。電車の中でも周囲の視線を感じて、嫌になったよ」

 その言葉には、慌てて首を横に振っていた。予約してあった貸衣装屋で着替えてそのまま来たのだと言われたが、その言葉を聞くまでは全てが自前のものなのかと信じていた。

「そんなこと、ないと思います」

 宵子の言葉に、彼はいつもの柔らかい笑みで応えた。それから、改めてこちらをまじまじと見つめてくる。何とも形容のしがたいその視線には、どんな風に構えたらいいのか分からないばかりだ。

「嬉しいな、想像していた以上に素敵だ。それにしても、宵子さんにぴったりなデザインだね。もしかして、お母さんの手作り?」

 母親が洋裁をしていることは以前話した気がする。それを彼は覚えていたのだ。他愛のない会話をひとつひとつきちんと覚えている彼に、時折こんな風に驚かされる。宵子は黙って頷いただけで、何の言葉も返せなかった。
三鷹沢ほどの人物ならば、今夜のようなパーティーは頻繁ではないにせよ、過去に何度も経験があるだろう。そのような場では、出席する女性は皆国内外名だたるデザイナーのドレスを美しく着こなしていたはずだ。彼の目から見て、一体今日の自分はどう見えているのだろう。誘った手前、こき下ろすことは出来ないだろうが、ほほえむ瞳の奥の本心が知りたいと思った。

「だっ、……大丈夫かしら? 私、何かとんでもない失敗をしてあなたに恥をかかせるんじゃないかと思って心配で仕方ないわ。本当に……パーティーなんて初めてだから……」

 そろそろ行こうかと促されても、なかなか足が前に進まない。この場所までは勢いだけでどうにか辿り着くことが出来たが、この先はそんな訳にもいかないだろう。急に心細くなると、共布のショールを羽織っただけの肩が冷たく感じられる。ぶるっと身震いすると、三鷹沢は手にしていた自分のコートを掛けてくれた。

「ちょっと格好悪くなっちゃうけど、仕方ないね。会場に着くまでは、それを羽織っていて。風邪でもひいたら大変だから」

 そう言うと、彼はまた淡く微笑んだ。

 

 会場の入り口から長く伸びるエントランスの向こうには大きな噴水広場がある。

 そこに辿り着くまでの煉瓦敷きの舗道脇には色とりどりの花々が咲き乱れ、変わったかたちのオブジェがいくつも置かれていた。芝生を美しく敷き詰めた庭園には、地面から間接照明がふわりと浮き上がり、あちらこちらに淡い光の花が咲いたように見える。

 オフィスビルが建ち並ぶ都会の一等地から目と鼻の先に造られたとは思えないほどのゆったりとした構えには、先を行く人々も溜息混じりに見入っていた。薄暗く闇に包まれ始めた風景の中央に、ぽっかりと浮かび上がる巨大なドーム型の建物がある。その場所こそが、今夜のレセプション会場だ。

 

「……気付かない? さっきから、たくさんの人が宵子さんに見とれてるでしょう。こんなに注目されちゃうのは、こそばゆいものだね」

 三鷹沢が耳元でささやく言葉が、どこまでも嘘っぽく思える。違う、周囲の人が視線を投げかけているのだとしたら、それは彼の方へ向かっているはずだ。最新モードの美しいドレスをまとって優雅な身のこなしで歩いている女性はたくさんいる。でも……三鷹沢ほどに見栄えのする男性にはここまでお目にかかっていなかった。やはり彼は誰から見ても、堂々と立派に見えるのだろう。

 受付を済ませて会場に一歩足を踏み入れると、そこは未だかつてないような人また人の洪水であった。見上げると吸い込まれそうになる円形の天井は、異国の大聖堂を思わせるような神秘的なデザイン。賑やかなさざめきの中に吸い込まれると、ここが一体どこなのか分からなくなる。

「やあ、真之。久しぶりだな、元気そうで良かった」

 入り口近くにいたこざっぱりとした青年が、にこやかに声を掛けてくる。しかし、同じ年頃のその男に三鷹沢はかしこまって深く頭を下げた。

「これは……幹彦様。ご無沙汰しております、英国への留学はいかがでしたか?」

 何ともちくはぐなやりとりを宵子は少し離れたところから見守っていた。短い会話を終えると、彼がこちらに戻ってくる。襟元のタイを直しながら、恥ずかしそうに首をすくめた。

「今の、社長の息子の幹彦様。ゆくゆくは一籐木の後継者と言われている方だよ。大学の卒業後、一年英国に留学していらしたけど、先頃お戻りになったようだね。実は彼、大学のゼミの後輩なんだ」

 やりにくいったらないよ、と苦笑いをする。宵子は人混みの中に紛れそうになっている先ほどの男をもう一度振り返った。あれが……社長の息子、一籐木の後継者? そんなすごい人物には見えなかったけど……。それにしても、三鷹沢はそのような人物とも普通に会話をしてしまうような間柄だったのだ。やはりただ者ではないのだなと再確認する。

 社内での人脈も相当のものがあるのだろう。その後も、次から次へと三鷹沢は知り合いから声を掛けられている。海外研修から戻ってすぐにあの代理店に出向になったので、長く顔を合わせていない者も多いのだろうか。一歩歩くごとにあちこちから声が飛ぶ有様で、宵子はいつの間にか置いてけぼりになっていた。

 ――なんか、やっぱり居づらいものね……。

 最初から部外者なのだと覚悟を決めていたから、今更それほどの落胆はない。自分の知らない、だがこれが本来の彼の姿なのだろうと思いつつその場の雰囲気を楽しんでいた。やはり、どこまでも一籐木とは途方もなく大きな企業なのだろう。全てが上昇の方向に吹き上げていくような空気が会場いっぱいに満ちている。

 

 しばらく経って、人が切れたのか三鷹沢がこちらを振り向く。手招きされてゆっくりと進んでいく宵子の肩先に、一夜限りのきらめきがゆらゆらと留まっていた。

 

つづく (060307)


 

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