TopNovel赫い渓を往け・扉>肩越しの風景・5




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 軽やかなベル音に、ハッと我に返る。その瞬間まで自分が何をしていたのかが、咄嗟には思い出せなかった。

 努めて平静を装って周囲を改めれば、そこはいつもの自分のデスク。目の前には黒塗りのタイプライターがどっしりと構え、今のベルは耳に馴染んだ行末の合図だ。全く上の空で仕事を続けてきた自分にようやく気づき、次の瞬間には行き場のない情けなさで胸がいっぱいになる。

 ――嫌だ、もう……どうしたことなのかしら。

 きちんと並んだ英文に間違えがないことを確認して、行替えをする。長めの単語が途中で切れてしまうときなどは修正が必要であったが、今回はそのままで大丈夫そうだ。無意識のうちに行っていた作業であったが、どうにか仕事になっている。そのまますぐにタイプを再開することも出来たかが、宵子は一度そこで手を止めて指先で眉間の辺りを押さえた。

 

 何とも形容しがたい感情が、自分の動きを制御している。歯車のささやかなズレから生じる軋みの様な感覚。今朝方、額の一部に感じた違和感が、時間を追うごとに広範囲を占めるようになってきていた。

 ――あの男と会わずに済むなら、それは幸いなことのはずなのに。

 思えば、最初に出会ってから三日間立て続けに、あの小憎たらしい顔を見てきたのだ。先日の別れ際「明後日に」と言われたその瞬間に、どんなにホッとしたことか。とりあえず、丸一日は全てを忘れて平穏に過ごすことが出来る。それにもかかわらずその日のうちに「宿題」を終えてしまい、そうなると妙にそわそわと落ち着かない気分になってくる。
  今回の内容は必要事項の確認のようなものであったから、本当に短くまとめることが出来た。一度文章に目を走らせると、そのまますらすらと返事の文面が浮かんでくる。今までは幾度書簡が往復しても、こちらの意向がなかなか相手に伝わらずにやきもきすることが多かった。直接の対話ではなく書面上のやりとりだからある程度は仕方ないと諦めていたが、少し見方を変えるだけでこれほどまでに楽になるのか。

 

 ――きっと、こんな風に無駄に待たされるからイライラしてくるんだわ。さっさとコレを渡して終わりにしたいのよ。そうに決まってる。

 最初から、ほんのわずかな時間に個人指導を受けるだけのことだったのだ。これだけの手応えを感じている今、すでに自分の中の躓いていた部分はかなり改善されている気がする。それもこれも、最初の時にこっぴどくこき下ろされたお陰であるのか。
  それに、もう二度と彼から食事に誘われない自信はあった。口では「楽しい夜だった」とか言っていたが、あんな風にけんか腰にテーブルを囲んで愉快なわけはない。彼自身は周囲の客や店の従業員たちと和気藹々楽しくやっていたが、そこに宵子の存在理由などなかった。
  職場の人間との付き合いばかりでは始終仕事のことが頭から離れない。だから、全くの部外者である自分を同伴しようなどと考えたのだろう。彼は頭のキレる人間だ、一度躓けばそこで即座に思考の転換を図れるはず。それだけが救いだった。

 この苛立ちは、「宿題」を提出した瞬間にすっきりと消え失せるのだ。自分に強くそう念じて、とにかくは就業時間が終わるまでは仕事に集中しようとした。

 

◇◇◇


 たった三日の間に、葉桜ばかりになってしまった並木道。歩道脇に吹き寄せられた花びらが、小さなつむじ風でふわりと舞い上がる。

 わざと遠回りをして、今日は彼の職場の前を通らないようにした。この前のように見せ物にされるのはたくさんである。そのために待ち合わせの時間には少し遅れてしまったが、この場所に立っているはずの人影は見当たらなかった。
  その後、こうして待つ時間もすでに三十分を越えている。そう言えば、何かのキャンペーンの締め切りが迫っているとか言っていたっけ。それもあって今日は彼の職場からほど近いこの場所を指定されたのだ。予定通りにコトが進まずにいるのかも知れない。

  待ち合わせの時間も遅めに6時ということで、宵子も定時まできっちりと仕事することが出来た。他の女子社員から少し遅れて帰り支度をしているときに社長の視線を感じた気もしたが、わざわざ説明することもないだろうといつも通りにそのまま帰宅するように出てきた。

 ――大丈夫よ、きっと期待に応えることが出来るわ。

 全ては今後の仕事で成果を見せればいいのだと言うことを、すでに宵子は承知していた。始終足場を確かめていないとならない今の状況は、正直なところ内心とても不安である。いくら現地点で社長からも他の社員からも重宝がられていたとしても、さらに有能な人材が入ってくればたちどころに切り捨てられてしまうだろう。だからとにかく進むしかない、前だけを見て。

 

 見上げれば、とっぷりと暮れた空に細い月が浮かんでいた。

 ようやくその存在を示すことが出来るこのかたちは三日月と呼ばれるものか。糸のように頼りなく、他に何も輝きのない場所に寂しげにぽつんとひとりきりで置き去りにされている。

「あなたが生まれたのは、月のとても綺麗な夜だったわ」

 いつだっただろうか、何かの話の途中で宵子の母はふと思い出したように話してくれた。かな読みならば「よい」と発音する漢字を当てられた名前。どこか月に縁があるのだと、教わる前から想像していた。

「夕暮れから急に陣痛がひどくなってきたのね。都喜子さんに助産婦さんを呼びに行ってもらったあと、気を紛らわせるために窓の外ばかり見ていたわ」

 十五夜前の特に美しい月を「宵月(しょうげつ)」と呼ぶのだと聞いたことがある。きっと自分が生まれた夜の月は、今日のものよりもずっと大きくて明るく辺りを照らし輝いていたことであろう。

「宵子ちゃんの誕生を、お母様はそれはそれは楽しみにしていらっしゃいましたよ。もちろん私や私の母も心を尽くしてお世話致しましたが、梓様の真心には遠く及ばないと思いましたね」

 篠塚のおじ様も、そんな風に教えてくれた。母から「都喜子さん」と呼ばれるその人こそこのおじ様の実の母親、使用人の立場でありながら館主に逆らって母を守ってくれた人物である。彼女が身を挺して母をかばってくれなかったら、その胎内にいた宵子も今こうして命を繋いでいることは出来なかったのだ。
  宵子に関わる者たちは、月を見上げると多かれ少なかれその日のことを思い出すらしい。その誕生はすでに暦の上では冬を迎える頃であったから、木枯らしの吹き荒れる寒々しい夜であったのか。夜空だけは高く澄み渡って、黄金の輝きが静かに街を見下ろしていたのだろう。

 想像するにも容易いことだ。宵子をこの世に送り出すために、母が失った多くのもの。その全てと引き替えに、さらに大きな愛で迎え入れてくれたことに感謝しなくてはならない。

 すでに嫁ぎ先も決まり確かな将来が約束された身の上で、周囲の反対を押し切って父親のない子を産むのはどんなにか大変なことであっただろう。自分が今その立場に置かれたとしたら、同じ選択が出来るかどうか謎だ。あの母の小さな身体のどこにそれほどまでに強い意志が潜んでいるのだろうか。
  母の生家であった「後藤家」という一族は、今はもう落ちぶれて皆が散り散りになってしまったと聞いている。戦後の混乱の中、以前の勢力をそのまま維持出来たかつての名家は少ない。時代の波に飲み込まれ、そのほとんどが姿を消した。嫁ぎ先であった「高倉」という実業家もその後失脚したと言うから、母の選択はある意味間違っていなかったとも言えよう。何とも皮肉なものである。

 ――だけど、……全ての始まりが「私」という存在であるとも言えるのだわ。

 母が生家を追われ、程なくして宵子にとっては伯父に当たる母の兄が後継者の椅子に座った。頭も良く皆から好かれる人柄だったと聞いているが、その優しすぎる気性では一族の当主の器ではなかったのだろう。精巧に作られた砂の城が崩れ落ちるように、ほんの数年のうちには資産のほとんどがなくなっていたと言う。
  わずかばかりの軋みから、広がっていった亀裂。後藤家の歯車が狂いだしたその発端に自分がいるような気がしてならない。もしも当初の予定通りに母が高倉という名の実業家の元に嫁いでいれば、多少の犠牲は伴ったとしてもあるいは乗り越えることが出来たのではないか。

 全ては、過去のこと。今更、何を悔やんでも始まらない。……それは分かっている、分かりすぎている。しかし、いつも心のどこかで悔いている。すまないと言う気持ちが絶えず宵子の心を責め立てていた。

 

 花散らしの風にすら吹き飛んでしまいそうなあの月こそが、自分の真実の姿を投影するにふさわしい。

 細く細く糸のようなか細い存在で、誰からも見守られることなく空を漂っていく。いつか夜のとばりに、自分の全てが飲み込まれてしまうことを祈りながら。

 指先が耳が冷たい。何のためにこんな風に待っているのだろう、もしかしたらあの男は自分との約束などすでに忘れてしまっているかも知れないのに。ああ、もうこのまま帰ってしまおうか。

 とっぷりと暮れた風景。ぽつりぽつりと続く街灯が、桜木の上からアスファルトをぼんやりと照らし出す。自分の吐き出す白い息がふわふわと漂う中、宵子は自分の足下に視線を落とした。
  つま先の方が白く禿げている、みすぼらしい革の紳士靴。古着屋で掘り出し物だったこれは、自分の足のサイズよりも少し大きくて大層歩きにくかった。だが、きついよりはよほどいいと自分を無理にでも納得させる。いつでも周囲が自分に合わせてくれることなど望んではいけないのだ。こちらが我慢すれば、どうにかやり過ごすことが出来るのだから。

 

 軽く溜息を落としたその時、遠く足音が聞こえた。

「――宵子さん……!」

 途切れ途切れに風に乗って耳に届いたのは確かに自分の名前。そして、さらに高い靴音が辺りに響き渡った。

 ハッとして顔を上げれば、翻る黒いコートが視界に飛び込んでくる。ほとんど人通りのない歩道を一直線に彼はこちらに急いでいた。街灯の青白い光を受けて、さらさらの髪が輝きを放つ。

「ごめん、遅くなって。なかなか抜け出せなくて、参ったよ。だいぶ待った……?」

 あっと言う間に目の前までやって来て、真っ直ぐにこちらを見つめる瞳。その口元で白い息が踊る。少し赤らんだ鼻先が、季節外れのトナカイのように見えた。親しみの心を全身で表現している、そんな態度がこの上なく不快に感じられる。何をそんなにうきうきと嬉しそうにする必要があるのだ。

「いえ、……別に」

 短く言葉を切って、宵子はその視線から逃れる。かばんの中の「宿題」を取り出すと、最初に渡されたパンフレットごと、彼の鼻先に突き出した。

「よくよく考えれば、そちらに出向いて受付の方にでもお渡しすれば用が済んだのですね。気が利かなくて、申し訳ございません」

 そう告げながら、全くその通りだと自分で納得していた。

 そうなのだ、何故こんな風に人目を避けてこそこそと会わなくてはならないのだろう。宵子の職場の方に出向かれるのは周囲の目もあるから少し不都合だが、「藤トラベル」のドアを開けて用事を頼むことくらいなら、何てことない。最初からそうしてしまえば、こんな風に無駄なやりとりを繰り返すこともなかったのだ。

「……あの、宵子さん?」

 渡された書類を少しの間合いを置いて受け取ると、彼はそれを捧げ持ったまま言う。こちらの言葉にかなり驚いた様子であることが、その表情から感じ取れた。

「どうしたの、もしかして……怒ってる?」

 予想外の声を掛けられて、ついうっかりと顔を上げてしまったのが間違いであった。困ったように揺れている黒い瞳の奥。まるで主人の顔色をうかがう飼い犬のようにも思えてくる。これでは自分の言動に非があったように感じられてしまうではないか。その刹那、宵子の頬がカッと熱くなった。

「別にそのようなことはありません。――仕事の途中で抜け出して来られたのでしょう? 用件はこれだけならば、もう宜しいですね。早くお戻りになって下さい」

 我ながら感情のこもらない、一本調子の声だと思った。普段は手にしている黒いアタッシュケースが見当たらない。前を留めずにただ羽織ってきただけのコートもそれを裏付けるものであった。
  馬鹿馬鹿しいにもほどがある、何故こんな風に夢中になってやって来たりするのだろう。別に今日の約束をすっぽかしたところで、この男に何のデメリットがあるとも思えない。もともと社長たちの話のついでに飛び出した口約束のようなものなのだ。真面目に捉える方がどうかしている。

「ああ、……そうだね。申し訳ないけど、その通りなんだ。どうにか折り合いをつけるつもりだったんだけど、思いがけず予定が押してね。まだまだ今日は帰れそうにないな」

 ――何も「申し訳ない」ことなんてないのに。馬鹿みたい、色々と理由を並べ立てる必要がどこにあるの?

 どこまでも白けた心で、宵子は男の言い訳する姿を見守っていた。何だろう、約束を違えることでこちらが気分を害するとでも思ったのだろうか。それならば、飛んだ考え違いだ。

 目の前の男は遠慮がちに腕時計を見る。かなり時間に制約があるようだ。すでに今日の用件は済んでいる、もうこの場所に留まっている必要などないじゃないか。
  名残惜しそうにされたところで、こちらには何の感情も湧かない。その辺にいる若いお嬢さんとは自分は何もかもが違うのだ。いちいち無駄に腹を立てることもないし、必要以上にプライベートな事柄に執着する趣味もない。今夜も何かを期待してここで待っていたと思われたのなら、甚だ心外なことである。

 宵子の苛立ちが伝わったのだろうか。男はコホンとひとつ咳払いをすると、やはり言い足りない言葉があったのだろう、思い切ったように口を開いた。

「あの、……ええと。実は君にお願いがあるんだ。少し迷惑を掛けてしまうと思うんだけど」

 そこまで告げると、彼はスーツの内ポケットから何かの紙切れを取り出した。

「明後日の日曜日、ちょっとした接待を頼まれてね。こちらで昼食の弁当を用意しなくてはならないんだけど、急なことだし勝手も分からなくて僕にはどうにも出来ないんだ。宵子さんはもともとこの辺りの人間だと言うし、色々と詳しいでしょう? 美味しいお店の情報も持っていると思って。もちろん、代金はきちんと払うよ。当日、この場所に、10時に届けてくれないかな? ふたり分」

 ――え、どういうこと?

 ぴっちりと折りたたんだメモを、すぐには開く気にもならなかった。こんな用事なら、会社の誰かに頼めばいいのに、何故こちらに話を回してくるのだろう。彼の仕事に宵子が力を貸す必要など全くない。そりゃ、色々教えてもらったのだから少しは恩を感じているが、それとこれとは話が別だ。人の弱みにつけ込んで雑用を押しつけるなんて、あまりにもマナー違反だと思う。

 頭の中でごちゃごちゃと考えていると、一瞬触れた彼の指先にかすかな震えを感じた。

「……冷たい。ごめん、だいぶ冷えちゃったみたいだね」

 その言葉を言い終える前に、彼はごそごそと自分のコートのポケットを探っている。やがて、明るい色の皮の手袋が差し出された。

「これ、使って。鹿の皮で出来てるんだって、結構暖かいんだよ?」

「……」

 何故、こんな風にするのだろう。人の持ち物など、安易に借りられるわけがないじゃないか。訳が分からないままに突き返そうとすると、彼はいいからと強引にそれを宵子の手に握らせてしまった。柔らかい手触りで、だいぶ使い込んである品だと言うことが分かる。しかし普段使いしているにかかわらずほとんど型くずれもしていないところを見ると、なかなかの品物なのだろう。

「今日、随分待たせてしまったお詫びだよ。君にとって指先は仕事をする上でも大切なものだからね、丁寧に扱わなくちゃ駄目だ。――返すのはいつでもいいから、ね?」

 いつになく強い口調に、あっさりと押し切られてしまう。彼は自分の言いたいことだけ言い終えると、それじゃあといとまを告げた。
  振り向く一瞬に、もう一度こちらに微笑みかける。それに応えられるはずもなく、宵子は最後まで彼の肩先の金ボタンを見つめていた。

  ――何だろう、本当に変な人。

 足早に遠ざかっていく背中を見送りながら、すぐさまそれをコートのポケットに突っ込んでしまえば良かった。何気なく自分の手にはめてしまったのは、やはり物珍しさがあったからだろう。
  皮の手袋は、衣料店などでもしばしば見かけるが、女物のそれはどれも宵子には小さすぎる。毛糸で編まれたものならある程度の融通は利くが、皮ではそうもいかない。かといって黒光りする紳士物も何となく気が引けて手に取れなかった。

 するっとあつらえられたように滑らかな手触り。ライトブラウンのレザーはぴったりと宵子の指を包み込んだ。指先に少しばかり余裕が残る。そんなことを確認することすら不思議な気分がした。

 

 ――どうするのよ、お弁当だなんて。今から料理屋に注文しろと言うの? そんなの自分でやればいいことじゃない。いくら忙しいからって、こっちに押しつけないでよ。

 話しぶりから見て、松花堂弁当のような本格的なものを望んでいる様子ではなかった。とはいえ、簡単なサンドイッチやおにぎりではあまりにも失礼に当たるだろう。それにある程度数の揃った弁当ならば注文するのも簡単だが、たったふたつとなると店の側でもかなり難色を示すに違いない。
  懇意にしている仕出しの店をいくつか頭に浮かべてみた。これから直にお願いに行くべきだろうか。でも多分、ああいう店は朝が早い分、もうシャッターを下ろす時間だ。急がないと今日中に頼むのに間に合わなくなる。彼からはこんな「宿題」までだされるのだろうか。本当に訳が分からない。

 

 先ほどまでの凍えが嘘のように、暖かい指先。

 柔らかい感触を確かめたくて、手袋をはめたままの手を頬にくっつけてみる。その刹那、ほんのりと鼻を突く香り。三鷹沢という男の放つタバコの匂いが、宵子の両手を包んでいた。

 

つづく (051217)


 

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