「北の玄関口」と称されるターミナルは、週末の賑わいに沸き返っていた。 本当に、どこからこんなに湧いてきたのかと思うほどの人混み。皆がそれぞれの目的のために右へ左へ進んでいく。その動きを眺めているだけで、都会暮らしには慣れているはずの宵子ですら目が回りそうになった。 ―― あ、いた。 その姿を見つけて、一瞬身震いしてしまう。これほどの混み具合では、下手をしたらお互いを見つけられないままで終わってしまうかも知れないと思ったが、それは杞憂であった。 歩行者用の信号が青になるのを確認して、宵子は小走りに通りを横切った。 「―― おはようございます」 午前十時という時間は、何とも中途半端だといつも思う。朝の挨拶をするには少し遅い気がするし、かといって「こんにちは」にはまだ早い気がする。 「やあ、すまないね。せっかくの休日なのに、ご足労願って」 瑞々しい春の日差しが降り注ぐ沿道だからだろうか、彼の笑顔がひときわ眩しく見える。どうしてそんな余計なことばかりを考えるのかと、自分で自分に腹を立てつつ抱えていた紙袋を突き出した。 「お待たせ致しました、お約束のものです」 彼が受け取って中を改めるその仕草も、仕事の延長のようないつものものとは違って見えた。否、もしかしたら違っているのは自分の方なのかも知れない。空っぽに戻ってしまった腕が、想像以上に寂しく思えてくる。大きな仕事を終えたあとにやってくる脱力感が、宵子の胸に忍び込んできた。 「ありがとう、助かるよ。昼食が楽しみだな」 そこまで言うと、一度視線を外して道行く人波を眺めている。その些細な沈黙が永遠に続くもののように思われた。 「宵子さん、これからの予定は?」 「……は?」 全く意図していなかった言葉に、驚いて聞き返してしまう。用件は済ませたのにいつまでもぼんやりと突っ立っているからそんな風に訊ねられてしまうのだろうか。そうじゃなくても、先ほどから三鷹沢の視線が気になって仕方ないのだ。勝手に自分ひとりが意識しているのだとは分かっていても、何とも居心地が悪く落ち着かない気分である。 「え……、ええ。別に用事もありませんから、このまま家に戻ります。最初から、そのつもりでしたから」 言い終えてしまってから、しまったと思う。何とも面白味のない返答ではないか。口から出任せでもいいから、途中で買い物をするとか言えば良かった。百貨店巡りをするほどの持ち合わせもないが、家に籠もっているにはもったいない日和である。 「ふうん、そうなの? 僕はまた、何か予定が入っているのかと思ってた。……違うの?」 思わせぶりな視線にも、黙って首を横に振るしかなかった。やっぱりそんな風に思われていたのか。無理はない、いつものスーツやコートは「たまの休みの日にくらい、しっかりと風通しをしなくては駄目になります」と母親に取り上げられてしまった。仕方なく着慣れないウールのフレアースカートに厚手のカーディガンを羽織ってきたが、タイツをはいていても足下が心許ない気がする。 暫くは宵子の方を黙ってみていた男だったが、そのうちにふっと頬を緩めるとまた一本、タバコを取り出した。そして、舶来もののライターで火を付けながら言う。 「……じゃあ、良かった。ちょっと付き合ってくれないかな? やっぱりこういう場所はひとりじゃ格好がつかないでしょう、人助けだと思ってさ」 「……?」 こっちだよ、と歩き出す彼をぼんやりと見守る。道行く人の誰よりも空に近い彼の髪が、新鮮な日差しを浴びてきらめいていた。 「あの……お連れの方はどちらにいらっしゃるんですか?」 ふたり分の弁当を用意しろと言ったのは彼の方だ。一体どういうことなのか、訳が分からない。しかし男の方は落ち着き払ったもの。少し歩いてからくるりと振り返り、その口元に淡い笑みを浮かべる。 「もう、とっくに来てるよ? ……僕の目の前にね」
◇◇◇
「宵子さん、おまたせ。はい、どうぞ」 しばし席を外していた男が戻ってくる。その手にはコーヒーの入った紙コップ。少し離れたところにあるスタンドで買ってきたらしい。 「やあ、こちらは静かだね。動物園の園内とは大違いだ。同じ敷地内とは思えないな……」 ふたつある紙コップのひとつをこちらに渡したあと、彼は宵子の隣に躊躇うこともなく腰掛けた。その瞳は湖面を行き交う水鳥の群れに向けられている。脚のラインにぴったりと吸い付くようなデザインのジーンズは膝の辺りが白っぽく変色していて、それがみっともなく思えないのも不思議だ。
―― 何で、私はこんなところにいるのだろう……? 気付けばまた、この男のペースに巻き込まれていた。行き先が親子連れで賑わう動物園だと知って驚いたが、彼はそんなことには全く頓着しない様子。ふたり分の入場料をさっさと払い、宵子の渡した紙袋を大切そうに抱えたまま入り口ゲートをくぐってしまった。 「ようやく、日本に戻ってきたんだし、ここは巷で噂のパンダとやらを一度拝んでおこうと思ってね。だって、連日TVのニュースでもその話題でもちきりでしょう。研修であっちに飛んだときにも開口一番『もう上野のパンダは見ましたか?』と訊ねられるし、乗り遅れているみたいで口惜しくてね。実物をしっかりと見て、語れるようになろうと考えてさ」 慌ててあとを追いかけてきた宵子に、彼は振り向いてそんな風に言った。 「宵子さんは、もう見た?」 その質問には黙って首を振る。彼はくすっと喉の奥で笑うと「やっぱりそうだろうと思った」と付け足した。 目の前にははるか前方の「パンダ舎」から伸びた長蛇の列。最後尾の看板プレートには40分待ちの文字が見える。のろのろと列は進んでいるように見えるが、その牛歩の歩みは見ているだけで気が滅入りそうだった。TVの映像ではもうお馴染みのこの光景であるが、目の当たりにするのは今日が初めて。 さっさと人の流れに乗るように列に並んでしまった彼は、置いてけぼりを食った宵子を手招きする。入場してしまったあとだから、ひとりだけ取り残されて無駄な時間を過ごすわけにもいかない。親子連れに挟まれるかたちで列に加わると、宵子の口元から大きな溜息が漏れた。
「……あの」 コーヒーを半分くらい飲み干して、ようやく意を決して口を開く。こんな風にいつまでも相手のペースに踊らされていてはたまらない。ここまで来る2時間以上の間にも何度となく切り出そうと思ったが、あまりにも多くの人目があったのでなんとなくやり過ごしてしまった。 「最初から、こんな風にだまし討ちをするつもりだったんですか? はっきり言って、不愉快です」 この一週間は、目の前の男から始まって終わったようなものだった。全く意図しない展開、自分の意志とは全く違う場所で繰り広げられていく光景に、半ば他人事のように従っていた。そして、その挙げ句に今日の暴挙である。これ以上、なめられてはたまったものじゃない。一度きちんと釘を刺さないと駄目だと思った。 「不愉快って……、だって本当のことを言ったら宵子さんは来てくれなかったでしょう?」 おやおやという表情で振り向いた男は、しかし全く悪びれる様子もなかった。覗き込むその瞳に吸い込まれそうな気がして、慌てて目をそらす。もう口惜しくて仕方ない、どれくらい人のことを馬鹿にしたら気が済むんだろう。すぐに言い返したいのに、上手く言葉が浮かばない。日本語を扱うことすら不自由になってしまった気がして情けなかった。 「当然です……! こんなことだったら、何で早起きなんかして――」 その刹那、また新たなる怒りがこみ上げてきた。サラリーマンの休日と言えば、貴重な安息日である。一週間の疲れを癒すために十分な睡眠を取り、普段は時間に追われて出来ない読書などに没頭する。宵子の日曜日も例外ではなかった。もちろん、友人からの誘いで外出することもあるが、そうすると翌日の月曜日まで疲れが上手く抜けなくて困る。 「あらまあ、宵子さん。……どうしたの、お店屋さんを広げちゃって」 さすがに狭い家では、全てが筒抜けである。物音に気付いたのか顔を見せた母親は、さすがに驚きを隠せない様子だった。しかし、それ以上は何も追及されなかったのでホッとする。あれこれと手を貸してくれながら、久し振りに母子ふたりで台所に立っていた。 「宵子さんだって、やる気になればいつでも出来るわ。だから大丈夫」 そんな風に言われたら、怠け者の心がさらに肥大してしまう。母の鮮やかな包丁さばきを目の当たりにして、宵子は自分の手元のおぼつかなさに落ち込んでしまった。 「ああ、もう。そんな風に怒らないで。ちゃんと謝ったでしょう、この埋め合わせだって考えているから。まだ帰国してから田舎にも戻っていないんだ、こんな風に手料理を食べるのも久し振りで嬉しかったよ。やっぱり店屋物とはどこか違うんだよな」 こんな風にさらりと言ってしまうのが、彼のすごいところだと思う。確か、実家はどこかの雪国だと聞いていた。今頃はまだ積雪があり、交通手段も限られているとか。一日二日の休みでは、往復だけでほとんどが終わってしまうらしい。 「実は、期待してたんだ。宵子さんは真面目だから、頼めばちゃんとやってくれるって。……そんな風にお洒落までしてきてくれるのは嬉しい誤算だったけどね」 真顔でそんな風に告げられてしまっては、一瞬言葉に詰まってしまう。絶妙なタイミングで怒りの矛先をそらされているようで、何とも腹立たしい。いつもそうだ。この男はこちらがどんなに本気で挑んでも、すんなりとかわしてしまう。まるでゲームのように、やりとりを楽しんでいる風にすら感じられた。 どうにかして、打ちのめしてやりたい。それが悪あがきだとしても。こんな風に軽々しく扱われては、たまったもんじゃない。今までも、「女だから」という理由で肩身の狭い思いをしてきた。これからもこの世界で生きていくのだとしたら、自分はもっと強くならなくてはいけないのかも知れない。 「もしも……私が約束を破ったら、どうするつもりだったんですか?」 三鷹沢はまるでその質問を待っていたかのように、嬉しそうに微笑んだ。ふわりと口元からこぼれ落ちる煙。小首をかしげるその姿は、彼を年齢よりもずっと幼く感じさせる。 「うーん、……そんなことは考えてなかったんだけど。だって、宵子さんは絶対に来てくれるって思ってたから。だいたい、君の中にそんな選択肢はあった? 最初にお願いしたときから、全然疑ってなかったんだけど。……でも、そうだね。言われてみれば、その方が変かな」 自分の思いつきが、そんなにおかしかったのだろうか。彼は一頻りくすくすと楽しげに笑っていた。そして、ふと思いついたように真顔になる。 「宵子さんのことを考えるとね、楽しいことばかりが思い浮かぶんだ。こんな風にしたらいいなとか、こんなのも面白いかなって。だから、マイナスの思考には至らないみたいだ。自分でもとても不思議なんだけど、今では会社の奴らといるよりも宵子さんと一緒の方が楽しいと思うよ」 「……?」 綺麗な瞳だった。もちろん、日本人特有の闇色のそれは嫌と言うほど見慣れているはずだ。どう考えても宵子のように茶味の強い瞳の持ち主の方が珍しいだろう。 「お褒めにあずかり光栄ですが。……あいにくそのように考えて頂いても、こちらとしては迷惑ですから。何も知らない小娘だと、馬鹿にしないで下さい。こちらとしても相応にわきまえているつもりです」 最初から、こちらの方が置かれたポジションが下になっている。教えを請う立場にあって、強気で突き返すのは道理にかなっていないかも知れない。だけど、これ以上は頂けないと思う。いくら社長命令とはいえ、この屈辱はないだろう。何が悲しくて、こんな風にわざわざ弁当まで作ってこの男のいいなりにならなくてはいけないのだ。軽々しく扱っていい存在だと思われたら、心外である。 「……そうなの?」 だが、戻ってきた言葉は意外なものであった。三鷹沢は宵子の顔を不思議そうに見つめている。こちらの言葉が本気で理解出来ていないようだ。 「宵子さんは僕の話を楽しそうに聞いてくれたじゃないか、それがとても嬉しかったんだけどな。研修先での話とか、あまり仲間内にもしないんだよね。皆、変にプライドが高いし、『お前だけいい目を見て』みたいに突き放される気がする。その案配が難しくて、どこにいても居心地が悪かったんだ。でも、宵子さんならそう言う気兼ねがいらなくて、それなのに話も通じるし。ああいいなと思ってたんだけど……」 溜息と共に吐き出される煙。長い帯になって、やがて辺りに溶けていく。 「君といると、本当に楽しいよ」
その時、ふと気付いた。 もしかすると、この男は全く次元の違う話をしているのではないかと。 彼はいわゆる「エリート」である。もちろん、所属している「一籐木」という会社も一流であるが、その中でも最速の出世頭になっているのだろう。周囲から異端の目で見られることもあるに違いない。そう言う意味では、こじつけではあるが少しだけ自分と似ているところもあると思った。 米国などでは、女性も仕事上では男性と肩を並べることが出来ると聞く。そういう先進的な考え方は日本ではまだまだ奇異のものと思われていたが、彼にはすでに根付いているのだろうか。 そこまで確信するには、まだ早急だと思う。だが、心のどこかでこんな人間との出逢いを自分も求めていた気がする。同性の友達ならばすぐに恋愛や結婚の話ばかりになるし、かといって異性相手だとよからぬ期待をされることに辟易していた。世の中はそんなものだとすでに諦めかけていたが、まだ望みは残っていたのかも知れない。
宵子はゆっくりと立ち上がった。そして、三鷹沢の手からすでに空になっていた紙コップを奪う。自分の分とふたつ重ねて、少し歩いたところにあるくず入れまで捨てに行った。振り返った口元には自然に笑みが浮かぶ。 「……この代償は高く付きますけど、宜しいのですね? 夕食は存分に期待してしまいますよ」
―― もう少し、もう少しだけこの男の側にいたい。もしもお互いに同じものを感じているのなら、それを突き詰めてみたい。 そう思ったときに、宵子は今まで張りつめていた全てから解き放たれて初めての自由を手に入れた気がしていた。
つづく (060116)
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