世の中には、知らされないまま過ごした方が平穏に暮らしていける真実が溢れている。 幸か不幸か幼くしてそれに気付いてしまった宵子は、人の言葉というものに必要以上に神経質になってしまっていた。 まだ足下もおぼつかないほどの昔。母に手を引かれて通りを歩けば、道ばたを陣取っておしゃべりに花を咲かせている井戸端会議の一団の目がちらりちらりとこちらを向いているような気がする。綺麗におしろいをはたいて紅をひいた顔が、いつの間にか歪んで化け物のように見えてきた。それがたまらなくて慌てて下を向く。人見知りな行為が「可愛げがない」と疎まれていることもとっくに知っていた。 「こんにちは、今日は久しぶりにお天気がよろしいですね」 彼らの脇を通り過ぎるとき、宵子の母は明るい声でそう挨拶をした。おっとりとした物腰、世の中には決して悪い心を持った人はいないと信じ切っているような澄んだ瞳。あの頃から母は少しも変わらない。どこまでも不思議な人。誰かを恨んだり妬んだりすることなど、一度もないままに生きてきたのではないだろうか。 エプロン姿の婦人たちが一斉に振り向いて、おのおのが取り繕ったような笑みを浮かべる。まるで同じかたちのお面をかぶったみたいに。だが、母はそれにも全く動じることはなく柔らかな笑顔を崩すことなくその場を離れた。 自分たちが立ち去った後、彼らがどんな話をしているか想像するのは容易かった。母と自分の身につけていた服のこと、買い物かごの中身のこと。誰にも迷惑など掛けることもなく静かに暮らしている母子に周囲の目はあまりに冷たかった。母はそれを嘆いても良かったはずである。だが、宵子の知っている彼女はいつでも全てに感謝して有り難く生きている人であった。 ―― お父さんって、一体何? よその家には夕方になると鞄を提げたスーツ姿の男の人が戻って来た。玄関を開けて「ただいま」と言い、家族はそれを出迎える。しかし、宵子の家に「ただいま」と戸を叩く男性はついに現れることはなかった。 私とお母様は捨てられてしまったのだ。捨て犬のように段ボール箱に入れられて雨ざらしにされることはなかったけど、それでもそれと同類の仕打ちをされた。近所の噂話からその答えに辿り着いたときの愕然とした気持ちは、今でも昨日のことのようにありありと胸に残ってる。
―― 私も、お母様と同じ気持ちにならなくてはいけないと言うの……?
湯飲みを応接室に運ぶことも出来ないまま戻ってきた宵子を見ても、副社長は咎める言葉を発することはなかった。それどころかこちらの体調を気遣う言葉をあれこれとかけてくれる。今日は急ぎの仕事がないことを知ると、このまま早退したほうがいいと提案された。 もしも、一度耳の奥に落ちてしまった言葉を取り出す方法があれば、何も知らなかった心に戻れるのだろうか。そんな風に考えてしまう自分があまりに滑稽で、可笑しくもないのに口元が緩んだ。柔らかな春風が、通りを過ぎていく。行き交う人々の服装も淡く明るいものに移ろい、つい半月ほど前までの重々しさが微塵も感じられなかった。 もう、嫌だ。何もかも、考えることすら辞めてしまいたい。 こんな風に投げやりな気分になったのは、何も今回が初めてではない。今までの人生の中で、幾度となく石畳の上に突き倒されるような挫折を味わうことはあった。 考えてはならないことだとは知っていた。だが、どうしても行き着く先はそこしかない。どんなに深く母の愛を受けようとも、やはり心の奥ではそのぬくもりを疑っていた。
◇◇◇
「ここは……」 驚いたことに、幹線道路沿いに歩いているうちに駅をいくつも過ぎる距離を進んでしまったらしい。いきなり目の前が開け、見覚えのある風景が現れた。無意識のうちにいたのに、何とも因果なことである。そこは三鷹沢が当座の職場としている旅行代理店のすぐそばであった。
――どうせここまで来たのだから、会って全てを問いただしてしまおうか。 一瞬だけ心が動き、そのあとすぐに打ち消していた。慌てて取り繕う滑稽な姿を見れば、少しは気も晴れるかも知れない。だが、それが何になると言うのだ。結局、後には言葉巧みに騙された自分の惨めさが色濃く残るだけではないか。 恨みきれるものならば、そうしてみたい。大声で罵倒できるならどんなにいいだろう……、でもそれは無理だ。 忘れるしかない、最初からなかったことにして自分の記憶から消してしまうしかない。全ての魔法が解けたのだと、納得してしまえればいいのに。
「……迷惑って! そんな風に仰ること、ないでしょう? ひどいわ、真之様! 昨日のこと、きちんとご説明くださるまで、わたくし断固として戻りませんからね」 突然、辺りをつんざくような金切り声が聞こえ、思わずその方を振り向いていた。 いつかの待ち合わせの公園、植え込みに隠れた辺りからそのやりとりは聞こえてくる。聞いてはならない、宵子の本能はすぐさまそう悟ったが、彼女の足はまるで地面に吸い付いてしまったかのように動かなくなっていた。 「もう、信じられないっ! あのように皆の前で恥をかかされて、わたくしが黙っていると思われたの? 真之様が日本にお戻りになったと聞いていたなら、わたくしは迷わずにあなたをパートナーに指名したのに。そうでしょう? わたくしたちのことは、もうすでに皆が承知していること。お父様だって、お許しくださっているわ。なのに……肝心のあなたがそんな風に逃げ腰でどうなさるの……!」 女性の声はかなり若く、それでいて全く遠慮というものがなかった。留めようのない苛立ちがはっきりと伝わってくる。 「そのように仰っても……困ります、私はまだ勤務時間内ですから。一籐木が社員の規律にことのほか厳しいことはあなたもご承知の上でしょう、千鶴子様。それにこのような場所に社長のお許しもなくお出でになっては、大変なことになります。そうでなくても、この頃は物騒な事件が多いですし……」 必死になってなだめようとしているその声を、宵子が聞き違えるはずはなかった。その響きが鼓膜をくすぐるだけで、心までが深く満たされる永遠の音色。いつの間にか宵子の心の全てを包み込んでいたその人のものに間違いなかった。そして、……一方の相手は。 「千鶴子様」……たった一日前の記憶である。そのときに聞いた数少ない名前を忘れるはずはなかった。そうだ、確か一籐木の社長の娘だと言われた人。あの、バラ色のドレスを着た美しい人に違いない。 「だからっ! そのくらいこちらが真剣な気持ちでいることがお分かりになるでしょう? 真之様、この頃はなかなか家にもいらしてくれなくて、わたくしはとても寂しく思っておりましたのよ。家柄や育ちが何だというの、お父様はそのようなことを厳しく仰る方ではないわ。 ぱしっ、と鋭い音が辺りに響く。 「わっ、わたくしの受けた痛みはその程度じゃないわ。何故、この期に及んでそのように躊躇われるのっ! わたくしの気持ちはもう十分にご存じのはず。なのに……ひどいっ、ひどすぎるわっ!」
――何……? 一体、どういうことなの? すでに混乱の極みにあったはずの宵子の心は、さらなる大きな力に揺さぶられ今にもなぎ倒されそうになっていた。 「……一籐木氏のお嬢様のおひとり、千鶴子様だよ。先ほどの幹彦様の妹に当たる方で、今年大学に進学されたんだ」 確かに、三鷹沢はそのように彼女のことを説明した。その一編通りの言葉に、宵子は何も疑うことはなかったのである。しかし、今のやりとりを聞いた限りでは、とてもそれだけの関係とは思えない。そう言えば、あの一籐木社長の口振りからも、三鷹沢が幾度となく社長宅を訪問していることが伺えた。それであれば、そのときに家人である千鶴子と顔を合わせることもあっただろう。 何故、こんな場面に出くわさなくてはならなかったのか。とんでもない偶然が再び訪れたことが恨めしく思えて仕方ない。いつでも気付かなくていい事実ばかりが、まるでせせら笑うように我が身に降りかかってくる。
女性の方はすでに涙混じりの声に変わっていた。それほどに口惜しい思いをしているのだろう。 「あっ、あんな女っ! どうせお金で雇った相手なんでしょう? どういうおつもりなの、わたくしを遠ざけるために仕組んだのだとしたら、情けない限りだわ。あのような猿芝居に惑わされると思っていらしたの? あんな人、真之様にふさわしくないわ。それくらい会場にいた誰も彼もが気付いていたはずよ、わたくしの方がどんなにか……!」 「――おやめください!」 まるで石つぶてのように次々に打ち付けられていた言葉たちが、彼の声でぴたりと止んだ。どこまでも感情を押し殺した、それでいて有無を言わせぬ鋭さが短い言葉の中に込められている。こうして隔てられた場所にいる宵子にもそれが感じ取れたのだから、目の前で聞いている人には尚更だろう。 「とにかく、ここはお引き取りください。分かっていますよ、あなたがおひとりでここまで来られたわけではないことくらい。すぐそばに車を待たせているのでしょう、――私が運転手の方をここまでお呼びしましょうか?」 区切られた言葉のひとつひとつが、凛として春色の空気の中に染み渡っていく。人はここまで残酷になれるのか、そう思わずにはいられないほどの冷ややかさが感じ取れる。 「けっ、……結構よっ! ひどいわ、真之様! そんな風に仰って、きっとすぐに後悔なさるんだからっ……!」
まずい、と思ったときはもう遅かった。 植え込みの向こうから飛びだしてきた女性が、すぐにこちらに気付く。見上げると、淡いピンクのスプリング・コートが凍えるほどに青筋だった厳しい顔が見えた。 「……まあ、これは。偶然、……ではないのでしょう? どうなさったの、わたくしたちのことが気がかりで立ち聞きしていたのかしら」 片手でへし折れるほどの細い手足をした小柄な若い娘から、何者にも例えがたい威厳を感じる。昨日の見本市会場で出会ったときほどの華やかさはないにせよ、彼女の内側からは確かに一籐木の一族としての誇りが隠しようがないほどに満ちあふれていた。 ああ、やはり。この人は「選ばれた」存在なのである。生まれ落ちたその瞬間から宝物のように大切に育てられ、誰よりも美しく気高く成長した。手入れされた綺麗な髪がその気性を知らしめるかのように真っ直ぐに胸までのびている。彼女こそが、欲するものの全てを手に入れられる存在なのだ。 今まで受けたどれよりも強い蔑みの眼差し、勝ち誇った微笑みを浮かべた口元がするりと動いた。 「このっ、……泥棒猫っ! 身の程知らずもほどほどになさい、見苦しいわ!」 目の前でふわりと翻るコート、コツコツと遠ざかっていくヒールの音を聞きながら、宵子はぼんやりとただその背中を見守っていた。確かに重なり合った視線、その瞬間に全てを知る。 彼女の中にある強さと熱さ、そして……。 こんな風に自分が考えていると知ったら、彼女はまた怒りに燃えた目でこちらを蔑むのだろうか。だが、間違いはない。彼女の瞳の奥にあったのは、自分のよく知っている感情だった。 ―― この人もまた、同じ心を持っていたのだ。 胸に張り付いたままの感情が、無理な力で引き剥がされていく。そして宵子は改めて気付く、自分の中にはもう抜け殻の心しか残っていないことを。 ぴたりと同じ重さの感情を持ち合わせていたふたりがいたのだとしたら、その勝敗は初めから見えている。
「し……宵子、さん……」 この場所にいるはずのない存在、それに驚いたのは何もたった今立ち去った彼女だけではなかったようだ。不思議なほどに静かで穏やかな心。かすれる声に呼びかけられて、宵子は静かに振り向いた。
◇◇◇
向き合った先にある眼差しには先ほど感じ取った冷たさなど微塵もなく、そこには宵子がずっと触れていた優しい親愛に満ちた笑顔だけがあった。赤く腫れ上がった片頬が、先ほどの惨事を伝えている。素手だったのか、あるいはその手にしていたバッグを振り上げたのか。彼女の怒りはそれほどまでに大きく膨らんでいた。 「いいえ、……そんなことないです」 視線をするりと石畳の上に落として、宵子は静かに首を横に振った。一体、どんな顔をすればいいのかそれも分からない。ほんの数時間前まではその名を思い浮かべただけで心が軽やかに躍り出すほどだった存在を目の前にして、しかし自分の頬は美術室に置かれていた石膏像の如く硬く冷え切っている。 そう、ようやくここに来て、全ての疑問が晴れていく。彼の不可解な行動のひとつひとつが、宵子の中で紛れもないひとつのかたちとして完成した。 「外回りから戻ったところを待ち伏せされていてね、相手が相手だから邪険にすることも出来ないし他の社員の手前もあって……だから、その」 色々なことがいっぺんに押し寄せてきて戸惑っているのは目の前の彼も同じなのだろう。どうにかして説明しようと試みているようだが、なかなか上手くいかない様子だ。しかしその姿も、宵子が想像していたような滑稽なものとは違い、真っ直ぐに自分の気持ちを伝えようと必死になっているのがはっきり見て取れる。それがたまらなく悲しかった。 「もう、お戻りになった方が宜しいですよ、三鷹沢さん。いくら仮の勤務先とは言っても、いい加減にしては良くないでしょう……?」 助け船を出してやったつもりであった。だが、しかしそれよりももっと大きな部分でもうこれ以上の言葉を耳にしたくないという欲求が強く働いていた。今なら大丈夫だ、まだ簡単に他人に戻れる。そもそも初めから何を望んでいたわけでもない、出会うはずもなかったふたりなのだから。 「……宵子さん?」 こちらにのばしかけた腕が、そこで止まる。柔らかく開いていた手のひらがゆっくりと握りしめられ、そのまま彼の脇に収まった。 「あの、怒っているの? その……もしも先ほどの千鶴子様の言葉が気に障ったのなら、僕が代わって謝るよ。確かに彼女はひどい言葉を言った、だけどそれには僕自身の責任もあるんだ。こんな風に曖昧に済ませてはならなかったのに……」 「いいんです、もうそれ以上は仰らなくて」 彼の言葉を途中で遮って、宵子はまた首を静かに横に振った。そして、一文字に結んだ唇の奥で、強く歯を食いしばる。一度そうして持ちこたえなければ、自分の心を支えることは出来なかった。 「私、それほど馬鹿ではありません。そりゃ……三鷹沢さんのような優秀な方からみたら、ほんの小娘にしか思えないかも知れませんけど。でも、大丈夫です。これでも物わかりはいい方だと思いますから」 ささやかなやりとりを積み上げて、互いの間には確かな信頼関係が築かれていると信じていた。でも、所詮それは砂の城。しっかりとした心の結びつきもない虚像でしかなかった。ほんの少しのきっかけで、こんな風に脆くも崩れ去っていく。 そう、……最初から信じなければ良かったのだ。愚かだったのは自分だ、相手が悪いわけではない。 「私……あなたに利用されたのですね? あのお嬢さんとの仲を台無しにするためのお芝居に駆り出されたんだわ。でもそれなら、どうして先にそれをはっきりと教えてくださらなかったのですか? 最初から分かっていたなら、その方がずっと上手に立ち振る舞うことが出来たのに」
一籐木グループに属する全社員が駆り出されるとされる一大イベント。昨夜行われたパーティー会場に彼のパートナーとして参加するのは、何も自分である必要はなかったのだ。普通の状況であれば、勤務先の女性社員のひとりに頼んでことが足りたはず。だが、今回の場合はそれではいささか都合が悪かった。 一籐木の社長宅に幾度となく足を運ぶうちに、その家族と顔なじみになったとしても少しも不自然ではない。いくら社長令嬢という身分にあっても、彼ほどの人物を前にすれば心を動かされるのは当然だ。あの感じでは、ずいぶん入れ込まれていたのだろう。こんな風に職場に押しかけられたのも、今回が初めてではないのかも知れない。 ふたりの間には何もなかったと信じたい。そこまで疑ってしまったら、もっと自分が惨めになる。利用されたという立場は同じであっても、そこまで自分をおとしめたくはなかった。
「えっ、……何? どうして、そんな風に言うの。待ってくれよ、宵子さん。それは誤解だ、違うんだ」 こちらがすっきりと話を切り上げようとしているのに、三鷹沢は往生際悪く食い下がってくる。もしも、もうひとつの事実を知らないままなら、まだ自分の中にはこの男に対する思慕の心が根強く残っていただろう。だけど、もう全てが遅い。最後の切り札は、彼が知らない場所ですでに暴かれているのだ。 「誤解じゃないでしょう? もう、全部分かっているんですから、言い訳なんてしないで! 最初から、英文の指導をするなんて口実でしかなかったんでしょう? どうしてそんな回りくどいことなんてしたのですか、分からないように済ませれば私のことなんて簡単に騙せるって思ったんでしょう……!?」 やはり最後の方は冷静なままでは終われなくなっていた。どんなに感情を抑えつけようとしても、それを上回る怒りがこみ上げてきて止まらない。しかし、ここは耐えなければ。これ以上惨めにはなりたくない。 「そんな、……どうして」 しかし彼は、この期に及んでまだ食い下がろうとする。大げさなほどに首を横に振って、どうにかして自分に注意を向けさせようとする仕草が滑稽であった。だが、その姿を見ても、宵子はやはり笑うことが出来なかった。 「今まで、……本当にお世話になりました」 深々と頭を下げた後、ゆっくりと彼に背を向ける。とっくに滲んでいると思った風景は、想像に反してどこまでも鮮明に宵子の視界に焼き付いた。
つづく (060427)
|
|
|