夕暮れまでには時間があるからと、神田神保町まで繰り出す。そこで古書に埋もれて数時間を過ごすことになった。何でも、以前から探している洋書を見かけたという情報を知人から仕入れたらしい。曖昧な話だったので、結局ずらりと並んだ一軒一軒をしらみつぶしに回ることになり、しまいには船酔いにも似た目眩を覚えた。
「大丈夫? 疲れたでしょう、途中で休んでくれても良かったのに」 狭い階段を下りつつ眉間の辺りを指で押している宵子を振り向きながら、前を行く男が声をかけてくる。探し物が見つからなくてがっかりしているのはむしろ彼の方なのに、その表情には少しも暗いものがない。まるでこの状況すらも楽しんでいるようにさえ見えた。 「いいえ、平気です。……大したことはありませんから」 正直なところ、最後の方はやめたくてもやめられない感じになっていた。 今度の店で見つかるかも知れないと思った瞬間に、ゲームのように楽しくなってしまう。気持ちばかりが先走りして、身体がついて行かなくなった。さらに山積みにされた膨大な本を眺めていると、それだけで精神力までが吸い取られていくような気がする。これが「活字に酔う」ということなのだろうか。 「ふふ、宵子さんはやっぱり根性あるよな。本当に、頼もしいや」 店の外に出てから、「失礼」と断ってタバコに火を付ける。三鷹沢は宵子の知る限りではかなりのヘビースモーカーであるように見受けられた。それでも一応のTPOはわきまえているらしい。吸うときでも風下の方に立って、煙がこちらに来ないように気遣ってくれた。 パリ・セーヌ左岸の古本街とよく対比される神田の大書店街。道の片側、その間口が北側や東側になるように並んだその理由は、書物が強い西日を嫌うためだと言われている。戦前から学生の街として栄えたこの通りを、大学進学のために上京して目の当たりにしたときは本当に驚いたと三鷹沢は懐かしそうに語った。 「何しろね、田舎はどっちを向いても山しかないような場所だったし。通っていた小学校は分校で、三学年が同じ教室で授業を受けていたよ。あの頃の僕にとっては、東京もワシントンも同じくらい遠い場所だった。中学の時だって最初の一年で図書室の本を全部読み終えてしまって、仕方ないから隣の中学まで出掛けたりしていたっけ。新聞だって、数日遅れて届くような有様だったしね」 宵子にとっては、彼の話の方が信じられないばかりであった。母と共に東京の昔ながらの家が並ぶ住宅街の一角で幼い頃からを過ごし、自分の生活を少しも変えることなく今に至る。何もかもが違いすぎて、そのせいかかえって違和感を覚えることもなく会話が成立した。 「わずかな仕送りと奨学金と、それを切りつめるだけ切りつめて欲しい本を買い漁った。本っていうのはいつまでも変わらないもののような気がしてしまうけど、少し前に発行したものが瞬く間に書店の店頭から姿を消すあっけない一面もある。それだけに、欲しいと思ったときはすぐにでも手にしておかないと二度と巡り会えなくなるから。そうやって、逃したものがいくつもあるよ」 今でも余りの口惜しさからか夢に見ることまであると、彼は笑う。ゆっくりと歩く九段坂。押しつけがましくない語りの合間にこぼれる笑みに、思わずつられそうになる。 「そんな感じで、いつのまにか東京を飛び越して海を渡るようになってしまったんですね」 大手航空会社がジャンボ機を導入し、それまでの船旅からは考えられないほど海の向こうが近くなっていた。気楽に海外へ旅行出来る時代がやって来たとは言われていたが、宵子にはまだそれは夢のまた夢のような気がする。金銭的な負担もさることながら、とても自分と関わりのある事柄のように思えなかった。 だが、目の前にいる男は違うのである。彼はどこまでも羽ばたいていける存在だ。 「あはは、そうかも知れないな。それに田舎の両親にとっては、僕が東京にいようが米国にいようが大して変わりはないようだよ。もともと、そんな感覚なんだろうな」 一度大きな河を越えてしまった三鷹沢にとって、もうそれ以上に大きなハードルは存在しないのだろう。彼がどこまでも自由奔放に見える原因はそこにあるのではないだろうか。 夕暮れの坂道。本当に色々な話をした。 仕事の枠を離れた気楽さもあったのだろう、彼もいつもよりずっと饒舌であったし、宵子も素直に聞き入ることが出来る。まるで10年来の仲間のように、あえて言葉にしなくても通じ合える不思議な感覚が芽生えていた。
案内されたのは、小さな居酒屋。 厨房をコの字に囲むカウンター席の他は四人掛けのテーブルがふたつしかない。背の高い彼が頭をかすりそうな梁が低い天井いっぱいに張り巡らされていて、誰も知らない秘密の穴蔵のように思えた。 「店の親方が、自分の足で全国津々浦々を回って探し出してきた地酒がいっぱい置いてあるんだ。有名無名そんなの全然関係なくて、値段も驚くくらいお手頃でしょう。ほら、これは僕の田舎の奴なんだ」 ずらりと並べてある一升瓶のひとつを指さして、彼はしみじみと言う。光を通さない茶色のガラスの中は、白くよどんだ液体で満たされていた。 「濁り酒なんだけど、見た目ほどはきつくないよ。少し、味を見てみる?」 手のひらサイズのコップに半分ほど注がれたそれを一口含む。どこか白酒を思わせる、甘い果実の香りが口の中に広がった。 「美味しい……」 思わずこぼれた言葉に、彼は嬉しそうに頷いた。味噌仕立てのモツ煮もレバーの刺身も最初は箸を伸ばすのが躊躇われたが、慣れてみると思いがけずに後を引く味である。 「でしょう、最初は驚くんだけどね。やっぱり、何事も実践が一番だから。そういうものでしょう……?」 「もう一口」と箸を出しかけて止めれば、彼は「どうぞ」と器をこちらに差し出してくれる。そしてそのまま無関心を装ってタバコに火を付けるので、こちらとしてもこれ以上の遠慮はかえって良くないかなと思い直してしまうのだ。そして、残った一切れを平らげる頃には、また温かい皿が新たに運ばれてくる。 「三鷹沢さんと居酒屋って、……何だかイメージが合わない気がするんですけど」 すると、そう言う質問をされる方が意外だと言わんばかりに、彼は首をすくめる。そんなふたりのやりとりに気付いているのかいないのか。すぐ目の前で作業している若い板前は、ただ淡々と自分の仕事を続けていた。
「足下、大丈夫?」 先ほどから、何度か同じことを訊ねられている。そのたびに、そんなことはないと否定しているのだが、この前のことがあるためか彼は宵子の飲み過ぎをひどく気遣っている様子であった。 「あ……、青だ。急ごう」 不意に、三鷹沢がそう言い出す。確認すると、少し先にある横断歩道の歩行者用信号がグリーンの光を灯らせていた。でも、それがどうしたというのだろう。何事かと思っているうちに、自然な感じで手を取られた。 「ほら、走って……!」 そう言い終える前に駆けだした彼に引っ張られるかたちで宵子も走り出す。四方八方に人が流れていく交差点の中。スクランブルの往来の丁度真ん中までたどり着いたときに、信号は早くも点滅を始めた。 「えっ、……ちょっと!」 今、渡っているのは片側が三車線もある大きな幹線道路。真ん中には広い中央分離帯があって、すでにその場所で立ち止まっている人影も見える。しかし、彼は強引なスピードでどうにか渡り終えようとしているのだろう。ようやく引っ張られるように歩道に飛び込んだとき、待機していた車両が一斉に動き出した。 「うわ、ギリギリだったな。……ふう、助かった」 さすがに息が上がったのだろう。彼も街灯にもたれかかって肩で息をしている。しかし、宵子の方はすでにもう言葉もないほどになっていた。何しろ、何の構えもないまま突然走り出されたのである。これでは心臓がびっくりしてしまうではないか。 「ごめん、ここのスクランブル、止まると長いから。5分も真ん中で立ち往生するのも嫌でしょう? あそこはかなりスリル満点なんだよ」 「嫌だ、そんな理由で? ……おかしな人」 思わず吹き出しそうになった、その刹那。ずきりと鈍い痛みが宵子の足首に走った。 幸いにも、三鷹沢はそれに気付かなかった。軽い笑い声と共に、彼は道の真ん中で待ちぼうけを食っている一団に目をやる。しかし、宵子にはそんな言葉に反応するゆとりはすでに残っていなかった。 「……どうしたの、宵子さん……?」 何でもない、と言う代わりに首を大きく横に振る。でも、やはり声は出ない。苦痛を堪える口元が歪んだ。何か、……何か答えなくては変に思われる。それが分かっているのに、自分の感覚を制御することが出来ない。 「だ……いじょうぶ、です。ほら、駅はもうすぐそこですし、急ぎましょう」
軽く引きずる右足にどうか気付かないで欲しい。足に合わない靴で一日歩き続けたツケが、最後になって出てしまった。だが、それを口にすれば彼は少なからず気にするに違いない。そういう心遣いはさせたくないと思った。 時として子供のようにはしゃぎ出す彼を見ているのは楽しい。だけど、一緒になって弾けきれない自分がいた。それが口惜しい、たまらなく口惜しい。
「明日も、会えるよね?」 改札の前まで見送られて、差し出される新しい宿題。宵子にはそこに綴られた英文を解読する気力もすでに残っていなかった。
◇◇◇
いつものようにあの待ち合わせの公園に行くつもりだった。 だけど、何故か改札の前に三鷹沢が立っている。彼はこちらの姿を確認するとひと言だけ告げて、すぐにくるりときびすを返した。普段通りの男物のスーツに身を包んだ宵子を一瞥して、少し顔を歪めた気もしたがさだかではない。 そのままもう一度ホームへの階段に促されて、訳も分からないままに従っていた。電車の中でも駅を出て歩き出しても、彼はひと言も口にしない。どこへ行くのかも告げられないまま、宵子の心には不安の色が浮かんでいた。
――何か、気を悪くするようなことをしたのだろうか?
しかし、そんなことをこちらから訊ねるわけにもいかない。仕方なくそのままあとを付いていくと、彼はようやく一軒の店の前で足を止めた。 「足、相当痛かったんでしょう。昨日はかなり辛そうだったけど、もう大丈夫?」 思いがけない言葉に、宵子は初めて石畳から視線を上げる。その瞬間まで、彼の表情を確認するのが怖かった。むっつりとした顔をしているとばかり思っていたのに、予想に反して静かで寂しげな眼差しに驚く。 「……?」 何と言葉を返していいのか分からず戸惑っていると、店のドアに手をかけて彼は言った。 「僕の行きつけの靴屋なんだ。舶来ものを扱っているんだけど、もともとが問屋だから思いがけずに破格値なんだよ?」 さあどうぞ、と招き入れられる。ようやく口元に浮かんだ笑みは、やはりどこか憂いを含んだものだった。 「まだまだ日本は、靴に関しては後進国だからね。僕も規格外サイズでだいぶ窮屈な思いをしてきたんだ。だけど、友人の紹介でここの店を知ってからはもう大丈夫。知っていた? 足を靴に合わせるんじゃなくて、靴を足に合わせなくちゃ駄目なんだよ」 それは私の台詞じゃないですか、と奥から初老の店主が顔を覗かせる。その手にはすでにいくつかの靴の入った箱を抱えていた。 「西洋は家の中でも靴を履いたまま過ごしますからね、あっちの人間はとことんこだわりますよ。日本では靴を選ぶとすれば縦の長さのサイズでしょう、良くても幅を広げるとかね。でも人間の足は複雑な構造をしてますから、たったそれだけじゃ足に合わなくて当然なんです。そもそも、靴は足を入れるのではなくて、足を包みこむものでなくてはなりませんから」 並べられた箱には、37とか37.5という数字が書かれている。聞いてみるとそれはイタリアの靴のサイズなのだという。勧められるままに、何足かの靴を履かせてもらう。ふかふかの椅子に腰掛けて靴をあててもらうのは、何だかシンデレラにでもなった気分だった。 「すごい……全然、靴を履いてるって気がしませんけど」 シンプルなかたちのウォーキングシューズは、店主の言うとおり宵子の足を「包みこんで」いた。足にぴったりなのに、少しも窮屈ではない。恐る恐る聞いてみると、宵子の持ち合わせでもどうにかなりそうな値段だった。確かに普段購入するものよりは割高ではあるが、それでもこれだけの履き心地を思えば決して高い買い物ではないと思う。 「そうですよ、日本もこれだけ近代化が進んできてるのですから、皆さんもう少し自分の足下に気遣って欲しいものです。歩きやすいのはゴムの運動靴ばかりじゃないんですからね、それを知らない人が多すぎます」
ふと気付くと、もう三鷹沢の姿はなかった。 少し前に外に出て行ったという話を聞いて、慌てて後を追う。そんなに長い時間を過ごしたつもりもなかったが、すでに辺りはすっかりと暮れていた。シャッターを下ろし始めた店がいくつもあり、歩道には帰り支度を済ませた人々がせわしなく行き交っている。 「あ、……早速履いてきたんだ。良かった、いい買い物が出来たみたいで」 振り向くと、彼はすぐ背後で半分ほどの長さになったタバコを楽しんでいた。その表情は先ほどまでの緊張が取れて、いつもの柔らかいものに戻っている。 「……あの」 こんな時には、一体何と言ったらいいのだろう。気の利いた礼の言葉も浮かばないままで立ちすくんでいると、彼はポケットからいつもの携帯灰皿を取り出した。 「そうなんだよね、服は身体に合わせて縫うことは出来るけど、靴は素人にはどうにも出来ないから。自分もそれでだいぶ苦労してきたのに、ついうっかりしていたよ。昨日は本当に楽しかったから、宵子さんが辛そうにしてるの、なかなか気づけなかった。あんなに連れ回したんだから、そりゃ大変だったよね」 ちりちりと音を立ててもみ消されていく吸い殻。彼の言葉はどこまでもあっさりとして、まるで独り言を呟いているようである。
「――三鷹沢さん」 大きく息を吸って、吐いて。こちらを向き直る彼に、宵子はゆっくりと呼びかけた。 「また、あの交差点に行きましょう。私、今度はあなたよりも早く渡り終えることが出来ると思いますから」 ふわりと微笑むその輪郭が、通りを走る車のライトに照らし出される。くっきりと浮かび上がった陰影が、綺麗だなと素直に思えた。
つづく (060128)
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