TopNovel赫い渓を往け・扉>肩越しの風景・11




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 会場にいる男性のほとんどが洗練された礼服をしっとりとまとっている。天井から降り注ぐあまたの照明に照らし出されて艶々と輝くその色はいわゆる「カラスの濡れ羽色」。普段の生活の中では、それこそ結婚式かさもなくば喪の行事でしかお目にかかれない姿がそこここに溢れている。
  一方女性たちのドレスと言えば、今更確認するまでもなく目にも鮮やかな多種多様の色かたち。その全てが身につけるその人を美しく引き立たせるために細部に至るまで細やかな心配りがされていた。ダンスの始まりはスローテンポの一曲から始まり、その緩やかな調べに合わせて広がる裾が丸くしなやかに弧を描く。

  もちろん音楽は楽団を招いての生演奏だ。バイオリンの弓を引く美しい動きが、なめらかな音楽を生み出していく。それだけでも心の全てを魅了されてしまいそうだ。

 

「や、……やっぱり無理です。こんなの、……困ります」

 すでに身の置き場をなくし途方に暮れていた宵子は、強引すぎる三鷹沢の行動を非難することすら出来ず悲しくうなだれた。さしのべられた手にも、力なく首を横に振るばかり。どうしたらこの場面を上手くやり過ごすことが叶うのか、そればかりを考えていた。

「そんなこと言わないで。僕は何も、君を苛めているわけではないんだから」

 柔らかく額に落ちた前髪。眩しいライトを背に、彼の表情がふっとゆるむ。そして震える宵子の手をそっと握りしめると、自分の方へと引き寄せた。

「みんな、最もらしくやってるけど、よくよく見れば結構いい加減なものだよ。だから、大丈夫。ただそれっぽくしていれば、どうにかなるよ」

 軽くウエストに添えられた片手。見上げたその人の顔は今までで一番優しい笑顔だった。未だにどうしていいのか分からずに戸惑う宵子を、彼は誰にも聞こえないほどの小声で導いていく。

「まず右から、三歩出て。そうしたら僕が回すから、そのまま元の位置まで戻るんだ。隣のことなど気にしなくていいよ、ちゃんと間隔は空いているから」

 そうは言われても、こちらはただでさえ慣れていない高いヒールで、真っ直ぐに歩くことすらやっとだった。すぐに足下が滑りそうになり、危うく躓きそうになったところを何度も助けられる。それを恥じる暇もなく曲はどんどん進んでいき、途中からは頭で考えることを放棄していた。

 言われるまでもなく、周囲に気を向ける余裕などない。ただ、彼の腕の中で必死にひとつひとつの動作を繰り返すだけ。すぐに息が上がり、早すぎる鼓動が胸を突く。だが、曲は終わらない。一体いつまでこうしていればいいのだろう……?

「なかなか筋がいいよ、宵子さん。そんなに下ばかり見ないで、顔を上げて背筋を伸ばしてごらん。その方がずっと綺麗に見えるから」

 導かれるように、彼に視線を向ける。見上げた先の人は、やはり静かな微笑みで真っ直ぐに宵子を見つめていた。一度捉えたら二度と目をそらすことが出来なくなるほどの魅惑的な輝き。その瞬間に周囲の全てが消し飛び、まるでこの世界にたったふたりだけ取り残されたかのような錯覚に陥った。

 

 ―― 私、どうしてこんな風にしているのかしら……?

 

 美しいドレスも華やかな場面にも、今まで全く縁がなかった。そして、この先も自分には二度とこのような幸運は訪れないであろう。明日が来ればまた、当たり前にタイプライターの前に向かい与えられた仕事をこなしていくのみ。そこには一時の夢など微塵も残ってはいないはずだ。

 ……でも、いいのだ。最初から分かってる、これは今宵限りの夢すぐに覚めてしまう幻。そう自分を納得させようとするたびに、ちりちりと胸が痛む。彼の肩に置いた片手が震え、その瞬間にまた気の遠くなる想いがした。

 ―― 今ならば、私はこの世の誰よりも上手にシンデレラを演じることが出来るわ。この曲が終わるまで、ひとときの夢が終わるまで。

 今夜の会場に入るその前から、彼はあまたの視線を浴びていた。今もそれは変わらないであろう。どこにいてもひときわ目を引くりりしい姿が、真新しいフロアに集まったたくさんの招待客の目を釘付けにしているはずだ。だけど、もうそんなことは気にならない。今、こうして彼と踊っているのは自分だ。その眼差しも心も全て向けられている、ただひとりのヒロインなのだから。
 夢のような幸運を手に入れて、心から幸せだと思わなくてはならない。なのに……どうしてこんなにも胸が苦しいのだろう。この曲が終わったら、ふたりの今までも全て消えてしまう気がする。初めから出会うはずのなかった存在、また当たり前に他人に戻っていくだけだ。

 三鷹沢には、これから先も明るい未来が遠くどこまでも続いている。何時までも地面にはいつくばって空ばかりを見上げてるちっぽけな自分とは大違いだ。この人はもうすでに何もかもを手に入れようとしている、いくら追いかけても追いつくことが出来ないほどに。

「……宵子さん……」

 気のせいだろうか、囁く声は信じられないほどに甘く心を奪うものであった。

 指先が熱く絡み取られたそのとき。前触れもなく静かに曲が止み、あちらこちらで静かなさざめきが辺りに起こる。

「もう、いい。……そろそろ戻ろう」

 

 クロークで手荷物を受け取りながら指をほどいた彼は、こちらを振り向くことなくそのままエントランスを進んでいった。

 

◇◇◇


  ―― 何? どうしたというの、一体……?

 それきりひと言も発しないままずんずんと道を戻っていく広い背中を追いかけながら、宵子は言葉にならない問いかけを何度も何度も頭の中で繰り返していた。

 

 三鷹沢の行動はあまりにも突然であった。まだまだパーティーがお開きになる時刻でもなく、こうして表に出ても未だに外はまだ夕日の名残の残っている頃。暮れきらない空は海の向こうの地平線から徐々にその色を変え、美しい時間を彩っていた。

  しかし、彼にとってはその全てをも疎ましいものなのか。
  ようやく桟橋の辺りまで辿り着くと、手すりにもたれかかってタバコに火を付ける。少し遅れてその場所にたどり着いた宵子のことなどまるで気付かぬように、ぼんやりと煙の行方を見守っていた。

「あの、……すみません、私……」

 すっかりと自分の存在を無視されて、宵子はもうどうしていいのか分からなかった。ガラスの靴も脱がないまま、あっけなく元の自分に戻ってしまった。着飾ったドレスも髪もそのままだったが、心はすでに現実に舞い降りている。

 ―― きっと、何かとんでもなく見苦しいところがあったのだわ。それでもう、これ以上あの会場に私をいさせることが出来ないと思って、こうして連れ出したのだ。そうに違いない。

 ひとつの答えにようやく辿り着いたとき、押し寄せるような絶望感に足下から堕ちていくような気がした。何をひとりでいい気になっていたのだろう、そんな風に出来る自分でもなかったのに。きっと彼はこちらの気が付かないうちにひどく恥をかいたに違いない。今もかなり腹を立てているのだろう、ひと言の言葉を発することが出来ないほどに。
  もちろん今回のことを持ちかけてきたのは彼の方で、宵子はただ言われるがままに従っただけだ。だがしかし、彼が自分に何らかの役割を期待し、それに応えることが出来なかったのは事実。同じことならば、初めから自分の身の上をわきまえてなんと言われようが今夜の誘いを拒否するべきであった。

「何もお役に立てなくて、本当に申し訳ありませんでした。私……もう大丈夫ですから、三鷹沢さんは会場に戻ってください。まだお仕事が残っているのでしょう……?」

 ひとつひとつの言葉を喉の奥から絞り出す行為すら辛かった。聞き届けてもらえないかも知れない、何を言っても彼の心には届くはずもないのだ。だが、……どうしてこのまま終わることが出来るだろうか。夢の終焉はあまりにもあっけなく、突然に訪れる。

「……ごめん、そんなじゃないんだ」

 ほとんどくわえられることもないまま、指の間でタバコはすっかり短くなっている。何かを振り払おうとするように、彼は何度も首を横に振った。

「違う、……謝らなくてはならないのは僕の方だよ。君には何の落ち度もなかったのに、あれだけの会場でも宵子さんは誰にも負けないくらいに輝いていた。だから、……もう僕は耐えることが出来なかったんだ」

 ゆっくりと向き直るその瞳には、先ほどまでの自信たっぷりの輝きが消えていた。まるで、捨てられた子犬のような眼差しで彼は宵子を見つめる。

「皆が君のことを見つめているんだ。それは当然だよ、宵子さんは本当に素敵だったから。慣れない場面だというのに物怖じもせず堂々としていて、とても立派だった。僕が思い描いていたよりも遙かに素晴らしく役目を果たしてくれたと思ってる。だから、とても誇らしかった。宵子さんが僕のパートナーだって、誰も彼にも自慢したかったよ。でも駄目だった、もう限界だったんだ」

 一体何を言われているのか、宵子には全く理解できなかった。

 自分のことを評価し認めてもらえたのはとても嬉しい、決して上手く立ち振る舞えてるとは思っていなかったがあれが出来る精一杯であったのだから。でも……それならどうして、こんな風になってしまうんだろう。彼が望むなら、慣れないダンスでも見知らぬ人々の中でのやりとりにでもまだまだ耐えることが出来たのに。

「本当に……僕は一体どうしてしまったんだろう。もう自分で自分が分からない、心がふたつに割れてどうかしてしまいそうだ……!」

 それは未だかつて宵子が耳にしたことのない、苦しい呻きだった。何が彼をそうさせているのか、それも分からない。だが、それは自分も同じ。互いに同じ痛みを共有していることを宵子はすでに悟っていた。

「会場の人間残らずに、いや会場にいない全ての人々にまで宵子さんのことを自慢したい。でも、そんな風に宵子さんが人目に晒されるのは嫌だったんだ。どうしてこんな気持ちになるんだろう、僕はもう宵子さんを誰の目にも触れさせたくない。それが無理だと承知していても、諦めることが出来ないんだ。僕は……宵子さんを、もう誰にも渡したくない」

 その言葉の全てを受け入れるのに、しばしの時間が掛かった。この人と一緒にいたい、残された時間があとわずかしかないことを密かに嘆いていたのは自分の方だ。この人と過ごす楽しい時間が永遠と続いていけばいいのに。それが叶うはずもない希望だとは知りながら、気付けばそのことばかりを考えていた。

 ―― もともと住む世界の違う人、だから諦めなくてはならない。

 そうやって自分の心を説き伏せることがどんなにか辛かったか。次の約束を取り付けることが嬉しくて、だがその日が来るのが怖かった。この時こそがふたりの最後になるのではないかと思うと待ち望んでいた時間すら手放しで喜ぶことが出来なくなっていた。

「これは、僕ひとりの我が儘だ。でも、宵子さんを離したくない。君に会えなくなる日が来ると思うと、たまらない気持ちになるよ。もうこれ以上は無理だ、僕は自分の心すら支配することが出来なくなってしまった」

 驚きのあまりその場に立ちすくむしかない宵子の元に、彼が一歩また一歩と進んでくる。互いの怯える眼差しをしっかりと絡め取ることが出来る距離までに近づいたとき、三鷹沢の腕が宵子の震える身体をそっと包んだ。

「ごめん……しばらくこのままでいて。今日の僕は本当にどうかしている。こんな風に君を感じていないと不安で仕方ないんだ」

 このような情熱的な抱擁を受けるのは宵子にとって全く初めての経験であった。
  そもそも「男性」とは自分にとっては忌み嫌う対象でしかなかったし、ここにいる三鷹沢であっても最初は腹立たしいだけの存在でしかなかった。だが、今は違う。彼は自分にとって同士であり、この世にふたりといない理解者だ。それぞれの立場もさらには性別までも越えて、しっかりとした絆を感じている。

 どうにかして、少しでも別れを先に延ばす方法があればと願った。どんな口実を見つけてでも、会いたかった。もしもそれが彼も同じであったなら、ふたりが違わぬ心を抱いていたならどんなにか喜ばしいことだろう。

「……宵子さん」

 ゆっくりと導かれるように顔を上げる。彼の指が顎に掛かり、この上なく熱っぽい眼差しがそこにあった。言葉で求められなくても、彼の心はすでに宵子の心の中にある。少しだけ伸び上がって瞼を閉じれば、答えの代わりにそっと口づけられた。

 

 海沿いの遊歩道を、手を繋いだままで歩いた。どこまでもどこまでもこの道が続けばいいと願う。手のひらから伝わってくる確かな熱が、幻ではない今ここにいる彼を教えてくれた。

 いつしか日はすっかりと暮れ、頭上の街灯の明かりだけが、ふたりの行く手を照らしていた。聞こえてくるのはふたつの足音。春先の少し冷えた風が頬をなでる。

「こうして、一緒にいるのに。それでも、明日また会いたいと思うんだ。いや、明日だけじゃない。明後日もその次の日も……君に会えない日がなければいいと思うよ。今の僕にとっては、君の存在だけが何よりも大切なんだ。君と会えないと思うと、目を開いていても暗闇しか感じなくなる」

 自分も同じだ、全く同じ気持ちだと実感する。

「男」なんてと思っていたのに。この人と一緒にいて、少しも嫌な気持ちがしなかった。初めのうちこそは振り回されることに腹立たしさを覚え、見返してやろうと必死になっていた。だが、その気持ちもいつしか消えて。あとには深い信頼の心だけが残った。

 

 ―― ずっと、一緒にいたい。もう離れたくない。でも……どうすればそれが叶うの。この人は、近い日には自分の前から去っていくのに。

 

 その答えにはとうとう思い当たらないまま、宵子は行き場のない心細さをふたりの時にもなお感じていた。

 

◇◇◇


「おや、今日はどこか感じが違うね。何かいいことでもあったのかな?」

 すれ違いざまに副社長にそんな風に耳打ちされて、宵子はどきりとして振り向いた。

 どこがどう変わったわけでもないと思う。ただ、数日前までは当たり前のように愛用していたはずの男物のスーツに今朝はどうしても袖を通すことが出来なかった。
  仕方なく入社当時に来ていたタイトスカートの付いた女物を取り出してみたが何とも収まりが悪い。しかしそれ以上悩んでいる時間はなく、中途半端なまま飛び出してきた。

 ―― ううん、おかしいところなんて何もないわ。私は私、昨日と何が変わったわけでもないのだから。

 女物の服を着れば、自ずとそれなりの身なりを整えなければならない。とりあえずはいい加減に口紅を引いて、髪をひとつにまとめてみた。首筋がスースーして何とも落ち着かない。その戸惑いを隠そうとすれば、さらに身のこなしが不自然になった。

「ああ、そうだ。社長のところにお客様だ、お茶を出してくれと言付かってきた。やはり片岡君が適役だろう、早くお出ししてきて」

 

 そんな風に名指しされてしまえば、他の女子社員に任せることも出来なくなる。それを心得ているかのように薄ピンクの背中はどれもぴくりとも動かなかった。
  仕方なく支度をして応接室に向かう。揺れる湯飲みの水面に、まだ少し赤らんだ頬が映った。

 今日も……そして明日も、少しの時間でもいいから会いたいと言ってくれた。

 別れ際に耳元で囁かれたその言葉は、ひとりに戻った後も宵子の胸の中で消えることなく響き続けている。こんな風にひとつの想いを共有する相手がいることは何と温かいのだろう。彼と過ごすひとときを思うと、今から胸の高鳴りを抑えることが出来ない。

 

 ……と。

 共用応接室の前まで辿り着いて。使用中の札の社名を確かめてから、ノックしようとした。しかし、その手が途中で止まる。なぜなら、部屋の中から社長のものと、もうひとり聞き覚えのある声がしてきたからだ。

「……いやはや、私もここまでとは思っていなかったよ。本当に女性とはあのようにはっきりと変わってしまうものなのだね、恐れ入ったよ」

 社長の声はいつもよりも弾んでいた。それも無理はないだろう、話の相手はあの「藤トラベル」の須藤営業部長。古なじみの友人が相手であれば、たとえ仕事の話であってもいくらかくだけてしまうのは仕方ない。そして話の内容が自分のことになっていることに、宵子は少なからず驚いていた。

  だが、だからといっていつまでもこんなところで立ち聞きも良くないだろう。ここはさっさと仕事を終えて戻らなくては。そう思ってもう一度背筋を伸ばしたとき、信じられないひと言が彼女の耳に飛び込んできた。

「いやねえ、こっちも驚いたよ。全くあの三鷹沢君も何を考えているんだろう、こちらのお嬢さんのことをいきなり名指しして来るんだから。
  見ず知らずの相手だがどうにか上手く引き合わせてくれと言われたときはさすがに度肝を抜かれたね。近頃の若い者は一体何を考えているのやら。ここが君の会社で良かったよ、そうでなかったらとんでもなく厄介なことだった」

 

つづく (060414)


 

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