宵子は「男」という生物を、自分の記憶の中から永遠に排除してしまいたいと願っている。「篠塚のおじ様」だけが別格であったが、その他の存在はたとえ自分が勤務する会社の人間であったとしても容赦なかった。あの社長ですら、一定の距離を置かなければ冷静に対応することが出来ない。 そうは言っても、現実社会で生き抜くためにはその存在を毛嫌いして回避してばかりでは済まされないと承知している。何しろ地球上の全ての生物のうち、半数はそのカテゴリに分類されるのだから。そして、またこうして社会人として働くようになって、世の中のほとんどはスーツ姿の「男」なのではないかと絶望にも似た想いを感じるようになっていた。 ――何でも須藤の営業所に、先月アメリカ研修から戻ったばかりの社員が出向で来ているそうなんだ。 先刻、社長のその言葉を聞いたときも、当然ながら該当の「社員」が男性であると判断した。そのことがここに来るまでの宵子の足取りをさらに重くしていたと言っても良い。 どちらにせよ、宵子には一生縁のない様な世界であった。それだけに行き場のない妬ましさが上塗りされてしまう。いくら実績を積んだところで、自分は一生小さな会社の片隅でキーを叩き続けることしか出来ないのだ。
最初に目に入ったのは、まるでハリウッドスターが得意げにまとう逸品かと見まがうような滑らかなシルエットの黒い上着。それはベルベットのように光沢があり、肩章つきダブル前のベルトつきという正統派トレンチコートのデザインにまとめられていた。 「――やあ」 靴と同系色の革の手袋に包まれた指がつまんでいるのは、見たことのないデザインの紙巻きタバコ。ツーンと刺激の強い香りが辺りに漂ってゆく。ようやくそこまで来て、宵子は目の前の男の顔を見た。時間にすればわずかであったと思うが、かなりじろじろと観察してしまった気がする。しかし、こちらの仕草など、彼は少しも気にしている素振りはなかった。 「あの、……三鷹沢さん、でしょうか?」 周囲には他にそれらしき人影はない。だが、そう言って確認する宵子の口調はかなり自信のないものであった。それも無理はない、何故なら目の前の男が彼女の想像していたイメージとはかけ離れた人物だったのだから。 「やっぱり、君が須藤営業部長の話していた人だね? あちらから歩いてくるのを眺めながら、そうかなと思っていたんだ。へえ……しばらくぶりで戻ってきたら、日本にもこんな風にキャリアウーマンしてる女性が現れていたんだね。何だか新鮮な発見だ」 小さく頷くことしか出来なかったのは、あまりにも彼が真っ直ぐにこちらを見つめていたからだ。良くあるような7:3にくっきりと分けてポマードでまとめたスタイルではなく、彼の髪はさらさらと学生のようにラフに伸ばされていた。艶やかなその色はコートと同じ漆黒、くっきりした眉と綺麗な二重の瞼が特徴的だ。健康そうな褐色の肌。 さらさらと風が通り抜け、向こうが見えないほどの花吹雪がふたりを包み込む。ふわふわと舞い上がった自分の髪を宵子が慌てて押さえていると、男の方はコートのポケットからドロップが入っているような円筒形の平たい缶を取り出した。その中に一度灰を落とし、もう一度タバコを口に持っていく。どうも携帯用の灰皿のようだ。物珍しげに眺めていた宵子に、彼はそれを差し出して見せた。 「部屋の中で吸うと、他の社員からクレームが来るんだ。自分たちだって蒸気機関車みたいに煙を吐きながら仕事しているのにね。この香りだけは受け付けないとか言う感じで眉をひそめるんだからな。仕方ないから、この場所が僕の指定席なんだ。吸い殻もきちんとお持ち帰りだよ?」 そう言う彼の足下には、いくつかの国産タバコの吸い殻が落ちている。喫煙の習慣のない宵子であったから、街中で頻繁に見かけるくわえタバコを足下に落として踏みつける仕草がどうしても好きになれないでいた。しかもそれを格好いいと思っている感じだからさらに気に入らない。彼らは自分たちが路上にゴミを落としているのだという自覚がないのだ。 「じゃあ、立ち話も何だから。どこか、座れるところに入ろうか?」 「……は?」 予想外の問いかけに、宵子は思わず聞き返していた。てっきり、先ほどの営業所に戻るのだとばかり思っていたのである。一応、手荷物などは全てまとめてきたが、まさかさらに場所を変えようと提案されるとは思っていなかった。すぐそこに見えるコーヒーショップに足を向けかけた彼が、不思議そうな顔をして振り返る。 「え、……何か不都合でも?」 斜めから見た顎のラインが綺麗だな、と思った。どうしてこんな状況でそんな風に分析しているのか自分でも分からなかったが、それくらい全てが不思議な男なのである。だいたい連れだって歩くのに、相手の肩の位置が自分のそれよりもかなり上の所にあるのは何とも居心地が悪い。 「営業所に戻ってもいいけど、あそこは騒がしいでしょう? それに粉末のインスタントコーヒーしか出て来ないし。そこの店のマスター、かなり腕がいいんだよ」 その言葉に、宵子はちらりと眉をひそめた。何だろう、この男は。勤務時間内に喫茶店で息抜きをしたいと言うことなのか。与えられた仕事もあるはずなのに、あまりにも不謹慎である。こちらは渡すものを渡して、さっさと退散したい気分だ。 「ええと……」 宵子が立ち止まったままなので、彼も自分の場所を動こうとしない。それがこちらの出方を待っているのだと分かったのはしばらくしてからだった。ことに仕事の上では、宵子のような女子社員は横柄な対応で見下されることがほとんどである。こんな風に自分に決定権が委ねられることなど皆無に等しかった。何とも言えない、違和感がさらに上塗りされる。 「僕、三鷹沢真之。今は『藤トラベル』に来ているけど、もともとは一籐木本社の事業開発部に所属しているんだ。――君は?」 暮れかけた風景、彼の口元から吐き出される白い息。そう言えば、今夜はかなり冷え込むと予報に出ていた。さながら花冷えと言うところだろうか。 「新興物産の……片岡宵子です。お初にお目に掛かります、ご挨拶が遅れて申し訳ございません」 相手から名乗らせてしまい、しまったと後悔する。こんな時には目下の立場から名乗るのがマナーではないか。さらに、男性ならばここで名刺交換となるのであるが、宵子はそのようなものを作ってはいない。 「ふうん、……綺麗な名前だね?」 三鷹沢はそう言うと、おもむろに右手の手袋をするりと外した。そして、宵子の目の前に差し出してくる。 「どうぞ宜しく、宵子さん」 大きな手のひらだな、と思った。宵子の知っている身近な男性と言えば「篠塚のおじ様」であり、彼も同世代の男性の中ではかなり大柄でがっしりとした体格である。しかし、今目の前に掲げられたそれは、さらに一回りか二回り大きく見える。すっと細長い綺麗なかたちをした爪は清潔に切りそろえられ、いわゆる「男臭さ」というものは微塵も感じられない。 「こ、こちらこそっ。宜しくお願い致します……!」 握手を求められているんだ、ということにすら暫くは気付かなかった。幾度となく要領の悪いところを見せてしまって、恥ずかしいばかりである。だが、それも仕方のないことだ。このように対等な立場で男性と接したことなど、今までの日常の中では有り得なかったのだから。 ふわっと、想像よりも柔らかい手の甲が重なり合い、一瞬の間合いを置いてぎゅっと力強く握りしめられる。さすがに驚いて慌てて手を振り解こうとすると、彼の方が苦笑いして束縛を解いてくれた。 「あ……ごめん。こういうの、慣れてないと戸惑うよね」 そんな風にあっさりと切り返されてしまうと、余計に意識してしまう。触れ合った手のひらがまだ熱を帯びていて、滲む汗を悟られないように手にした紙袋をさらに強く握りしめた。 「……さ、行こうか? 宵子さん」 それなのに。その瞳に促されて、足が一歩前に出る。斜め上から降ってくる言葉は、まるで天の声のような気がした。
◇◇◇
彼がそう切り出したのは、席に着いてオーダーを済ませた後であった。ただ店に入ってブレンドをふたつ注文しただけ。たったそれだけのことなのに、宵子は目の前の男に対してさらに萎縮していた。紙袋から書類を出す指先が震えている。 喫茶店に入ることが珍しいと言うわけではない。幼い頃は母親と、学生時代にはクラスの仲間たちと、幾度となくカウベルの音を鳴らして同じようなドアを開けた。 ――ああ、これがレディーファーストって奴なのかしら? 温められた屋内でコートを椅子の背に掛けた彼を、ぼんやりと見つめる。スーツ姿に変わった彼を眺めたときに目がいくのは、目に鮮やかすぎるネクタイの柄であった。何と形容したらいいのか言葉に詰まるが、一番近い表現としては「ピカソの抽象画」と言うところだろうか。何であんなに無駄に色数を多く使ってあるんだろう、しかも無造作にまとめられているのだろう。 ただ歩いているだけで、道行く人々がハッと振り返る程の存在なのである。さらにこれではやりすぎではないか。目立ちすぎるのは自分も同じなので人のことは言えないが、もう少しどうにかした方がいい気がする。アメリカ帰りと言えば聞こえはいいが、ここは日本国内なのである。それくらいはわきまえて欲しい。 「……ふうん、一応は綺麗にまとまってるね。この文面は、君が考えたんでしょう? かなり良く調べてあるって感じだな」 顎に片手を添えて、小首をかしげるのは、外国映画でよく見る仕草である。日本では少し大袈裟に思えるジェスチャーだが、向こうでは当然のことなのだろう。目の前の男は見た目こそは純和風なイメージであるが、中身はほとんど欧米人のそれに近くなっている気がする。半年間の渡米だったと聞いたが、猿真似の上手い日本人はここまで変化してしまうのだろうか。 「そ、そうですか。……ありがとうございます」 こんなの全然駄目だと突き返されたらどうしようと内心びくびくしていたので、その誉め言葉は素直に嬉しかった。いくら一通り学んできたからといって、実践が伴っていないからいつも自信がない。このたびであってもかなり慎重にこちらの意見を伝えたつもりが、このようにいくつもの不明点があると戻されてしまう。一体どうしてこちらの意向が汲み取ってもらえないのか、どうしても分からなかった。 「じゃあ、本題に入っていいかな?」 宵子がホッとした表情で見上げると、男の方はにわかに顔を曇らせる。そして、小さく舌打ちをしたあとで胸のポケットから赤いボールペンを取り出した。 「ここと、……それから、こっちか。宵子さんは表現の仕方が、少し回りくどいんだ。普通の手紙なら曖昧な感じでもどうにかなるけど、これはビジネスレターでしょう。相手に真意が伝わらないままじゃ、いつまでも商談が成立しないよ? perhapsやmaybeは『たぶん大丈夫』というニュアンスで使っていると思うけど、欧米では20〜30%の可能性しかないという受け取り方をするから、あまり使わない方がいいね」 もう少しで、小さく叫び声を上げるところだった。何しろ、これはランチタイムの後の数時間を費やしてようやく仕上げた文書なのである。このまま投函出来るものと思っていたそれに、次々に朱のラインや添え書きが加えられていく。しかもこちらにひとつの断りもなしにいきなりの行為であった。 その他にも人称の曖昧な部分や、日本人が多く使いがちな表現のいくつかを指摘される。次々に指摘され、もう原文がどこにあるのか分からないほど真っ赤に修正されていった。 「……さ、これで大丈夫だよ。明日、午前中に仕上げて投函すれば大丈夫。今度は快い返答がもらえるはずだよ?」 「……」 何と答えたらいいのか、言葉を見つけることが出来なかった。彼はこちらのことを考えて、あれこれアドバイスをしてくれたのである。かなり言いにくいことも突っ込んでくれた。有り難いと思わなくてはならない、……だけど。 唇をきつく噛みしめていないと、大声で叫んでしまいそうだ。何だろう、この気持ち。情けなさと口惜しさと憤りが混ざり合って、どろどろと心がよどんでいく。自分は精一杯頑張ってきたのだ、それなのにこんなにも頭ごなしに何もかも否定しなくてもいいじゃないか。彼のように恵まれた立場にいる人間に何が分かるというのだ。こちらは一生底辺をうろうろとはいずり回って行く存在でしかないのだから。 「……宵子さん?」 こちらが何もリアクションを起こさずにいたので不審に思ったのだろう。彼は少し背中を丸めると覗き込むようにこちらを見た。多分、その時の宵子の顔は蒼白に近い色になっていたことだろう。ただですら、乳白色のぼんやりした色合いなのだ、少し体調を崩しただけで重病人のように見えてしまう。 横目で見れば、カップの中のコーヒーは口を付けることもなくすっかり冷め切っていた。それは彼の方も同様である。それだけではない、通りに面したガラス窓の向こうの風景はすっかりと暮れて、街灯がぽつぽつと滲んで見えた。店内の顔ぶれも随分変わっている、それはかなり長い時間ここに座っていたことを証明している。 「あ……りがとう、ございました」 押し殺した自分の声が、とても遠いところから聞こえてきた。もう嫌だ、こんな風に違いを見せつけられるのは。目の前にいる男は、何もかもが宵子とはかけ離れている。どうしてここまで自信たっぷりに振る舞えるのだろう。欧米のマナーをしっかりと身につけながら、ざっくりと斬り込んだ物言いをする。 ――口惜しい。 どんな相手であろうと、「男」には負けたくなかった。他の女性たちのように、甘えて媚びを売って可愛がられようなんて思ったこともない。どうにかして対等に渡り合いたい、本当にそんな風になれればいいのに。 「ご指導頂きまして、感謝致します。こちらでの……代金は支払わせて頂きますからっ……これで、失礼しますっ……!」 乱暴に椅子を引いて立ち上がった刹那、髪がふわっと舞い上がった。丁寧に手入れすればかなり美しくなるであろうそれも、こんな風に安物の石鹸で洗いっぱなしではどうしようもない。やはり短く整えてしまった方がいいのではないか、どうせならそれこそ男性のようにしてしまえばもう「女」として見られることはなくなる。 ――宝塚劇団の男役みたい! 学生時代はクラスメイトからそんな風に言われていた。調子に乗って、文化祭のステージで演技してみたこともある。ただ、その場に立っているだけで拍手が起き、悪い気はしなかった。宵子にとってもっとも楽しかった記憶のひとつである。 だけど、それすらまがい物でしかないことを今日、実感してしまった。 よれよれの古着コートやパンツスーツを着込んでみたところで、自分は所詮「女」でしかない。前途洋々で鼻高々のインテリ男にこんな風にこき下ろされるしかない存在なのだ。あんなに毎晩毎晩、必死になって考えた文面を、短い時間に別物のように書き換えられて、それで頭を下げて礼を述べなくてはならないなんて。 「あっ、――宵子さんっ!」 千円札を一枚、テーブルの上に置いて。そのまま逃げるように店を後にした。店を突っ切ってドアを開ければ、襲いかかってくる夜の冷気が頬を切る。それでも、あの男に受けた屈辱に比べれば大した痛みではないと思った。
つづく (051101)
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