「……だからね、本当にあの時は驚いたよ。すぐにオーダーミスだって言い返したのに、全然伝わってないし。異例の抜擢だって意気揚々と出掛けていったのに、いきなり出鼻をくじかれたって感じかな」 自分のことを話しているのに、おかしくて仕方ないと言う感じに何度も吹き出しそうになっている。いつの間にかすっかり見慣れたその顔は、相変わらず小憎たらしいほどにバランスの取れた目鼻立ち。どんな表情をしようとも、違った魅力が感じられる気がする。ブラウン管に登場する人気俳優ならいざ知らず、一般人のくせにどういうことだと思ってしまう。 靴屋のあとに案内されたのは、こぢんまりとした洋食店。メニューもライスカレーにスパゲッティー、オムレツなどと馴染みの深いものばかりが並ぶ。大振りのスプーンでチキンライスをすくい取る三鷹沢を向かい合った席から眺めて、それでも今までのどの店よりも彼のイメージに近いなと宵子は思っていた。 「だって、ColaとCocoaだよ? Cheeseburgerの方は分かって貰えたのに。さすがに行き先が不安になって、すぐにでも日本に戻りたくなったよ」 「いやあ参った」と苦笑いして、彼はしばらくストップしていた食事を再開する。一口に頬張る量は宵子の倍ほどもあるのだが、何しろ話している時間が長すぎるのでふたりの皿の進行状況にはすぐ差が出てしまう。本人もそれに気付いているらしく、豪快にかき込む様は見かけによらず体育会系だ。 先ほどから彼が話しているのは、今回の海外研修先での出来事だった。初の海外。飛行場からタクシーでホテルに移動して荷物を置くと、まずはその辺を歩いてみようという話になった。最初に目に付いたのが、2年ほど前に日本にも進出してきたあちらではメジャーなハンバーガーショップ。カウンターで注文してお金と引き替えに料理を受け取るテイクアウト方式だ。 「学生時代から英会話には自信があったし、就職してからも海外から取引先が来日するときは通訳を買って出たことだって何度もあった。それなのに、現地に行くと散々でまるで悪い夢を見ているみたいだった。初めのうちは相手の言葉を聞き取るのに夢中になって、身体ががちがちに強ばっていたよ?」 それでも二ヶ月の研修を終える頃には、支社の現地社員たちと軽口も言い合えるまでになった。しかし帰りの飛行機に乗っているうちに、何もかもすっかり元通りになってしまったと言う。 「やっぱりね、僕なんかは骨の髄まで日本人だから、思考回路から何から向こうの人たちとは全く違ってしまうんだ。何でこんなに頭が固いんだろうと、自分でも呆れてしまったよ」
それからしばらくは、また互いの食事に戻っていた。 「……宵子さん、セロリは大丈夫? 良かったら、助けてくれないかな」 こちらが返事をする前に、さっさと自分の分を全てこちらの皿に移してしまう。ついでにホワイトアスパラまで追加されて、宵子のサラダボウルは満員御礼になってしまった。 「――あら。この前はトマトも駄目って言ってませんでした? 駄目ですよ、好き嫌いが多すぎで」 これには、さすがの宵子も呆れてしまう。一緒に食事をしてみると相手のことがよく分かると言うが、三鷹沢という男はかなりの偏食であるように見受けられた。特に西洋野菜が苦手らしい。そう言えば、マッシュルームも遠慮したいと言っていた。 少し考えてから、ホワイトアスパラを一本だけ彼の皿に戻す。そして、今度は向こうが腕を伸ばしても届かないほどに、全ての皿を自分の方に寄せた。 「じゃあ、ひとつだけ挑戦してみて下さい。ジャンボジェット機に乗って海を渡った人が、アスパラガス一本くらい何でもないでしょう……?」 すまし表情でそう告げると、彼は子供のように分かりやすく顔を歪める。でも、覚悟を決めたのか長い一本を一口に収まるまでに細かくして全てをフォークで突き刺し、一気に口の中に放り込んだ。 「……やっぱり、美味しくないな」 慌ててコップの水を流し込む姿に、思わず笑みがこぼれてしまう。しばらくはしかめっ面だった彼も、やがて苦笑いに戻った。 「宵子さんは厳しいよなぁ、容赦ないって言うか。こんな風にしていると、田舎にいる姉を思い出すよ」 「……え?」 思いがけない言葉に、宵子は目を丸くしてしまう。こんな風に、こちらから訊ねないのに自分からプライベートなことを口にする男性は今まで周りにいなかっただけにとても新鮮だった。 「五歳も年上で、身の回りの世話はほとんど世話をしてもらったって感じだったよ。両親は畑仕事で忙しくて、夜も遅くまで作業していて構って貰えないから、何から何まで姉が頼りだった。実はね、僕がこうして東京に出て来られたのも彼女のお陰なんだ。渋る両親を説得するために、姉は同郷の男性との結婚を決めてその人に婿入りしてもらったんだから。本当に感謝してもしきれないよ」 その話も宵子には不思議なばかりであった。 ひとりっ子で兄弟の存在など知らずに育ち、さらに年少の頃は友達らしい友達もいなかった。母親以外の存在はほとんど知らないまま、気が付いたら大きくなっていたのである。そのせいか、他人との間に距離を置く癖がついてしまった。 「……宵子さん?」 その時、自分は一体どんな顔をしていたのだろう。食事の手を止めてこちらを覗き込む彼の視線に、ハッと我に返った。 「あ……、いいえ。あの、ごめんなさい」 慌てて取り繕うとして、コップの水を口に含む。爽やかな香り、これはただの水道水ではない。きっとレモン汁を数滴落として香り付けをしてあるのだ。 「お姉さんみたいなんて初めて言われたから、ちょっと驚いただけ。それだけです」 膝の上のナプキンで口元を拭うと、食事を再開した。今現在、ふたりの皿の進み具合は丁度同じくらい。彼の話を聞いているとついついひとつの店に長居してしまう傾向にあるが、人の出入りの激しい食事時にあまりのんびりしすぎるのもどうかと思う。またも芸もなく「同じものを」とオーダーしたオムライス。ケチャップの味付けが程よく甘く、食が進む。 ――そうか、お姉さんみたいだと思われていたんだ。 そう仮定して思い起こしてみれば、何となく合点がいく。最初から、妙に馴れ馴れしい男だと思っていた。故郷にいる自分の姉と宵子とを重ね合わせていたのならば、それも仕方ないことだと思う。 「あー、もちろんね。姉よりも宵子さんの方がずっと都会的で綺麗だとは思うけど。……何だか、失礼なことを言っちゃったかな?」 宵子は黙ったままで首を横に振った。口の中にものが入っていて話せなかったこともあるが、もしもそうでなかったとしてもいい言葉が浮かばなかったと思う。 「……そうそう。それで、最初のレセプションの時にね」 また何かを思いだしたのか、彼はスプーンの手を止めて新しい話を始める。時折頷きつつ聞き入る宵子の表情は、暖かい白熱灯の光に照らし出されてほんのりと淡く色づいていた。
「あ、……少し急がないと」 ゆっくりと時間をかけて食事して、さらにデザートを追加してコーヒーも楽しむ。そんな風に過ごして店を出ると、宵子は腕時計を見て少し慌てた。 「この場所からだと、路線バスを使った方が早いかなと思っていたんです。でも最終が結構早かった気がするから」 不安げな表情で振り向く三鷹沢に、宵子は手短に説明する。普段は電車通勤をしているわけだが、この場所からだと乗り換えが増えて待ち時間もかなり増えてしまうのだ。その点、バスならば一本で家の近くまで運んでくれる。母とこの辺りまで買い物に出るときなども、よく利用していた。 「え、そうだったんだ。ごめん、気付かなくて」 名刺サイズの時刻表を定期入れから出して確認すると、彼も慌てた様子になる。とりあえずはバス停まで走ってみようと言うことになり、ふたりは駅とは反対方向に足を進めた。程なくして道は太い幹線道路に交差する。先に様子を見に行った彼が、笑顔で宵子を手招きした。アーチ型の屋根の付いたバス停には、10人ほどの列が出来ている。 「渋滞で少し遅れているのかも知れません、助かりました」 ほとんど時間に正確な電車に比べ、路線バスは道路状況によってはかなり運行状況が変わる。丁度、五十日(ごとおび・末尾に5か0のくる日付)に当たるせいか、こんな時間でも大型ダンプカーが何台も連なって通り過ぎていった。 「そうか、今夜は遠出してしまったからね。……どうする、ご自宅まで送ろうか? さすがにこんな夜更けに女性のひとり歩きは心配だな」 赤いランプをつけたバスが、遠くにチラチラと見えてくる。思いがけない彼の提案に、宵子は驚いて首を振った。 「そんな……、そうしたら、今度は三鷹沢さんが帰れなくなりますよ?」 それもそうかと呟く横顔が、車のライトに眩しく照らし出された。
――やはり、綺麗だなと思う。 こんな風に眺めるのは何度目だろうか。最初はこの整いすぎた顔をちらと見るだけでも嫌だと思っていた。だけど、今ではどうだろう。こんな風に最終バスがすぐそこまで来ているのに、まだ名残惜しくて仕方ないと思う自分がいる。 あんなに疎ましいと思っていたのに。初対面の余りの印象の悪さに、もう二度と会いたくないと思ったのは、たった一週間前のこと。一体こんな短期間のうちに自分がどうしてここまで変わってしまったのか、合点がいかなかった。
「さ、到着しましたよ? 早く乗らないと」 促されて、乗車する列の最後に並ぶ。それなのにまだ、心が迷っていた。何故、戻らなくてはならないのだろう。あまりの名残惜しさに、胸の奥がつんと痛んだ。 楽しい時間はあっという間に過ぎていく。美味しい食事に気の利いたおしゃべり、会話の合間にこぼれる笑い声。彼との間にはっきりと「親愛」の関係を感じ取ったその時から、妙な勘ぐりも忘れていた。この男は、今まで出会った誰とも違う。自分をひとりの人間として、きちんと尊重してくれる。 ――だけど。これも、あとわずか。彼の異動先が決まれば、そこでおしまいになる。
宵子が乗車券を取って席に座るのを確認して、バスの運転手はブザー音と共に扉を閉めた。 曇ったガラスを指で拭いて、そこに佇む男の姿を探す。彼の方もすぐに宵子に気付いて、タバコを挟んだ右手を軽く挙げた。
◇◇◇
それなのに今は全く心境が変わっている。いつ告げられるか分からない終焉に、心がちりちりと音を立てて怯えていた。
「何、これは?」 翌日、近くのビルへの届け物で外出して戻ると、自分の机の上に走り書きのメモが残されている。癖のある筆跡からそれをしたためたと思われる女子社員を割り出して訊ねると、彼女はそろばんを弾いていた手を止めて言った。 「あー、社長からの伝言です。片岡先輩が今席を外されてるって伝えたら、30分後にまた連絡をいれると言ってました。何だかとても慌てているみたいでしたよ?」 ところどころ言葉遣いが危ういなとは思ったが、そこまで細かく注意するほど宵子も暇ではない。それに礼儀作法はとにかく、彼女は仕事が速く正確なのだ。宵子は椅子に腰掛けると、もう一度先ほどのメモを読み返していた。 『午後4時45分、帝国ホテルロビーにて』 ……一体、何のことだろう。これだけでは全く分からない。しかも日付も書かれていないので、これが今日のことなのか違うのかも判断出来なかった。先ほどの女子社員に聞けばもう少し詳しいことが分かるかとも思ったが、もう一度仕事の手を止めさせるのも申し訳ない。そんな風に考えていたら、手元の電話が鳴った。 「お世話になっております、新興物産でございます」 反射的に受話器を取ってそう告げる。電話を受けるのは、女子社員の仕事と決まっていたが、そのほとんどは宵子の役目となっていた。こんな風に手を伸ばせばすぐに取れる場所にわざわざ置かれているのもそのためだ。「仕事は忙しい人に頼め」とはよく言ったもので、雑用から何から宵子にお鉢が回ってくることが多い。 「……あ、ああ、社長。先ほどは大変失礼致しました。はい、片岡です」 タイミング良く掛かってきた電話にホッと胸をなで下ろす。しかし、そのあとに続く言葉は、宵子の想像を遙かに超えたものであった。 「実はね、取引先のブラウン社の営業部長が来日していてね。この情報を仕入れてから是非直接お目に掛かりたいと何度も働きかけていたんだが、なかなかいい返事を貰えなくてね。それが……急に、今日の夕方、15分だけならと回答が来たんだよ。ただ、――その時間にはとても私はそっちに戻れそうにもなくてねぇ……」 「ちょっと待って下さい」と返答する暇もなかった。 公衆電話からかけていたのだろう、ビーっと鈍い音と共に通話が途切れてしまう。受話器を置くことも出来ず、宵子はしばらく呆然としていた。 ――君も、日常会話くらいならどうにかなるんじゃないか? 丁度、他に使えそうな社員もいないし、まさか今更約束を断るわけにもいかないからね。とにかくは、私が行けないことをお詫びしておいてくれないかな。あとは君に任せる。少ない時間だし、挨拶程度だと思うから。 冗談じゃない、と思った。すぐに反論したかったが、営業で地方を回っている社長をどうやって捕まえたらいいものか。仕方なくフロアに残っていた副社長に相談してみたが、やんわりとかわされてしまう。せめて面会の場に同席してくれるだけでも有り難いのに。 「しっかり者の片岡さんなら、大丈夫だよ。――ああ、そうだ。午後からは小売店との商談が入っていたんだっけ、さてさて準備をしなくては」 わざとらしく書類を探し始める仕草に、もう駄目だと思った。
――どうしよう、こんな風に悩んでいたって時間はいたずらに過ぎていくだけだわ……。
自分の英語力がおぼつかないものであることは、重々に承知している。恥ずかしながら、実際に英語を母国語としている相手と会話をした経験が一度もないのだ。それなのに、いきなりこれはひどすぎる。もしも、とんでもない失態をしでかしたら、今後の取引を打ち切られてしまうことだってあり得るのに。 しばらくは文字通り頭を抱えた状態で思いを巡らせていたが、突然妙案がひらめくはずもない。時計を見ると、昼の休憩まであと一時間。とりあえずは今日中に片づけなくてはならない仕事をやってしまおうと、頭を切り換えた。
◇◇◇
午後4時半、帝国ホテル前。 宵子が時間通りに辿り着いたときには、彼はすでにそこに立っていた。重厚な石造りの柱に軽くもたれかかっている姿もそのまま一枚の絵のように見える。だが、すでに飽和状態の頭ではその情景を楽しむことなど出来なかった。 「ごめんなさい、本当に。こんなことをお願いしてはいけないと分かっていたのだけど……」
やはり、頭に浮かんできたのはこの男の存在だけだった。 就業時間内にわざわざ職場まで電話を入れて呼び出すなどと、社会人としてあるまじき行為なのは分かっている。その上、彼は宵子の会社とは全く関係のない立場にあるのだ。勤務時間外ならともかく、これでは営業妨害と思われても致し方ない。 「そんなに時間が掛からないなら、どうにかなるかも。指定された場所も、この営業所とは目と鼻の先だしね。すぐに上と掛け合ってみるから、今後こちらからの連絡がなかったら承諾したと見なしていいよ?」 ほとんど諦めていたところに、この言葉。その場はぐっと堪えたが、もう少しで泣き出してしまいそうだった。そして、彼はこうしてきちんと約束を守ってくれたのである。
「ううん、そんなに気にしないで。あちらは多忙な方なんでしょう、お待たせしては申し訳ないから先に席に着いていよう。ここからの僕は君の会社の一社員のように振る舞うからね、宵子さんもそのつもりで」 「さあ、胸を張って」と言われても、正直自分が今どんな風に歩いているのかさえ分からない。 昼休憩と同時に会社を出て一度自宅に戻り、長いこと袖を通していなかった女物のスーツに着替えてきた。きちんと採寸して母が仕立ててくれたものだったが、それでも着慣れていないだけにあちこちが窮屈に引きつれる気がする。髪も少しでも清潔感を出そうとひとつにまとめてきた。
磨き込まれたガラスに映る自分の姿は、どこまでも借り物を身につけているように滑稽に見える。それでもどうにか一歩前に踏み出せるのは、昨日手に入れたシューズが足下を柔らかく覆っているからだった。
つづく (060205)
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