TopNovel赫い渓を往け・扉>肩越しの風景・4




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 定時で仕事を上がって、暮れかけた街角に降り立つ。ふわりと生暖かい風が頬をくすぐり、雨の気配を運んで来た。それでもまだ空は所々まだらに青く、今夜一杯はもちそうな空模様である。
  目の前を帰路を急いで通り過ぎていく人波。その流れに逆らうかのように、宵子は向かって左手の方向に歩き出した。

  メモに書かれていたのは、宵子が勤める会社とは目と鼻の先にある喫茶店。ただ、通勤路から外れていることと路地を少し入ったところにあることから、今まで全くその存在に気付いていなかった。
  うっかりすると見過ごしてしまいそうなポストの脇の細道を入り、クランクに曲がっていくと見知らぬ風景が現れる。急速に発展していく大通りの賑わいとは対照的に、そこは一昔前ののどかな雰囲気を残していた。

 一体どれくらい前からかかっているのであろうか、これは確か子供の頃に好きだったアイスクリームの看板。八百屋の店先の天秤型のはかり。すすけた薬局の人形。ひとつひとつ確認しながら進んでいくと、ひなびた地方の駅舎のような建物が現れた。階段を三段上ったところに、やはり木製の扉がある。上半分は磨りガラスが入れられていたが、店内を伺うことは出来なかった。

 ―― 本当にこの場所で間違いないのだろうか……?

 何度もメモを確かめて、横文字の店の名前も目をこらして照らし合わせてみる。そのあと意を決してドアを押すと、店内は外装からは想像出来ない程に広々としていた。カウンター席の他にテーブルが5つ6つと置かれていて、その半分ほどに客が腰掛けている。中途半端な時間なのに、すでにオムライスをほおばる老夫婦も見えて不思議な気分になった。皆、まるで我が家のリビングにいるようにくつろいでいる。

  そして、一番奥の席。彼は何かの雑誌を眺めながら、いつものタバコをくゆらせていた。

 

「お待たせしてしまって、申し訳ございません」

 まだ指定された時間には少し早かったが、礼儀上そんな風に謝罪する。男は席に着いたまま宵子を笑顔で見上げると、「どうぞ」と向かいの席を勧めた。そして手元の雑誌をさりげなく閉じる。その表紙に何となく目をやると、タイトルを始め全てが英文で書かれていた。

「じゃあ、昨日の宿題。出来ていたら渡してくれる? 君のことだから、徹夜してでも仕上げてくると思っていたけど」

 前もって頼んであったのだろう、席に着くと間もなくウエイトレスが宵子の分のコーヒーを運んでくる。冷めないうちに促されて一口味わったあと、目の前の男がどうしてこの店を選んだのかが分かる気がした。多分、昨日この辺りを散策していて見つけたのだろう。全くもって悠長なことである。
  相変わらずの偉そうな物言いには多少腹が立ったが、言われるままに昨日渡されたカタログを差し出す。夜中まで掛かって仕上げた文面に完璧な自信があるわけではなかったが、それでももう迷いはなかった。

 それに――、こんな風に退社時間を気にしなくて良い場所を選んでくれたことには正直感謝しなくてはならないだろう。
  ここにいる三鷹沢という男と会うことは社長命令であるのだし、いつどこでなどという詳細なことまでは報告しなくていいと言われていた。だがしかし、やはり今日も始終背中に貼り付くような視線に辟易していたのである。とうとう堪えきれなくなったのか、昼休憩の時には後輩のひとりから「今度はあの一籐木の方といつお会いになるんですか?」とはっきりと訊ねられてしまった。
  さすがにこれには呆れてしまったが、それでも「まだあちらから連絡がないから」とさらりとかわすことが出来た。別にやましいことなどはひとつもないのだから、堂々としていればいいのだがそうもいかないのである。あのかしましい会話に自分の話題が上がるのは精神安定上良くない。自分に聞こえない場所でやってくれるなら一向に構わないのだが、いかんせん狭いフロアで全てが筒抜けである。
  普段通りに仕事を区切りよく終えて上がれば、誰も詮索しないだろう。情けない話であるが、今日指定された場所を見て最初に安堵したのがこの点であった。

「ふうん、……なるほどね」

 そう長くはない簡潔な文面にまとめたつもりである。前回「回りくどく説明しすぎる」と指摘を受けたこともあり、その点には特に注意した。しかし、こんな風に用紙に穴が空くほどじっくりと読み込まれたら心臓に悪いことこの上ない。だが、これも試練のうちだ。自分の今後の仕事の糧にするためだったら仕方ない。

「そうか、こんな風にしたんだね。じゃあ、僕もまた返事を書こうかな。すぐに終わるから、その間にゆっくりコーヒーを飲んでいて。もしも必要だったら、遠慮なくお代わりを頼んでもいいよ?」

 そう言うや否や、彼は姿勢を正してスーツのポケットから万年筆を取り出した。ブラックのボディは持ちやすそうな太めなもので、良く使い込んでいるようである。宵子の渡した紙は下半分の余白があったので、その部分を使おうと言うのだろう。新たに新しい用紙を出すこともなかった。そして、次の瞬間。彼の表情がふっと変わる。

 多分、宵子の方にも多少のゆとりが出てきたのだろう。目の前の男の仕草をゆっくりと観察することが出来るようになっていた。
  しかし、面白いものである。雑談をしているときにはどこまでも柔らかい物腰なのに、一度仕事となると凛とした姿勢にすっきりと入れ替わってしまう。社会人として当然のことだと言われればそこまでだが、自分の周囲を見渡してもなかなか徹底出来ている人間はいないと思う。
  まあ、目の前の男はかの「一籐木グループ」の社員なのだ。宵子が普段接している人間たちとはレベルが違いすぎる。しかし、そう思って納得しようとしても、聞けばこの者は自分と二学年しか違わないと言うではないか。しかも四年制大学を卒業しているとすれば、こちらの方が社会人としてのキャリアは長いことになる。そんなことで張り合っても仕方ないのだが、何とも納得の行かない話であった。

 くっきりと彫りの深い顔立ちに、自信たっぷりな眼差し。確かにそのほとんどは、彼がこの世に生まれ落ちたその時にすでに身に付いていたものであろう。だが素晴らしいものを「素質」として持っていても、それを活かせない人間は多くいる。自分の器量を知り十分に実力を発揮出来る者こそが、勝利者となるのだ。

 ―― それでは、私は一体どうなのだろう……?

 冷めかけたコーヒーを一気に胃に流し込みながら、ぼんやりと傍らの窓に向き直った。少しの時間のうちにすっかりと暮れた風景に、自分の姿がそのまま浮かび上がっている。テーブルに頬杖をついて、何ともつまらなそうな表情。髪もばさばさで、いつ櫛を入れたのかと思われるほどである。

「はい、これを。また、宿題にしていいかな?」

 ハッとして視線を戻すと、もう彼の方は伝票を手に立ち上がっている。差し出されたカタログを受け取ると、それまで硬くなっていたその表情がふっと緩んだ。

「今日は食事、付き合ってくれるんでしょう? 約束だったからね」

 刹那、俯いたこちらの顔色は悟られずに済んだと思う。目の前のこの男に、何の下心があるとは考えられないのに、それでも心が沈んでいく。そんな自分が何よりも嫌いだと、宵子は思った。

 

◇◇◇


 まだまだ世の中は「男社会」。女性が正社員として採用されることが当然となった今日でも、やはりその職種はあくまでも「職場の花」との位置づけが強いように思われる。
  そうは言われていても、自分には他の女性たちとは違い高い志があるのだ――、入社当初はそんな風に希望に燃えていたし、周囲の環境も応えてくれている気がしていた。自分専用のタイプライターが与えられ、会社負担で特別の研修などにも行かせてもらえる。お茶くみや伝票整理のためにだけ存在する「その他大勢」とは全く別の存在なのだと信じていた。

 入社してまず始めに驚いたのは、男性社員たちが本当に気さくな感じでこちらに声を掛けてくることである。よくよく思い起こせば、宵子は高校もそのあとに進んだ専門学校でも周囲は女子生徒ばかり。日常でも担当教員以外に男性と会話をすることもなく、全く別の相容れないものだとばかり思っていた。
  そうしているうちに、いつのまにか同僚や会社の取引先の顔なじみの男性からお茶や食事に誘われるようになる。もちろんそれは宵子ひとりに限ったことではなく、他の同期の子たちも同様であった。先輩たちも当然のような顔をしている。あまり面識のない人物と一対一で会うのは嫌だなとも思ったが、断る理由も特に思いつかなかったので、成り行きのように従っていた。

 しかし、やはりそれだけで済まされる話ではなかったのである。「ただ、食事をするだけ」――あらかじめ向こうがそんな風に断りを入れたからといって、言葉通りに信じていいとは限らない。年齢の近い相手であればそのあとに必ずと言っていいほど交際を迫られたりするのだ。
  それならば、父親ほどに年の離れた相手なら安全かと思えば、こちらの方がよほど始末に負えない。案内された料亭には、すでに見合いの相手が到着していたりするのだから。
  さらに意外なことに、周囲の社員たちの反応もこのような流れをむしろ歓迎するかのようであった。毎年、一定の人数の女性社員が雇われながら、そのほとんどが一年二年で退職していく。その不思議なカラクリの裏にはこんな事実が隠されていたのだ。

 一体、何たることか。ここは企業という看板を掲げていながら、女性斡旋所に成り果てている。需要と供給が上手く釣り合っていると言えばそこまでだが、それで済まされていいのか。あまりのことに憤りたくても、社内の誰も同意してはくれない。
  さらにきちんと社員としての勤めを果たそうと率先してお茶くみや掃除を引き受けていたことも災いして、「良くしつけのされた気配りの行き届いている女性」という勝手な評価までが安直に先走りしてしまうようになる。誘いの話も多くなり、無下に断り続けるのもその場の雰囲気を悪くしているようで後ろめたい。

 とうとう、最後に宵子が辿り着いた結論は「女性」としての部分を自らの手で残らず切り捨てることであった。
  もともと、既製服では自分に似合ったサイズのスーツなどは手に入らない。だが、洋裁を得意とする母は娘の門出に何枚かの服を仕立ててくれていた。それに袖を通し、きつめの靴を無理矢理履いて縮こまって過ごした日々。ある日古着屋で男物のスーツを試着した瞬間に、自分がいかに無理をしていたのかを悟った。
  髪も手入れすることを辞めた。自分を飾ることは、すなわち周囲の男たちを喜ばせること。そうなれば、また困った勘違いに悩まされる。幼い頃から母に叩き込まれた女性らしい身のこなしも言葉遣いも、忘れたふりをした。それだけが、この世界で「生き残る」ために必要な態度であったから。

 努力の甲斐あって、ようやく好ましくないしがらみから解放されることが出来た。そう信じていたのに。社長からも社員としての将来を約束されて、これならばどうにか母とふたりで慎ましく暮らしていくことが出来る。
  娘ならば、早く人並みに落ち着くところに落ち着いて孫の顔でも見せてやるのが親孝行――、今でもお節介にそう言ってくる人もいる。だが、自分の母に限っては世間から後ろ指を指される様な娘の選択も快く受け入れてくれる気がした。

 

◇◇◇


 大通りまで戻って、雑踏の中に紛れる。そんなときも、意識して少し離れて歩いていた。

 こんな男とは仕事のこと以外で一緒にいたいとは思えない。どうにかして断る理由を見つけられないものか。足を進めながらも繰り返し繰り返し、そんな想いが浮かんでは消えていく。どちらにせよ駅までは戻るのだとあとを付いてきたが、とうとう改札を通る前に足を止めていた。つま先にぐっと力がこもる。もう必死だった。

「あの……、今夜の食事の場所はこちらが指定しても宜しいでしょうか?」

 驚いて振り向いたその表情を確かめもせず、くるりときびすを返す。少し遅れて、慌てた足音が追いかけてくるのを耳先で確かめながら、宵子の口元が久し振りにふっと緩んだ。

 ―― ああ、そうか。こちらからきっぱりと断るよりも、ずっと効果的な方法がある。どうして今まで思いつかなかったんだろう。

  突然のひらめきにほくそ笑みながら、角を曲がる。踏切を越えれば、そこは表駅とはがらりと変わりごみごみとした下町の風景が広がっていた。通りを歩く人々の服装も、かなりくだけたものになっている。物珍しそうな視線がこちらに向かっていることは承知の上で、宵子は努めて涼やかな表情を保ちながら足を進めていった。

 

「え……、ここ?」

 予想通りの反応が嬉しくてならない。あか提灯が揺れる崩れそうな店先。その前に立ち止まったその瞬間にも、自分たちの目の前を作業着姿の男たちがすでに出来上がっている足取りで中に入っていった。

「ええ、とても美味しいと社内でも評判なんです。でも後輩たちはこのような場所は好みじゃないと言いますし、さすがにひとりでは入りづらくて……ですからご一緒にお願いしようかなと」

 宵子の声をかき消すように、店内からどっと笑い声が起こった。何やら、がやがやと騒がしい様子である。先ほどの様な男たちが、一体どれくらいの人数でたむろっているのだろう。
  炭焼きの香りが満ちた風景に、どこまでも不似合いに立ちすくむ男がおかしくて仕方ない。そりゃそうだろう、彼には一生縁のないと思われる場所なのだから。選択権を委ねたら、多分気取った洋食店にでも連れて行かれるに決まっている。これ以上、相手のペースに乗せられるのはもう沢山だった。

 ―― このまま、呆れて帰ってしまうかしら?

 その時のあれこれ見苦しく言い訳する表情も見物だと思いつつ、そっと隣をうかがう。しかし、三鷹沢はそんな宵子の視線など気にもせずにおもむろにコートと背広を一緒に脱ぎ、さらにネクタイを少し緩めた。そして臆することもなく、のれんをくぐろうとする。

「……どうしたの? 早く入ろうよ」

 振り向いてそんな風に言うと、彼はガラガラと引き戸を開ける。むせかえるようなタバコと油の香りに顔をしかめてしまったのは宵子の方だった。

 

 ガチャガチャと食器の触れ合う音、周囲を気にすることもなく大声で交わされる会話たち。カウンターの向こうで丸見えの厨房では、それこそ戦争のような混乱ぶりである。案内されたのは隅の方の席で、ビニール張りのパイプ椅子の背もたれや座席にはいくつものタバコの焼けこげのあとがあった。すぐには座ることも出来ずに、立ちつくしてしまう。

「へえ、何だかこう言うのも久し振りだな。学生の頃に戻ったみたいだ」

 梁がむき出しの天井からつり下がった裸電球を見上げながら、三鷹沢はさっさと席に着いてしまった。テーブルの上に無造作に置かれたメニューをひとつひとつ確認しながら、ワイシャツの袖をたくし上げる。他のテーブルの男たちとはかなり肉付きが違っている腕であったが、それでも適度に日に焼けて健康そうな印象を受ける。

「全体的にかなりの大盛りになっているみたいだけど、宵子さんは大丈夫?」

 彼の視線の先には、隣のテーブルの客がかきこんでいる料理があった。焼き肉の定食だろうか、その割には副菜の種類が多い。ひじきの煮付けに切り干し大根の含め煮。さらに焼き魚までが付いているのはどういうことか。しかもその副菜のひとつを取っても、宵子が普段母親とふたりで食べる量よりも大盛りなのだ。

「へ、平気です! ご心配には及びませんわ」

 変に気を遣われるのは嫌だったので、冷たく突っぱねてしまう。とはいえ、内心はかなり不安であった。だが、メニューをじっくり改めると、定食の一人前がコーヒー一杯の値段と大差ない。とてもこの金額で、あれだけの量が出てくるとは思えないから、隣のものはここにはない常連客用の特別なセットなのだろう。

「ええと、じゃあ僕は串カツの定食がいいな。……キャベツは少し多めにしてね」

 いつの間にか彼のそばには注文を取る若い女の子が来ていた。水はセルフサービスらしく、客のほとんどは焼酎や日本酒をあおっている。

「ご飯は大盛りも出来ますけど、どうなさいますか?」

 彼の言葉にくすっと小さな笑い声を立てて、彼女が確認している。珍しい客が来たと思っているのだろう、興味深そうに三鷹沢と宵子を見比べていた。

「ああ、そうしてもらえる? ―― で、宵子さんは、どれにするか決まった?」

 さりげなく促されただけなのに、何ともばつの悪い思いがする。男と店員の女の子のふたりの視線を浴びて、自分がとても情けなく思えてきた。

「彼と同じものでいいです、お願いします」

 そう答えたとき、一瞬女の子がぴくりと反応した。すぐに何事もなかったかのように注文を繰り返したが、宵子にはそんな彼女の胸の内がはっきりと分かっている。意識的にじろりと睨み付けてみたが、その時にはもうすでに小さな背中が厨房に消えていた。

 ―― こんな格好をしているから、男か女か分からなくて迷っていたんでしょう……?

 隣のテーブルの男たちの下品な会話も耳障りである。だいたい、食事とはこんな風に騒がしくケンカしているように食べるものではないだろう。どこまでも消化に悪そうな状況で、何故このように陽気に楽しそうなのか。
  だが、宵子にとって何よりも腹立たしかったのは、やはり目の前の男の態度だろう。下町の定食屋なんて、およそ彼には似合わない場所だと思ったのに、思いがけずにしっくりと馴染んでしまっている。驚かせようと思って連れてきたのに、これではあべこべではないか。

 

「うわ、……これはまた豪勢だね」

 しかし、話はそこで終わらなかった。程なくして運ばれてきた盆の上には、ひと皿でゆうに3人前はあるんじゃないかと思えてくるほどの料理が盛られている。一瞬は二人前を大皿盛りにしたのかと考えたが、もうひとつの盆が運ばれてきて、違うことが分かった。

「宵子さん、……ご飯だけでも少し減らしてもらった方がいいんじゃない? いくら何でも無理でしょう」

 はっきりと訊ねられてしまうくらい、青ざめていたのだろうか。だが、ここに来て引き下がるわけにはいかない。こうなったら意地というものである。

「いいえ、大丈夫です。そちらこそ、途中で音を上げても知りませんよ?」

 洒落込んで細身のスーツを着込んだ男にここで負けるわけにはいかないと思った。誰も勝負など挑んではいないのに、宵子はひとりで意地になっている。割り箸を手に、ちらりと目の前の席を見れば、彼はすでに後ろの席の客とも軽口を交わして焼酎のグラスを渡されていた。

 

◇◇◇


  ―― 一時間後。

 宵子はまたも屈辱を味わうことになった。食事代こそはどうにか割り勘にしてもらったが、それでも気が晴れることはない。もう何も話す気力がないほど、喉の辺りまで米粒で埋まっているような気がしていた。

「ああ、さすがにきつかったね。……大丈夫? かなり顔色が悪いみたいだけど」

 否定の意を表すために、必死で首を横に振る。

「す……みませんでした。ご迷惑をお掛けして」

 情けない話である。もちろん、あの時点では頑張れると思っていた。だが、普段の食事とは使われている食材や油が違うのだろうか、思ったように箸が進まない。もちろん、定評通りに料理そのものは店の雰囲気からは信じられないほど美味しかったが、いかんせん量も多すぎる。自分がそれほど小食だと思ってはいなかったが、半分を過ぎた辺りから箸がなかなか動かなくなってしまった。
  自分がこれほど苦労しているのだ、多分目の前の男も同じだろうと思ったのに……彼の方はその時すでに完食に近い状況。さらに、なみなみと注がれた二杯目の焼酎まで余裕で楽しんでいるというのだから信じられない。

 出来るだけ平静を装ったつもりであったが、とうとう「もう無理なんじゃないの?」と声を掛けられてしまった。その時も大丈夫だと答えたかったが、すでに限界に達してしまっている。自分でオーダーした食事なのだから残すなんてもったいないと必死に思い切ろうとするが、これ以上は正直自信がなかった。口惜しくて口惜しくて、どうしようもない気分である。

「―― 仕方ないな、じゃあそっちのお盆をこっちに渡して。丸ごと交換してくれる?」

 初めは何を言われているのか、よく分からない状態だった。だが、彼の方が早く早くと促すので、気が付くとふたりの盆が入れ替わっている。尾頭付きのアジの塩焼きが骨だけ残して綺麗に食べられているのをぼんやりと見ている少しの間に、三鷹沢は宵子の食べきれなかった分をすっかり自分の胃に収めてしまった。

「いや、僕も初めにきちんと確認しておくべきだったよ。さすがに女性にはきつい分量だったからね。でも、宵子さんはなかなかいい食べっぷりだったと思うけど」

 何を言われようと、すでに言い返す気力もない。「女」と言うものを意識的に自分の中から排除したあとは、何もかもを男性社員と同様に張り合ってきたつもりであった。仕事の量も負けてはいないと思っていたし、酒の席でもかなり強い方だと自負している。それほどアルコールが好きではなかったが、オレンジジュースをちびちびとすすっているだけでは、いつまでも軽々しく見られてしまうと思った。
  だが、いくら気力があったとしても、それだけではどうにもならないこともある。分かっているはずなのに、何故ここまでムキになってしまうのだろう。

「ああ、久々に楽しい夜だったな。―― 今夜はありがとう」

 

 宿題の提出は明後日に。

そんな風に言い残して、彼は足取りも軽やかに夜更けの雑踏の中へ消えていった。

 

つづく (051128)


 

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