◆ 35.観察日記
いってきますと勢いよく玄関から飛び出したら、目の前に立ちはだかる人物。 夏服にエナメルのデカバッグ、昨日とぴったり同じ格好だ。あ、もちろんワイシャツとか靴下とかは取り替えたと思う。というか、そのままだったら、ちょっとやだ。 「……おはよう」 内心はかなりびびってたりしたんだけど、どうやらあっさりとやり過ごすことが出来た。しかし敵も然る者、私の挨拶が号令なったみたいにさっさと歩き出す。大きな歩幅、自分ペースよりも心持ち急がないと追いつけない。 ―― 驚いた、本当に待ってるんだもの。 もっともそんな言葉を口にしたら、すぐに「別に、丁度通りかかっただけだし」とか言い返されそう。あー、相変わらず無駄に身長があるよな。こんなに縦に長くてバランスが取れるのかしら。昨日見てたら、電車のドアも上がぎりぎりっぽかったよ? 「少し急げば一本前のに乗れそうだな。それくらい余裕持った方がいいだろ?」 そうか、だからこんなに早足なんだ。まあ、私もその意見には同意。実際はほんの二分三分しか違いないはずなんだけどね、やっぱりその差は大きいわ。 「まあね、でも狩野の方は早く着き過ぎちゃうんじゃないの?」 ふう、ようやく追いついた。全く起き抜けからいい運動になるなあ。出来ればもうちょっとスピードを緩めて欲しいんだけど、そんな風にお願いするのもしゃくだしね。こっちの必死さを悟られないようにさりげなく切り返す。 「早すぎるってほどでもないぞ、途中でコンビニ寄ったりもするしな」 学校の購買部はかなりの激戦区で、授業がほんのちょっと長引いただけで売り切れてしまうんだって。歩いて数分のお弁当屋さんもあるけど、そこに行くには外出許可書が必要だし。なかなか担任が捕まらなかったりして、危うく食いっぱぐれそうになることもあるんだとか。 「ふうん、そうなんだ」 やっぱ、学校によってそれぞれなんだな。 ウチの学校は業者が入っていて、必要なときは好きなメニューを各自で注文できるようになっている。二時間目が始まる前まででいいから、結構重宝してるんだ。洋風ちらし弁当は美味しくて、それが入っている曜日はわざわざ頼んじゃうくらい。 昨日は抜けるような青空だったけど、今日はまた低い雲がたれ込めている。天気、続くはずだったのにね。今にも降り出しそう。狩野の手には長い傘、お父さんみたいに黒い奴だ。
特に盛り上がる話題があるわけでもないんだけど、授業のこととか部活のこととかちらりちらりと話していればあっという間に駅に着く。本当にふたりで歩くと「え、これだけ?」って思っちゃうほど短時間。いつ横断歩道を渡ったのか、信号待ちは何回あったのかすら思い出せない。 「もう電車来てるぞ、何ちんたらしてるんだ」 昨日のお返しとばかりに背中をカバンでどつかれる。 「分かってますってば、そんなに急かさないでよ」 少しはいたわりの精神を身につけないとモテないわよ、って付け足そうとして何となくやめた。だって、それって負け犬の遠吠えみたいなんだもの。 申し合わせたわけでもないのに同じ車両に乗り込んだら、タイミング良くドアが閉まった。
うーん、何なんだろ。 背後に立ってる男の態度。ものすごく不機嫌って訳じゃないけど、かといってすごく楽しそうでもないよね。まあ、普段からこんな風だったしな。自然体と言えば自然体なんだろうな。 並んで歩いてると、やっぱ緊張しちゃうんだろうな。せっかく近くにいるのに、落ち着いて「観察」することも出来ない。ほおんと、情けないよな。始終「さりげなく、さりげなく」って自分に言い聞かせてなくちゃならないなんて。 普段よりも気合いを入れてブローした髪、目立たないように色つきのリップまで塗ってしまった。これは駅に着いたらティッシュで拭わないと「校門チェック」で引っかかりそうだわ。揺れるドアに映る自分の立ち姿、背後を見慣れた風景が流れていく。 「もう部活もテスト休みに入ってるんでしょ?」 そう訊ねたら、狩野は意外そうな顔をする。「よく知ってるな」とか聞き返されて、次の言葉が出て来なくなったり。ああ、そうか。この情報は真墨さんから仕入れたんだっけ。 「まあ、あんまりサボると身体がなまるしな、軽く自主練くらいやって来ようかと思ってるけど。そっちは? テストの日程なんて同じようなモンだろ?」 話、盛り上がらないなあ。まあ、仕方ないとは思うけど。ここでテスト範囲の話題を出したって、教科書も進度も違うんだし。どんどん噛み違っていくばかりだわ。無理に盛り上がろうとしても、逆に滑りまくるばっかな気がする。 違う制服、違う学校。何もかもが重なり合わないふたり。 そんなこと分かり切っているはずなのにね、会話と会話の合間に時折胸をきゅーっと引っ張られるような感覚が走る。この数十分の間に、自分の記憶にない新しい狩野のデータを必死に取り込まなくちゃと思うのに。宙ぶらりの気持ちが、つっかえて上手くいかない。 ―― まだ好きなんだなって、分かってるのに。 不思議だよね、どうして狩野じゃなくちゃって思うんだろうな。私はコイツのどこにそんなに惚れ込んでしまったんだろう。
ふと俯く角度、喉の奥で低くこもる笑い声。揺れる前髪、口元からこぼれる歯の並び。 ひとつひとつ並べようとしてもキリがない。「コレだ」と思った次の瞬間には、また新しい表情が現れる。掴みきれないその全てを残らず受け止めようとするのに、焦るばかりで全然時間が足りないよ。こうしている間に狩野の降りる駅に着いちゃう、そしたらまた離ればなれだ。 どうして今まで平気だったんだろう、本当は一日だって一時間だって離れたくないのに。
嫌だよな、狩野は共学に通ってるんだもの。周りにうじゃうじゃと、しかも「才媛」って呼ばれるレベルの女子がたくさんいるなんて気に入らない。どうしてさ、頭のいい人って美人が多いんだろう。そういうのも許せないよ。 恋愛って、どんな風に始まるのが普通なんだろ。うーん、やっぱどちらか一方がそれとなく行動を起こさなくちゃ駄目なんだろうな。だけどそれを自分から……って思うと、どうしても勇気が出ない。今の段階ではあまりに勝算がなさすぎだし。 この前一緒にいた「彼女」のことすら、未だに訊ねることが出来ない。軽い気持ちで切り出せばいいんだって何度も思ったのに、やっぱり駄目なんだな。自分からは何にも出来ないくせに、それでも諦めきれないなんて最悪。
また、……明日もこうして時間を合わせられるのかな? それともこんな機会、二度とないのかなあ……。
じりじりと煮え切らない気持ちが胸の奥から溢れてきて、頭の中がごちゃごちゃになっていく。こんな風に相手の心を探るの、すごく面倒で投げ出したくなってしまう。きっと、空模様のせいもあるね。 ……と。 「あ、降り出した」 窓に吸い付く水滴。それがどんどん数を増やして、いつの間にか小さい空間にびっちりになった。嫌だなあ、やっぱ予報通りか。でも、運が悪い。あと30分くらい遅ければ、降り出す前に学校にたどり着けたのに。 ―― ホント、私ってついてないわ。 そう思ってるうちに、電車は無情にもホームに到着。開いたドアから制服やスーツが次々に吐き出されていく。私の降りるのは一個先。今日はそれほど混んでないから、ホームには降りずにドアの隅でちっちゃくなってることにした。 「ほらよ」 私の脇を通り過ぎていくとき、奴が私の肩に何かを引っかけた。 「俺、走ってくから。じゃあな」
人混みの中に知り合いを見つけたみたい、私といるときとは全然違う笑顔で声を掛け合ってる。何だろうなあと思いつつ肩先を改めれば、そこにあったのは先ほどまで狩野が手にしていた男物の長傘だった。
◆◆◆
「お帰り!」 驚いた顔で振り向く肩先。今開こうとしてたビニール傘ではちっちゃすぎたのだろう、ワイシャツが濡れて半透明になってる。 「これ、あった方がいいと思って。今朝はありがとう、お陰で助かったわ」 そう言って、今朝の傘を差し出す。 どんな風に声を掛けようか、今日は授業中も休み時間もそればっかりを考えていたような気がする。あんまり悩みすぎて最後は訳が分からなくなって、もうどうでもいいやとかね。 「あ、……ああ」 暗がりになっちゃって、どんな表情しているのかよく分からない。もともと日に焼けて黒っぽいし。こうなるともう周りの色と同化しちゃうね。
本当は連絡取った方がいいかなと考えた。だって、行き違っちゃったりしたら困るし。 でも、最寄りの駅で降りて三十分だけ待ってみようって思って。実はかなりドキドキしてたんだけど、こういう風に待つ時間も楽しんだって気付いた。
改札の向こうに広がる駅前ロータリー。 通り過ぎる車が水しぶきを上げていく。うーん、さすがにここまでの土砂降りは珍しいかな。でも少しぐらい待ってても止む気配はないし。 「―― さて、帰りますか」 置き傘は制服とお揃いのひよこ色。一歩間違うと、小学生みたいな色合いだ。だけど、傘はやっぱり明るい色がいいと思う。憂鬱な天気でも心がウキウキするような。 「そうだな」 別に誘った訳じゃないよ、でも付いてくるならそれでもいい。だって、戻り道は一緒なんだし。
―― こんな風に。一日のうちに二回も会えるなんて、やっぱりドキドキするな。
バラバラとアスファルトに打ち付ける雨粒。すでにライトを付けた車が行き交う道路際の歩道を、私たちは並んで歩き出した。
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お題提供◇ぶん子様 いくつか気になることが残ってますが、それはおいおいに(笑) |