◆ 45.dead run 口実。 言い訳、誘い水―― または、呼び水。ええとええと、……禁断の隠しアイテム? 「う〜ん、そんな大それたモノでもないか」 二階の突き当たり、東向きの自分の部屋。机の上に置かれた二枚の細長い紙切れを眺めながら、頭を抱えてしまった。今宵の私は悩める乙女、その発端は今から約三十分前の出来事に始まる。
「ただいまーっ!」 母親、スーパーのパートから帰宅。ほぼ定刻通り。期末テストが終了して短縮日程になっている私は、すでにリビングのソファーでくつろいでいた。テスト中に撮り溜めてた連ドラをぶっ通しで三つも続けたあとで、もうそろそろ終わりにしようかなと思ってたところ。あ〜、ゴロゴロしてても「勉強は?」って言われないの、すっごく嬉しい。 「ほら〜、いるんなら手伝ってよ。先に冷凍食品をしまっちゃって、全く気が利かないんだから」 こういうときに、むかつくままに口答えしたら駄目よね。素直に従っておくのが身のためだわ。お馴染みスーパーのロゴの入ったビニール袋を玄関から運んで冷蔵庫の前でちまちま片付けてると、そのうちに着替えを終えた母親が戻ってくる。 「あー、そうそう。陽菜、これいる? スーパーの福引きでもらったんだけど」 そう前置きされて差し出されたのがこれ、向こう町の映画館のフリーチケット・二枚。期間は八月末までの限定だけど、作品の指定はない奴だ。 「陽汰にでもいいかなと思うけど、あそこじゃドラえもんやってないでしょ? 夏休みにお友達とでも行けば? ただなんだし」
「ありがとうございます」と両手を差し出して受け取ってから、頭の中は混線模様。いろんな想いが立体交差で行ったり来たりして、こんな風に考え込んでいるという次第。確かに嬉しいサプライズだった、今年から高校生料金になっちゃうんだもの。そりゃ「レディース・デー」とか「映画の日」とか裏技はあるけど、そういう日はメチャ混みするしね〜。 「……ま、いいか」 浮かびかけた提案を何となくそのまま飲み込んで、とりあえずは学校指定の通学カバンのポケットに押し込む。うん、先を急ぐ話じゃないしね。そんなにすぐに結論を出す必要もないわ。
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翌朝。 いつもと同じ時間に家を出ると、いつもと同じ電信柱の脇で狩野が立っていた。私の挨拶にろくに返事もせずに、さっさと歩き出す。これもいつもと同じだ。でも、すでに半月以上もこんな朝が続いてる。最初の頃に感じていたドキドキ感も次第に薄れて、こんな風にするのが当たり前みたいなそんな感じになりつつあった。 「ヤベー……今日も暑くなりそうだなあ」 何がヤバイのかも不明なまま、今朝の奴の最初のひとことは空に向かっている。 「そうだねー、そろそろ夏本番って感じかなあ」 同じように空を見上げて。私の声も抜けるような青空に吸い込まれていく。 まだ梅雨明け宣言は出てないものの、ここ数日は雨らしい雨も降ってない。テスト明けで部活を再開した狩野は、また一段と焼けて黒々しくなってた。サッカーって帽子を被らないからなあ、髪の生え際まで日焼けしちゃうみたい。こういう風に頭皮を痛めつけると、中年になって禿げ上がっちゃったりするのかな。うーん、そうとも限らないか。 「今日も、部活で遅くまで掛かるんでしょ?」 この界隈では名門で知られる一高のサッカー部。惜しくもインターハイへの出場は逃したものの、すでに秋の選手権へ向けてバリバリ頑張ってるみたい。三年生も引退して今度はレギュラーが手に届く場所まで来てることもあって、狩野の表情も真剣だ。話しぶりを見ても、日を追うごとにマジになってきてるもの。 「だなー、昨日も家に着いたの十時だったし」 うわー、すごい。何だか信じられない世界だわ。同じ高校生なのに、自分の方は滅茶苦茶楽な毎日を送っている気がして来ちゃう。これでも人並み以上には頑張ってるつもりなんだけどなー。 「そんな時間に帰ったら、すぐにバタンキューって感じだね」 入学当時から二回りくらい逞しくなった気がするんだけど、それも毎日のトレーニングの積み重ねなのかな? 制服のズボンに隠れてる足も、きっとすごい筋肉になってるんだろう。 「まーな、だけど休みに入ると学校の補習も始まるし。それに向けての課題も溜まってるんだよなあ……そっちは? お前の学校は夏休みの講習とかないのかよ」 「うーん、特にはね。その代わり、友達と予備校に通うことにしてるんだ。とりあえず二週間申し込んできた」 ふうん、って気のない素振りで鼻を鳴らす。あーあ、やっぱり違うんだなとか思っちゃう。こんな瞬間が未だに辛い。 何となく、本当に何となくふたりで登校するようになって。私たちの関係は次第に以前のものに修復されようとしていた。中学校からさらに遡って小学校。高学年よりは低学年。もしも下校時間が一緒になれば、男子も女子もみんなで集団になって歩いていた頃に。 始まりがイイカゲンだった分、多分おしまいも呆気ない。 「休みになったらな、丁度定期も切れるし自転車で通おうかと思ってるんだ」 そうかあ、そしたら偶然にだって会わなくなっちゃうんだなあ……当たり前すぎることなのに、それでも胸の奥がちくりと痛んだ。
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駅を下りて歩いてたら、後ろから名前を呼ばれた。私と同じレモン色の制服、茜ちゃんが元気に走ってくる。 「あれえ、珍しいね。一緒になるなんて」 寝坊でもした? って聞いたら、うんって恥ずかしそうに頷く。そういえばふたりっきりでこんな風に歩くのも久しぶりだなあ。真墨さんと気まずくなってからはその話に触れられるのが嫌で、茜ちゃんとツーショットになるのは意識的に避けてたんだな。気付かれてるかどうかは微妙だけど、まあ確かに不自然だったとは思うわ。 テストのこととか、休みに入ったら通うことになってる予備校の講習のこととか。当たり障りのないことをいくつか話した後に、茜ちゃんはすっごく言いにくそうに切り出す。 「……そうそう、陽菜に聞こう聞こうと思ってたんだけど」 思わず、うわーって思ったわ。突然、直球だ! って。グーに握りしめた手のひらがじんわりと汗ばんでくる。 「ウチの兄貴、その後どう?」 ううう、お願いだからこっちの顔色を覗き込まないでよ。ヤバイから、もう。冷や汗かいちゃってるから。 「ど、どどど、どうって? ど、どどど、どういうことなのかしら……っ?」 ひいいい、とうとう焦りのあまりにどもっちゃったわよ。やだなあ、私。どうして「テスト勉強で忙しかったからご無沙汰しちゃって」とか、さらりと言えないのかなあ……?? 「……ふうん」 すると、茜ちゃん。そんな私のどこまでも不自然そうな態度を見て、すごーく納得したみたいに大きく頷く。さらに大きく見開いた目で、じーっと私の顔を覗き込んで。 「ま、いいか」 で、そのまま。すたすたと歩いて行ってしまうの。 そうなるとね、こっちとしては急に不安になるじゃない。だから慌てて追いかけたわ。だって、真墨さんはどうであれ、茜ちゃんとはこれからも仲良くしたいのよ。 「待ってよ、茜ちゃんっ!?」 わー、あっという間にあんなに遠ざかってるっ! 茜ちゃんって足が速いんだなあ、こんな状況でも改めて気付いたりする。息を切らせながらようやく追いついたら、茜ちゃんは振り向かないまま小さな声で言った。 「……ごめんね」 え? ……ええとっ!? あのっ、どうしていきなり謝るの? ええと、それって、もしかして。私のような不誠実な人間とはもう友達を止めたいとか、そういうのっ?? 茜ちゃんの背中を眺めながらわたわたしてたら、彼女はさらに小さな声で言った。 「もう、信じられない。まさか兄貴があんな奴だなんて思わなかったよ。ごめん、陽菜。アイツ浮気してたでしょ? 同じ高校の女子だって? もういい加減にしろって感じだわ」
茜ちゃんの話によると。 他の学校よりも一足早く期末テストが終わったはずの真墨さんの帰宅がやたらと遅くなったらしい。新しいバイトでも始めたのかと思ってたら、今度は携帯で長電話。その時点では茜ちゃん、相手が私だと思っていたみたいなのね。テスト中なのに余裕だなとか考えてたんだって。 そしたら、昨日。街中で見知らぬ女子と歩いてる真墨さんとばったり出くわしたとか。
「陽菜、この頃ひどく落ち込んでるみたいだったし、何だか避けられてるみたいだったし。でも、理由が分かって良かったよ。もう少し早く打ち明けてくれたら、もっと嬉しかったけどね――……」 よっぽどそのとき、本当のことを言おうかと思った。けど、どっから話したらいいのか、どこまで話したらいいのか、それが分からない。こっちの方こそ申し訳なかった。真墨さんも災難だよ、一方的に悪者扱いじゃ。 「あ、あのっ。あのねっ、茜ちゃんっ!」 ごそごそごそ。カバンのポケットを探る。出てきたのは、昨日母親からもらった「棚ぼた」チケット。 「これっ、あげる! 彼氏さんと一緒に使って!」 モノで誤魔化すのはいけないと思うけど、これが今私に出来る精一杯。うやむやなまんま、動き出せない状況からこれで脱出が出来そうだよ。うん、そうだね。もうちゃんとしないと、もっともっと周りに迷惑掛けちゃいそう。 「あ、ありがとう。……でもいいの?」 目をぱちくりさせながら、チケットを受け取る茜ちゃん。瞳の色が、やっぱりどこか真墨さんに似てた。
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またまた、翌日。 いつも通りに家を飛び出した私。でも、門を開けて一歩外に出た、その風景が昨日とは違っていた。 「あれ?」 いつもの場所、電信柱の脇に狩野の姿がない。振り返って後ろを確認したけど、そこにもそれらしき姿は見当たらなかった。 「……どうしたんだろ」 突然の異変に戸惑いつつも歩き出す。だって、そうしないと学校に遅れちゃう。ようやっと明日から夏休み。ラスト一日にコケたくはないわ。 ―― でも。 何か連絡が来てないかと、携帯を確認してみる。ついでに新着メールの問い合わせチェックもしたけど、やっぱり何もなかった。 うーん、でもなあ。……まあ、それでも仕方ないか。 別に「絶対に」って約束した訳じゃない。もしもわざわざ連絡を入れて、そう言われちゃったらおしまいだ。そうかあ、やっぱこんな風にいきなり終わるんだ。そうかあ、……そうなんだなあ。 俯いたまま歩いてると、知らないうちに涙がこぼれてきそうになる。嫌だな、私って大袈裟。別にこんなの、大したことじゃないでしょ? 最後のたった一日、一緒に登校出来なかったからって何が変わるわけじゃないもの。でも……だけど。そうだとしても、連絡くらいくれたって良かったんじゃない? 「昨日の朝、切り出してみたら良かったのかな……」 二枚のチケット、それを手にしたときに最初に思ったのが狩野のこと。確か、観たい映画があるって言ってた。向こう町の映画館で上映中の作品だったと思う。だから、……誘ってみようかなとか。もしかしたら、そうすることで中途半端な関係が少し変わるかなって。でも、出来なかった。もしも「駄目」って言われたら、今日一緒に歩けなくなっちゃうって思ったら。 ―― だけど、どっちにせよ駄目じゃん。狩野、いないんだから。 「……馬鹿」 口惜しい、口惜しすぎて泣けてくる。でも、駄目。絶対に泣いちゃ駄目。今回のことは全部私が悪い、きちんと自分の気持ちと向き合わなかった私が招いたことなんだ。 ぼんやりと歩き続けて、やがて角を曲がって。それでも、駅までの一本道のずーっと向こうまで狩野がいないことを改めて確認してしまう。瞬き始める歩行者用の信号、いつもは嬉しい信号待ちが今日は辛い。狩野がいないと、朝の風景がここまで色褪せてしまうんだ。 「……?」 そのとき。 右手に握りしめたままでいた携帯が、突然騒ぎ始める。飛び上がりそうになる心臓、必死にこらえながら受信のボタンを押した。怖くて、誰からの電話か確認が出来ない。 『あのさ』 いきなり狩野の声がしてきて、慌てて周囲を見渡してみた。そういう可能性もあったのに、なのにここまで戸惑ってしまう自分がすごく恥ずかしい。 「なっ、何っ?」 信号はまだ赤のまま。歩き出すことも出来ずに、短く答える。 『次の月曜、空いてるって言ってたよな? その、……良かったら、そのまま空けておいてもらいたいなと思って』 ……は?? もう一度、きょろきょろしてみる。だけど、やっぱり狩野はどこにもいない。 『OKだったら、手を挙げて。無理なら、無視していいぞ。そのまま歩き出せ』
信号が青に変わる。 立ち止まったまま小さく、本当に小さく手を挙げて。それからゆっくりと後ろを振り向く。角を曲がって、携帯を手にゆっくりとこちらに歩いてくる狩野がたくさんの制服たちの中で誰よりも一番眩しく輝いていた。
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お題提供◇鯨井ルカ様 ----------------- 「全力疾走」……という日本語訳とはちょっと違ってしまうなあと思いつつも。 まあ、このふたりにとってはこの辺が限界かも(苦笑)。お互いに頑張ったみたいですよ? |