◆ 51.悪戦苦闘
でもその瞬間に私の目の前に現れたのは期待した風景ではなく、この三十分足らずの間に何度も何度も繰り返して辿り着いている因縁の場所だった。 「ああん、もうっ! どーなってるのよっ、一体……!!」 そんな独り言を呟いたところで、炎天下の脳天を焦がすような日差しが和らぐ訳ではない。ましてや、見知らぬ誰かが近づいてきて「どうしました、何かお困りですか?」などと親切に言葉を掛けてくれるはずもなかった。 無駄に気合い入れてタンクトップやキャミソを重ね着したりしてるから、身体の中は見た目よりももっと熱帯なの。スカートもあの日と同じむら染めのティーアード・ロングだし。これ、裏地も付いてるから辛いなー。
もーっ、どうにかしてよっ!
「梅雨明け宣言出たからって、こんなに一気に真夏になることないじゃないーっ……」 見るからに寂れた噴水の中央から、しょぼしょぼと五十センチほどの水柱が三本上がっている。今にも力尽きそうなその有様を眺めていると、さらにげっそりしてしまった。
◆◆◆
まあ支度もすっかり終わっちゃったしね。何だかとっても早起きしちゃって、自分でも怖いくらい。こんなに緊張してて本当にいいのかなあと悲しくなるわ。
「あのさ、予備校の夏期講習って次はいつが休み?」 「ふれあいファミリー動物園」でのスケジュールを全て終え、無事に子供たちを送り届けたらもう夕暮れ。 一日ですっかり日焼けしてしまった赤い腕を恨めしく眺めていたら、急にそんな風に切り出された。訊ねてきたのは、私に無報酬の一日労働を課した男。彼自身もかなりお疲れの様子らしく、いつもに増してテンションが低い。 「え? ええと、……三日行くと一日休み、が繰り返しになってる感じかな? 土日とか関係ないの」 「……ふうん」 自分から訊ねておいて、なんでそんな気のない返答をするのかな? いつもだったらスルーしちゃうんだけど、今日は疲れてるから妙に絡みたい気分になった。それで、すぐには言い返さずにびしっと決まる一言を考えていたのね。長く伸びた影を踏みつけながら。 「じゃ、来週の火曜は空いてるな。……だろ?」 こっちは全然違うことを考えていた訳だから、話がまだ続いていたことに驚いてしまう。だって無表情で思考がストップしてる感じだったんだもの。そんなの予想できないじゃない。 「そ、そうかな? うーん、ちょっと待って」 三日行くと一日休みなら、四日をひとくくりにして考えればすぐに分かる。カレンダーで思い浮かべようとすると曜日がどんどんずれていくから面倒なんだけどね。疲れた頭でいろいろ考えるのはとにかく面倒で、私はすぐに手帳を取り出した。前もって予備校のスケジュールは記入してある。 「んじゃ、そこでいいか。現地集合でいいだろ、俺その日は昼までの講習だし」 ……は??? 一体、コイツは何を言ってるのだろう? いきなり問いかけられた言葉が全く理解出来なかった。怪訝そうな顔のままで振り向くと、奴は後出しジャンケンみたいにポケットから薄っぺらいチケットを取り出す。 「さっき、ばあさんから今日のお礼だってもらった。何だって、こんなギリギリのよこすかなー。七月末までしか使えねえじゃん。丁度二枚あるから、ふたりで行けってさ」 あれ? これってどこかで見覚えのあるわ。 遠目に見たときの直感は目の前に突きつけられて確信に変わった。そう、これって茜ちゃんにこの前あげちゃった奴と同じじゃない。向こう町映画館のフリーチケット、期限はこっちのがひと月早いけど。 「ま、無理ならいいけど。どっちにしろ、こんなの期日が過ぎればゴミになるんだし」 何とも不思議な偶然にぼーっとしてたら、狩野の方は全然気のない感じでずんずん先を歩き出す。えー、人を誘うにはもうちょっとハートがあった方がいいんじゃないかなあ〜? ここまで素っ気ない態度を取られると、何だかこっちまでがフリーチケットと同様の扱いをされているような気分になってくる。 「ま、まあ……そんなとこだよね?」 ここであまり意識しすぎては、かえって変に見えちゃうだろう。どうして二度も同じようなパターンで誘ってくるのか、その辺もかなり突っ込みたいところだけど。 「駄目なら、連絡くれ。他の奴にやるから」 一枚手渡してくれるのかと思ったら、するりとかわされてしまう。まあそうか。もしも当日どちらかに不都合が生じた場合、一枚のチケットが無駄になってしまう。こういう座席指定って、やっぱ一枚きりよりもペアになってた方が誰かに譲りやすいしね。まあ、そんなところなんだと思う。 「うん、分かった」 そうこうしているうちに、あっという間に分かれ道。この交差点から私の家までは直線で八十メートルくらい、わざわざ送ってもらうような距離じゃない。 「じゃあ、また。そのときにな」 素っ気ない挨拶と共に足音が遠ざかる。ざりざりとわざと地面に靴底をこすりつけるみたいなそれがだいぶ遠ざかってから初めて振り返った。
―― ああ、そうか。わざわざこんな風に予定を合わせなかったら、会えなくなっちゃうんだな。
ちょっとの努力で登校時間が合わせられる毎日が普通になりすぎて、大切なことを忘れていた。学生の特権、待ちに待った夏休み。それなのに、今年は何だか心から楽しめない気がする。 「……同じ学校なら良かったのになあ」 大好きな笑顔といつも一緒にいられない。それがとても悲しくて、心がぎゅーっと引っ張られる気分になる。会うごとにさらに募る想い、そろそろ警戒水位を越えて溢れ出しそうになってた。 当たり前の存在と離れてみて初めて分かった。彼とは違う男性とほんのちょっとだけ仲良くして、さらにその気持ちを確信する。他の誰かじゃ駄目なんだ、この「大好き」の気持ちを受け取って欲しいのはひとりだけ。何でそんな簡単なことを今まで見過ごしていたんだろう。上手くいかなければ代わりを探せばいいやなんて、安直に考えてしまった自分が恨めしい。 やっぱり、この気持ちをはっきり言葉で伝えたい。 今のままでも、本当は十分だと思う。時間が合うから一緒に登校したり、丁度予定が空いてたから連れ立って出掛けたり。だけど曖昧な関係のまま過ごしていると、いつも心のどこかで不安がくすぶっている。もしも私よりも強い気持ちで奴に切り込んでくる女子が現れたら、あっという間に今の地位を転落してしまうんじゃないかなって。うん、……そんな「影」もなきにしもあらず、だしね。 キリ良く、七月も最終日。別に日付に合わせる理由もないけれど、一歩踏み出すには丁度いい。ふたりとも月が変われば部活がぎっちり入ってくるし、そうなるとまた予定を合わせるのが難しくなるもの。 ……でも、改まってしまうと難しい。どうやってその方向に話を持っていったらいいのかって。突然、「付き合ってください」なんて正面切って言ったら、すっごく驚かれそう。かといって、あまりに遠回しに探りを入れてたら奴の性格からして埒があかないだろうなあ。 そんなこんなで。 昨日は夜遅くまで「ああでもない」「こうでもない」ってなかなか寝付けなかった。その割りには早起きしちゃったけど。うーん、ちゃんと睡眠が取れているのかどうか自分でも分からない。
そして。 私の決死の想いをせせら笑うかのように。辿り着いた駅では「信号故障のために運転見合わせ」の看板がでかでかと掲げられていた……という訳。
◆◆◆
自分がいまいち地理に怪しいことは承知の上。でも、最寄りの駅に着いたら連絡いれれば大丈夫。奴は私よりは「地図が読める日本人」なはず、先日の「ふれあいファミリー動物園」でもその点では頼りになったもの。 途中、別の電車に乗ってしまいそうにはなったものの、どうにか待ち合わせの30分前には目的地近くの駅に到着。しかし、簡素なオフィスビルが建ち並ぶ光景は想像以上に他人行儀だった。目印に出来るような建物もなく、同じ形で同じ色のビルがどこまでも続いているだけ。しかもタイミングの悪いことにランチタイムが終わったばかりの時間帯で、歩道に人影も見当たらない。 その上。頼みの綱の狩野の携帯が、いくら連絡しても「留守番電話サービスに接続します」になってしまうのだ。メールの方だっていくら送っても全く返信が来ないし。こっちは泣きたい気分でいるのに、ひどすぎる。別にさ、べったべったに気遣って欲しいとは言わないよ、最初からそんなのキャラじゃないって分かってるし。
でも、何度も同じ道を行ったり来たりしていて、思った。 どうしていつもいつも、私ばっかりがこんなに頑張らなくちゃならないんだろうって。そりゃ、自分が狩野のことを好きだから、だから勝手に必死になっちゃうんだけど。受験の時もそうだった、睡眠時間を削ってまで頑張ることが出来たのは「愛の力」のなせる技だ。 なかなか会えない位置関係だからこそ、一緒にいられる時間が貴重。テンションが上がりまくってしまうのも、やっぱそう言うのが理由かな? だーかーらーっ! 今日は絶対に外せないの、早く会いたいの。待ち合わせ時間まであとわずか、もう一度スタート地点からやり直している暇もない。ああん、確か今時の携帯ってナビ機能が付いてたんじゃなかったっけ? そういうの、CMで見たことある。だけど、慌ててメニューボタンを操作しても全然分からないし。もうっ、馬鹿馬鹿っ! 私の大馬鹿! 見上げる空、憎たらしいほどの晴天。雲ひとつない箒で綺麗に掃き上げたみたいな青。 同じ空の下、どこかに奴がいることは確かなのに。きっとかなり近い場所にいるはずなのに、どうして巡り会えないの。だいたいっ、何で携帯が通じないのよっ! いくら持ち始めて半年足らずの初心者だからって、マナーくらい分かってるでしょう。そんなんしてると、友達いなくなるよっ!? ……まあ、最初からあまり積極的に仲間を作る方じゃないけどなあ。 大きな丸玉がいっぱい並んだネックレス、首の後ろに当たる部分が汗でぬるぬるしてる。こんなに大汗かいたら、日焼け止めも全部流れちゃう。もう一度全身を鏡で確認したいような、それも怖いような。 「ああん、もうっ! 隠れてないで姿を見せなさいよねっ……!」 あまりの暑さでぼんやりし始めた思考回路、知らないうちに自分でもよく分からない言葉を吐き出していた。だって、同じような風景ばかりが続いていて、向こう町のセンター通りにはいつまでも辿り着けないんだもの。やっぱり駄目なのかなって、縁がないから会えないのかなって。どんどん自暴自棄になってくる。 独り相撲はもう止めようって、考えるのは初めてじゃない。ちょっと前にも、全く同じような感情を抱いたことがあるわ。そして、……そのときは結果的にどうなったんだっけ……?
はた、と思考が戻ったとき。丁度同じタイミングで、背後に足音が追いついた。
「……やっと見つけた」 その声を聞いて。多分そうだなって確信して。けどまだ、振り返れない。目の前にあるのは、しょぼしょぼの噴水。 「お前、逃げ足早すぎ。それらしい背中が見えたからもう大丈夫かと思ったのに、次の瞬間には消えてんだからなあ。何やってんだよ、ここまで来ればもう映画館は目と鼻の先だぞ。こっちは飯も食わずに探し回ってたんだからな、感謝しろよ?」 ゆっくり、電池の切れかけたロボットみたいに振り向く。そこに立ってた狩野は講習帰りの制服姿、白いワイシャツが汗で張り付いてる。その表情はいつも通りにどこか面倒くさそうで、その上すごく偉そう。でも本当に長い時間探し回っていてくれたんだなって、信じられた。 「悪ぃ、携帯を今朝家に忘れて来たんだ」 空っぽな手のひらを差し出しながら、奴はぽつりと言う。色々言いたいことはあったはずなのに、つい一瞬前まではコイツへの暴言で頭の中が爆発しそうだったのに。それなのに、どうして。今、たったひとつの気持ちしか残ってないの? 「信じられない。まさか、チケットまで忘れてきたんじゃないでしょうね?」
お互いに息の上がった状態のまま、並んで歩き出す。 いつもみたいにすぐに言葉は戻ってこなくて、だけどところどころに汗の浮かんだ奴の鼻先を見てると、まあいいかって気分になった。 |
お題提供◇プリステラ様 次回、最終話です。どうぞお楽しみにv |