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0231 : 今日のエフデ 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/05/02(木) 19:15:19
今日はゴールデンウィークの中日ということで、お弁当の工作を作りました。「ゴールデンウィークもうどこかに行った?これから行く?」「バーベキューした!」「遊園地今度行く!」みたいなやりとりから、どこかに行くならお弁当もって行くと楽しいよね、と話しかけ、まずはおにぎりをとりあえず作るところから始めました。おにぎりの他は好きなおかず自由に作ってみて、と材料を色々並べて作ってもらいました。タコさんウィンナー、"あえて"食欲をなくす水色のスパゲッティ、ビーズをあしらったゼリー、パプリカやお肉を爪楊枝に刺したバーベキュー、鮭の切り身など、次々出てくる子どもたちのアイデアに圧倒。ニュースで目にしたのか、デザートのオレンジが高いから値上げしないと、とお弁当の値段を高めに設定する子もいました。ともかく残りのゴールデンウィークも楽しい時になりますように。

0230 : 胎内9さんへ 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/04/24(水) 00:59:17
あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。 第1コリント10:13
0229 : No Title 名前:胎内9 投稿:24/04/22(月) 19:11:45
もう、駄目だ。周りの人から暴言等を吐かれ、見放され、永久に苦しみ、全て失うのが目に見えている。どうしよう。
0228 : 2024年4月21日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/04/21(日) 23:52:03
ローマ6:12-14 「罪にではなく神に」

やめたくても断ち切ることのできないという罪依存症に対し、私たちは何をすべきだろうか。まず洗礼を受けてなお罪との戦いがあるのは、私たちの霊的な死と肉体的な死の間にタイムラグがあるからだろうか。私たちはその死ぬべきからだを罪に支配させてはならないし、他者を自らの欲望のために奪う事があってはならない。
ではすべき行動はなんだろうか。そもそも私たちは、それぞれが罪を主人として五体がバラバラであること、これに疲れを覚えるのではないだろうか。それに対しては、私たちは五体の主人をただ一人の主とするほかない。それには、私たちの五体を神に献げることである。神に献げるとは、神のそばに立たせること。良いわざを行え、ではない。神のそばに自らを立たせるとき、神ご自身が私たちを良いわざの実に満たしてくださるのである。
私たちは、私たちよりも罪の方が強い、罪にいまだ支配されていると勘違いしていないか。そうではなく、私たちはもう罪の支配にない。支配することはできないのである。主のそばに自分を立たせるとき、主が私たちを義の道具にしてくださる。
0227 : 胎内90卒さんへ 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/04/19(金) 20:20:55
どうか慰めと平安がありますように。神さまが守ってくださいますように。
0226 : No Title 名前:胎内90卒 投稿:24/04/18(木) 18:17:33
こうして生きていられるのもあと僅かな時間。

人生あっという間だった。

人生退職の時。

現世卒業の時。

タオルがリングに投げ込まれる時。

長いようで短かった人生だった。
0225 : 今日のエフデ 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/04/18(木) 18:09:21
ここ最近、春をすっとばしてもう夏かと思うような日もありますが、作品は長い冬を越えてそろそろ地上に出てこようかな、と思っている地面の中の虫や動物たちを描きました。いったん描いたそれらの生き物をロウとアクリル絵の具で塗りつぶし、その後スクラッチで地面の穴を掘ってあげる、という作品です。中には宝探しのようにお宝や点数などを掘り当てるゲーム形式にして、家の人にやってもらう、といって持ち帰った子もいました。

0224 : 2024年4月14日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/04/15(月) 14:08:51
ローマ6:5-11 「罪からいのちへの接ぎ木」

罪をよくないことと知っていながらもやめることができないのだとしたら、私たちは治療が必要な依存症と言えるのではないだろうか。私たちはバプテスマにおいて、キリストと一つにされた。古い台木との関係を断ち、キリストに接ぎ木された私たちは、木につながったぶどうの枝のように良い実を結ぶことができるはずである。
私たちは神の与えた自由を捨て、自由を得られると誤解して禁じられた木の実を手にしたアダムの末裔である。その土台はまさしく繋がっていた私たちを罪の奴隷としていた。そして価値基準の混乱によって私たちは無価値な死を迎えるしかなかった。しかし、死んでよみがえられたキリストを台木とする私たちは、キリストに満たされて良い実を結び、いのちを得ることができるのである。
キリストの死と復活が一度きりなのと同様、私たちのバプテスマも一度きり、不足のあるものではない。その一度で私たちにも死と復活が当てはめられるのである。「認めなさい」とは私情を挟まず事実と認知すること。私たちの主人はすでに罪ではなく主キリストであることをまず認めることが、罪依存からの解放へと私たちを導くのである。
0223 : 2024年4月7日 主日聖餐礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/04/9(火) 10:33:59
ローマ6:1-4 「バプテスマを受けて」

救いの恵みの圧倒的大きさは確かな慰めだが、悪意をもって受け取るなら、救われてなお罪にとどまることを許容する教えに取られかねない。宗教改革者ルターが再発見した信仰義認も、そうした批判をされる事があった。
それに対してパウロは「ありえない」と強く否定する。私たちは罪と関係を絶ったのであり、かつて神から自由になることに魅力や価値を感じる歩みは、むしろ私たちを罪の奴隷にすると知ったからである。そのことをバプテスマと関連づけてパウロは、私たちはキリストの中に沈められ、キリストの死とともに私たちも葬られた、と記す。バプテスマを受けた時、私たちには死んだ実感はないかも知れない。が、神の側でそれは確実な事実だ、と言ってくださるのである。
私たちが自覚していようがいまいが、罪と関係を持っていたのはすでに過去のことであることを確認したい。それでもなお罪にとどまろうとするのは、新入小学生が、なお幼稚園生活に戻ろうとすることと似ている。聖餐式はすでに罪に死に、新しいいのちを歩んでいることを思い出す機会である。今日の聖餐式もそのように用いられるように。
0222 : 今日のエフデ 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/04/4(木) 21:56:48
今日のエフデから初めて参加する子もおり、今年度の新しいメンバーで最初の教室でした。今日は自分のオリジナル名刺づくり。名前や学校、学年などそれぞれ自分を紹介する名刺をデザイン。それをパソコンにいったん取り込んで、名刺用紙に印刷して10枚の名刺にして完成。初めましての子もいるのでお互いに名刺を交換して、これからよろしくねと挨拶。今年も楽しい教室にしていきたいとおもいます。(作品に名前が記載されているので今回は作品の写真は掲載しません)
0221 : 2024年3月31日 イースター礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/04/01(月) 11:41:58
ローマ5:16-21 「永遠のいのちに導くため」

引き続きアダムとイエス・キリストを比較をしながらパウロは、恵みの圧倒的大きさを語る。この世の基準であっても、違反は1つでも、また一部分であったとしてもその人全体を違反者にしてしまうだろう。しかし、ゆるしの恵みは一部分ではなく、全体を対象とするように、神がキリストを通して義とするのも、個別の罪をではなく、私たちの人格全体を義としてくださるのである。
聖書において罪と死がセットで語られているのは、神から善悪の基準を奪った結果価値基準の混乱が起きたからである。それで人は価値を失う究極の形である死を恐れるようになってしまった。しかし義であるイエス・キリストの罪のないいのちを引き換えにしても惜しくはないと神が言われるとき、その信仰は私たちを死の恐怖の支配から解放する。
律法によって罪はますます認められる。しかし、罪をさらに凌駕し打ち消す恵みの大きさは決して罪に負けることがなく、圧倒的である。私たちが一度肉体の死を経験し、チリに帰るとしても、それにも関わらずキリストの復活を通して約束された永遠のいのちは、主のもとで生きる希望へと変わる。これからも十字架と復活の希望の信仰を喜ぼう。
0220 : 今日のエフデ 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/03/28(木) 20:31:03
今週も今日で卒業する最後の子どもたちがいて、これまでの作品のアルバムを作りながら別れの時をすごしました。今日のクラスの子たちも長らく続けてきてくれたので、たくさんの思い出がよみがえります。きっとまた同じ市内在住なので、どこかでばったり会うよね、といいながら最後に記念撮影をして、中学校に行ってもがんばってね、と声をかけて別れました。

0219 : 2024年3月24日 受難週礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/03/26(火) 13:34:35
ローマ5:12-15 「一人の人によって」

アダムの罪は、神の戒めを破り善悪の知識の木から実を食べたことだった。それは神の権限である善悪の基準を奪ったということである。その結果自分の価値を失ってしまう死がもたらされた。この原罪と死は人から人へ、そして世界へと拡がって行ったのである。
そしてパウロは、罪の基準をはっきりさせる律法が与えられる前から罪はあったが、罪として認められなかったことを指摘する。例えばカインはささげものを神に拒まれてアベルを殺害したが、厳密に「殺してはならない」という律法が与えられていたわけではない。しかしカイン他創世記の登場人物たちもアダム同様死がもたらされている。私たちが死を経験するのは、個人の個々の罪の報いというより、アダムの子孫だからである。そこでパウロは大胆にもアダムはキリストの型だという。
むろんアダムとキリストが同じだというのではない。一人の違反がすべての人に死をもたらし、一人の恵みがすべてにいのちをもたらすことに共通点があるということである。しかも神の恵みはより強力にアダムの呪いを上書きする力がある。神であるにも関わらず一人孤独に十字架の受難を耐え忍ばれたキリストのあがないを覚える受難週を過ごそう。
0218 : 今日のエフデ 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/03/21(木) 20:13:06
小学生対象の教室なので、今日の教室で小学校を卒業し、最後のクラスだった子どもたちもいて、別れの寂しさを覚える一時でした。ある子はお兄ちゃんについてきて幼稚園からずっと6年生まで続けてきてくれた子で、またいつでも遊びにおいで、と声をかけて別れました。作品集のアルバム、大事な思い出になってくれたらうれしいです。

0217 : 2024年3月17日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/03/19(火) 19:48:08
ローマ5:6-11 「和解という救い」

罪人の愛はゆがみ不完全であるゆえに、私たちから誰かに向けられる愛もそうであるに違いない。では神の愛はどう証明されるのだろうか。それはキリストの死という歴史的事実に基づく。世の愛は、愛される価値のあるものへと向かう限界ある愛だろう。しかし、弱く不敬虔で罪人であったときにキリストは私たちのためにいのちを差し出されたのである。
神は天地創造から人間を愛しておられた。しかし神に背いた人間は、神の愛を素直に受け取らず、勝手な方法で得ようとしてしまった。そしてますます神に背く悪循環に陥っている。救いとはそこからの解放である。神に敵対していた者を赦し、役立つ者に変えてくださる神の愛は、教会を迫害し神に敵対していたパウロ自身の経験した現実である。
この救いは本当の喜び、誇りで人を満たしてくれる。誤った誇りをもってしては、自分自身が満たされることはない。そればかりかその欠けを他人を利用して満たそうとする間違いを犯す。私という罪人を赦し愛してくださる神を誇り、神を喜びとするとき、必ず神を愛し、隣人を自分のように愛する正しい愛へと向かうだろう。
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