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0105 : 子どもクリスマス会 名前:caiaphas@管理人 投稿:21/12/19(日) 18:02:27
12月19日午後、子どもクリスマス会を開催しました。少人数でしたが、とても楽しく過ごせました。
まずはマジックの得意なお兄さんがトランプマジックを披露。子どもたちも「え?なんで??」と驚き。

0104 : TrueVineクリスマスコンサート 名前:caiaphas@管理人 投稿:21/12/04(土) 18:32:15
今日はクリスマスコンサートを開催しました。YouTubeLiveでのコンサート中継という新しい試みで、最初音声がちょっとだけつながらない時間があったりと多少のトラブルがありましたが、無事行う事ができました。
昨年はコロナの影響で休止を余儀なくされ、2年ぶりのコンサート開催でした。TrueVineのお2人、ノアちゃんの変わらぬ美しいゴスペルの歌声を聴けて主に感謝。コンサート前後のZoomでの交わりの時も、近況の報告や恵みを分かち合ったりなどなど楽しい時でした。

YouTubeのアーカイブを見ると、今現在で30回ほど再生されているようです。会堂には集うことができなかったけれども、案内などを見た方が自宅から視聴してくださったのかな、と思っています。願わくはさらに用いられますように。

0103 : クリスマスコンサート案内 名前:caiaphas@管理人 投稿:21/11/30(火) 23:33:31
12月4日(土)のクリスマスコンサートの演目はこちらになります。

0102 : クリスマスコンサート 名前:Shadora 投稿:21/11/30(火) 20:36:05
2021年櫛形キリスト教会クリスマスコンサート(オンライン)

ジャパニーズゴスペルデュオ TrueVine
2021年12月4日(土)13時15分 YouTube ライブ 配信開始
https://youtu.be/E1lX_XwFgxQ

是非ご覧ください。当日は櫛形キリスト教会会堂でも視聴できます。

0101 : 2021年11月07日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/11/10(水) 10:49:42
ヨハネ2:12〜22「しるしは何か」

 過越しの祭で、主イエスが商売人や家畜たちを宮から追い出したという「宮きよめ」の場面。彼らはいけにえの動物の販売、献金の貨幣の両替で暴利を貪っていました。神の救いは貧富など関係なく完全な恵みとしてもたされるもの。しかし結果として神の救いを喜ぶためにはお金が必要という事になってしまっていました。神の恵みを不完全にし、神の救いを乗っ取ろうとしている事に主は怒りを燃やされたのではないでしょうか。
 弟子たちはその姿に詩編69編のダビデの言葉を思い出します。ダビデの主の家を愛する愛は神の愛と同じく妬みまで感じさせるほどでしたが、むしろそれによって人々から苦しめられるという嘆きでもありました。つまり主の宮きよめは、愛から出たものだということです。批判や叱責をしないことが愛と受け取れれがちな昨今の世の中です。主が私たちをどの様に愛されるのか、今一度確認したいと思います。
 まことの愛がぼやけるとき求めたくなるのはが「しるし」です。しかし、望みや願いが叶えられることよりも、十字架と復活こそが愛の真のしるしなのです。今後の動物のいけにえを一切不要にする完全な贖いの恵みを今日の聖餐式を通して確信し、喜び賛美しつつ歩もうではありませんか。
0100 : 2021年10月31日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/11/03(水) 14:15:33
ヨハネ2:1〜11「ソラ・グラティア」

 本日10/31(日)の礼拝は、宗教改革記念礼拝です。1517年に始まったM.ルターによる宗教改革は「聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ」が三本柱となりました。中でも説教題となった「ソラ・グラティア」の意味する「恵みのみ」について注目していきます。
 この箇所は有名な「カナの婚礼」の場面です。当時1週間程続く宴会の最中に、ぶどう酒が足りなくなるという事態になりました。それは招いた客人たちに対する失礼にもあたり、マリアはその事を主イエスに相談します。ところが主の対応は非常に素っ気ないものでした。なぜだろうか。しかも結局最後になって主はぶどう酒の必要を満たすのです。
 人の願いに対し主の対応が素っ気なく見える話は、カナン人の女性の訴えなど<マタイ 15:25-28>、ここだけではありません。それは、人の訴えの熱心さや努力によってではなく、主は、ご自分の時にそれを主権をもって働かれるからなのです。こんなに祈っているのになぜと訴えたくなる時、私たちはわきまえつつ、しかも主の恵みに信頼したマリアのことばに学びたいと思います。
 しかもこのしるしは、ユダヤ人が身をきよめるための水を祝福のぶどう酒に変えたものでした。神との交わりを遮る私たちの罪は、熱心や行いによってではなく、あくまでも主の恵みのみによって祝福へと変わるのです。主に従った者の味わった恵みを感謝しましょう。
0099 : 2021年10月24日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/10/26(火) 10:51:16
ヨハネ1:43〜51「一人ひとりに応じて」

 キリスト教は多様性を重視していないと言われることがありますが、妥当でしょうか。むしろ唯一の神ご自身が多様性豊かな方なのではないでしょうか。ガリラヤに戻られる時、ピリポに対して「わたしに従ってきなさい」とのイエス様のストレートな招きは、素直で応答の早い彼にとってはぴったりの招きであったに違いありません。ヨハネの弟子やペテロに対する主の招きも、彼ら一人ひとりに応じた適切な招きでありました。
 ピリポに誘われたナタナエルは、イエス様がナザレ出身ということでメシアではあり得ない、と疑います。たいへん慎重な性格のようです。確かに旧約聖書にもナザレの地名が出てくることはありませんでした。しかし、ピリポがひるますナタナエルを誘った「来て、見なさい。」の一言も彼には効果的でした。
 主はナタナエルに真のイスラエル人と評します。「イスラエル」とは「神と戦う」という意味があり、ヤコブが御使いと格闘し祝福を求めたことを思い起させます。また、いちじくの木の下はイスラエル人にとってはメシアを願う場所でもありました。疑いつつも必死にメシアを求める彼の祈りを、主は聞いておられたのです。驚くナタナエルに、インマヌエルの救いのさらなる素晴らしさの体験が予告されます。多様な道(方法)で人を招かれる主の恵みを覚え、私たちも御心に敵う平和を求めていきましょう。
0098 : 2021年10月17日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/10/19(火) 10:00:01
ヨハネ1:35〜42「イエスに従う時」

 バプテスマのヨハネが自分の弟子に「見よ神の子羊」と主イエスを指して言うと、彼らは迷うことなくイエスについて行きます。誰を師として誰に従うのかは非常に大切なことです。あやふやな虚ろなものでは意味がありません。また、神であるいのちの光としてのイエスを前にどっちつかずは有りえないのです。従うべきとなれば、色々なしがらみや繋がりを切らなければいけないとしても、そうすべきでしょう。またヨハネの謙遜も注目すべき点です。
 主は彼らに、「何を求めるのか?」と問われます。私たちも改めて、主に何を求めているのかを自身を問わなければなりません。弟子たちは主に泊まる場所を聞きます。それは何かのご利益ではなく、主イエスとの交わりこそ自分たちにとって必要なものだと受け止めたからではないでしょうか。そうして従ってみたときに主イエスの素晴らしさを体験できるのです・
 その素晴らしさは、弟子の一人アンデレが兄弟シモンにキリストを紹介することからも分かります。主に従う時に切ったと思った繋がりは、主によって改めてつながることになりました。主イエスにこそ従う思いをもって、今週の歩みに遣わされましょう。
0097 : 2021年10月210日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/10/13(水) 10:38:41
ヨハネ1:29〜34「見よ、神の子羊」

 洗礼者ヨハネは主イエスを「世の罪を取り除く神の子羊」と呼びました。聖書の世界の人々(イスラエルの民)にとって羊は特別な家畜なのです。羊たちの放牧により緑が守られ、生活必需品も得られます。そのため神へのささげ物として相応しいし、その従順にいのちを差し出す姿がメシヤを表わすにふさわしい動物とされるのです。「取り除く」と語られたことばはギリシャ語で「アイロー」と言い、もともとは「担う」という意味があります。キリストの贖いを予見した言葉として端的です。
 とはいえヨハネはこの方が誰であるか「知らなかった」、と強調します。聖霊が鳩の様に下り、とどまるのを見るまでは。キリストとの出会いは誰にとっても確かにそうではないでしょうか。私たちは誰一人として自分からキリストを見出したのではありません。私たちの意志や知恵によらず、まず神が私たちにキリストを示して下さって、御霊によって私たちはイエスを主と告白できるのです。
 ヨハネのバプテスマは、ことばの意味通り、水に浸されること。しかし主イエスは聖霊によるバプテスマを授けたもう方であります。御霊に浸った私たちは、御霊とともに歩む生活によって、御霊の実を結ぶ歩みへと招かれているのです。この恵みの豊かさを覚え、また証の生活に遣わされましょう。
0096 : 2021年10月03日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/10/05(火) 10:21:37
ヨハネ1:19〜28「証の声」
 
 バプテスマのヨハネのもとに、パリサイ人たちが祭司とレビ人たちを遣わし、あなたは何者なのかと問う場面。無論、彼らは祭司ザカリアの子ヨハネを知らなかった訳ではありませんでした。それは、こんな事をしているあなたは何者なのかという問いでした。ローマ帝国に対する立ち位置が真逆な彼らからの問いは、ヨハネにとってプレッシャーとなり得る問いでした。しかしヨハネは毅然として、「違うことは違う」とはっきり明言したのでした。
 彼は、自分は「主の道を真っ直ぐにせよと荒野で叫ぶ者の声」である、と告白します。当時も王が通られる道がでこぼこであっていいはずは無かった。ましてや王の王である主が来られるなら、その備えをなせ、と叫ぶ声なのでした。また、声はことばがなければ意味をなしません。自分は「ことばである主イエス」を届ける「声」であるとヨハネは自覚していたのでした。
 それでも権威にこだわる質問者に、ヨハネは自分より後に来られる方こそが権威ある方であり、自分はその奴隷(履物のひもを解く)となる資格さえないと告白します。しかし主は、その謙遜なヨハネのわざを、ヨルダン川を経て約束の地に入る新しい契約の備えとして用いられたました。私たちも声として、器として、小さなわざをも用いていただきましょう。
0095 : 2021年09月26日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/09/30(木) 11:02:19
ヨハネ1:14〜18「ことばは 人となった」

 罪と闇に死んでいた私たちにいのちの光を照らすため、ことばは人となられました。「人」は直訳では「肉」を指し、弱くもろい物。また、「住む」とは「テントを張る」という意味になります。初めからある栄光ある神ご自身であることばは、弱くみすぼらしい姿をとってこの世に来て下さいました。しかしそれによって、罪人の私たちは神の栄光と神の恵みとを知る事ができたのです。このすばらしい恵みを福音記者ヨハネも、洗礼者ヨハネも証せずにはいられなかったのです。
 この世は、「恵み」よりも「報酬」のほうが受け入れやすい価値観の中にあります。しかし聖書全体は神の有り余る豊な「恵み」を証しし、それが非常識なほど人間に注がれている事を伝えています。私たちはそれを受け取る資格のない罪人ですが、それでも主が与えておられることを覚えましょう。
 かつて神を見た者はいない。それ故、神に対する誤解をどれだけ私たちはしてきたことでしょうか。しかし、神の一人子イエス・キリストこそが、真の神を証し、まことの神に導き、まことの神を知る道なのです。このイエスを覚え、また証していきましょう。
0094 : 2021年09月19日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/09/24(金) 10:46:16
ヨハネ1:9〜13「光に照らされる」

 始めからあった「神であることば」は、すべての人を照らすまことのいのちの光であるとヨハネは記します。創造の初めに光が造られたのは、創造の仕上げである人間のためでした。つまり、光は人間の喜びと平安と幸いに生きるために無くてはならないものなのです。
 しかし、人は光よりも闇に惹かれ、光を拒んでしまいます。なぜだろうか。それは光の方が安心と喜びをもたらすと知っていながら、その光によって自分の汚れが露わ(あらわ)になることを恐れるからではないでしょうか。神はこの世とその民を、自分が造った自分のもの、と言われるのです。誰でも、たとえそれが不完全であっても自分が造ったものには愛着を感じるものなのです。人間でさえそうならば、ましてや完全な神はこの世と民を愛しておられることは自明なこと。それを拒むことは、自分に向けられた愛を拒むのと同じ悲劇に他なりません。
 しかし神は、信仰による救いの道を開いて下さいました。「名を信じる」とは、その方を信じてたどり着く行き先を信じるということです。しかもそれは神の一方的な恵みによるのです。光に露わにされた罪も、恵みの赦しが約束されいます。感謝をもって主を信じ歩もうではありませんか。
0093 : 2021年09月12日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/09/16(木) 10:55:52
 ヨハネ1:6〜8「証しのために」
 初めからあった「ことば」についての記述に続けて、バプテスマのヨハネが紹介されます。彼は、旧約聖書最後の預言者マラキから400年ぶりに「神から遣わされた人」でありました。長きにわたる暗黒時代の神の沈黙に、神の約束が反故(ほご)にされたと感じられたかも知れません。しかし、神が人を愛し救うという約束は、絶対に違えられことはありません。私たちも神の沈黙の中にあって、不信仰に陥らないようにしましょう。
 さてそのヨハネの使命は、光について証しすることでありました。証しとは、裁判での証言の意味を持つことば。闇と死の中にある罪人に、光といのちに至る救いの道を指し示すのが彼の使命でありました。それはあたかも、蓄光し光る避難誘導板のように、神からの光を受けて光る働きなのです。
 人々から、ヨハネこそ約束された救い主ではないだろうかと大きな期待をされたこともありました。そのプレッシャーは決して小さいものではなかったでしょう。しかし彼は、自分の使命に謙遜に、そして忠実であることを求めたのでした。私たちも同様に光を指し示すよう招かれています。主の愛をますます確信し、へり下って人々に証しする者でありたい。

0092 : 2021年09月05日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/09/09(木) 14:11:55
 ヨハネ1:1〜5「神を見るには」
 
 ヨブ記を読み終わり、次にヨハネの福音書を読んでいく。ヨブが「私の目があなたを見ました」と告白し救いを確信したように、私たちも神を見させていただきたい。
 十二弟子の一人ヨハネは、福音書を書くにあたり「初めにことばがあった」と書き出した。つまり世界は、混沌や偶然ではなく、初めからことば、すなわち秩序ある神の計画を根源としている、と述べたのである。私たちは世の不条理を見る時、世界は混沌だと思いたくなるかも知れない。しかし、人知を超えた神の計画があることを覚えよう。
 そのことばは、天地万物を創造する力あることばである。人間のことばが無力にも関わらず、人を励ましたり傷つけたりする力があるとすれば、神の力はなおのことである。すべてのものが神のことばによって「あれ」と今語りかけられている希望を確信したい。
 「死」とは何か。他者からの働きかけに何の反応も示さないことを言うのではないだろうか。神に背を向け、神の愛の招きに無反応な死んだ罪人である私たちに、いのちの光である方が、いのちと光を与えて下さったとヨハネは言う。この方を通して、神を見させていただこう。
0091 : 2021年08月22日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/08/28(土) 15:18:59
  ヨブ記42:1〜17「なぜ、私が」
 
 昨年(2020年)9月13日から始まったヨブ記の講解説教も佳境に入り、最終章となりました。悔い改めたヨブを改めて用い、恵みと祝福をもって顧みられた全能なる主の誠実さとご愛に平身低頭。
 
 誰しもが突然の苦しみに会う時、「なぜ、私が」と問うことでしょう。ヨブも然り。しかし原因や理由を知りたいのでは恐らくありません。ヨブは神と出会い自然や被造物の姿を思わされた時、神の全能についての自分の無知を悔いました。神の全能とは万能のことではありません。人間の役に立つことをも拒む程の全能なのです。しかも聖書で神の全能は人の救いにおいて言及されるのです。その事を知識として知ってはいたけれど、体験的に知らされたヨブは、塵と灰の中で悔い改めたのでした。
 神は、神について間違ったことを語っていたエリファズたちに怒りを向けられますが、ヨブの執り成しによって許されるよう促します。ヨブの確かさとは神に対する真っ直ぐな姿勢でありました。そのヨブの祈りを通して友人たちは許されるのです。ヨブの苦難は自らと友人たちを真の恵み信仰へと導いたのでした。
 最後にヨブの回復が描かれています。律法の決まり通り(出エジプト22:7-9?)全て二倍の祝福を得たヨブ。子どもたちも天の御国での再会を考えれば二倍。これは恵みと言う他ありません。なぜ私が?と問い嘆いたヨブは、なぜ私のような者がこれほどの恵みに、という感謝に変わったのです。この感謝を証して歩もうではありませんか。
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