画像掲示板
投稿がすぐ反映されないことがあります。「書き込む」は何度も押さないでください。画像(jpg gif pngなど)も投稿できます。不適切な投稿と管理者が判断した場合は、予告なく削除、改変することがあります。ご了承ください。
Page : 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16
下に移動▼
0135 : 2023年 01月15日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/01/18(水) 10:33:14
ヨハネ13:21〜30 「愛を受け取っているか」

 主イエスは弟子の足を洗われ、模範とするよう話した後で心が騒いだ、とあります。
全知全能の神の子として、ユダの裏切りはこれから起こる揺るがせられない出来事でした。
けれども愛の神として、人の子として主はユダが裏切ることに激しく動揺されたのではないでしょうか。ユダがこれから歩もうとしている道は、自分でも自分に絶望し、裏切り者のレッテルを貼られることになるものでした。しかしその主の御心を知らないユダはなおその本心を隠し通そうとしたのです。
 主イエスにアッツマ(種なしパン)とハロセット(日干し煉瓦を想起させる色のジャムの様なもの。パンを浸すと表現さていれる)を給仕してもらい、ユダは他の弟子と同様にそれを受け取ります。果たして主イエスの愛を知り、向き合っていたのなら何食わぬ顔で受け取れるものだろうか。私たちがもし裏切ろうとする相手から親愛の情を示されたら、自分が恥ずかしくなるのではないでしょうか。しかしそれを受け取ってしまうことが正に、裏切りを決定づけてしまったということなのです。
 主は人間の計画を超えて、主イエスを過ぎ越しの子羊として贖いのわざに向かわれました。ユダはその愛を表面的にしか受け取らなかったのです。一方のヨハネは主の愛を深く確信していました。私たちはどちらの歩みを選び取るでしょうか。
0134 : 2023年01月08日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/01/11(水) 13:49:55
ヨハネ13:12〜20 「幸いの条件」

 主の洗足において上着の脱着へのヨハネの言及は、その行為が十字架の贖いと復活を象徴する行為であったことを意味します。つまりここで語られている教えは、主の贖いと復活の後、それを受けて弟子たちが歩むべき道についての教えでした。主は弟子の立派さに応じて彼らの足を洗ったのではありません。その上で主はご自分を模範として互いに洗い合うよう命じられたのでした。では私たちは分け隔てなく隣人の汚れを赦し、また自分の汚れを隣人にさらけ出して洗ってもらっているだろうか。無理だと思うかも知れませんね。
 けれども主は問答無用で命じられたのではなかったのです。主であり師であるイエス・キリストがなさったことの意味を知るなら、自ずと自発的にそうしようと思うはず。また、その事を通して主は私たちが幸いに至ることを願っておられるのです。その幸いとは、まず主人がしもべを圧倒的な愛で愛してくださって、それゆえに互いに愛し合う関係に置かれる幸いなのです。
 立ち返る機会を与えられていたユダはその愛を受け取らず、悲劇的な道を辿ることになります。幸いの条件とは、神とイエスの愛を存分に受け取り、隣人同士が互いに愛し仕え合うことにこそあるのではないでしょうか。
0133 : 2023年1月4日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/01/02(月) 10:39:28
 新年明けましておめでとうございます。今年1年も変わらぬ主の恵みの内を歩めますように。
 
元旦聖餐礼拝 ヨハネ13:3〜11 「主にきよめられて」

 もし私たちが明日、いのちが奪われるとしたらどうするだろうか。
主イエスは世を去られる直前、罪の奴隷であった人とその他の被造物をご自分の愛の御手に取り戻せることをはっきり確信しておられました。神から出て神に帰る父のご計画を確信しておられたからでしょう。私たちも新し年に向かい、このシンプルな生き方が出来たらと願うところです。
 主は過ぎ越しの夕食の席で、奴隷の姿をとって弟子たちの汚れた足を丁寧に洗いはじめられた。これは明らかに、死と復活によって主イエスご自身が、あらゆる人の罪を洗いきよめることを象徴しているのです。確かにその時は分からないかも知れないが、主の救いのわざが後で分かるようになると言われる約束に感謝しましょう。ペテロは謙遜して拒むが、しかし主イエスによる罪のきよめを拒むことがあってはなりません。私たちは一度限りで完全になされた主の贖いを信じつつ、さらに犯し続ける罪の汚れもきよめて頂きながら救いの確信を持って歩みましょう。聖餐式がその歩みとなりますように。
 主は裏切ると分かっていたユダをも愛し、その足を洗い給う。が、形だけではなくその赦しの恵みを受け取るか否かが分岐点となるでしょう。主の救いを確信し、みことばに導かれ励まされて新しい歩みに進みだしましょう。

今年の年間聖句はヨハネ13:7より
「わしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」
0132 : キャンドルサービス 名前:caiaphas@管理人 投稿:22/12/24(土) 20:19:40
本日キャンドルサービスの時を持ちました。寒い夜でしたけれども、暗闇の中でも主イエス・キリストのもたらす光を希望とできる幸いを感謝します。主の御前に集まられたお一人おひとりに、また主の御降誕を祝うすべての人に恵みが豊かでありますよう祝福をお祈りしつつ。

0131 : 2022年12月11日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:22/12/22(木) 10:39:26
待降節第3礼拝  ヨハネ12:44〜50「大きな声で」

 先週に続き十字架を前に公生涯をまとめた箇所です。この箇所は主イエスのメッセージをまとめています。まず主イエスは度々父なる神との関係について語ってこられました。ユダヤ人が主イエスにつまづいた一つの大きな理由は、主が紛れもなく人間だったからでした。けれどもヨハネはこの手紙の中で、神がひとりご子をこの世に遣わし、神の愛が現れた、と述べています。主イエスを通して私たちは神の愛を知るのです。それ故、主イエスを信じる事と神を信じることは同じなのです。
 また、光と闇の対比を主は何度も語ってこられました。「闇」というのは単なる悪や不正義というよりも、創世記の冒頭で人間が「善悪の知識の実」を勝手に食べた時からの混乱を意味します。それ以来人は神抜きで自分勝手に善悪を決めさばく者となりました。その行く末は滅びですが、その闇を照らすために主は光となって来られたのです。
 そして主は裁くために来たのではなく救うために来られたと語られました。罪の裁きを身代わりに負う「いけにえの子羊」としてです。けれどもその救いを尚も拒むなら主のことばが裁きとなるのです。主が大声で語ってこられたメッセージを思い返しながらアドベントを過ごしましょう。
0130 : こどもクリスマス会 名前:caiaphas@管理人 投稿:22/12/18(日) 19:39:32
18日に、こどもクリスマス会を開催しました。コロナ禍の中でしたが、9名の子どもたちが集まってくれました。紙芝居によるクリスマスストーリー、賛美歌、そしてクリスマスツリーの工作。灯りをともして並べると「きれーい」「かわいいー」とみんな感動。イエスさまのお誕生をともにお祝いできたことに感謝でした。

0129 : クリスマスコンサートについて 名前:Kngh@櫛形 投稿:22/12/06(火) 10:31:21
さる12月3日土曜に、八田ふれあい情報館内にあるカナリアホールをお借りして開催されたトゥルーバインによるコンサート。教会員以外に地域の方々、後援教会の信徒の方々を含め17名の方が来会されました。素敵なひと時をともに過ごすことができ感謝します。教会外でのコンサート開演は初めてので、新たな形でしたが良い経験となり、今後に生かしていきたいと考えています。集まって下さった方々に重ねて感謝を申し上げます。
0128 : クリスマスコンサート 名前:caiaphas@管理人 投稿:22/12/04(日) 18:44:49
12月3日(土)に行われたTrueVineによるクリスマスコンサート、とても盛況で多くの方が来会してくださいました。教会のYouTubeページに一部抜粋ですが動画がありますのでよろしければご覧ください。

0127 : 2022年12月04日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:22/12/06(火) 10:20:22
待降節第二礼拝 ヨハネ12:37〜43「だれが信じたか」

 主イエスの地上の歩みも残り数日となったこの時、ヨハネはイエスの公的生涯を振り返り総括をします。その間になされた宣教としるしにも関わらず、人々は主イエスを信じなかったと、記しています。御子でさえ伝道が実らなかったと言うなら、私たちの伝道は無意味になるのでしょうか。しかしそれには理由があったとイザヤは預言していました<イザヤ53章>。苦難のしもべがメシアであるなどと、人々は受け入れたくないからです。
 さらにイザヤの召命の場面で、人々が聞いても信じないように、と神がイザヤに言われたみ言葉が引用されます。であれば不信仰は神の責任になり、神は不当なことをしているのでしょうか。いや、救いはあくまでも神の御業であることを覚えるべきであります。私が他人や自分を救うのではありません。伝道は主への感謝のみ一点が動機となるべきでしょう。
 イザヤは「受難のメシア」を見たのです。それこそ主イエスの栄光でした。ユダヤ人はイザヤ53章を教えの中で半ば捨てていると言われます。しかし嘲ってはなりません。ますますへりくだるべきなのです。ユダヤ人の中で主を信じた者がいたが、人の目を恐れたとあります。神の栄光を求める者でありたいもの。あり得ない救いがもたらされた事を覚えアドベントを引き続き過ごしましょう。
0126 : 2022年11月27日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:22/11/29(火) 09:15:42
ヨハネ12:27〜36 「光あるうちに」

 2022年のアドベントに入りました。闇の世に光として来られた主イエスを覚えてこの時期を過ごしましょう。ギリシア人の訪問を受けてご自分の十字架の時を改めて宣言された主は、しかしこの時から救って下さいと受難を前に葛藤を覚えておられます。神の御子は決して苦しみを超越しておられる方ではありません。完全な人として来られた主も迷いや葛藤があるのです。けれども父の栄光を願う祈りをもって父に従われるのです。私たちも決意の強さによって主に従うのではありません。「主の祈り」の冒頭にもある主と同じ祈りをもって神に従うのです。
 その時天から響いた神の声を、人々は認識することが出来ませんでした。主イエスが偉大な王であって欲しいという自分たちの理想や願望が強かったからでした。そこで主は改めて十字架と平和の救いを説かれます。
 それでもなお無理解の人々に、主は光あるうちに光を信じよと招かれます。実際あと数日で十字架に架かられる主からの、最後の群衆への招きだったのです。私たちにとっても、主を信じ受け入れる機会は永遠のものではありません。信じていれば良かった、伝えておけば良かったとの後悔のないよう、アドベント、クリスマスの時期を過ごしたいものです。
0125 : 2022年11月20日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:22/11/21(月) 09:44:06
ヨハネ12:17〜26 「一粒の麦のいのち」
 
 主は、ご自分がへりくだった柔和な王であることを示すためろばの子に乗られたのだが、なおもラザロをよみがえらせた『しるし』のみを証しし続ける人々がいました。その間違った熱狂を見て、パリサイ人たちは妬みとともに「何一つうまく行かない。」と嘆きます。そもそも彼らの計画の良し悪しはさておき、彼らの視点には神の視点がないことの故の嘆きでありました。私たちは人間的な視点でしか物事を判断してはいないでしょうか。
 ここでギリシア人たちがピリポに主イエスに会うための取次ぎを願い出ます。何気ない出来事ではありますが、異邦人の庭までしか入れなかった彼らが、メシアに出会うことを通し、すべての人に救いの道が開かれる時が来たのです。私たちも主と主に会いたい人間の間でどう振る舞うだろうか。主はそのことをもってご自分が栄光を受ける時が来たと宣言されます。
 主は麦のたとえを用い、いのちを父に献げることによって多くの人のいのちが生かされることになる事を語られます。私たちは自分で生きているのではなく、主のいのちで生かされているのです。ならば私たちが自分のいのちだけを一番に心配せずとも、神が必ず大切にして下さる。平安と感謝をもって主に仕える歩みに進んでいきましょう。
0124 : 2022年11月13日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:22/11/16(水) 14:32:18
ヨハネ12:9〜16 「ろばの子に乗って」

 ラザロがよみがえらされた奇跡を聞きつけ、一目見ようと多くの人々がイエスのとろにやって来ます。それを見た祭司長たちは、ユダヤ人が自分たちの処から去ってしまうことを懸念し、ラザロをも殺そうと計画しました。神と人の間に立って間を取り持つべき祭司長たちであるにも関わらず、人々が神の遣わさしたメシアの方に行くことを嫉妬する異常事態だったのです。私たちもこうした誘惑に陥らないように戒めたいものです。
 翌日主イエスがエルサレムに入られると、人々はナツメヤシの枝(以前は棕櫚:シュロの枝と訳されていた)を手に、「ホサナ」と賛美をもって迎えました。主は確かに王であるが、彼らはふさわしく主を迎えただろうか。むしろイスラエルの歴史を振り返ると、異邦人を追い払い、民族の誇りの回復を実現してくれる王として主イエスを迎えたのではないだろか。主がどのような王であるのか。私たちは自分の願望ではなく、神の御心を探り求めて行きたいものです。
 主はろばの子を見つけ、自ら乗りたもう。荷物用の家畜の、しかも子ろばに乗る事は、決して見た目に良かった訳ではありりません。しかしそれでも主イエスは神の御子として
父のみこころ通りの王として振る舞われたのです。ならば私たちも神の子どもとして素直に柔和にへりくだって神に従い歩もうではありませんか。 
0123 : 2022年11月03日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:22/11/07(月) 10:18:05
ヨハネ12:1〜8 「もてなす心」

 12章からヨハネの福音書は、過ぎ越しの祭りへの1週間が描かれる後半となります。その冒頭ベタニアに来られた主イエスは、夕食のもてなしを受けられる。ここでも給仕をしたのはマルタ。ルカ10章では給仕を手伝わないマリアへのつぶやきがありましたが、ここでは恐らくラザロの件への感謝から、進んで自分の賜物を用いて喜び一心に主をもてなすマルタの姿が見えます。
 一方のマリアはナルドの香油を、それも成人男性の年収程の価値在る300g以上を惜しげもなく主に注ぎ、その御足を自らの髪でぬぐいました。客へのもてなしにはほんの数滴で十分だし、ましてや人前で女性が髪をあらわにするなど、常識外れに見える行為でした。早速弟子のユダはマリアの行為を批判しますが、しかしユダは主や貧しい人をもてなす素振りを見せながら、自分を肥やす事しか考え当ていなかったのでした。
 主はご自身に対するマリアの「今しかチャンスがない」というもてなしの思いを受け止めて下さります。私たちも、周りからなんと思われようが主のため隣人のために仕えるべき時があるのではないでしょうか。それは何より、主がご自身の肉と血をもって私たちを救い、もてなして下さったからです。今日の聖餐式でもその恵みを深く味わいましょう。
0122 : 2022年10月30日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:22/11/02(水) 12:51:24
本日は宗教改革記念礼拝です。
ヨハネ11:45〜57 「闇に消されない光」

 主イエスに対する殺害の試みは今までもたびたびありましたが、とうとう最高法院でその決議がなされることになります。神から遣わされたメシアの、偉大なすばらしいしるしとしてなされたラザロのよみがえりでしたが、ユダヤ人たちは主イエスに対する妬みと自己保身から主を亡き者としようとしました。罪の暗闇の深まりです。
 その年の祭りでいけにえをささげる大祭司カヤパもまた自身のメシアを拒む罪から、主を亡き者として民全体が救われた方が得策だと発言しました。ところが聖書はこの言葉を、神の救いの計画の成就を示す予言だと告げます。つまり神のご計画は、人の罪やそれを用いるサタンによって頓挫させられるようなものではありません。むしろ人の罪さえ用いるほど圧倒的な力をもって成就されるのです。だから罪は容認されると考えるのは間違いですが、この神の恵みと力にへりくだる者でありたいもの。
 いよいよ子羊の血による主の救いを記念する過ぎ越しの祭りが近づく事が告げられます。私たちの救いは子羊イエスの血によります。16世紀にルターはこの恵みの再発見によって宗教改革運動を起こしました。私たちの思いも計画を超えて働かれる神の恵みとともに今週も歩みましょう。
0121 : 2022年10月23日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:22/10/25(火) 10:27:43
ヨハネ11:28〜44「信じるなら神の栄光を見る」
 
 主イエスは村の外におられたまま、マリアを呼ばれました。主は私たちの応答を無視してずかずかと踏み込んでくる方ではありません。私たちに呼びかけ、待つお方です。「主が呼んでおられる。」と聞いたマリアは急いで立ち上がり、主の元へ走ります。マルタと同様、主に限界を設け悲しむマリアではありましたが、しかし悲しみの淵にある時、私たちも主の足もとにひれふす以外に出来ることがあるでしょうか。彼女の信仰の姿勢を覚えたいものです。
 主は彼女と人々の涙を見て、ご自身も涙を流される。解釈は色々となされてきましたが、やはり人々を縛る死とサタンの対する怒りではないでしょうか。それ程主の愛は深いことを覚えましょう。けれどもメシアのしるしを見てもなお主イエスにはできない、と決めつけるユダヤ人の反応には怒りを覚えられたのではないでしょうか。私たちも
信仰にふたをする『石』を取りのける必要があります。
 主イエスの祈りは神との深い一体性と、証のための祈りであることが分かります。その事を信じることができますように。み言葉をもって死者にいのちを与えるみわざをあがめつつ、ともにいのちに与った者同士、互いに対する愛の交わりと奉仕に今週も遣わされましょう。
上に移動▲
Page : 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16