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0075 : 2021年04月25日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/04/28(水) 14:44:35
ヨブ27:1〜23「罪人の義」

 27章は、今まで以上に激しい表現や内容が含まれていて、解釈も様々なされる場所となります。ヨブは神を「私の権利を取り去った」「私のたましいを苦しめた」と語ります。しかし、その神を否定せず、生きておられる神に誓うところに彼の信仰を見ることとなります。ヨブの苦難は未曽有の苦難でありました。しかも自分の義を確信するヨブにとっては、身に覚えのない事での取り扱いでした。友への激しい言葉も、その背景を考えるなら無理ないことではないでしょうか。
 さて、ではヨブの言う「義」とは何なのでしょう。それは、決してヨブが完全無欠の人間だと自分自身が思っていた訳ではありません。あくまでも神との関係の中で与えられるとの自覚があったからこそ、ヨブは権利を取り上げられても魂が苦しめられても神にすがろうとしたのです。私たちもそうですが、信者にとって罪人であるということと、義とされた者であるということは決して矛盾しないのです。
 神を侮る悪い者が、実りない人生を歩むことは、ヨブも承知しています。逆を真理としてはならないだけなのです。罪の侮りでも絶望でもなく、罪人のへり下りと義とされた喜びをもって歩もうではありませんか。
0074 : 2021年04月18日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/04/23(金) 13:58:28
ヨブ記25:1〜26:14「うじ虫、虫けらをも」
 
 たいへん短いビルダデの言葉です。また、ヨブ記に記録された友人たちの最後の言葉でもあります。彼らがどんなに因果応報の理を語っても、ヨブは聞き入れませんでした。
そんな彼に飽きてしまったようにも見えます。ビルダデは神の偉大さと、一方の人間のみじめさを強調します。そんな人間が神に文句を言うなどと、おこがましく幼稚だ、と言わんばかりでした。
 しかしヨブは人間のみじめさを自覚した上でなお、ビルダデの弱い者小さい者に対する冷酷さを非難するのです。ヨブ自身、人間のみじめさも神の偉大さもビルダデ以上に踏まえていました。どんなに素晴らしいことばで神の偉大さを語っても、それすら神の一部にすぎないからなのです。
 むしろ憐み深い神が仲介者を立て、うじ虫に等しい自分と交わりを喜んでくださる神の恵みを確信していたヨブ。だからこそ大胆に問い、訴え、叫んでいたヨブを、ある意味で友人たちは妬んでいたのかもしれません。私たち罪人はキリストの名によって聖なる神の御座に近づき、深い交わりを持つことが赦されています。この恵みを覚えて歩んで行きましょう。
0073 : 2021年04月11日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/04/13(火) 15:22:51
 ヨブ記24:1〜25「今そうでないからといって」
 
 ヨブは、なぜ神がこの世の悪や不条理をさばく日を、私には知る事が出来ないのかと苦悩します。世では悪人が自分の欲のために貧しくて弱い者が虐げられて搾取されている現実があるではないかと。この現実の不正やゆがみを見ながら、しかし神はこの状態をいつまでも放って置かれているように彼には思えたからでした。
 悪人の本質は、神を認めないというもの。それは誰に何と言われようと、自分の決めた善悪こそが絶対だと主張し、自分を神とすることなのです。ヨブもそのような悪は必ず神の裁きにあう、と確信していました。ヨブにとって神はどこまでも愛であり正義であり恵み深い方なのです。不条理や悪を見るとすぐに人は神はいない、と言います。しかしヨブは神を確信していました。その姿勢は必ず自分の不幸だけではなく、この地上の見方にも関わってくるでしょう。
 神は今黙っておられるように見えます。しかし、解決の希望があり、それでもなお善や愛を求めていくには、復活の後の「いのち」が不可欠です。今そうでなくても、後の日に、復活のいのちと共に現される神の正義を待ち望み、なすべきふさわしい歩みへと導いていただきましょう。
0072 : 2021年04月04日イースター説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/04/05(月) 10:57:03
イースターおめでとうございます。

 ルカ24:1〜12「必ずよみがえる」
 安息日が明けた日曜日の朝、主の墓にやって来ます。彼女たちは、ガリラヤから主につき従い、十字架に処せられ犯罪者とされた遺体に触れることすらいとわないほど主イエスを愛していました。それほどの愛を持ってしても、死に打ち勝つことはできないのです。彼女たちでは動かすことが不可能な重く大きな墓の石がそれを象徴しているように思えます。どんなに人間の技術や文明が進んだとしても、死は最後の敵なのです。
 ところがその石は転がされていました<マタイ28:1〜6参>。希望は予想外のところからもたらされる時ほど大きな力を持ちます。それゆえ時に予想外すぎて戸惑いすら覚えさせられこともあります。しかし、神の計画を知り、この出来事の顛末を知る御使いにとっては、彼女らのとまどいに「どうして?」と疑問しか湧かないのは当然でありましょう。だから私たちも御使いの言う通り、み言葉を思い出す者でありたいです。み言葉を思い出すなら、目の前の物事が希望のための確かな光となるのです。
 使徒たちは彼女らの知らせを信じられませんでした。が、ペテロは立ち上がり墓を見に行きます(注:「立ち上がる」のギリシャ語は「アニステーミ」で別に「復活する」とも訳される)。
ペテロにとっては裏切りの罪による死からの復活の力を得た一歩でした。同様に私たちも主の復活の証人となりましょう。
0071 : 2021年03月28日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/03/30(火) 11:33:24
  ヨブ記23:1〜17「そこにこそ おられる神」
 前章のエリファズの言葉に対し、ヨブは自問自答しながら、神と自分の関係を問います。ヨブは嘆きとうめきから、祈りの手が重い、と告白します。本来はヨブは神に思い切り呼びかけ、訴えたいし、また神からの言葉を聞きたいと願ってやまない。神の前に傲慢かもしれないとためらいつつも、しかし神は自分のような者を心に留めて下さるはずだと確信します。
 しかし、そもそもヨブの置かれた状況は、どこを向いても神が見当たらない、と思わせるものでした。けれどもヨブは神は自分を知っていて下さると確信するのです。身の潔白を訴えつつも、しかし、ヨブは沈黙することは出来ませんでした。この揺らぎは私たちの現実でもあるでしょう。
 しかしヨブは、神がどこに居るのか見えないなかでも、神は必ずおられると確信しました。人は不条理に遭遇すると神などはいないと口にします。罪なき神の子の十字架ほど不条理なことはありません。しかしそこにこそ神がおられるのです。しかも神は呪いの十字架を罪の赦しの勝利の十字架とされました。十字架にこそ解決があることを覚え受難週を過ごしましょう。
0070 : 2021年03月21日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/03/26(金) 17:50:57
 ヨブ記22:1〜30:1〜30「愛への応答を」
 <v1-11>エリファズの言葉から、因果応報的信仰の行く末を見ることができます。エリファズにとって神は、善には祝福、悪には呪いを機械的に下す自動販売機のような方のようです。それゆえ、人間の思いや歩みに動じる方ではない。ご覧になるのは結果のみだ、というのです。彼の中ですでに決まっている結論からすれば、ヨブの苦悩の原因は、ヨブの罪でなければ辻褄が合わないと想定してしまいます。そうしてエリファズはヨブの罪を捏造してまで責め立てるのです。
<v12-20>彼が言うように、神は高きところにおられるのは確かなのです。しかし、悪も地上で栄えているという現実をヨブが語ったとき、エリファズは、ヨブが神は地上の悪を見ていないと言った、と早とちりします。それで悪を行うなら、神は悪を必ず滅ぼされる、と語るのでした。
<y21-30>ついで、エリファズはヨブに悔い改めを勧め、そこで得られる祝福を美し口調で述べ始めます。しかし、結局のところ彼は、神を利用した祝福の獲得と自己実現を勧めているにすぎませんでした。これは前の1:9におけるサタンの挑戦と内実は同じものでした。だが、まことの神は、私たちを喜び、その歩みに目を留め、小さなわざを覚えてくださる方。何より私たちの罪を赦すため、十字架に降りられた方なのです。この神の愛に良い忠実なしもべ(マタイ25:219)として人格的な応答を捧げていきましょう。
0069 : 2021年3月7日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/03/08(月) 10:45:57
 ヨブ記20:〜29「他人ではなく私に」

 友人の一人ナァマ人ツォファルは、19章のヨブの贖い主を見出したという信仰告白に対して苛立ちを見せます。ヨブは友たちを侮辱した訳でもなく、むしろ憐みさえ求めていたのに、なぜツォファルは苛立ちを隠せないのだろう。それは、ヨブの見出した『救い』
と、ツォファルの考えていた『救い』との間にギャップを感じたからではないだろうか。
 ツォファルの価値観の土台は、悪は一時栄えても必ず神の報いを受ける、というものでした。それは聖書のみ言葉においても明らかだ、とツォファルは考えるのです。ツォファルは大変真面目で厳格な性格の人物と見受けられます。しかし、それを一般化して他人にも適用をしてしまうところに、彼の過ちがあるのではないでしょうか。
 そこには、教会を迫害していたころのサウロと共通点があります。律法厳守による義を追及していた彼にとって、キリストを信じるだけで救われるという信仰義認は我慢ならなかったのです。同様に、ツォファルもヨブの信仰を真っ向否定してしまうのです。物事を通して罪を悔い改めに招く神のわざわは確かにあります。が、あくまでも自分への招きです。自らも贖われるべき罪人であることを覚え、一人ひとりに寄り添う歩みへと遣わされましょう。
0068 : 2021年 2月28日礼拝説教 名前:Kng@櫛形 投稿:21/02/28(日) 16:23:24
 ヨブ記19:1〜29「私を贖う方」
 
 ヨブ記中の3つの山場の一つが19章です。18章でのビルダデは、容赦なくヨブを断罪しました。本来的にはヨブに対し何の責任も義務もないはずなのですが。高ぶりによってヨブを断罪する友人たちの批判に、ヨブは徹底的に打ちひしがれてしまいます。
 その中でヨブは神に思いを向けることになります。神が、神が、と繰り返す言葉の中に、ヨブ善悪二元論ではなく、唯一の全能の神の権威を認める信仰が見て取れます。しかし、だからこその苦悩があるのです。神がなさったことによって、家族や友人に見放され背けられ、痩せ衰えた姿で辛うじて生ける屍のように生きている、と告白します。
 しかし、その中でヨブは光を見出します。まず、友だちに対して「あれんで欲しい」と懇願し、自らをへりくだらせた上で、そして重要な告白へと導かれます。これまでも仲裁者、保証人と呼んできた天の存在が、はっきりと自分を贖う方として見るまでの確信を持つに至ります。贖うとは、身代金を払って囚われ人を解放することです。旧約においてイエス・キリストをはっきりと見出す重要な告白だったのです。全能の神と贖い主キリストを知ったヨブは、確かにこの時点で救いを得たのでした。
0067 : 2021年2月21日説教要約 名前:kng@櫛形 投稿:21/02/27(土) 10:51:49
 ヨブ18:1〜21「あなたのために」

 ヨブの経験した苦難を友人たちは因果応報の結果と解釈します。ビルダデも強くそう決めつけ、ヨブに向かって、さらにはヨブを説得しようとする友人たちに向かっても憤りを感じていました。ビルダデがこれほど激しく非難したのは、ヨブの「神は彼らを賢明さから引き離された」という祈りに過剰反応してしまったからではないでしょうか。もちろんヨブには友人たちを貶める意図はありませんでした。表面的なことで私たちも他人をさばくことを慎まなければなりません。
 ビルダデはさらにヨブに激しい言葉を投げつけます。神に怒り叫び文句を言ったとて、なにも変わりはしないのだと語り、さらに悪しき者の呪いと不幸と恐れと裁きを列挙します。ヨブの経験した病や、子どもたちの死を引き合いに出して、ヨブを不正な者、神を知らない者と決めつけるのでした。これが自業自得の価値観の結論なのです。
 しかし、神は、疑わず祈るなら、山に向かって海に入れという祈りにも答えて下さる方である。それどころか、滅びに向かう罪人を救うため、愛するひとり子を罪人の身代わりに見捨て、墓の入り口の岩を動かすほどの方です。この福音を携え世に遣わされて行きましょう。
0066 : エフデ絵画工作教室 名前:caiaphas@管理人 投稿:21/02/25(木) 18:11:27
アルミホイルステンドグラス風作品第二弾。最初は猫を描いていたつもりだったそうですが、徐々に犬に。しかもだんだんSoft〇ankのあの犬に似てきたような。でも背景をしっかり塗り込んで、素敵な作品になりました。

0065 : エフデ絵画工作教室 名前:caiaphas@管理人 投稿:21/02/18(木) 19:07:17
本日のエフデ絵画工作教室は、アルミホイルでのステンドグラス風作品。クリアファイルに油性ペンで一生懸命描いた模様や絵が、少しシワをつけたアルミホイルに乗せると一気にゴージャスな雰囲気に。青と水色のコントラストが美しい作品ができあがりました。

0064 : 2021年2月14日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/02/17(水) 15:05:40
 ヨブ17:1〜16 「本物に出会うために」

 ヨブの痛みの大きな部分は、友からの仕打ちによるものでした。友人たちは因果応報を錦の御旗に掲げ、ヨブに悔い改めを迫りますが、ヨブは納得せず、友人たちの批判を受けます。それゆえヨブは友人の慰めに失望し、天の保証人の存在に目を向けるのです。という事は、神の導きの御手を苦難や痛みにさえ覚えることができるのではないだろうか。人の慰めも当然有用ですが、神の慰めを代わりうるものではありません。
 続けてヨブは自身の潔白さを主張します。彼が傲慢なのではありません。ヨブはもちろん自分の不完全さを覚えながら、だが、心の底から身の潔白を疑っておらず、むしろあるなら知らせて欲しいと願っていました。悪を自覚しないまま謝って収めようとする処世術的慰めに失望し、不誠実だと退けいるのです。
 さらにヨブは、かつては神から自分を覆い隠してくれると思ていた黄泉(よみ)の慰めにも失望していきます。しかし、それがヨブの気付き通り神の導きの中にあることなら、本当の慰め主に出会う大事なプロセスではないでしょうか。私たちは神に至る手前の安易な慰めで満足しないようにしたいものです。そしてその本物の慰めを世に証していきましょう。
0063 : エフデ絵画工作教室 名前:caiaphas@管理人 投稿:21/02/11(木) 18:44:10
本日のエフデ絵画工作教室はスノードームカード第二段。雪が降る景色を想像するように導入で話した結果、ある子が描いたのは、禰豆子ちゃんが立っているところ。
確かに鬼滅の刃の第一話で禰豆子が鬼になる場面は雪景色でした。恐るべし鬼滅の刃の人気ぶり。

0062 : 2021年2月7日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/02/10(水) 13:32:42
ヨブ16:1〜22「わが証人天にあり」

 15章で厳しい言葉でエリファズから批判されたヨブは、彼らのことばを、人をみじめにする慰め、虚しいことばだと伝えます。慰めようとして語る言葉が、必ずしも慰めにならないことに私たちは慎みを持つべきではないでしょうか。ヨブは、立場を置き換えてみれば、と仮定するのだが、しかしヨブ自身もまた人の慰めのことばに限界を感じていたのでしょう。
 人のことばへの絶望は、ヨブを神に向かわせます。しかしその言葉は激しく、神を私の敵と呼ぶほどでありました。それほどヨブの痛みと苦しみは、身体も魂もボロボロになるほどのものでした。さらに、自分の血を地は覆うな、と告げます。それはカインが殺した弟アベル血が、地から神に訴え続けていたことを念頭に置いた表現だと思えます。神への訴えを全身全霊でぶっつけていくのが、ここでのヨブの姿でありました。
 ヨブはしかし、その天におられる神こそ保証人となり、とりなし手となって下さる希望を見出すのです。十字架の主イエスこそ、真の慰め手なのです。人の慰めに絶望したとしても、神がご利益を与えないとしても、なお神の憐れみを信頼する信仰に生かされ歩みましょう。
0061 : 2021年1月31日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/02/10(水) 13:02:24
ヨブ記15:1〜35「生かす対話」

 対話とは、互いに聞いて相手を理解し、自分の意見が変わることにもオープンで、かつ自分の意見を正直に伝えることを言います。が、ヨブの友人たちは、対話でなく議論をしているように見えます。15章でもヨブの激しい言葉をエリファズは不敬虔だと断罪します。エリファズにとっての理想の祈りとは違ったからかも知れません。しかし、例えてみれば乳飲み子が乳を求めて激しく泣く訴えのような祈りも、それもまたアバ父への信頼を伴った祈りではないでしょうか。
 そのようにエリファズがヨブの信仰を裁いてしまうのはなぜだろうか。年長者ゆえに自分はヨブよりも知恵がある、という驕り(おごり)からだろうか。また、エリファズは徹底的に神の前における人間の罪・汚れに言及する。それは事実だが、しかしその罪ある人間を愛して止まない神の視点に気付いていませんでた。
一方のヨブはその視点を意識しているのに。
 エリファズは、悪者は徹底的に神の報いにあう、と持論を述べます。だが、ヨブの痛みに無頓着で不正確な持論でありました。それはヨブとの対話が無いからではないだろか。
私たちを生かす神と隣人との対話を大切にしたい。主もそのような生きた交わりを望んでおられるから。
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