0083 : 2021年06月20日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/06/24(木) 11:46:56
ヨブ記33:1〜33「苦難の見方」
いつしかエリフは、上からの目線でヨブを説得しようとした三人の友人たちとは違い、同じく神に造られた被造物としてヨブに語りかけようとします。そのヨブは「自分は潔白なのに神は私に敵対し私を苦しめる」と主張していました。エリフはヨブのその主張を批判します。偉大な創造者と小さな被造物の間には超えられない一線がある、と。
とはいえエリフは、神は人に様々な方法で語りかけておられる、と主張します。人がそれに気づかないだけだ、と。例えば夢などを通して神は人を戒めるではないか。また、病を通して主は痛みをもたらされることもある。そして一人の仲介者の執り成しと身代金を受け入れ、彼を回復し滅びから救う、と言う。つまりエリフは、苦悩の原因を過去に求めていた3人の友人やヨブに対し、憐みによる将来の救いという神の計画から苦難を考える視点を示すのでした。それはキリストの贖いの預言にさえ繋がる視点の変換でした。
誰にも、ヨブにさえ地上の歩みには完成はありません。だが、何度でも主は私たちが滅びないように関わって下さる。苦難の経験の最中は分からないかも知れない。しかし後に分かる恵みを信じて、今週も歩みましょう。
0082 : 2021年05月13日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/06/15(火) 11:41:24
ヨブ記32:1〜22 「エリフという人」
ヨブと3人の友人との間の論争が終わるのを見計らったように、突然エリフという人物が登場します。このエリフについては評価が分かれていますが、彼の言葉から神の御心を探っていきましょう。ウツとの関係のあるブズの出身、バラクエル「神は祝福する」という名の父が紹介されます。エリフは「彼は私の神」という意味の名。若い彼はずっと年上の友人たちとヨブの議論を黙って聞いてきたのですが、ここぞと怒りを燃やし議論に加わります。
彼は、まずヨブの友人たちに怒りを向けます。初めは彼ら年長者たちの意見に期待するところがあったのですが。しかし年長者だからといって知恵があるとも限らないと言います。また、経験からくる世の知識によって、ヨブの扱いを神に任せると言って、議論から逃げる言い訳をする姿勢に対しても激しく批判します。私たちは、あきらめたり、行動しないことについて、神に委ねることを言い訳にしてしまうことは無いでしょうか。
エリフはこれ以上黙っていられず、誰にもへつらうことなく語ると言い放ちます。この後のエリフの意見は完全に賛成できるものではありません。がしかし、少なくとも自分のことばに責任を持とうとする姿勢は、実際ヨブが神に出会う橋渡しとして用いられるのです。果たして、私たちは現実の世にある痛みの問題に、逃げも偏りもなく、責任を持って発言できるでしょうか?
0081 : 2021年05月30日説教要約 名前:kng@櫛形 投稿:21/06/03(木) 11:13:26
ヨブ記31:1〜40「ヨブのことばは終わった。」
友人たちとの議論の終わりにヨブは、「もし私が○○なら」と語りながら、自分が考えられうる限りの罪や悪を並べ、それについて自分は潔白だ、と語ります。挙げられた12のリストの内の多くで、もし自分のうちにそれらの悪があるなら、呪いを被ってもよい、とさえ言うのです。それ程の自信をもって身の潔白を主張するヨブに、私たちは高い倫理観を感じる一方、傲慢さえも感じてしまうかもしれません。実際、神への信仰の土台に、自らの欠けを自覚する事はとても大切なことだと思います。ゆえにヨブが悔い改める必要を感じる人もいるでしょう。しかし、ヨブ自身、自分の罪を隠したりしないと述べていますので、必ずしも傲慢だとは言えません。一方でヨブを理想的完璧な人とあがめるのも過ちでしょう。
むしろヨブがなぜここまで執拗に自分の義を主張したいかと言えば、神の沈黙が耐えられなかったからではないでしょうか。自分の訴えに対する告訴でもよい、何か答えて欲しいという思いがあったのでしょう。しかしヨブは、神の沈黙のお陰で言い分を全て語り尽くせた、とも言えます。神は遮らず否定せず黙って聞いてくださる方です。私たちは祈りにおいて語り尽くせているでしょうか。その先に神の答えがあるのです。
0080 : 2021年05月23日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/05/25(火) 14:29:12
ペンテコステ礼拝
ローマ8:26〜27 「我らのうめきをも」
聖霊が主の弟子たちに注がれたペンテコステ(五旬節、聖霊降臨祭・・)を記念して献げる礼拝を感謝します。ローマ28章は、私たちの弱さに触れています。たしかに私たちが造られる素となった大地のちりはそれ自体には価値が無く弱いものです。だがそれに神の息が吹き込まれて初めて生きるもの、価値ある者となったのです。それゆえ神との交わりがなくては弱いむなしい者となってしまうのです。そんな私たちの弱さを御霊(聖霊)は、共に担うといいます。
具体的にどういうことだろうか。私たちは、神との交わり無くしては虚しい存在であり、神への祈りも教えられました。しかし、神に何をどう祈れば良いかわからず、言葉が出てこない現実があるのではないでしょうか。確かに私たちは主イエスの贖いによって救われました。しかし、罪によって歪められたこの被造物世界の中で、完全な回復までには様々な苦しみ、痛みが私たちを覆うことがあります。ヨブがそうであった様に、祈りが出てこないことがあります。しかしそのうめきを、御霊は神に執り成して下さる
のです。
御霊は、私たちの声にならないうめきを、御心にかなう祈りとして引き上げて、父なる神に取り次いでくださのです。この御霊が与えられ、我が内に住み給う恵みを覚え、今週も御霊と共に遣わされましょう。
0079 : 2021年05月16日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/05/17(月) 10:30:51
ヨブ記30:1〜31 「しかし、今は、」
かつての神との交わりのあった幸いな日々とは打って変わって、今は、とヨブは嘆きます。取り分けヨブは年下の若者の親に怒りをあらわにします。これは、前章でみなし子を助けたヨブにとって、その子らを愛するが故の怒りだったのではないでしょうか。けれどもその愛した彼らから、今は嘲られ軽んじられ屈辱される悲しみで一杯でした。
そんなヨブではありましたが、その嘆きの中で、自分への苦しみは神のわざが由来である事を告白するのです。また、病の苦しみさえも神からのものである、と言うのです。私たちだったらどうでしょうか。そんな神を信じる意味は無い、と信仰を捨ててしまわないでしょうか。ヨブはしかし、神が自分に残酷に敵対したとしても、それでもなお神に訴え、祈るのでした。
ヨブは神との交わり、人との交わりから見捨てられたと告白します。私たちも程度の差はあれその告白に共感するのではないでしょうか。その状況の中でも神にすがる姿は、真に人間らしく在るための最後の砦(とりで)なのです。キリストも神と人に見捨てられたまわれました。その事を通して慰めと救い、回復が人間にもたらされたのです。キリストの受難、ヨブの信仰を覚え、神の前にある人間らしく今週の歩みに遣わされましょう。
0078 : 2021年05月09日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/05/09(日) 17:21:48
「昔の月日のようであったら」ヨブ記29:1〜25
昔は良かった、と言うことばは、神の知恵から出る言葉とは言えません。では29章のヨブはどうでしょうか。彼は、子宝にも恵まれ、豊かな祝福を手にしていたかつての日々を思い返します。また、多くの人々から尊敬されていたこと、それが貧しく小さい者に施(ほどこ)した親切の故であったことを振り返ります。不正にも厳しくあたり、社会正義の実現にも取り組ました。だからこそ自分の日数が増えること、栄光と力が尽きることはないと思っていた、と言います。さらに、人々はヨブの語る言葉に期待していたし、ヨブはそれに応えて的確なことばを持って助言を与え、慰めを与えてきた、と言うのです。
けれどもこれは彼の傲慢さでもなく、懐古主義に陥(おちい)って自分を慰めようとしてのでもありません。むしろ神が守り、神が照らし、神と親しく交わり、神とともにいたからこその日々だった、という事を思い出しているのです。だとすると、ヨブの苦悩の根底にあるのは、ヨブにとって今神の姿が見出せず、神が沈黙しておられる事に他なりません。私たちはヨブ程に神との交わりを希求しているでしょうか。インマヌエルの約束を今一度確認し、主の喜ばれる歩みへと遣わされましょう。
0077 : 2021年05月02日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/05/09(日) 16:50:52
[知恵はどこから来るのか」ヨブ28:1〜28
28章はこれまでのヨブ記の流れからは唐突な印象を受け、人によってはヨブの言葉ではないのではないか、と解釈する意見もあるが、果たしてそうなのでしょうか。ヨブは友人たちとの議論が平行線に終わった後、ほかの生き物もいない鉱山の奥深くから、苦労して貴重な資源や宝石などを採取する様子を語り出します。大きな金鉱石から金を取り出すのは、現在でも簡単な事ではありません。
貴重な宝石を得るためには、大きな苦労もいとわないのに、知恵はどうだろうか。ヨブは、地上も深みも、どこを見渡しても知恵を見つける事は出来ないと言い、重ねてどんな高価なものと引き換えても手に入れることはできないと言います。確かに現代は知識も文明も進んだが、悪を避けて問題を解決していく知恵はどうでしょうか。
しかし知恵そのものが無い訳ではありません。それは神の元にある、とヨブは言うのです。自然界を見ても神の知恵の偉大さは計り知れません。人はその神の前にへりくだり、何についても先走って分かったつもりになってはなりません。新約では神の知恵はキリストの内にあると教えられています。謙遜に従い、今週も歩みましょう。
0076 : ぴちぱくキッチン 名前:caiaphas@管理人 投稿:21/05/05(水) 23:34:15
こどもの日の今日、子ども食堂ぴちぱくキッチンを開催しました。
コロナ感染が不安なゴールデンウイークでしたが、パーテーションや換気、消毒など感染対策を万全にした上で、少しでも楽しい時間をと近所の子どもたちと過ごしました。宝石みたいな石鹸づくり、木のブロックでソーマキューブ作り、お弁当での昼食など、2時間半があっという間。楽しかった、といってもらえた事が何よりの喜びです。
JA南アルプス市さんからマスクの寄付、ボランティアさんからひまわりの苗の寄付などもいただき、子どもたちはおみやげたくさん持って帰っていきました。ボランティアさんたちの献身的なお手伝いも感謝でした。
コロナが一日も早く収束し、心置きなくまた集まれる日が来ますように祈りつつ。
0075 : 2021年04月25日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/04/28(水) 14:44:35
ヨブ27:1〜23「罪人の義」
27章は、今まで以上に激しい表現や内容が含まれていて、解釈も様々なされる場所となります。ヨブは神を「私の権利を取り去った」「私のたましいを苦しめた」と語ります。しかし、その神を否定せず、生きておられる神に誓うところに彼の信仰を見ることとなります。ヨブの苦難は未曽有の苦難でありました。しかも自分の義を確信するヨブにとっては、身に覚えのない事での取り扱いでした。友への激しい言葉も、その背景を考えるなら無理ないことではないでしょうか。
さて、ではヨブの言う「義」とは何なのでしょう。それは、決してヨブが完全無欠の人間だと自分自身が思っていた訳ではありません。あくまでも神との関係の中で与えられるとの自覚があったからこそ、ヨブは権利を取り上げられても魂が苦しめられても神にすがろうとしたのです。私たちもそうですが、信者にとって罪人であるということと、義とされた者であるということは決して矛盾しないのです。
神を侮る悪い者が、実りない人生を歩むことは、ヨブも承知しています。逆を真理としてはならないだけなのです。罪の侮りでも絶望でもなく、罪人のへり下りと義とされた喜びをもって歩もうではありませんか。
0074 : 2021年04月18日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/04/23(金) 13:58:28
ヨブ記25:1〜26:14「うじ虫、虫けらをも」
たいへん短いビルダデの言葉です。また、ヨブ記に記録された友人たちの最後の言葉でもあります。彼らがどんなに因果応報の理を語っても、ヨブは聞き入れませんでした。
そんな彼に飽きてしまったようにも見えます。ビルダデは神の偉大さと、一方の人間のみじめさを強調します。そんな人間が神に文句を言うなどと、おこがましく幼稚だ、と言わんばかりでした。
しかしヨブは人間のみじめさを自覚した上でなお、ビルダデの弱い者小さい者に対する冷酷さを非難するのです。ヨブ自身、人間のみじめさも神の偉大さもビルダデ以上に踏まえていました。どんなに素晴らしいことばで神の偉大さを語っても、それすら神の一部にすぎないからなのです。
むしろ憐み深い神が仲介者を立て、うじ虫に等しい自分と交わりを喜んでくださる神の恵みを確信していたヨブ。だからこそ大胆に問い、訴え、叫んでいたヨブを、ある意味で友人たちは妬んでいたのかもしれません。私たち罪人はキリストの名によって聖なる神の御座に近づき、深い交わりを持つことが赦されています。この恵みを覚えて歩んで行きましょう。
0073 : 2021年04月11日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/04/13(火) 15:22:51
ヨブ記24:1〜25「今そうでないからといって」
ヨブは、なぜ神がこの世の悪や不条理をさばく日を、私には知る事が出来ないのかと苦悩します。世では悪人が自分の欲のために貧しくて弱い者が虐げられて搾取されている現実があるではないかと。この現実の不正やゆがみを見ながら、しかし神はこの状態をいつまでも放って置かれているように彼には思えたからでした。
悪人の本質は、神を認めないというもの。それは誰に何と言われようと、自分の決めた善悪こそが絶対だと主張し、自分を神とすることなのです。ヨブもそのような悪は必ず神の裁きにあう、と確信していました。ヨブにとって神はどこまでも愛であり正義であり恵み深い方なのです。不条理や悪を見るとすぐに人は神はいない、と言います。しかしヨブは神を確信していました。その姿勢は必ず自分の不幸だけではなく、この地上の見方にも関わってくるでしょう。
神は今黙っておられるように見えます。しかし、解決の希望があり、それでもなお善や愛を求めていくには、復活の後の「いのち」が不可欠です。今そうでなくても、後の日に、復活のいのちと共に現される神の正義を待ち望み、なすべきふさわしい歩みへと導いていただきましょう。
0072 : 2021年04月04日イースター説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/04/05(月) 10:57:03
イースターおめでとうございます。
ルカ24:1〜12「必ずよみがえる」
安息日が明けた日曜日の朝、主の墓にやって来ます。彼女たちは、ガリラヤから主につき従い、十字架に処せられ犯罪者とされた遺体に触れることすらいとわないほど主イエスを愛していました。それほどの愛を持ってしても、死に打ち勝つことはできないのです。彼女たちでは動かすことが不可能な重く大きな墓の石がそれを象徴しているように思えます。どんなに人間の技術や文明が進んだとしても、死は最後の敵なのです。
ところがその石は転がされていました<マタイ28:1〜6参>。希望は予想外のところからもたらされる時ほど大きな力を持ちます。それゆえ時に予想外すぎて戸惑いすら覚えさせられこともあります。しかし、神の計画を知り、この出来事の顛末を知る御使いにとっては、彼女らのとまどいに「どうして?」と疑問しか湧かないのは当然でありましょう。だから私たちも御使いの言う通り、み言葉を思い出す者でありたいです。み言葉を思い出すなら、目の前の物事が希望のための確かな光となるのです。
使徒たちは彼女らの知らせを信じられませんでした。が、ペテロは立ち上がり墓を見に行きます(注:「立ち上がる」のギリシャ語は「アニステーミ」で別に「復活する」とも訳される)。
ペテロにとっては裏切りの罪による死からの復活の力を得た一歩でした。同様に私たちも主の復活の証人となりましょう。
0071 : 2021年03月28日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/03/30(火) 11:33:24
ヨブ記23:1〜17「そこにこそ おられる神」
前章のエリファズの言葉に対し、ヨブは自問自答しながら、神と自分の関係を問います。ヨブは嘆きとうめきから、祈りの手が重い、と告白します。本来はヨブは神に思い切り呼びかけ、訴えたいし、また神からの言葉を聞きたいと願ってやまない。神の前に傲慢かもしれないとためらいつつも、しかし神は自分のような者を心に留めて下さるはずだと確信します。
しかし、そもそもヨブの置かれた状況は、どこを向いても神が見当たらない、と思わせるものでした。けれどもヨブは神は自分を知っていて下さると確信するのです。身の潔白を訴えつつも、しかし、ヨブは沈黙することは出来ませんでした。この揺らぎは私たちの現実でもあるでしょう。
しかしヨブは、神がどこに居るのか見えないなかでも、神は必ずおられると確信しました。人は不条理に遭遇すると神などはいないと口にします。罪なき神の子の十字架ほど不条理なことはありません。しかしそこにこそ神がおられるのです。しかも神は呪いの十字架を罪の赦しの勝利の十字架とされました。十字架にこそ解決があることを覚え受難週を過ごしましょう。
0070 : 2021年03月21日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/03/26(金) 17:50:57
ヨブ記22:1〜30:1〜30「愛への応答を」
<v1-11>エリファズの言葉から、因果応報的信仰の行く末を見ることができます。エリファズにとって神は、善には祝福、悪には呪いを機械的に下す自動販売機のような方のようです。それゆえ、人間の思いや歩みに動じる方ではない。ご覧になるのは結果のみだ、というのです。彼の中ですでに決まっている結論からすれば、ヨブの苦悩の原因は、ヨブの罪でなければ辻褄が合わないと想定してしまいます。そうしてエリファズはヨブの罪を捏造してまで責め立てるのです。
<v12-20>彼が言うように、神は高きところにおられるのは確かなのです。しかし、悪も地上で栄えているという現実をヨブが語ったとき、エリファズは、ヨブが神は地上の悪を見ていないと言った、と早とちりします。それで悪を行うなら、神は悪を必ず滅ぼされる、と語るのでした。
<y21-30>ついで、エリファズはヨブに悔い改めを勧め、そこで得られる祝福を美し口調で述べ始めます。しかし、結局のところ彼は、神を利用した祝福の獲得と自己実現を勧めているにすぎませんでした。これは前の1:9におけるサタンの挑戦と内実は同じものでした。だが、まことの神は、私たちを喜び、その歩みに目を留め、小さなわざを覚えてくださる方。何より私たちの罪を赦すため、十字架に降りられた方なのです。この神の愛に良い忠実なしもべ(マタイ25:219)として人格的な応答を捧げていきましょう。
0069 : 2021年3月7日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/03/08(月) 10:45:57
ヨブ記20:〜29「他人ではなく私に」
友人の一人ナァマ人ツォファルは、19章のヨブの贖い主を見出したという信仰告白に対して苛立ちを見せます。ヨブは友たちを侮辱した訳でもなく、むしろ憐みさえ求めていたのに、なぜツォファルは苛立ちを隠せないのだろう。それは、ヨブの見出した『救い』
と、ツォファルの考えていた『救い』との間にギャップを感じたからではないだろうか。
ツォファルの価値観の土台は、悪は一時栄えても必ず神の報いを受ける、というものでした。それは聖書のみ言葉においても明らかだ、とツォファルは考えるのです。ツォファルは大変真面目で厳格な性格の人物と見受けられます。しかし、それを一般化して他人にも適用をしてしまうところに、彼の過ちがあるのではないでしょうか。
そこには、教会を迫害していたころのサウロと共通点があります。律法厳守による義を追及していた彼にとって、キリストを信じるだけで救われるという信仰義認は我慢ならなかったのです。同様に、ツォファルもヨブの信仰を真っ向否定してしまうのです。物事を通して罪を悔い改めに招く神のわざわは確かにあります。が、あくまでも自分への招きです。自らも贖われるべき罪人であることを覚え、一人ひとりに寄り添う歩みへと遣わされましょう。