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0120 : 2022年10月16日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:22/10/19(水) 10:42:20
ヨハネ11:17〜27 「よみがえり、いのちの主」
 ベタニアはエルサレムから3Km、イエスがおられたヨルダン川から徒歩で1日の距離にある村。主がベタニアに到着された時、すでにラザロは墓に葬られて四日が経っていました。当時の言い伝えで、死者の魂は死後三日の間そのまわりを漂うと言われていました。しかし四日経ったということは、蘇生の可能性がゼロになった、ということが確定したことを意味します。多くの人が慰めのために集まっていましたが、人間の限界はそこで同情し、寄り添う事だけなのでした。
 主イエスが到着されて出迎えるマルタは、主がいて下さったら、と期待が強かった分、主がすぐに来て下さらなかったことに失望している様子ではありました。しかしそれでも、主が求められるなら不可能も可能になると一縷の信仰を握りしめていたのでした。主はその信仰を確かなものにして下さり、過去は変えられないと絶望する私たちに、確かな希望を与えて下さいます。
 「わたしはよみがえりです、いのちです。」と宣言される主は、ご自身が神であること、そして未来のいつかではなく、いまマルタの目の前によみがえりのいのちがあることを告げられます。この主にあっては、取り返しのつかない希望は皆無なのです。不十分ながらも主を信じる告白を主は聞かれ、わざを成して下さいます。私たちもためらわず主を信仰していきましょう。
0119 : 2022年10月09日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:22/10/11(火) 13:24:21
ヨハネ11:1〜16 「神の栄光のため」
 11章では、ヨハネの福音書にある7つの奇跡の最後が記されています。エルサレムに近いベタニアが、マリアとマルタの村であった、と言われるほど主イエスにとってこの兄弟姉妹たちはとても深い関係にありました。ラザロが病気になった時の伝言も、主が自分たちを愛してくださっていることと、自分たちの願いはさておき、主が最善のことをして下さることを完全に信頼するほどに、マリアとマルタの信仰は深いものでした。
 しかし主は、ラザロの危篤の知らせを聞いてなおその場所に二日留まられました。ラザロが死ぬことをはっきり分かった上のことでした。それは神と神の子の栄光のためであると主は言われるのです。ヨハネの福音書において『栄光』とは、十字架と復活のことでした。私たちも主の意味の無い沈黙に不安になることあるでしょう。しかしそこに主の御心と時があることを覚えましょう。
 主は私たちを決して見捨てられません。不安を覚える弟子たちに、主は共にいる安全を約束しながら、友ラザロを起こしに、反対者の多くいるユダヤ・エルサレム行くことを厭われませんでした。それはやがて死ぬ私たちにも、主が十字架の贖いをもって起き上がらせるために来て下さる事に通じるものがあります。トマスの人間的熱意ではなく、主こそが不可能の解決となられるのです。

0118 : 2022年10月02日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:22/10/04(火) 16:58:03
先週(9/25)は講壇交換にて櫛形キリスト教会は、同じ教団に属する富士川教会(富士市南松野)より井原安祐師による説教でした。10/2は聖餐礼拝、再び茅場師に戻ります。

ヨハネ10:31〜42「わざによって信じる」
 聖書の律法によって神でないものを神とすることを忌避するユダヤ人たちですが、「わたしと父は一つ」と言われた真のメシアである主に対しても石打にしようとします。主は彼らの目をご自分の「わざ」に向けさせようとされますが、彼らはそれを自分を神とする冒涜罪の故だと主張しました。聖書は決して、やみくもに言われたことを妄信することを勧めてはいません。むしろよく吟味することを求めています。ユダヤ人にも、主イエスの主張だけで信じることは求められてはいないでしょう。
 そこで主は詩編82編のみ言葉を引用されます。神が民の指導者たちを神々と皮肉で呼びながら、しかし神のわざが伴わないことへの裁きを告げている詩編の箇所です。だからわたしのわざを見て、吟味し、そして信じなさいと主は言われるのです。私たちはここでの主のへりくだりを覚え、また主の恵みのわざを心に刻み聖餐式に臨みたいものです。
 バプテスマのヨハネが主の言葉とわざを証し、それが間違いなかった、という事で主を信じた多くの人がいました。私たちも主のみわざを日々体験している者として、聖書の証の通りだ、と主を信じる者でありたい。みわざを見ることも吟味することも拒むユダヤ人のようにではなく。
0117 : 2022年09月18日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:22/09/19(月) 11:05:42
ヨハネ10:22〜30「永遠のいのちの与え主」

 主イエスの評価についてユダヤ人の間での分裂が続きます。
時は『きよめの祭り』(7:1-10:21までは仮庵の祭りの間の出来事、それからおよそ2か月半程経過し)。かつてエルサレム神殿がシリアの支配によって汚されたとき、ユダヤ人の蜂起によってエルサレム神殿を奪還し、主なる神に奉献(ハヌカ)したことを記念する祭りでありました。その時わずかな油で8日間ともしびが消えなかった奇跡から、『火の祭り』とも呼ばれていました。
 そこでユダヤ人から主は「はっきり言って欲しい」と説明を求められました。しかしそれは、誠実な問いではなかったのでした。なぜなら主はこれまで何度もはっきりご自分がメシアであることを告げられ、証拠としての奇跡を行ってきたからです。つまりユダヤ人たちは初めから主イエスを信じるつもりがなかったからです。つまり、彼らは主イエスの羊に属していないからなのです。
 一方主は、ご自分について来る羊の祝福を語られます。羊は主に最も大切にされているが故に、永遠のいのちの祝福に招かれます。主は私たちのいのちに責任を持たれるのです。主に属していない羊は見捨てられているわけではありません(10:16)。なお主は彼らのためにもいのちを捨てられるよい牧者なのです。主の宮である私たちは、世の光として来られた主の愛によって一つの群れとなり、もう一度神に我が身を献げられる者でありたいと願います。
0116 : 2021年 9月11日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:22/09/12(月) 10:40:47
ヨハネ10:11〜21「いのちを捨てるよい牧者」
 聖書を通じて「羊飼いと羊=神と人」の関係が語られていて、主イエスはご自分こそよい(良い)牧者だと語られます。それはご自分のいのちを捨てるほど羊たちを心にかけているからに他ありません。一方雇われの人は自分自身の可愛さに危険から逃げ出し、羊の群れを散らしてしまいます。羊の幸せは羊が関わる事ではなく、羊飼いにかかっているのです。
 羊飼いである主イエスは、私たちを「わたしのもの」と呼んで下さいます。私たちも何かが自分の所有になるとき、それは私たちにとってかけがえのないものとなり責任も生じるでしょう。また、私たちを知り、私たちも主を知るという関係が与えられます。それは三位一体の関りにも似ている程の大きなことなのです。
 そこで主はご自分の十字架と復活を予言されます。主の十字架は断じて失敗や無理矢理なことではありません。主が自ら私たちのために進んで十字架に刺し通されたのです。そして再びいのちを得る権威をもって私たちをよみがえらせ賜う。この希望を確かに今朝覚えたいものです。残念ながら主の愛と恵みにあふれたみ言葉も、拒む者が多い。しかし少数でも信じる人々がいたことは励ましです。私たちも主を信頼して歩んでいこうではありませんか。
0115 : 2022年09月04日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:22/09/04(日) 15:43:28
「主イエスの羊とされて」ヨハネ10:1〜10
 民を導く指導者はとても大事な存在です。9章で、自分たちは盲目でなく目が見えると語ってはばからないパリサイ人たちに、主は一つの例えを語られました。当時、羊はイスラエルの人の霊肉にとって欠かせない家畜でした。馴染み深い牧者と羊の例えで主は、夜、門から出入りする本当の牧者と、盗人・強盗との違いを述べられました。本当の牧者とは主イエス、盗人・強盗とは当時の指導者パリサイ人のことでしょうか。
 羊は耳がとても良く、自分の羊飼いの声も聴き分けると言われます。その通り、主が名前を呼ばれると主の羊たちは囲いの外へついて行きます(9:34の「追い出す」と10:3の「連れ出す」はギリシャ語で同じ言葉が用いられています)。その行く先は豊かな牧草地なのです。しかも主は羊たちの安全を守るために先頭を進んで下さる方であります。また、たとえクリスチャン生活の中で世から疎外感を感じる
ことがあったとしても、それは主の視点から見れば、救われて外に連れ出されたからでしょう。
 なおも無理解のパリサイ人たちに、主はご自分が羊の門であることを告げられます。主イエス以外に平安、憩い、救いはないのです。救われてなお、私たちは世に住んでいます。しかし主イエスを通して御国を味わうことができます。そのようにして頂く豊かないのちのために、主の御声のみ聞き従おうではありませんか。
0114 : 2022年 8月28日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:22/08/29(月) 11:03:42
「孤独をしのぐ恵み」ヨハネ」9:26〜41
 『孤独』は心身ともに人」をむしばませるゆえに耐え難いものです。生まれつきの盲人であった男は主イエスに目を開けてもらった結果、孤独を味わうことになります。パリサイ人たちは主がメシアと知ることを拒み続け、盲人の身に起こったすばらしい出来事を知ろうともしませんでした。彼らは、その事に失望した男が、自分たちをむしろ教えようとしていると怒り、男を会堂から追放してしまう始末に至ります。
 しかし、その孤独の中に置かれた男を、主イエスは見つけ出し、来て下さいました。そして「人の子を信じるか。」と問われます。孤独への慰めには、もちろん同情や寄り添いも大事でしょう。が、根本的には創世記の冒頭に生じた、神と人との関係の断絶が修復されなければ真の慰めとはならないでしょう。それには、いつでもどこでもどんな状況でも「わたしはある」とおっしゃって下さる救い主に礼拝を献げる交わりが重要となります。
 肉体の目のみならず、主イエスを神と見ることが出来る霊の目が開かれる恵みは、「自分は見える」という傲慢な人にではなく、「教えて下さい」とへりくだる者に注がれるのです。その恵みは、人から味あわされる孤独を凌ぐものなのです。
0113 : 2022年 8月21日説教要約 名前:kng@櫛形 投稿:22/08/25(木) 10:23:00
 ヨハネ9:13〜25「生きた証」
 私たちクリスチャンは「証の生活をすることを願います」と制約し洗礼を受けます。しかし一方でそのことが難しいことも知っています。けれども真の救いを求めている人がいるとき、証の生活を願いたいとも思います。盲人の目を開けることは、イザヤ書(42:7,8)によればメシアの証拠でもあります。癒されたのが安息日だったのでパリサイ人は盲人だった彼を呼び出し尋問します。その時の彼の証は、私たちが救われるプロセスそのものでありました。まず主がなし、人(私)が従うとき、人は救われるのです。
 ところがパリサイ人たちの一部は、安息日に禁止事項を行う者が神から遣わされたはずがない、と主張します。一方では、罪人がしるしを行う事は出来ないと主張するパリサイ人たちもいました。その分裂の最中、盲人だった男は、自分の目を開けた方は預言者だと結論づけます。事実を前にして議論となり分裂するパリサイ人にくらべ、事実に真っ向から向き合った彼は信仰がより深まったのでした。
 どうしても認めたくないパリサイ人らは、次に彼の両親を尋問します。両親らは会堂からの追放を恐れ責任逃れをしてしまいます。しかし彼らの息子である当人は、自分の知っている唯一つのことだけは否定できませんでした。それは主によって今は見えるという事でした。この体験に裏付けられた生きた証を私たちも今週なしていきましょう。
0112 : 2022年08月14日説教要約 名前:kng@櫛形 投稿:22/08/15(月) 11:17:46
8月14日櫛形キリスト教会は召天者記念礼拝でした。
     タイトル「神のわざが現れるため」ヨハネ91〜12

 お盆は、釈迦の弟子が地獄で苦しむ母を救うために、母に代わって現世の僧侶を厚くもてなした事が由来だとされています。正式には盂蘭盆(うらぼんえ)でサンスクリット語の「ウラバンナ」(本当の意味はちょっと怖い)が由来とされます。先祖を敬い供養するという思想が今カルトに利用されてはいないでしょうか。  さて、道端で物乞いをしていた目の見えない人について主の弟子たちは、この彼の不幸の原因は彼の罪か両親の罪かとイエスに問います。私たちは因果応報の分り易い考え方で自分や他人の人の不幸の原因を知ろうとするかもしれません。しかし主は「神のみわざがこの人に現れるため」、と答えられます。それは過去の原因ではなく未来の目的に私たちの目を向けさせるのでした。神のわざとは神が遣わされたメシアを信じることでした。
 けれどもそれにはタイムリミットがあると言われました。主が目の見えない人の目に泥を塗ったのは、アダムの創造を思わせます。さらに遣わされた者(シロアム)、すなわち主イエスのところに行き罪をきよめる時、その人は新しくされるのです。召天された兄姉はまさにそうして今神のみもとで平安を得ておられることを心に刻みたいものです。
 彼の証は、自から人々に分かる変化と、シンプルな事実の提示でありました。知らない事は知らないとも言い。このような証が出来たら幸いですね。私たちも世の光によって光をいただいた者として今週も遣わされていきましょう。
0111 : エフデ絵画工作教室 名前:caiaphas@管理人 投稿:22/05/19(木) 20:22:03
今日は割り箸で思い思いの家具を作りました。割り箸を長さを揃えて切る作業だけでも一苦労。でも家具職人さながらの集中力で、あまり私語もなくみんな頑張って作っていました。
写真の作品は別の子のそれぞれの作品ですが、不思議とサイズ感に統一感があって、いいドールハウスができそう。

0110 : 今週のエフデ絵画工作教室 名前:caiaphas@管理人 投稿:22/01/13(木) 18:40:40
冬眠する動物第2弾。
凍えるくらい寒そうな夜の空をとても上手に表現できました。とかく「キレイに」塗りたくなる空ですが、あえて水彩の透明感を生かしたムラ塗りをすることでとてもいい感じです。
でもその寒さはスキーをする子にとっても洞穴で眠る熊にとっても関係なさそうですね。

0109 : エフデ絵画工作教室 名前:caiaphas@管理人 投稿:22/01/06(木) 19:07:57
新年最初のエフデ絵画工作教室は、冬眠する動物を描きました。
今日は山梨でも雪がちらついたとても寒い日で、冬の夜空の色使いにみんな工夫しながら寒さを表現していました。でも、寄り添い冬眠する動物はどこか暖かそう。

0108 : キャンドルサービス 名前:caiaphas@管理人 投稿:21/12/25(土) 09:37:13
12月24日に行ったキャンドルサービス。少人数でしたが、オンラインで参加された方もいたようで、恵みの時でした。終わった後の写真撮影では、手前のキャンドルにピントが合ってしまい、参加者の皆さんは残念ながらピンボケ(。・_・`。)

0107 : 子どもクリスマス会3 名前:caiaphas@管理人 投稿:21/12/19(日) 18:13:03
後半はオリジナルスノードームを作成。みんな思い思いに素敵な作品をつくりました。お父さんも楽しんで参加してくれました。
最後にパチリ記念撮影。

0106 : 子どもクリスマス会2 名前:caiaphas@管理人 投稿:21/12/19(日) 18:03:32
手品の後、さらに不思議ですばらしいイエスさまという最高のクリスマスプレゼントの人形劇。
子どもたちも真剣に見ていました。

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