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0008 : 2020年9月2日主日礼拝 名前:Kng@櫛形 投稿:20/09/21(月) 15:39:04
 「理由なく信じるのか」 ヨブ1:6〜22
 場面は天に移り、敬虔で神を恐れて歩んでいたヨブをめぐる主とサタンとの会話が記されます。サタンは高い地位を与えられていた御使いであったが、自分の美と知恵に溺れ高慢になり、堕落してサタン(敵対する者)と呼ばれるようになった存在なのです。ヨブの信仰を喜びほめる神に対して、サタンは、それはあなたが彼ヨブを祝福し財産を増し加えているからだ、と主張します。人は理由もなく神を恐れるのかどうか、これはヨブ記の大きなテーマであり、人類普遍の問いでもあるでしょう。
 サタンは試しにヨブの財産を打つように進言します。信仰とは神のご利益を当てにしているにすぎないのか。答えを曖昧にすることが許されない挑戦であり、主は制限をかけた上でヨブの財産をサタンに委ねられます。家畜、しもべ、愛する子どもたちも一瞬にして失うヨブ。しかも子どもたちを失ったのは、喜びの祝宴の最中という悲劇となりました。
 この悲劇の中にあってヨブは悲しみ傷つきながらも、すべての主権者である主を賛美しました。なんのお返しもできない私たちをまず愛して下さった主を置いて、サタンの挑戦にやすやす屈したくはありません。試練を経て信仰を守る兄姉同士、励まし合いながら主を賛美して歩みましょう。
0007 : エフデ絵画工作教室 名前:caiaphas@管理人 投稿:20/09/17(木) 18:39:50
今日のエフデ絵画工作教室は、マジックスクリーンをつくりました。
白黒の絵が急にカラーに変わる仕掛けに、子どもたちも最初びっくり。お母さんを驚かせるんだ、と目をキラキラさせながらつくっていました。

0006 : 2020年9月13日礼拝説教 名前:櫛形@ 投稿:20/09/14(月) 10:51:39
本日より旧約聖書のヨブ記が始まりました。42章の長丁場、唯一イエス様を除いて人は神の前には全き善人で有り得ない。イスラエルにしてみれば異邦の民であるが、しかしイサクの子孫でもある。祝福と平安の真っただ中にいる中、突然の惨事に見舞われるこのヨブの生き様を通し、信仰者とは何かを再確認したい。

 「ヨブという人」ヨブ1:1〜5
 善人がなぜ苦しむのか、また、その解釈や説明等について、戸惑いを覚える時代となりました。自らも悩みを負う信仰者として、また世に主の慰めを届ける者として、ヨブ記から御心を探って行きたいと思います。
 ヨブはイスラエルの東、おそらくはアラビア半島の北、エドム人の地の人物です。アブラハムのルーツを持つとはいえ、傍流の異邦人と見ると私たちにとっては身近かも知れません。彼は完璧人間ではないが、その信仰は神に対し、誠実で正直であり、神への畏敬と罪の恐ろしさを知っていました。
 一方で完全数(3、7、10)にも象徴されるような、子宝と財産も途方もない恵みと祝福を与えられていました。その上、家族関係は息子娘たちが互いに行き来する親しい間柄である。資産家の家族がしばしば家族関係に傷ついている状況がありますが、全き祝福を得ていたと言えるでしょう。
 ヨブが子どもたちのために捧げたいけにえを見ても、彼の信仰が窺えます。ヨブは罪を、心の中であっても厳格とも言える基準で考え当ていました。同時に息子らの赦しを執り成し祈る姿に、神に似た姿を見ます。彼の姿に心を留めながら、読み進めて行きましょう。
 
0005 : No Title 名前:名無しさん 投稿:20/09/13(日) 12:15:34
礼拝風景

0004 : エフデ絵画工作教室 名前:caiaphas@管理人 投稿:20/09/10(木) 18:42:32
今日のエフデ絵画工作教室、残暑の中にありますが、一足早く「秋」をテーマに描きました。

0003 : 2020年9月6日礼拝説教 名前:櫛形@ 投稿:20/09/10(木) 10:31:55
 「聖徒の喜び」ピリピ4:21〜23
 3月29日からスタートしたピリピ書の講解説教も最後の部分となりました。獄中のパウロがこの「喜びの手紙」を記したことを思うと、彼が特別に見えるかもしれません。しかし、パウロは読者であるピリピ教会の一人ひとりすべてを聖徒と呼びました。私たちは自分の不甲斐ない信仰を見て、聖徒などと呼ばれることを遠慮してしまうかもしれません。が、私たちは、神の目から見てより分けられた聖徒なのです。その意味ではパウロも同じなのです。聖パウロの喜びを、聖徒である私たちは味わえないなどとは思ってはなりません。
 その聖徒同士の交わりは、ローマとピリピの距離を超えて広がります。「交わり」とは「分かち合う」こと。イエス・キリストの贖いを分かち合う今日の聖餐式は、まさしく場所と時間を超えた生徒の交わりなのです。カエサルに仕える人たちへの福音伝播は、あらゆる分断が見られる今の時代に生きる私たちも励まされるものではないでしょうか。
 パウロは最後の祝祷で、私たちの「霊」に目を向けさせます。霊は、人の創造において吹き込まれた「神の息」です。肉の体のみならず、私たちを真に生きる喜びに満たすのは、ご自分のいのちを与えて下さったキリストの恵みによるのです。この恵みを握り携え、今週も歩みましょう。
0002 : 2020年9月6日主日聖餐礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:20/09/06(日) 20:37:14
ピリピ4:21〜23 「聖徒の喜び」

ピリピ書最後の部分となる。獄中のパウロがこの「喜びの手紙」を記したことを思うと、彼が特別に見えるかもしれない。しかし、パウロは読者であるピリピ教会の一人ひとりすべてを聖徒と呼ぶ。私たちは自分の
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