0038 : クリスマスリースを飾りました 名前:Naka 投稿:20/11/29(日) 17:05:10
礼拝の後、クリスマスリース作りを教えていただきました。
素敵なリースができました!
0037 : アドベントに入りました。 名前:kng@櫛形 投稿:20/11/29(日) 15:39:32
会堂にクランツが下がり、礼拝後にクリスマスに向けてリースを作りました。
0036 : エフデ絵画工作教室 名前:caiaphas@管理人 投稿:20/11/26(木) 19:14:03
今日の作品は落ち葉のクリスマスツリー第二弾。
たくさんある落ち葉の中で、もみじが目についたようです。そのもみじで統一。シンプルでハイセンスなツリーができました。
0035 : 2020年11月23日礼拝説教 名前:Kng@櫛形 投稿:20/11/24(火) 16:19:44
さあ2人目の友人、ビルダデの攻撃!(口檄?)が始まります。自分の思う基準と神の基準は相いれられるものなのか。
「生ける神と隣人と」ヨブ8:1〜22
ヨブの神への訴えをビルダデは咎め、それを荒々しい風だと評します。神は裁きを決して曲げない、という心情を見ても、彼は白黒をはっきりつける性格のようです。しかし、ヨブが自分の罪を認めないなら、ヨブの子どもたちに罪があったとも結論付けたり、ヨブの誠実さが祝福の回復となるとも言いますが、残念ながら1章5節の「いけにえ」のことも、苦難の真の原因にも思いが至っていませんでした。
ビルダデは、エリファズに比べ謙遜に見える。しかしだからこそ先人たちから受け継いだ伝統や価値観、あるいは目についた自然法則の例えによって自説に権威付けをしているのかも知れません。それを杓子定規にヨブに当てはめ、裁いていたのです。
彼の主張は、正論ではある。しかし、いつも当てはまる訳ではなく、ことにヨブの現状に対しては、完全に的外れでした。ビルダデの言葉からは、「なぜですか?」と問うヨブの生ける神との交わりが感じられません。せめてビルダデにも神に問う祈りがあったらなと思うと同時に、自らも生ける神との交わりに、また隣人への生きた関りを持てているかと問われます。正しさだけでなく愛の交わりを目指そうではありませんか。
0033 : 櫛形キリスト教会ホームページ 名前:shadora 投稿:20/11/22(日) 15:52:16
http://www5c.biglobe.ne.jp/~ksgt-ch/
用いられますように。
0032 : エフデ絵画工作教室 名前:caiaphas@管理人 投稿:20/11/19(木) 19:24:35
今日のエフデ絵画工作教室は、一足早くクリスマスツリーを作りました。
ふんだんに落ち葉を貼って、豪華なクリスマスツリーができました。
0031 : 秋の色を求めて その2 名前:kng@櫛形 投稿:20/11/16(月) 13:38:20
植えて30年余り、赤い実を付けたコバノガマズミ。
0030 : 2020年11月15日礼拝説教 名前:Kng@櫛形 投稿:20/11/16(月) 13:24:09
「神との交わりにこそ」ヨブ7:1〜21
ヨブは自分の経験した苦難を、戦いの日々と受けとめます。まさに、意味も示されず、休息することさえ許されず戦いに駆り出される兵士の苦悶になぞらえます。加えてヨブにとっては肉体的病から、睡眠さえ妨げられ、安眠が出来ないと訴える。そして、望みを失うと告白します。
しかし、キルケゴールが言うように、そうした絶望は人をして神に直接向かわしめる薬となりえます。事実ヨブは、神に向かって自分の言い分を述べ始めるのです。とにかく彼は、決して海や竜のようなものでない、自分のちっぽけさを特段に申し上げたのでした。なぜあなたが私のような小さな者に目を留めるのですか、と。さらに夢にまで現れて自身の休息を妨げようとする神に向かって、死を賜るようにと望むほど苦難にもだえ、それを強く訴えるヨブでした。
人とは何者なのでしょう・・・は、詩編8編でダビデが語った、偉大な神からの身に余る恵みを覚えての告白を思い出させます。ヨブの告白の動機とは違いますが、しかしどちらも自身が神にとっての特別な存在であることを自覚しての言葉でした。罪の赦しの訴えもその自覚あってこそ。この交わりの中に、苦難の癒やしへと平安へ続く道があるのです。
0029 : 子ども祝福式 名前:kng@櫛形 投稿:20/11/11(水) 11:08:04
世の中では七五三の季節ですが、教会では毎年子ども祝福式をして、幼子の成長を感謝し、祝福を祈ります。
0028 : クリスマスリース 名前:kngmsk 投稿:20/11/11(水) 10:59:01
クリスマスが近づき
一足早くリースを作りました
0027 : 2020年11月 8日礼拝説教 名前:Kng@櫛形 投稿:20/11/09(月) 15:08:19
「神様とケンカする信仰」ヨブ6:1〜30
エリファズの励ましを聞いて、ヨブは、自分の苦悶が理解されれていないと嘆きます。私たちは他者の苦しみをどれだけ理解できるだろうか。むしろ理解することには限界がある事をわきまえる必要があるでしょう。ヨブは神から自分に向かって毒矢が放たれていると認識し、神が自分を殺すならそれも受け入れる。ただ神がなぜ殺さないのか分からないと吐露します。そんな苦悩の中にあるヨブに「神の叱責は幸いだ」という友人の励ましは届くはずはありません。見える
ヨブは友の慰めを期待していました。だからこそ、雨が止むと干上がり消えてしまう川の水を期待して裏切られた時のように、失望も大きものとなりました。友は確かに恵みであります。隣人愛も大切で素晴らしいものです。しかし、有限な人間は人間でしかありません。互いにわきまえたいものです。
ヨブが自らの義を主張しているかのように見える最後の部分ですが、ヨブの訴えは、むしろこの叱責に値するような罪があるなら指摘してくれというもの。その罪が分からなければ、叱責を真に受けとることは出来ないと。とにかく謝れば丸く収まるから形だけでも・・、とするのは大人の処世術的な信仰ではないだろうか。真っすぐに神と向き合いケンカも辞さない信仰、まるで子供のような信仰のヨブに倣う者となりたいです。
0026 : エフデ絵画工作教室 名前:caiaphas@管理人 投稿:20/11/05(木) 19:18:49
今日は一弦ギターをみんなで作りました。ちゃんとシドレミファソラシドレミまで音階が弾けます。
みんな思い思いのボディを作って、気分はミュージシャン。
0025 : 秋晴れの空の下に 名前:kng@櫛形 投稿:20/11/05(木) 14:23:45
南アルプス市曲輪田新田のループ橋より、富士山を望む。
0024 : 2020年11月4 1日礼拝説教 名前:Kng@櫛形 投稿:20/11/02(月) 11:41:19
「因果応報と神の主権」ヨブ5:1〜27
4章では苦難についての一般論的演説だったのに続き、エリファズは、5章に入ってからはヨブ自身の苦難に触れながら持論を展開していきます。ヨブが実際に経験した苦難を想起させながら、エリファズは、苦難は神のせいにすべきではなく、また自分は悪くはないなどの愚痴など、誰も聞いてはくれないと語ります。「ヨブの友だち:Job`s friends」ということわざは、善意の友が仇になるという意味だそうで、心したいものです。
さらに、神に尋ね訴えることを薦め、神のみわざ、あわれみ、正義について賛美します。これらの言葉は確かに正しい。しかし、主は後に42章にてエリファズの言葉を「虚偽」とされます。それは、「私なら」神に尋ねるとわざわざ強調して言うような、あたかもヨブが神に尋ねてないかのような傲慢さに原因があるのではないでしょうか。
彼の信仰は結局のところ、因果応報なのです。この考え方はとても分り易い。が、神の主権ではなく私の信仰や行いが幸いと災いの取得を左右することになり、現代にはびこる自己責任論にも繋がりやすくしています。主は罪なく十字架の苦しみを負われました。それは私たちを罪の自己責任から解放するためだったのです。この主の赦しを覚えて世に遣わされましょう。
0023 : 秋の色を求めて、 名前:kng@櫛形 投稿:20/11/01(日) 18:04:47
秋の色に染まりつつある、清里.野辺山方面へ。