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0263 : 胎内90卒さま 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/12/01(日) 00:31:17
どうぞ本当の解決が与えられますように
0262 : 胎内90卒さま 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/11/30(土) 16:43:45
書き込みありがとうございました。どうぞ神さまからの慰めと支えがありますように。
0261 : 2024年11月24日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/11/24(日) 23:19:50
ローマ11:33-36 「神に栄光」

神に選ばれ祝福を約束されたはずのイスラエル人が救われていない問題について語ってきたパウロは、その締めくくりで神の知恵と知識の深さは測りがたいと記す。これまで神の計画と奥義を書き記してきたにも関わらず。しかしだからこそパウロの、みことばに対する誠実さを感じる。小さな人間が神のみこころを知り尽くすことなど不可能とへりくだり、神の偉大さを証しているのである。
旧約聖書の証しも同じである。イザヤは神のことばを預かる預言者であるにもかかわらず主の心は人間には計り知れず、また助言者として計画に携わることもできないと語る。また苦難にあったヨブにエリフや神が語ったことばも、答えをしりたいという欲求に応える義理は神にはないことが語られる。分からないことはある。しかし、神が人を愛し約束を破らないことだけは確実な事実なのだ。
パウロはそれを思い頭を垂れて、神の栄光を見上げ賛美する。イギリスの詩人ジョン・キーツは「ネガティブ・ケイパビリティ」と語った。不可解で答えがすぐ出ないことがあっても立ち続ける力。神にへりくだり隣人に寄り添うために大事な力ではないだろうか。
0260 : 2024年11月17日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/11/17(日) 19:08:05
ローマ11:25-32 「賜物と召命」

私たちクリスチャンが持つ、この世界には神がおられるという世界観とはどういうものだろうか。イスラエルの救いというテーマは異邦人にとっても神の約束の成就という意味で大事なテーマである。パウロがこれまで述べてきた異邦人とイスラエルの救いについての奥義を皆に知ってほしいという。イエス・キリストによる選びの民イスラエル人の救いは旧約でも預言され、必ず成就するものである。
イスラエルは神に敵対したが、なお神に愛されている。この緊張関係は、人をへりくだらせる。まさしく人間の理解を超えた奥義である。それゆえ私たちは目の前で起きることに絶望せず、決めつけず、希望を持つものでありたい。神からのあわれみのギフト、絶えず人を招くコーリングは常に注がれるのだから。
異邦人はかつては神に不従順だった。しかしイスラエルの不従順により異邦人に救いがもたらされ、神のあわれみがあらわれた。同じように今のイスラエルの不従順にも、神のあわれみによって救いを手にする約束が成就するに違いない。神のあわれみの計画が今も進んでいることを世界で起こるさまざまな出来事の背後に見つめていこう。
0259 : 2024年11月10日 子ども祝福礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/11/10(日) 19:48:21
ローマ11:16-24 「神の民に接がれる」

聖書においては、初穂を神の前に献げることは、その他のすべても神の聖なるものとなるという考え方がある。アブラハム、イサク、ヤコブを始祖として広がるイスラエルの民も、全体が神のものという意味で、聖なる民である。
ここでパウロはオリーブの木の接ぎ木というたとえを用いて、イスラエルと異邦人の関係を語る。聖なるオリーブの木の枝が不信仰によって折られ、そこに野生種オリーブの枝である異邦人クリスチャンがあわれみによって接がれた。確かに不信仰なイスラエルの枝が折られたことで、信仰をもった異邦人クリスチャンが木に接がれたのである。だとしても、決して高ぶってはならない。むしろ神のきびしさといつくしみを恐れ、へりくだるべきである。元の聖なる木の枝を惜しまず折ったとすれば、接がれた野生種を折ることは神にとって容易なことだから。
逆に一度折られた枝を元の木に接ぎ木をすることは神にとってたやすいこと。そう考えると小さい頃からみことばを聞いて教会で育った子どもたちの存在はなんと貴重なことか。私たちはこの分断と争い多い世の中で、この子どもたちのためにとりなし、心から守りと祝福を祈ろう。
0258 : 胎内90卒さま 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/11/09(土) 20:09:08
どうぞ心の平安が守られますように祈っています。
(投稿していただいた内容は特定の方への非難の内容でしたので削除させていただきました)
0257 : 2024年11月3日 主日聖餐礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/11/4(月) 11:19:39
ローマ11:11-15 「ねたみを通して」

サタンがねたみによって堕落したように、ねたみにはネガティブなイメージがつきまとう。しかしパウロは、神はイスラエルが救われるために異邦人が救われることでねたみを起こさせた、という。たしかにイスラエルのつまずきによって福音は異邦人のほうに伝わっていった。しかしイスラエルのつまずきは、救いの獲得に絶望するためのものではなかったのである。
事実、イスラエルのつまずきがなければ十字架はなかったかも知れない。十字架のゆえに世界、異邦人にすばらしい富がもたらされたなら、約束通りにイスラエルが救われるときに現される神の愛はどれほどのものだろうか。だからパウロは、イスラエル、異邦人、どちらかが救われればよいとは考えない。自分たちより異邦人が神の愛にあずかっていることがねたみとなり、福音に心をひらく人が起きるようにと祈る。
イスラエルが神の救いにあずかることは、一度死なれた主がよみがえられる奇跡になぞらえられる。神は約束を決して違えず、その約束を果たす時に神に不可能はない。私たちは救われた者として(周りから妬まれるほど)感謝と喜びに生きることが大事なのではないか。
0256 : 2024年10月27日 宗教改革記念礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/10/27(日) 20:53:19
ローマ11:1-10 「残された者」

神は常に約束の民でありご自身の民であるイスラエルに手を差し伸ばし、救いをもたらそうと福音を届けていたが、イスラエルは反抗していた。にもかかわらず、神が約束の民を退けられたのではなかった。なぜならこの福音によって救われたパウロ自身が、ほかでもないイスラエルの民だからである。確かに日本でクリスチャンは圧倒的少数だが、私たちもこの点で励まされたい。
またパウロは、バアルの預言者との対決の後、アハブ王とイゼベル夫妻に殺害を予告されたエリヤのことばを引用する。私たった一人残されました、と怯え、恐れ、心細くなるエリヤに神は、わたしのためにバアルに膝をかがめなかった7000人を残している、と言われた。エリヤは一人ではなかったのである。ただただ恵みによって神は、イスラエルを決して退けられない。私たちも状況を見て失望してはならない。
まったく同じ福音が語られても受け取り方によって頑なさを自らに招く者もいる。神の祝福がすべてにとって喜びとなるとは限らない。しかし、私たちはその恵みを知らされている。ルターもそうだったように私たちは一人ではない。主の恵みの選びにあずかり励まされ歩もう。
0255 : 2024年10月20日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/10/21(月) 12:32:19
ローマ10:16-21 「信仰は聞くことから」

キリストにある勝利の知らせである福音をなぜイスラエルは信じないのか。しかしイザヤは、見栄えのしない苦難のしもべこそ救い主であるという預言を最初から信じる者はまれだった、と述べていた。だから信仰は見ることよりも聞くことから始まるのである。自分の価値観や経験をまず脇に置いて、まず神が発するキリストについて語られることばに耳をかたむけることが信仰の原点である。
しかし、イスラエルが救われていない責任を神のことばが語られなかったと神に問うことはできない。事実語られていたからである。また聞いても難しすぎたというわけでもない。イスラエル人が愚かな民だと見下していた異邦人が救いを得たのだから。要は、彼らは語られていた福音を聞こうとしなかった、いや聞きたくなかったのである。
けれども神が異邦人にご自分を現したのは、そんなイスラエルを捨ててしまわれたからではない。そのことによって妬みを起こさせ、自らの間違いに気付かせ、神のもとに戻ってくるのを望んでおられるのである。放蕩息子を待つ父のように、神はなお両手を差し伸べ待っておられる。私たちもこの恵みにあずかった者として主の勝利を証していこう。
0254 : 2024年10月13日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/10/15(火) 19:02:19
ローマ10:14-15 「どのようにして呼び求めるのか」

国籍や人種や民族によらず、だれでも主を呼び求める者は救われる。ヨエル書から引用されたこのみことばは、どれだけその人が努力したかとか、才能があるかとか、知恵深いかということにもよらず、「だれでも」「主を呼び求める」だけでもたらされる、間違いなくよいニュースであろう。しかし人によってはそのよいニュースを受け入れる事ができない。厳しい修行を自分に課し、達成してこそ救いを得られると思っている人にはつまずきであろう。
福音はあくまでも上から、つまり人間の悟りやひらめきによってではなく、福音を伝える者を遣わす神にその出発点がある。そこからもたらされる福音を、聞き、信じ、告白して人は救われるのである。その際に人の自覚がどうであるかはあまり意味がない。不動産の所有者は契約書のみによって確定されるのと同様、重要なのは神の契約、みことばである。
それゆえ和解と平和の福音を伝える使者の働きは大切なのである。バビロン捕囚でうなだれる人に良い知らせをもたらした足となって、私たちも遣わされる場でこの世に和解の福音を証ししていこう。
0253 : 2024年10月6日 主日聖餐礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/10/7(月) 13:50:40
ローマ10:5-13 タイトル「みことばを近くに」

神のことばである聖書だが、書かれたことばとしてだけ受け取るとみこころを充分に受け取ることができない。モーセの書いた律法は、確かに掟を行う者は生きると記されている。しかし、あたかも人間の力であるかのようにだれが天に上るか深みに下るかと問うことは的外れだろう。信仰による義は血の通った語りかけをもって語りかけてくるのである。
その信仰による神の義は、私たちの近くにあるという。つまり神のみことばは冷たい上から問答無用に与えられるルールのようなものではなく、聴く私たちも口で、あるいは心で応答できる温かさをもった生きたみことばなのである。なぜなら4節にあったように、律法の目標は十字架と復活のキリストにあらわされた神のあわれみと恵みなのだから。口での告白と心での信仰は不可分である。その信仰は自分の力によらない確信を与えるものである。
人間の決断や意思を問わないキリストの救いの確かさは、主を呼び求めるだれもが頂ける。本日あずかる聖餐は、目で見て触れ嗅ぎ味わうことのできるみことばである。確かな希望と共に1週間を歩もう。
0252 : 2024年9月29日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/10/1(火) 14:29:58
ローマ10:1-4 タイトル「神の義を知らない熱心」

罪によって神の怒りを受ける器だったあなたは、キリストを通してもう赦され、神の怒りの対象ではない。この福音を特にイスラエル人が受け取り、救われてほしいとパウロは祈り願う。この祈りからも察せられるように、聖書は、どの宗教でも救いに至るとは教えていない。イスラエル人のように、聖書の神を信じていたとしても、である。
熱心であることも救いの保証とは限らない。ユダヤ人の熱心さはたいへんなものだった。しかしその熱心は知識に基づかないものだったのである。彼らは行いによって自分の義を立て、神の義を得ようとした。しかし、それは結果的に神の義を拒み、従わないということになるのである。
では神の義とは何か。神の律法は行いによって義を得る道を閉ざす。しかしそれによって神の備えたもうキリストを信じる義を指し示すのである。神からの無罪判決、すなわち赦しを信じる者すべてが、赦しの平安を得るのは当然だろう。自分は赦されたと信じられない者が、その平安を得ることは不可能だから。私たちはこの良い知らせを証し、人々に届ける喜びの務めに招かれている。私たちが用いられますように。
0251 : 2024年9月22日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/9/23(月) 10:15:48
ローマ9:30-33 タイトル「つまずきの石」

神に選ばれた民であり、律法を与えられ神の義を教えられていたイスラエル。しかし、彼らがなぜ追い求めていた神の義を得られず、律法も知らず神の義を追い求めていなかった異邦人が神の義を得たのか。この違いの理由は何だろうか。得ようと努力をした者が得られず、努力をしなかった者が得られるのはおかしいと感じるのが普通ではないのか。
しかし、その感覚は「神の義」を努力の褒美だと感じる勘違いからかもしれない。元々私たちは例外なく罪人で、神の怒りが注がれて滅ぼされても言い訳できない者であったことを忘れてはいないか。どんな場合でも被害の赦しとは、加害者の行いに対する報酬として与えられるものではなく、どこまでも被害者の側に主権がある。赦しを得ようとすれば、謝罪とともにまず被害者の主権に委ねなければならない。イスラエルは与えられた律法を守る事により義を報酬として得ようとしたのである。
行いによって義を得ようとすれば、キリストの救いはつまずきにしかならない。しかし、一度へりくだり、自分を空っぽにして天を仰ぐなら、神は天から決して尽きることのないあわれみと恵みを注ぎ、私たちを義としてくださる。この望みにすがり自己の誇りをすて歩もう。
0250 : 2024年9月15日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/9/16(月) 11:47:40
ローマ9:19-29 タイトル「あわれみ注がれる器」

「神が人を頑なにしたなら、その人の罪を責めることはできないのではないか?」という問いが提起される。パウロはこの問いに対し、造られたものは造った方に文句をいうべきではない、と一見はぐらかすような答えをする。神と人間の関係を踏まえる必要があるからである。神は高ぶる者にではなくへりくだる者に知恵を示される。
パウロは陶器師と粘土のたとえを用いて、人間はあくまで神に造られた被造物であり、造り主である神に文句を言う立場にはないと説明する。神は主権者としてご自身の意志で人間を形作る権利を持っているのである。しかし同時に神は、滅ぶべき罪人に対して寛容をもって忍耐しておられる。その忍耐に対し、神が決めたなら罪の責任は人間にないといってはならないだろう。むしろへりくだって感謝すべきである。
神は旧約聖書からホセアやイザヤなど預言者を通し、イスラエルにも異邦人にもすべての人に対して豊かなあわれみを示しておられる。その神の計画に従いへりくだることが人間にとって重要なのではないか。私たちにとっての一日一日は主の祝福である。年長者も若者も神のあわれみを受ける器としてへりくだって感謝し歩もう。
0249 : 2024年9月8日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/09/11(水) 20:29:58
ローマ9:14-18 タイトル「あわれみによる選び」

神の祝福はイサク・ヤコブに継がれ、イシュマエル・エサウではなかったという神の選びは不正なのだろうか。実際つまずきやすい箇所かもしれない。「不正」は「アディキア」の訳で、1:18で「不義」と訳されており、すべての人に神の怒りが注がれる根拠でもあった。
しかしパウロはそんなことはない、という。パウロはかつてイスラエルが金の子牛像を造って罪を犯した事件の際の神のことばを引用し、神の主権を主張する。しかも神のあわれみが強調されている。もし神が完全に平等な方なら、すべての人が滅ぼされるべきであった。そのことを忘れ、神のあわれみに対し不正だ不平等だと文句を言うことがふさわ
しいことだろうか。
では選ばれなかったといわれる側についてはどうか。エジプト王ファラオはイスラエルに反対した人物である。しかし彼もまた神の救いの計画の中ではその偉大さが証しされるため選ばれた器なのである。神の愛にはいささかも不平等はない。しかし一見差があると見える状況も、神の計画の中で選ばれているという点では公平であると言えないだろうか。神のあわれみをただただ信頼する歩みへと進もう。
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