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0256 : 2024年10月27日 宗教改革記念礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/10/27(日) 20:53:19
ローマ11:1-10 「残された者」

神は常に約束の民でありご自身の民であるイスラエルに手を差し伸ばし、救いをもたらそうと福音を届けていたが、イスラエルは反抗していた。にもかかわらず、神が約束の民を退けられたのではなかった。なぜならこの福音によって救われたパウロ自身が、ほかでもないイスラエルの民だからである。確かに日本でクリスチャンは圧倒的少数だが、私たちもこの点で励まされたい。
またパウロは、バアルの預言者との対決の後、アハブ王とイゼベル夫妻に殺害を予告されたエリヤのことばを引用する。私たった一人残されました、と怯え、恐れ、心細くなるエリヤに神は、わたしのためにバアルに膝をかがめなかった7000人を残している、と言われた。エリヤは一人ではなかったのである。ただただ恵みによって神は、イスラエルを決して退けられない。私たちも状況を見て失望してはならない。
まったく同じ福音が語られても受け取り方によって頑なさを自らに招く者もいる。神の祝福がすべてにとって喜びとなるとは限らない。しかし、私たちはその恵みを知らされている。ルターもそうだったように私たちは一人ではない。主の恵みの選びにあずかり励まされ歩もう。
0255 : 2024年10月20日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/10/21(月) 12:32:19
ローマ10:16-21 「信仰は聞くことから」

キリストにある勝利の知らせである福音をなぜイスラエルは信じないのか。しかしイザヤは、見栄えのしない苦難のしもべこそ救い主であるという預言を最初から信じる者はまれだった、と述べていた。だから信仰は見ることよりも聞くことから始まるのである。自分の価値観や経験をまず脇に置いて、まず神が発するキリストについて語られることばに耳をかたむけることが信仰の原点である。
しかし、イスラエルが救われていない責任を神のことばが語られなかったと神に問うことはできない。事実語られていたからである。また聞いても難しすぎたというわけでもない。イスラエル人が愚かな民だと見下していた異邦人が救いを得たのだから。要は、彼らは語られていた福音を聞こうとしなかった、いや聞きたくなかったのである。
けれども神が異邦人にご自分を現したのは、そんなイスラエルを捨ててしまわれたからではない。そのことによって妬みを起こさせ、自らの間違いに気付かせ、神のもとに戻ってくるのを望んでおられるのである。放蕩息子を待つ父のように、神はなお両手を差し伸べ待っておられる。私たちもこの恵みにあずかった者として主の勝利を証していこう。
0254 : 2024年10月13日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/10/15(火) 19:02:19
ローマ10:14-15 「どのようにして呼び求めるのか」

国籍や人種や民族によらず、だれでも主を呼び求める者は救われる。ヨエル書から引用されたこのみことばは、どれだけその人が努力したかとか、才能があるかとか、知恵深いかということにもよらず、「だれでも」「主を呼び求める」だけでもたらされる、間違いなくよいニュースであろう。しかし人によってはそのよいニュースを受け入れる事ができない。厳しい修行を自分に課し、達成してこそ救いを得られると思っている人にはつまずきであろう。
福音はあくまでも上から、つまり人間の悟りやひらめきによってではなく、福音を伝える者を遣わす神にその出発点がある。そこからもたらされる福音を、聞き、信じ、告白して人は救われるのである。その際に人の自覚がどうであるかはあまり意味がない。不動産の所有者は契約書のみによって確定されるのと同様、重要なのは神の契約、みことばである。
それゆえ和解と平和の福音を伝える使者の働きは大切なのである。バビロン捕囚でうなだれる人に良い知らせをもたらした足となって、私たちも遣わされる場でこの世に和解の福音を証ししていこう。
0253 : 2024年10月6日 主日聖餐礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/10/7(月) 13:50:40
ローマ10:5-13 タイトル「みことばを近くに」

神のことばである聖書だが、書かれたことばとしてだけ受け取るとみこころを充分に受け取ることができない。モーセの書いた律法は、確かに掟を行う者は生きると記されている。しかし、あたかも人間の力であるかのようにだれが天に上るか深みに下るかと問うことは的外れだろう。信仰による義は血の通った語りかけをもって語りかけてくるのである。
その信仰による神の義は、私たちの近くにあるという。つまり神のみことばは冷たい上から問答無用に与えられるルールのようなものではなく、聴く私たちも口で、あるいは心で応答できる温かさをもった生きたみことばなのである。なぜなら4節にあったように、律法の目標は十字架と復活のキリストにあらわされた神のあわれみと恵みなのだから。口での告白と心での信仰は不可分である。その信仰は自分の力によらない確信を与えるものである。
人間の決断や意思を問わないキリストの救いの確かさは、主を呼び求めるだれもが頂ける。本日あずかる聖餐は、目で見て触れ嗅ぎ味わうことのできるみことばである。確かな希望と共に1週間を歩もう。
0252 : 2024年9月29日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/10/1(火) 14:29:58
ローマ10:1-4 タイトル「神の義を知らない熱心」

罪によって神の怒りを受ける器だったあなたは、キリストを通してもう赦され、神の怒りの対象ではない。この福音を特にイスラエル人が受け取り、救われてほしいとパウロは祈り願う。この祈りからも察せられるように、聖書は、どの宗教でも救いに至るとは教えていない。イスラエル人のように、聖書の神を信じていたとしても、である。
熱心であることも救いの保証とは限らない。ユダヤ人の熱心さはたいへんなものだった。しかしその熱心は知識に基づかないものだったのである。彼らは行いによって自分の義を立て、神の義を得ようとした。しかし、それは結果的に神の義を拒み、従わないということになるのである。
では神の義とは何か。神の律法は行いによって義を得る道を閉ざす。しかしそれによって神の備えたもうキリストを信じる義を指し示すのである。神からの無罪判決、すなわち赦しを信じる者すべてが、赦しの平安を得るのは当然だろう。自分は赦されたと信じられない者が、その平安を得ることは不可能だから。私たちはこの良い知らせを証し、人々に届ける喜びの務めに招かれている。私たちが用いられますように。
0251 : 2024年9月22日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/9/23(月) 10:15:48
ローマ9:30-33 タイトル「つまずきの石」

神に選ばれた民であり、律法を与えられ神の義を教えられていたイスラエル。しかし、彼らがなぜ追い求めていた神の義を得られず、律法も知らず神の義を追い求めていなかった異邦人が神の義を得たのか。この違いの理由は何だろうか。得ようと努力をした者が得られず、努力をしなかった者が得られるのはおかしいと感じるのが普通ではないのか。
しかし、その感覚は「神の義」を努力の褒美だと感じる勘違いからかもしれない。元々私たちは例外なく罪人で、神の怒りが注がれて滅ぼされても言い訳できない者であったことを忘れてはいないか。どんな場合でも被害の赦しとは、加害者の行いに対する報酬として与えられるものではなく、どこまでも被害者の側に主権がある。赦しを得ようとすれば、謝罪とともにまず被害者の主権に委ねなければならない。イスラエルは与えられた律法を守る事により義を報酬として得ようとしたのである。
行いによって義を得ようとすれば、キリストの救いはつまずきにしかならない。しかし、一度へりくだり、自分を空っぽにして天を仰ぐなら、神は天から決して尽きることのないあわれみと恵みを注ぎ、私たちを義としてくださる。この望みにすがり自己の誇りをすて歩もう。
0250 : 2024年9月15日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/9/16(月) 11:47:40
ローマ9:19-29 タイトル「あわれみ注がれる器」

「神が人を頑なにしたなら、その人の罪を責めることはできないのではないか?」という問いが提起される。パウロはこの問いに対し、造られたものは造った方に文句をいうべきではない、と一見はぐらかすような答えをする。神と人間の関係を踏まえる必要があるからである。神は高ぶる者にではなくへりくだる者に知恵を示される。
パウロは陶器師と粘土のたとえを用いて、人間はあくまで神に造られた被造物であり、造り主である神に文句を言う立場にはないと説明する。神は主権者としてご自身の意志で人間を形作る権利を持っているのである。しかし同時に神は、滅ぶべき罪人に対して寛容をもって忍耐しておられる。その忍耐に対し、神が決めたなら罪の責任は人間にないといってはならないだろう。むしろへりくだって感謝すべきである。
神は旧約聖書からホセアやイザヤなど預言者を通し、イスラエルにも異邦人にもすべての人に対して豊かなあわれみを示しておられる。その神の計画に従いへりくだることが人間にとって重要なのではないか。私たちにとっての一日一日は主の祝福である。年長者も若者も神のあわれみを受ける器としてへりくだって感謝し歩もう。
0249 : 2024年9月8日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/09/11(水) 20:29:58
ローマ9:14-18 タイトル「あわれみによる選び」

神の祝福はイサク・ヤコブに継がれ、イシュマエル・エサウではなかったという神の選びは不正なのだろうか。実際つまずきやすい箇所かもしれない。「不正」は「アディキア」の訳で、1:18で「不義」と訳されており、すべての人に神の怒りが注がれる根拠でもあった。
しかしパウロはそんなことはない、という。パウロはかつてイスラエルが金の子牛像を造って罪を犯した事件の際の神のことばを引用し、神の主権を主張する。しかも神のあわれみが強調されている。もし神が完全に平等な方なら、すべての人が滅ぼされるべきであった。そのことを忘れ、神のあわれみに対し不正だ不平等だと文句を言うことがふさわ
しいことだろうか。
では選ばれなかったといわれる側についてはどうか。エジプト王ファラオはイスラエルに反対した人物である。しかし彼もまた神の救いの計画の中ではその偉大さが証しされるため選ばれた器なのである。神の愛にはいささかも不平等はない。しかし一見差があると見える状況も、神の計画の中で選ばれているという点では公平であると言えないだろうか。神のあわれみをただただ信頼する歩みへと進もう。
0248 : 2024年9月1日 主日聖餐礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/09/01(日) 13:08:07
ローマ9:6-13 タイトル「選びの厳かさ」

ときに差別を生みがちな「神の選び」について聖書は何を語っているか。神に選ばれたにも関わらず救いの祝福を拒むイスラエルについて、では神は約束された祝福を反故にしてしまったのか、との問いもありえる。しかしパウロは、そんな事はない、と断言する。その根拠は、イスラエルから出る者がイスラエルというわけではない、という点だった。
このことをパウロは旧約聖書、創世記の中の二つの事例から立証しようとする。一つはイサクの誕生について。アブラハムには先にイシュマエルという息子がいたが、彼ではなく主はイサクがサラの胎に宿る前からイサクを約束の子と選ばれた。またイサクの双子エサウとヤコブについても、誕生前に主は兄が弟に仕えることをリベカに告げている。
ヤコブを愛しエサウを憎んだと言われることばはショッキングに聞こえるが、人間の側の要素を一切排除した神の主権による約束であることが分かる。その選びを思う時、選ばれた側の優越感など吹き飛んでしまうほどの厳粛さを思う。と同時に今躓いているように見えても主の約束が確かであることの信頼が生まれる。聖餐にあずかるときもこの選びの厳かさと平安を覚え、隣人の救いを祈り今週の歩みに遣わされよう。
0247 : 2024年8月25日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/08/26(月) 16:49:01
ローマ9:1-5 タイトル「主と同じ愛で」

神の愛の確かな確信が語られた後、パウロは悲しみと痛みを告白する。この変化ゆえに9〜11章を蛇足と読む解釈者もいるが大切な箇所である。パウロはこの悲しみについて、キリストも聖霊も証ししているという。自分のことばの信憑性を増そうとしたというよりも、キリストも聖霊も、もちろん父なる神も同じ思いに違いないとの確信であろう。
その悲しみの原因はイスラエル人の救いに関することである。主イエスのすばらしい福音を彼らは手にしていないのである。イスラエルは失われた北王国十部族はもとより、ユダヤ人も福音を拒絶してきた。パウロはそのユダヤ人を恨んでもいないし見捨ててもいない。かつて自分が主イエスを拒んでいたことを思ってのことではないか。しかも主はそのパウロをあわれみ救われたのである。同胞のためならのろわれてもよいとの思いはモーセや、主イエスご自身との思いと重なる。
神が選びの民としてイスラエルに与えた特権と栄光をパウロが列挙しているのを読むと、その特権と栄光を味わっていないイスラエルの歩みがどれほど惜しいことか。誰より主ご自身が残念に思っておられるに違いない。今のイスラエルの歩みを思い、主と同じ思いで祈ろう。
0246 : 2024年8月18日 召天者記念礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/08/22(木) 23:01:21
ローマ8:35-39 タイトル「圧倒的な勝利者」

神の罪人を愛する愛は絶対と記されてきたが、しかしこの世の現実の中ではこの神の愛が見えなくなったり理解できなくなることもあるかもしれない。実際に詩篇が語っている通り、信仰を持っているがゆえの苦しみに遭うことも多々ある。神のために味わう苦難や危険は私たちを神の愛から引き離すだろうか。
しかしパウロは、新約聖書でここにしか使われていない珍しいことばを用いて、私たちは圧倒的な勝利者であると断言する。それは苦難や危険があるにも関わらず、というよりもむしろ、そこでこそ現れる神の愛があるからである。神の愛はキリストの十字架によって現れた。ならば私たちが信仰ゆえに味わう苦難は、キリストの苦難を思い起こさせ、なお一層神の愛の深さを覚えることになるからである。
結局、あらゆる、どんなものも益となって、私たちをキリストにある神の愛から引き離すことはできない。それどころか、死もまた信じる私たちにとっては、神のふところに身を移し、神の愛を永遠に、間近に感じる場所への引っ越しである。決して私たちが見放される事のない神の真の愛によって日々平安と希望をもって歩もう。
0245 : 2024年8月11日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/08/13(火) 18:28:11
ローマ8:31-34 タイトル「神が味方なら」

善悪の判断を神から奪い、神に背いた人間に最後待つのは孤独である。その孤独を埋め合わせるためにさまざまな神を作りだしたが、しかし神はその罪人を赦し神の子どもとしてくださる。これらのことからどう言えるか。神が味方であり、私たちにとっては何も恐れるものはない、という確信が与えられる。その証拠に神はご自分のかけがえのないひとり子さえ与えてくださったからである。
味方といっても、何でも都合のいい事をしてくださるという意味ではない。私たちは自分の罪の負い目のゆえに、さまざまな機会に訴えられる経験をするのではないだろうか。サタンを始め他者から、あるいは自分自身から。その責めに私たちは耐えられるものではないが、神が義と認めてくださる。回りが何と言っても、許された確信を持ちながら自分の過去と誠実に向き合うことができるのではないだろうか。
主キリストは、私たちの救いのためにご自分のいのちを死に渡し、救いの成就のためによみがえられ、今は神の右で私たちのためにとりなしていてくださる。私たちが経験する物事や出会う隣人がこの神の恵みの下にあることを覚え、信頼と平安をもって歩もう。
0244 : 2024年8月4日 主日聖餐礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/08/06(火) 13:19:24
ローマ8:28-30 タイトル「神の計画のゴール」

一流アスリートでイメージトレーニングを軽視する人はいない。私たちは信仰生活とそのゴールをどうイメージしているだろうか。
パウロは感動をもって神を愛する人、という彼にとって珍しい表現を使う。これは当然ここまでの流れから言っても神に愛され神を愛さざるを得ない人のことである。その人は神の計画に召され、その達成のためにすべてのことがともに働き益となる。一つひとつの出来事ではなく、どれも計画の完成のために不可欠なピースとなるということである。
私たちが召された神の計画は、あらかじめ、ということばが特徴的なように、すべて神の全知のうちに進んでいく。これは神が救う人とそうでない人を勝手に分けているというのではない。神を愛する人々にとっての約束の確かさからくる平安のためである。この計画は、私たちを御子のかたちと同じ姿とすること。主イエスがひとり子として神から与えられている栄光と同じ。神の救いの計画のゴールとは、つまり私たちが身も心も神の子どもとされるということである。神の選び、義認、栄化は神の主権のなかで揺るがせられず進んで行く。私たちはこのゴールをはっきりイメージしつつ、今日の信仰生活を感謝をもって歩もう。
0243 : 2024年7月28日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/07/29(月) 20:15:45
ローマ8:25-27 タイトル「御霊のとりなし」

私たちは神の子どもとされたが、後に栄光をいただくまでの間この地上では苦難があり、被造物のうめきを聞き、自分自身もうめきを経験する。そのなかで私たちは、何をどう祈ったらよいか分からない。この祈りは単なる「願い」ではなく、神の前に自分を置くこと、である。神の前に自分の置き方、つまり神にどう接していいか分からないのである。
その時の御霊の助けは、「一緒に代わりに引き受ける」という助けであり、御霊のとりなしは、「私の代わりにぶつかってくださる」という意味がある。私たちは神をアバと叫んで呼べる神の子どもなのだから、遠慮せず、形式張らずに、助けて欲しいと小さい子どものように神にすがって良いのだがそうできない弱さがある。御霊はそんな私たちと共に、私たちの代わりにうめきをもって神にぶつかってくださるのである。
父なる神は私たちの表面的な部分を見て判断されない。私たちの内に住まわれる御霊によって私たちの真実な姿や思いを知って受けとめてくださる。だから私たちは安心してどんなことでも祈ってよいしそうすべきである。その経験を積み重ねて私たちは神の子どもに相応しい、神の前での自分の身の置き方を学んでいくのである。
0242 : 2024年7月14日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/07/015(月) 12:48:02
ローマ8:23-25 タイトル「見えない望みに生きる」

世の終わりと聞くと不安や恐れを伴う誤解もあるが、完成とみるべきであろう。そこにある苦難をパウロは、産みの苦しみと共にうめきと表現する。神の子どもとされても、あるいは神の子どもだからこそ受ける苦しみは、ことばにすることのできないうめきとなる。私たちも信仰生活において実際に体験するのではないだろうか。
けれども私たちにやがて啓示される栄光と比べるなら何ほどのことはない。初穂ということばが示す通り、今は御霊によっていただく恵みは、それほどの恵みではないと感じるかもしれない。しかし続く大きな恵みに目をそらしてしまうことは残念である。私たちは神の子としての身分は与えられても、実際に子として生きるには、肉の弱さに阻まれる苦難を経験するだろう。この肉があがなわれ救いが完成する主の再臨の時を待ち望む必要があるのである。
ともかく私たちは今目に見える苦難や悩みに目を奪われ、後に得られる祝福の約束を逃してはならない。私たちはその約束も込みで救われたからである。忍耐を伴うこの希望は「ことばに尽くせない栄えに満ちた喜び」に躍ることを私たちに得させてくれるのである。
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