0196 : 2023年12月17日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:23/12/18(月) 18:42:11
ローマ2:7〜16 タイトル「キリストによるさばき」
罪人の不敬虔と不義に対する神の怒りは、いつくしみの忍耐の期間があるとは言え必ず下される。神は完全に公平で、善を行うことができるなら祝福がある。が、交差平行法が用いられ、悪に対する怒りもまた公平に下される、というのがここの強調点である。そこにはユダヤ人であるからとか、ギリシア人だからという区別もない。
しかし、十戒を始めとする文字としての律法が与えられなかった異邦人はどうか。そもそも違反するルールがなければ違反そのものがないのではないだろうか。しかしパウロは、すべての人が神に造られた証としての良心が異邦人にとっての律法だという。確かに律法がなくても正しい事、悪い事の基準をあらゆる人は心の内に持っている。それによって異邦人はさばかれる。
では律法を持っていても持たなくても弁解なく神のさばきがくだるとしたら、すべての人は神の怒りを受けて滅びる絶望しかないのか。しかしパウロはさばきの言及の中で、キリストによるさばきの福音の一端を示す。滅びるべき罪人と正しい神の間にキリストが立ってくださるのである。アドベントの残りの期間、救い主の到来を心から待ち望もう。
0195 : 2023年12月10日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:23/12/12(火) 12:08:35
ローマ2:2〜6 タイトル「悔い改める心を」
アドベントは古来悔い改めの期間であり、悔い改めを表す紫の色がよく用いられる。その期間にふさわしく自分自身の罪深さと悔い改めを覚える時としたい。1章の後半で異教徒の罪を指摘したパウロは、信仰者もまた同じだという。つまり全人類が神の前に罪人なのだ。しかし、すべての人が罪人というとき、その罪の責任が分散されてしまわないだろうか。神の怒りは、1人ひとりが神の正しいさばきによって下る。ほかのだれでもなく私自身が神の前に罪人であると覚えたい。
しかし神の怒りは日々実感するようなものではないかも知れない。けれどもそれは神が怒っておられないということではなくて、神はいつくしみにより忍耐し、私たちが悔い改めるのを待っておられるのである。放蕩息子のたとえにあるように、神のいつくしみ深さが先行し、放蕩息子の悔い改めが成立している。
いつまでも猶予期間が続くのではない。神の祝福をいただけると信じていた信者も悔い改めなければ神の怒りを積んでいる状況である。自分は大丈夫というのは偏見にすぎない。神のみこころはただ悔い改めること。私たちを抱きしめるため御子を与えた神の愛を覚え歩もう。
0194 : 2023クリスマスコンサート 名前:caiaphas@管理人 投稿:23/12/09(土) 19:32:27
今日カナリアホールにてクリスマスコンサートを行いました。TrueVine、Noahさんの賛美と証の歌声に来会された皆さんが感動しておられたようです。新聞折込等チラシを見てこられた方もいらっしゃって、幸いなコンサートでした。
0193 : 2023年12月3日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:23/12/07(木) 13:01:59
ローマ2:1 タイトル「他人をさばく私こそ」
導入 救い主の到来を待ち望む態度
1.神の怒りの向かう先
○ 異邦人だけではなく
〇 ユダヤ人の特権意識
2.弁解の余地はない
○ 他者の罪に気付く人
○ 何が同じか
3.罪に対して
○ パウロの告白
○ さばく者ではなくとりなす者に
要約
今年もアドベントに入った。アドベントは救い主の到来を待ち望む期間だが、2000年前の主の誕生をのみ待ち望むのではなく再臨を待ち望む時でもある。そのために必要なのは悔い改めである。
神の怒りは、神を被造物に替えてしまい、してはならないことをしている異邦人に向けられていた。しかしパウロは自分はまことの神を知っていると高ぶるユダヤ人も同じだと述べる。何が同じかというと、他者の罪や悪に対してさばくことによって、自分も同じことをしているという点である。偶像礼拝の罪は、自分を神とすることでもある。アダムとエバが善悪の知識の木の実を取って食べたように、まことの神だけにある善悪をさばく権威を自分のものとした時点で、神ではないものを神とすることと同じなのである。
では彼らの罪を指摘したパウロはどうか。パウロ自身自分が救いようのない罪人であることを告白している。すなわち神の怒りについて、自分は関係ない、と言える人間は例外なく誰ひとりとしていないのである。罪を指摘すること自体が悪なのではない。自分も罪人である自覚を忘れず、主の救いにすがりつつ、さばく者よりもとりなす者でありたい。
0192 : 2023年11月26日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:23/12/07(木) 13:00:33
ローマ1:24〜32 タイトル「神を知る価値」
導入 救いの価値を知るために神の怒りを知る
1.「神の怒り」の誤解
○ モラハラ?
〇 罪の罰は罪
2.自然な関係を捨てて
○ 与えられた欲求
○ みことばが指摘していること
3.神を知る価値を認めない姿
○ 無価値な思いに引き渡され
○ 「神がないなら」
要約
パウロは神の福音がもたらす喜びを覚えるために罪人への神の怒りを書き記していく。もしかすると神の怒りについて私たちは誤解するかもしれない。自然災害や病気などの災厄が神の怒りではないか、と。しかし突然前触れもなくそのようなことを起こす神はモラハラ夫のようなものだろう。まことの神の怒りは弁明できない正当なもの。また、神は欲望のままに引き渡されるとある。むしろ自由に感じるかも知れないのである。決して平安と満足のない自由であるが。
人間の欲望そのものは神から与えられたもので、決して汚れていない。しかし歪ませて貪るときに汚れとなる。この箇所は同性愛を一律禁じているように見えるが、時代背景を考えるとローマのあまりにも性的に堕落した状況があった。そこに焦点をあてパウロは批判しているのだろう。
神への不敬虔は隣人への不義に行き着く。神はさらにその罪へと引き渡される。神を知ることを無価値と考えるなら、あらゆる善行は無価値になり、あらゆる不義はし放題になるだろう。世界の悲劇的な状況を見ると神の存在に疑いを持ちたくなるかもしれない。しかしその瞬間善も意味がなくなる。まず神にへりくだり贖いの恵みにあずかろう。
0191 : 2023年11月19日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:23/12/07(木) 13:00:03
ローマ1:19〜23 タイトル「神に弁解できるか」
導入 アンガーマネジメントから考える「怒り」のイメージ
1.正しい怒り
○ 罪人の怒りと神の怒り
〇 被造物による啓示
2.神を引きずり下ろす
○ 召使い的神
○ まず求めるべきもの
3.価値の倒錯
○ 自作の神による満足
○ キリストが生まれた意味
要約
「怒り」がネガティブな感情ととらえられやすい現代「神の怒り」と聞くと、私たちは心に壁を作ってしまいやすくなるかも知れない。しかし、私たち罪人が抱く怒りは不当な場合も多いが、神の怒りは正当なものである、とパウロはいう。というのも、神について知りうることは被造物によって啓示されているからである。事実、神の偉大さや、神が善と愛を願う事はクリスチャンでなくても知る事ができる。その意味で私は聖書を知らないということは神への弁解にならない。
しかし神を知っていながら神を神としない罪人は、神を神の位置から引きずり下ろし、自分の都合のいいことをしてくれる召使い的存在におとしめている。しかしそれで手に入るのはむなしさでしかない。主は「神の国と神の義をまず第一に求めよ」といわれた。本当の幸いと平安は神を神とし公義を働くことを第一とする時に与えられるのである。
神を求める人間の本能ゆえに、神を否定することまでできない人間は、神以外のものを神とし、価値観を倒錯させ、自分の価値まで貶める。しかし、罪人に対する神の怒りを代わりに背負うために主はこの世に来てくださった。救いの恵みを覚えつつ悔い改めに導かれよう。
0190 : 2023年11月12日子ども祝福礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:23/11/14(火) 18:51:03
マルコ10:13〜16 タイトル「神の国にふさわしい者」
導入 山上憶良「銀も金も玉も何せむに勝れる宝子に及かめやも」
1.連れて来られる子ども
○ 子どもの儚さ
〇 叱る弟子たち
2.主の憤り
○ 激しい怒り
○ 神の国
3.祝福を
○ ピグマリオン効果
○ 良いことばをもって
要約
子どもは宝と呼ばれるが、いつでも普遍的な概念ではなかった。当時未熟な人間としてしか見られなかった子どもが、主イエスのもとに連れて来られる。医療等不備な時代で生存率もままならない子どもたちの祝福を心から願う親や大人たちの思いからだったろう。しかしそれを弟子たちは叱る。忙しい主を煩わせたくなかったかも知れないし、律法を守れていない子どもの汚れを避けようとしたからかもしれない。
ところが主は他であまり見られないような激しい憤りをもって弟子たちを制せられた。神の国は子どもたちのような者にふさわしいからだといわれる。子どもたちが無垢できよらかだからではない。そもそも神の国とは、神の支配のことである。子どもたちはその神の支配を自然に受け入れる事ができるからである。
子どもたちが受け入れ信頼する主は、触れてください、という願いをこえて祝福を与える方である。「祝福する」とは良いことばを語るということ。ピグマリオン効果では、人は自分にかけられた良いことば、期待されたり積極的なことばによって良い影響を受けるという。ましてや神の祝福は子どもたちに計り知れない力をもたらすに違いないだろう。
0189 : 2023年11月5日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:23/11/08(水) 11:24:49
ローマ1:18 タイトル「神の怒り」
導入 イスラエルのガザ空爆に思うこと
1.神の恵みと怒り
○ 「というのは」
〇 罪が分からなければ恵みも
2.真理を阻む人
○ 阻む・・押さえ込む
○ 不敬虔と不義
3.啓示された怒り
○ 怒り=災い?
○ 神の怒りを負ってくださった方
要約
世界で起こる争い事と私たち自身の罪は地続きであると捉えるべきだろう。神は私たちの罪を問題にしておられる。16〜17節で福音の恵みが語られたが、18節になって人間の不義への神の怒りが語られる。話題が変わったのではない。「というのは」と接続詞でつながれる。罪が理解されなければ私たちの救いもまた理解できないのである。
私たちは不義をもって知っているはずの真理を心の奥深くにしまいこみ、見ないように聞こえないように振る舞ってしまう。自分勝手な都合によって神を持ち出したり無視したりする私たち。そうした真理を阻む生き方から、神に身をかがめない不敬虔や、人に対しても不誠実、不義が表れてくる。一般に罪と呼ばれることも、突き詰めれば神をしまい込み見えないふり、聞こえないふりをする問題に突き当たるのである。
そんな私たちを、神は怒られる。しかし災害や禍などがすべて神の怒りなのではない。覆いを取りのけられて天から啓示された神の怒りは、むしろ人を自由勝手な生き方に追いやることすらある。しかしその行く末は永遠の滅びなのだ。主イエスはその神の怒りを身代わりに負われた。罪を悔い改め、主の十字架の贖いに感謝し聖餐にあずかろう。
0188 : 2023年10月29日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:23/10/31(火) 11:36:27
ローマ1:17 タイトル「福音の再発見」
導入 マルチン・ルターの宗教改革
1.私は神の義を憎んだ
○ 罪の意識
〇 どんなに善行を積んでも
2.福音の再発見
○ なぜ福音なのか
○ 神「の」義
3.神の義を受け取るには
○ 信仰のみ
○ 聖書にあるとおり
要約
来る10月31日は宗教改革記念日。ルター聖書の重要な教義である信仰義認に目覚めたローマ1:17を読む。神の義とはなんだろうか。普通、神がご自分の議をもって罪人である人間をさばくと受けとめているのではないだろうか。修道士時代のルターもそう受けとめ、どんなに熱心にミサを献げても告解を通して罪の告白をしても、善行を積んでも自らの罪の赦しの確信がないことに悩んでいた。
それがなぜ良い知らせ(福音)と言えるのか。神の義を罪人を裁く神の義と考えると確かに救いの確信は得られない。しかし、神が罪人をあわれんでご自分の義を人間に与えることが神の義であるとルターは目が開かれた。救いは、人間の義、私の義が問題なのではないのである。これが良い知らせ、福音なのである。
その救いを受け取るために必要なのは、最初から最後まで信仰のみである。ましてや贖宥状による免罪はあり得なかった。これは旧約聖書からのメッセージである。ルターはカトリック教会から破門されるが、聖書を多くの人が読めるようになり、さらに多くの人々が信仰義認を理解するようになった。私たちもこの信仰によって平安と感謝を頂き歩もう。
0187 : 2023年10月22日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:23/10/23(月) 13:21:20
ローマ1:16 タイトル「救いをもたらす力」
導入 教団秋の研修会から
1.福音=恥?
○ 日本は恥の文化
〇 ユダヤ人、ギリシア人からも
2.神の力
○ デュナミス:潜在能力
○ 一見弱く見えても
3.救いをもたらす
○ 罪の結果
○ 信じる信仰
要約
1:16、17はローマ人への手紙のテーマ。その冒頭パウロは福音を恥としない、と記す。日本人にとって「恥」かどうかは重要な行動基準であろう。しかしわざわざこう記すということは、パウロにとっても福音が恥となりうる前提があったということだろう。事実しるしを求めるユダヤ人、知識を求めるギリシア人にとって福音は愚かなことばだった。
けれども福音を恥としないのは、神の力だからだ、という。力とはギリシャ語でデュナミスで、潜在能力という意味がある。一見力なく見えても、潜在的に確かに力があるということである。弱さを隠し強さを見せたいウィークネス・フォビアを抱える人間から見て、十字架までへりくだる主は確かに愚かかも知れない。しかし、やがて花を咲かせ実を実らせる種に力があるように福音に力があるとしたら恥ではなくなる。
その見た目とは裏腹の福音の潜在能力とは、あらゆる人を救う力である。堕落以降人は神と隣人への誠実さも愛も失ってしまった。しかし福音によって示された神の愛は神と隣人への愛へと私たちを招く。その力にあずかるには、種に力があると信じて地に蒔くのと同じ信仰である。その福音が罪人の私を救ったことを日常の中で世に証して歩もう。
0186 : 2023年10月15日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:23/10/18(水) 18:35:56
ローマ1:11〜15 タイトル「福音を伝える思い」
導入 イスラエル・パレスチナ問題から
1.御霊の賜物を
○ 恵みのカリスマ
〇 互いに、ともに励ましを
2.神の計画によって
○ 福音宣教の実の収穫
○ 人の思いを超えた神の計画
3.負い目
○ 自分でとどめるのではなく
○ 主から託された赦しの福音
要約
パウロは挨拶や祈りの後、ローマに行きたいという理由を記す。まずはパウロに与えられた御霊の賜物をもってローマのクリスチャンを強くしたいという思いである。御霊の賜物は一方的な恵みによって与えられるもの。しかもそれをもって互いに仕え、励まされるための神からのプレゼントである。それゆえパウロもまたローマのクリスチャンから励まされたいと願うのである。
しかし異邦人伝道によって新しいクリスチャンの誕生を願っていたパウロのローマ行きの願いは、様々な事情でなかなかかなわなかった。けれども彼はそれすら主イエスの支配のもとにあると受けとめていた。そのことによってパウロは、人の思いや願いを超えて、神の計画だけに従う姿勢を学ばせられたに違いない。宣教のわざは徹頭徹尾主のみわざだからである。
パウロはあらゆる人に福音を伝える負債を負っていた。主がパウロを赦した福音を託したからである。私たちも負い目を主に赦された恵みを託されている。私たちも、互いに仕え、上からではなくむしろへりくだり、喜びをもって主から託された赦しの福音を伝えていく者でありたい。
0185 : 感謝ととりなしの祈り 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/10/10(火) 17:16:21
2023年10月8日 主日聖餐礼拝 ローマ1:8〜10
[導入] 信仰者にとっての祈り
1.感謝
〇イエス・キリストを通して
〇あなたがたの信仰が
2.とりなし
〇ミムネー スコマイ(覚える、心に刻む)
〇神を証人として
3.願い
〇具体的な祈りを祈る覚悟
〇プロセウコマイ(神の声に耳を澄ます)
[説教要約]
信仰者にとって大切な祈りについて整えられいきましょう。
感謝から始まる形式の手紙は珍しくないのだが、パウロはイエス・キリストを通して感謝するとまず記します。旧約時代は動物のいけにえによって献げられていた祈りは、主イエスの十字架を通して献げられる祈りへと道が開かれました。パウロの感謝は、異教世界ローマにおいてイエスを主とする信仰者がいることでした。私たちもまた、主の目から見てそのような存在であると覚えたい。
続けてパウロはローマのクリスチャンのために執り成し祈ります。ここでは「思う」はギリシャ語の「ミムネースコマイ」:覚える、心にきざむという言葉が使われています。私たちはしばしば「祈っていますよ」が単なる挨拶の定型句になってしまうことがないでしょうか。神を証人に立てる誠実さをもってとりなしの祈りを真に献げる者となりましょう。
続けてパウロはローマ行の願望を祈ります。私たちはもし聞き入れられなかったら、と思うと具体的な祈りをすることに覚悟がいるかも知れません。けれども神の前に明確な答えを求めて祈ることはとての大事なことに違いありません。この時の、みこころを求めるパウロの使ったギリシャ語「プロセウコマイ」は、神さまの声に耳を澄ますと解釈することも可能だとも言われる。
神の前に願いを素直に告げ、神の答えを待ち静まる祈りを献げていきましょう。
0184 : 神の福音のために 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/10/09(月) 14:49:31
2023年10月1日 主日礼拝 ローマ1:1〜7
足かけ2年余をかけ読み通した「ヨハネの福音書」を離れ、本日より「ローマ人への手紙」へと進みます。
[導入] マルチン・ルターとカール・バルト
1.著者パウロ
〇厳格熱心なパリサイ人
〇キリスト・イエスのしもべ
2.神の福音
〇イエス・キリストに関する良い知らせ
〇赦しとの恵みと使命への服従
3.ローマの信徒へ
〇共通の愛がもたらす祈り
〇恵みと平安
[説教要約]
プロテスタント教会の歴史にとても重要な転換点をもたらしたローマ人への手紙を読んで行きます。著者は、元パリサイ人でキリスト教への迫害者から復活の主との出会いによって大宣教者へと回心したパウロ。まだ会ったことの無いローマにいるクリスチャンに対し、パウロは自らをイエス・キリストのしもべ(奴隷)だと自己紹介をします。人の評価ではなくイエス・キリストこそが我が主であるとの告白でした。
使徒である彼に委ねられた福音とはイエス・キリストに関する事。主は預言通りダビデの子孫として生まれ、よみがえられた事で神の御子として証されたこと。この福音はあらゆる人々にとって「良い」と言える知らせです。主はパウロの罪を赦し、この福音を伝える使徒として新しい使命を与えられました。私たちも罪赦されて救われただけではありません。主に使命を与えられた主のものとなったのです。それ故にすべての責任を負う重荷から解放されたのです。
神は愛をもって私たちを召したもう方。その共通の土台をもって執り成し祈る関係となるのです。一方的な赦しの恵みと神との関係における平安。それによって私たちは日々新しく主に従う歩みへと遣わされるのです。
0183 : 後悔からの解放 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/10/09(月) 14:07:28
2023年9月24日主日礼拝
[導入]ヨハネの福音書を読んだ期間を振り返って
1.主イエスとペテロ
〇朝食を終えて
〇3度の問いと3度の答え
2.主イエスの意図
〇「愛する」のギリシャ語
〇3度のフィレオー
3.新しい使命へ
〇自分を裁く間違い
〇「わたしに従いなさい」
[説教要約]
本日にてヨハネの福音書を読み終えます。
ティベリア湖畔での食事の後、主はペテロに3度「あなたはわたしを愛するか」と質問をされます。これは明らかに十字架を前にした状況で、3度主を否んだことと関係しているのでしょう。最後の晩餐の際には「死ぬまで主に従います」と口にしていたペテロは自分自身の弱さを突き付けられていたのでした。だから主の問いに対し「私はあなたを愛しています」とは、はっきり答えられなかったのです。
しかし主はペテロの弱さをなじったのではありません。愛すると訳されるギリシャ語には、友愛など双方向の信頼に基づいた愛を意味する「フィレオー」と、一方的な無償の愛を意味する「アガパオー」があります。主は2度ペテロに対し「アガパオー」で愛を問われます。しかし自分の弱さを知ったペテロは「フィレオー」でしか答えられなかったのです。すると主は3度目には「フィオレー」で問われたのです。ペテロの限界を知り主自らが彼の元へ降りてきて下さったのです。
私たちも虚勢を張る必要はありません。自分自身の小ささや貧しさはとうに主がご存知なのです。それでもあなたはわたしを愛するかと主は問われます。私たちの精一杯の告白を期待し、わたに従って来なさいと命じられる。
自分をさばかず、他人と比べず、主に従い行こうではありませんか。
0182 : 徒労から豊かな実りへ 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/09/20(水) 10:38:17
2023年9月17日 敬老礼拝 ヨハネ21:1〜14
[導入] 「なぜヒトだけが老いるのか」
1.テイベリア湖(ガリラヤ湖)にて
〇漁へ行くペテロたち
〇徒労に終わる
2.イエス・キリストとの関係
〇主からの一言
〇主に従う時
3.祝福の基
〇ペテロとユダ
〇主の備えと労(ねぎら)い
[説教要約]
エルサレムで復活の主イエスに出会ったペテロら弟子たちでしたが、ティベリア湖に戻り、彼らは漁に行くことにしました。復活というすばらしい奇跡を目の当たりにはしたものの、彼らには主を裏切ったという負い目があっただろうし、自分たちに主に派遣される資格があるのかという戸惑いもあったのかも知れません。そんな時に人は、自分のこれまでの経験や知識を引っ張り出して何か実りを得ようとするのではないでしょうか。
しかし大事なのは主との関係なのです。弟子たちが何も捕れない徒労に疲れ果てていた時、主は岸辺から声をかけられました。私たちもそんな細き御声を聞くことがあるかも知れません。その時へりくだり素直に現状を認める者でありたいと願う。そして主のみ言葉通りに行う時、彼らは抱えきれない実りを手にするのでした。
ペテロはその声の主が主イエスだと知ると急いで駆けつけるのでした。彼の裏切りはユダのそれと大差はないのだが、自分に絶望する事はせず、とにかく主の愛に信頼したのです。そんな彼を主は労いと収穫を分かち合う喜びの食卓を備え、招いて下さりました。改めて主に従う弟子として下さる主の恵みに感謝し、生涯の終わりまで主に仕えて行こうではありませんか。