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0203 : 今週のエフデ 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/01/25(木) 20:14:36
雪の降る街並みテーマで別週クラスの第二弾です。今週の子どもたちは家の大きさもさまざまな家を作り、賑やかな街並みを作っていたのが特徴的でした。透明な折り紙を使ってつららを屋根から垂らした子も。今日も寒い甲府盆地でしたが、風邪を引かないように元気に過ごしてもらいたいと思います。

0202 : 2024年1月21日主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/01/23(火) 16:28:10
ローマ3:19〜20 「口をふさぎ静まれ」

すべての人間が罪の下にあることをパウロは指摘し、ユダヤ人に委ねられた神のことばもそう言っていると述べた。しかしその引用元をみる と、それは異邦人の罪を指摘しているのではないか、ユダヤ人に向けら れたことばではないとの反論が予想される。しかし神のことばは他者の 罪を指摘するために委ねられるものではない。あくまで読者自身の問題 として受けとめ読まれるべきである。
それゆえ神のさばきの前には、神を知っていようが知っていまいが、 ひとりの例外もなくこれまで存在した人間も含めすべての人間が言い 訳なく罪人だと判断されざるをえない。人の目には立派に見える人もい るかもしれない。が、恐らくその人々こそ自分の不足を自覚しているの ではないだろうか。つまりいずれにしてもすべての人は自分の正しさに ついて口をつぐむしかないのである。
ユダヤ人に律法、つまり神のことばが与えられたのは、律法を守る義 を与えるためではない。むしろ罪の自覚をさせるためである。しかし、 そこで私たちの自己正当化の鎧と剣を脱ぎ、口を閉じるとき主は福音を 語られるのである。自らの救いが不可欠な罪人たるを素直に告白しよう。
0201 : 今週のエフデ 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/01/18(木) 19:28:11
今日は雪の降る街並みの作品を作りました。今日の6年生は小学校でスキー教室だったそう。甲府盆地内は雪が全く降っていませんが、今日のスキー場の景色を思い出しながら作品を作っていたのではないでしょうか。作りながらスキーの話をたくさんしてくれる子がいました。みんないろんな個性豊かな家をデザインしてくれました。

0200 : 2024年1月14日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/01/18(木) 19:18:15
ローマ3:9〜18 タイトル「義人はいない」

私たちは神の怒りに対して、自分だけは大丈夫と安心していないだろうか。しかし私たちは他と比べて何もすぐれているところはなく、すべての人が罪の権威の下にあるとパウロは指摘する。罪を意味するギリシャ語はハマルティアといい、原意は弓矢の「的を外すこと」「目標に届かないこと」である。つまり私たちは例外なく何をしても神のみこころにかなう正しさに到達することはできないのである。これはあえて神に背く事だけに限らない。たとえ私たちが良い動機をもって良いことをしようとしたとしても、罪の影響下にあって的を外し、決して目標に届くことはない。このことに神の怒りが向けられるのである。
神のことばもそれを裏付けている。義人は一人もいない、と言われる。すべての人が神から離れた結果、ミルクが腐ってしまったように無用となる。そうなれば捨てられるしかない。また、そうした罪人は、ことばと行いが神のみこころとそぐわないという特徴を持つ。私たちも実際当てはまるだろう。その点ですべての人は神の前に平等であり、程度の差は関係なく、すべて神の目から捨てられるべき存在である。しかし、その罪を認めへりくだり神への恐れを持つことが希望の一歩である。救いをもたらす福音を頂く前にまず神への恐れをもってへりくだろう。
0199 : 2024年1月7日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/01/10(水) 16:01:32
ローマ3:1〜8 タイトル「神は真実な方」

ユダヤ人の頼みにしていた律法も割礼も、守らなければ意味がない。その点でユダヤ人も罪人である。ではユダヤ人の優れた点はあるのか。それはなによりも神のことばを委ねられたことである。イスラエル・ユダヤの歴史を記録した旧約聖書によって、人の目に見えない神ご自身とその愛と聖と力と恵みが証されるのである。ユダヤ人はそのために選ばれた民だった。
しかし彼らの歴史はいつも正しく敬虔だったわけではない。ではその不真実な歴史によって神も不真実となるのだろうか。そうではなく、彼らの罪をさばく公平さ正しさによって、神の正義と聖さが証されるのである。私たちクリスチャンも自分の正しさだけが神を証するのではない。罪や過ちがさばかれること、その前にへりくだることも証なのである。
では罪によって神の正しさが証されるとすれば、神は罪で益を得る不実な方にならないだろうか。しかし、それで人の罪が不問に付されるわけではない。あくまで神は真実な方なのである。私たちにとって神の真実は信頼すべきものである。罪過ある私たちであっても、信仰によって到達点は一つ。この一年、主にあって終末を覚える年として歩もう。
0198 : 2023年12月31日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/01/02(火) 11:39:54
ローマ2:17〜29 タイトル「心に割礼を」

アブラハムの子孫であるユダヤ人は、自分たちが神から律法を与えられた選ばれた民であると自負していた。律法によって他の民族とは違うというアイデンティティを持っていたが、次第に律法を持っていることそのものが他の民族よりも優れている点と受けとめてしまう。その結果他民族を見下し、自分たちが教師、導き手であると考えるようになっていた。
しかし律法は持っているだけで守らなければ意味がない。しかもユダヤ人の教師達は守っていないだけではなく、守っていないことを正当化さえして、守るように人々を教えていた。そのようなことばに説得力があるはずはない。そこで異邦人からは、当然のことながら、神の御名が侮られてしまっていたのである。
しかし、選びの民のしるしとしての割礼があるとユダヤ人は主張するかも知れない。確かに割礼は律法に従う者には有益だが、守らない者には意味がない。私たちの洗礼も同じではないだろうか。心の割礼は神の前にへりくだり、自分の弱さや愚かさにも正直になること。今改めて悔い改め、へりくだり、許される確信をもって新年を迎えたい。
0197 : 2023年12月24日クリスマス礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:23/12/24(日) 13:06:17
ルカ2:8〜20 タイトル「あなたがたのための救い主」

アドベントの間待ち望んだ2023年のクリスマスを迎えられ、感謝。主が誕生された夜、羊飼いたちに御使いが現れる。羊飼いというと牧歌的な雰囲気をイメージするかも知れないが、実際はキルケゴールの父が神を呪うほど仕事は過酷で、律法を守れず人々からも罪人と呼ばれていた。御使いの出現に神の怒りを感じ非常な恐れを抱いたのも無理はない。
しかし御使いは救い主の誕生を知らせ、それはすべての民の喜びのためであると同時に、自分の罪のために神の怒りを恐れていたあなたがたを許すため、と告げる。また、その神の偉大な愛をたたえるとき、強い軍事力による平和ではなく、神と自分との間の平和・平安から、隣人との地上での平和も生まれ出る約束が与えられたのである。
自らを罪人とへりくだる者にクリスマスの祝福の喜びは大きい。羊飼いたちは実際に御使いの告げられた通り飼い葉おけの救い主を見つけ、神を賛美して喜び帰って行った。キルケゴールが記した「死に至る病」にも、自分のあるべき姿との乖離の絶望は、世に下り死んでくださった神を信じることでのみ解決できるとある。私たちもこのクリスマス、羊飼いの喜びをともに味わいたい。そして平和を作り出せるように。
0196 : 2023年12月17日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:23/12/18(月) 18:42:11
ローマ2:7〜16 タイトル「キリストによるさばき」

罪人の不敬虔と不義に対する神の怒りは、いつくしみの忍耐の期間があるとは言え必ず下される。神は完全に公平で、善を行うことができるなら祝福がある。が、交差平行法が用いられ、悪に対する怒りもまた公平に下される、というのがここの強調点である。そこにはユダヤ人であるからとか、ギリシア人だからという区別もない。
しかし、十戒を始めとする文字としての律法が与えられなかった異邦人はどうか。そもそも違反するルールがなければ違反そのものがないのではないだろうか。しかしパウロは、すべての人が神に造られた証としての良心が異邦人にとっての律法だという。確かに律法がなくても正しい事、悪い事の基準をあらゆる人は心の内に持っている。それによって異邦人はさばかれる。
では律法を持っていても持たなくても弁解なく神のさばきがくだるとしたら、すべての人は神の怒りを受けて滅びる絶望しかないのか。しかしパウロはさばきの言及の中で、キリストによるさばきの福音の一端を示す。滅びるべき罪人と正しい神の間にキリストが立ってくださるのである。アドベントの残りの期間、救い主の到来を心から待ち望もう。
0195 : 2023年12月10日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:23/12/12(火) 12:08:35
ローマ2:2〜6 タイトル「悔い改める心を」

アドベントは古来悔い改めの期間であり、悔い改めを表す紫の色がよく用いられる。その期間にふさわしく自分自身の罪深さと悔い改めを覚える時としたい。1章の後半で異教徒の罪を指摘したパウロは、信仰者もまた同じだという。つまり全人類が神の前に罪人なのだ。しかし、すべての人が罪人というとき、その罪の責任が分散されてしまわないだろうか。神の怒りは、1人ひとりが神の正しいさばきによって下る。ほかのだれでもなく私自身が神の前に罪人であると覚えたい。
しかし神の怒りは日々実感するようなものではないかも知れない。けれどもそれは神が怒っておられないということではなくて、神はいつくしみにより忍耐し、私たちが悔い改めるのを待っておられるのである。放蕩息子のたとえにあるように、神のいつくしみ深さが先行し、放蕩息子の悔い改めが成立している。
いつまでも猶予期間が続くのではない。神の祝福をいただけると信じていた信者も悔い改めなければ神の怒りを積んでいる状況である。自分は大丈夫というのは偏見にすぎない。神のみこころはただ悔い改めること。私たちを抱きしめるため御子を与えた神の愛を覚え歩もう。
0194 : 2023クリスマスコンサート 名前:caiaphas@管理人 投稿:23/12/09(土) 19:32:27
今日カナリアホールにてクリスマスコンサートを行いました。TrueVine、Noahさんの賛美と証の歌声に来会された皆さんが感動しておられたようです。新聞折込等チラシを見てこられた方もいらっしゃって、幸いなコンサートでした。

0193 : 2023年12月3日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:23/12/07(木) 13:01:59
ローマ2:1 タイトル「他人をさばく私こそ」

導入 救い主の到来を待ち望む態度

1.神の怒りの向かう先
  ○ 異邦人だけではなく
  〇 ユダヤ人の特権意識

2.弁解の余地はない
  ○ 他者の罪に気付く人
  ○ 何が同じか

3.罪に対して
  ○ パウロの告白
  ○ さばく者ではなくとりなす者に

要約
今年もアドベントに入った。アドベントは救い主の到来を待ち望む期間だが、2000年前の主の誕生をのみ待ち望むのではなく再臨を待ち望む時でもある。そのために必要なのは悔い改めである。
神の怒りは、神を被造物に替えてしまい、してはならないことをしている異邦人に向けられていた。しかしパウロは自分はまことの神を知っていると高ぶるユダヤ人も同じだと述べる。何が同じかというと、他者の罪や悪に対してさばくことによって、自分も同じことをしているという点である。偶像礼拝の罪は、自分を神とすることでもある。アダムとエバが善悪の知識の木の実を取って食べたように、まことの神だけにある善悪をさばく権威を自分のものとした時点で、神ではないものを神とすることと同じなのである。
では彼らの罪を指摘したパウロはどうか。パウロ自身自分が救いようのない罪人であることを告白している。すなわち神の怒りについて、自分は関係ない、と言える人間は例外なく誰ひとりとしていないのである。罪を指摘すること自体が悪なのではない。自分も罪人である自覚を忘れず、主の救いにすがりつつ、さばく者よりもとりなす者でありたい。
0192 : 2023年11月26日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:23/12/07(木) 13:00:33
ローマ1:24〜32 タイトル「神を知る価値」

導入 救いの価値を知るために神の怒りを知る

1.「神の怒り」の誤解
  ○ モラハラ?
  〇 罪の罰は罪

2.自然な関係を捨てて
  ○ 与えられた欲求
  ○ みことばが指摘していること

3.神を知る価値を認めない姿
  ○ 無価値な思いに引き渡され
  ○ 「神がないなら」

要約
パウロは神の福音がもたらす喜びを覚えるために罪人への神の怒りを書き記していく。もしかすると神の怒りについて私たちは誤解するかもしれない。自然災害や病気などの災厄が神の怒りではないか、と。しかし突然前触れもなくそのようなことを起こす神はモラハラ夫のようなものだろう。まことの神の怒りは弁明できない正当なもの。また、神は欲望のままに引き渡されるとある。むしろ自由に感じるかも知れないのである。決して平安と満足のない自由であるが。
人間の欲望そのものは神から与えられたもので、決して汚れていない。しかし歪ませて貪るときに汚れとなる。この箇所は同性愛を一律禁じているように見えるが、時代背景を考えるとローマのあまりにも性的に堕落した状況があった。そこに焦点をあてパウロは批判しているのだろう。
神への不敬虔は隣人への不義に行き着く。神はさらにその罪へと引き渡される。神を知ることを無価値と考えるなら、あらゆる善行は無価値になり、あらゆる不義はし放題になるだろう。世界の悲劇的な状況を見ると神の存在に疑いを持ちたくなるかもしれない。しかしその瞬間善も意味がなくなる。まず神にへりくだり贖いの恵みにあずかろう。
0191 : 2023年11月19日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:23/12/07(木) 13:00:03
ローマ1:19〜23 タイトル「神に弁解できるか」

導入 アンガーマネジメントから考える「怒り」のイメージ

1.正しい怒り
  ○ 罪人の怒りと神の怒り
  〇 被造物による啓示

2.神を引きずり下ろす
  ○ 召使い的神
  ○ まず求めるべきもの

3.価値の倒錯
  ○ 自作の神による満足
  ○ キリストが生まれた意味

要約
「怒り」がネガティブな感情ととらえられやすい現代「神の怒り」と聞くと、私たちは心に壁を作ってしまいやすくなるかも知れない。しかし、私たち罪人が抱く怒りは不当な場合も多いが、神の怒りは正当なものである、とパウロはいう。というのも、神について知りうることは被造物によって啓示されているからである。事実、神の偉大さや、神が善と愛を願う事はクリスチャンでなくても知る事ができる。その意味で私は聖書を知らないということは神への弁解にならない。
しかし神を知っていながら神を神としない罪人は、神を神の位置から引きずり下ろし、自分の都合のいいことをしてくれる召使い的存在におとしめている。しかしそれで手に入るのはむなしさでしかない。主は「神の国と神の義をまず第一に求めよ」といわれた。本当の幸いと平安は神を神とし公義を働くことを第一とする時に与えられるのである。
神を求める人間の本能ゆえに、神を否定することまでできない人間は、神以外のものを神とし、価値観を倒錯させ、自分の価値まで貶める。しかし、罪人に対する神の怒りを代わりに背負うために主はこの世に来てくださった。救いの恵みを覚えつつ悔い改めに導かれよう。
0190 : 2023年11月12日子ども祝福礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:23/11/14(火) 18:51:03
マルコ10:13〜16 タイトル「神の国にふさわしい者」

導入 山上憶良「銀も金も玉も何せむに勝れる宝子に及かめやも」

1.連れて来られる子ども
  ○ 子どもの儚さ
  〇 叱る弟子たち

2.主の憤り
  ○ 激しい怒り
  ○ 神の国

3.祝福を
  ○ ピグマリオン効果
  ○ 良いことばをもって

要約
子どもは宝と呼ばれるが、いつでも普遍的な概念ではなかった。当時未熟な人間としてしか見られなかった子どもが、主イエスのもとに連れて来られる。医療等不備な時代で生存率もままならない子どもたちの祝福を心から願う親や大人たちの思いからだったろう。しかしそれを弟子たちは叱る。忙しい主を煩わせたくなかったかも知れないし、律法を守れていない子どもの汚れを避けようとしたからかもしれない。
ところが主は他であまり見られないような激しい憤りをもって弟子たちを制せられた。神の国は子どもたちのような者にふさわしいからだといわれる。子どもたちが無垢できよらかだからではない。そもそも神の国とは、神の支配のことである。子どもたちはその神の支配を自然に受け入れる事ができるからである。
子どもたちが受け入れ信頼する主は、触れてください、という願いをこえて祝福を与える方である。「祝福する」とは良いことばを語るということ。ピグマリオン効果では、人は自分にかけられた良いことば、期待されたり積極的なことばによって良い影響を受けるという。ましてや神の祝福は子どもたちに計り知れない力をもたらすに違いないだろう。
0189 : 2023年11月5日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:23/11/08(水) 11:24:49
ローマ1:18 タイトル「神の怒り」

導入 イスラエルのガザ空爆に思うこと

1.神の恵みと怒り
  ○ 「というのは」
  〇 罪が分からなければ恵みも

2.真理を阻む人
  ○ 阻む・・押さえ込む
  ○ 不敬虔と不義

3.啓示された怒り
  ○ 怒り=災い?
  ○ 神の怒りを負ってくださった方

要約
世界で起こる争い事と私たち自身の罪は地続きであると捉えるべきだろう。神は私たちの罪を問題にしておられる。16〜17節で福音の恵みが語られたが、18節になって人間の不義への神の怒りが語られる。話題が変わったのではない。「というのは」と接続詞でつながれる。罪が理解されなければ私たちの救いもまた理解できないのである。
私たちは不義をもって知っているはずの真理を心の奥深くにしまいこみ、見ないように聞こえないように振る舞ってしまう。自分勝手な都合によって神を持ち出したり無視したりする私たち。そうした真理を阻む生き方から、神に身をかがめない不敬虔や、人に対しても不誠実、不義が表れてくる。一般に罪と呼ばれることも、突き詰めれば神をしまい込み見えないふり、聞こえないふりをする問題に突き当たるのである。
そんな私たちを、神は怒られる。しかし災害や禍などがすべて神の怒りなのではない。覆いを取りのけられて天から啓示された神の怒りは、むしろ人を自由勝手な生き方に追いやることすらある。しかしその行く末は永遠の滅びなのだ。主イエスはその神の怒りを身代わりに負われた。罪を悔い改め、主の十字架の贖いに感謝し聖餐にあずかろう。
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