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0165 : 今日のエフデ 名前:caiaphas@管理人 投稿:23/07/06(木) 19:11:04
涼しかった昨日から一転、今日は暑かった!そこで今日はスケルトンうちわを作りました。うちわの骨組みを切り取り、デザインしたプラバンを貼り付け、透明で涼しげなうちわ完成。2枚のプラバンの間にはラメもたっぷり投入し、キラキラ光るうちわができました。接着剤が完全に乾くまで扇げなかったけどみんなステキな作品を持って帰りました。

0164 : 2003年06月18日主日礼拝 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/06/20(火) 04:59:01
ヨハネ19:1〜16 「まことの我が主」

導入:6月に成立した2つの法案
1.ピラトのダブルスタンダード
 〇3度の無罪宣告
 〇むち打ちの意図
2.ピラトの恐れ
 〇神の子かも知れない
 〇本当の権威
3.この人を見よ
 〇十字架に追いやったもの
 〇王とあがめて

説教要約:
 ローマ総督ピラトは先週の箇所も含めて3度、主イエスを無罪と宣言します。つまり完全に無罪だと宣告したことになるのです。しかし、それにも関わらずむち打ちを行いました。ここに彼のダブルスタンダード(二律背反)が見られるのですが、彼とすればむち打ちを受けて無惨にも傷だらけとなったイエスを見れば、群衆は落ち着くと考えたのかもしれません。
 しかし、なお一層想定外に群衆の興奮は収まらずエスカレートするのでした。群衆らはローマへの反逆罪の適応が難しいとみると、今度はイエスは神の子と主張したと訴えるのでした。これを聞いたピラトは実際に恐れを覚えるのでした。しかし彼はその恐れを自分の権威を振りかざすことによって解決しようとしてしいました。ピラトは異邦人なのである意味仕方がないとも言えるでしょう。では私たちはどうだろうか。ユダヤ人は真の権威者が誰であるか知っていたはずなのですが。
 異邦人とは違い神の聖なる民を自負するユダヤ人は、結局ローマ皇帝を我が王と呼ぶに至ります。ピラトやユダヤ人のダブルスタンダードの罪ゆえに主には十字架刑が決定されます。ピラトが口にした「見よ、この人だ」の言葉に私たちは何と応答するだろうか。まことの王を信じあがめ、神と隣人を愛し正義を求めて歩みましょう。

 

0163 : 2023年 6月11日 主日礼拝 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/06/15(木) 01:48:20
ヨハネ18:38b〜40 「イエスではなく、バラバを」

導入:インターネット上の炎上事件
1.ピラトの保身
 〇無罪と判断したにもかかわらず
 〇優柔不断な提案
2.ピラトの想定外
 〇バラバという人物
 〇群衆の手の平返し
3.キリストの贖い
 〇バル・アッパ(息子・父)
 〇贖いの子羊

要約:
 ピラトはヘロデ王(ルカ23:6-11)から再びイエスの身柄を受けて。改めて主イエスの無罪を宣言しました。その動機は一貫して自分の身の保身のためであったのでしょう。しかし彼は主の無罪を貫き通せず、釈放のための策を講じます。過ぎ越しの祭りの際に恒例だった罪人の恩赦を行い、民衆の声によって主イエスを釈放しようとしたのでした。正義よりも保身を優先するが故の優柔不断さがうかがえる提案でした。ピラトは当然民衆はイエスを釈放するよう願うと思ったのでしょう。
 しかし、ピラトの目論見とは裏腹に民衆はバラバの釈放を願うのでした。バラバとは本名をイエスといい、強盗あるいは先導者、その他殺人や暴動事件を起こした人間でありました。数日前に「ホサナ」と主を迎えたにも関わらず祭司長たちの扇動に煽られ、いとも簡単に殺人に加担する民衆(群衆)たちの姿は、まるで自分たちを映している鏡のようで恐れすら感じるのではないでしょうか。
 まさに私たちは殺人者バラバでもあるのです。バラバとは「父の子」という意味があります。そのバラバの身代わりに、罪も傷もない主イエスが十字架にかかられる。私たちはそうして神のさばきを免れる救いを頂くのです。その恵みを受けた者として、愛と正義に生きるものでありたいと願います。
0162 : 2023年 6月 4日 主日聖餐礼拝 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/06/08(木) 17:00:50
ヨハネ18:33〜38a 「わたしを誰というか」

導入:使徒信条のポンテオピラトという人物
1.誰が言っているのか
 〇面倒なこと
 〇ピラト自身の告白は
2.ピラトの関心事
 〇イエスは何をしたのか
 〇主はあなたにとって誰なのか
3.王である主イエス
 〇地上の王との違い
 〇真理とは

<説教要約>
 主イエスの身柄を引き取ったローマの地方総督ポンテオピラトは、ユダヤ人の面倒事をさっさと終わらせようとするかのように、単刀直入に主に対し「あなたはユダヤの王か?」と問います。ピラトは「ハイ」でも「イイエ」でもこの問題はすぐに切り上げられると思ったのだろうか。しかし主から「それはあなたの質問か、他人からの質問か?」と逆に問われます。私たちも自分の告白して責任をもって主を誰と言うか問われる機会があるのです。
 けれどもピラトはその質問にも重ねて質問で答え、イエスは誰であるかではなく、何をしたかに焦点を当てようとするのです。あくまでも彼の関心は今の地位を守り、ローマでの評判を上げることだったのです。しかし主はあくまでも地上の権力とは無関係であることを証されます。使徒信条では主の生涯の活動については触れられていません。むしろ「誰」であるかに焦点が当てられています。それを私たちは自らの信仰告白としているでしょうか。
 地上の権力とは関係が無いと理解したピラトでしたが、主が語った真理には無頓着でした。
主ご自身の真理には向き合わず、真理なんて一体なんなのか、と一般論に転じて目をそらしてしまうのでした。主は私にとって誰か。「我は信ず」と告白す使徒信条を覚えながら今日の聖餐式にあずかろうではありませんか。
0161 : 2023年 5月14日 主日礼拝 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/05/15(月) 10:43:15
<お知らせ> 次週21日は、母教会の恋ヶ窪キリスト教会との講壇交換にて、柿島師が。メッセージを 取り次がれます。

<導入>映画「ちいさな独裁者」の主人公ヴィリー・ヘロルト
1.アンナとカヤパ
 〇大祭司
 〇からっぽの権力
2.ペテロの否認
 〇もう一人の弟子
 〇からっぽの権威に対して
3.まことの権威を持つ方
 〇無言と明言
 〇不正・不当に対して

<説教要約>
 ヨハネの福音書のみが、主イエスが逮捕後連れて行かれたのはアンナスの所であったと記します。アンナスはかつて大祭司であったが引退し、その年の大祭司はカヤパなのでした。アンナスはカヤパの舅としての立場を利用し実質的な権力を握っていたのでしょう。つまりアンナスもカヤパも本来律法が定める大祭司とは異質でうつろな権力を持って(行使して)いたのだということを、ヨハネは強調しているのです。
 主の逮捕の際逃げ出した弟子たちでしたが、ペテロはもう一人の弟子とともに大祭司の家の中庭にやって来ます。もう一人の弟子とは伝統的にヨハネ自身だと解釈されてきました。そこでペテロは、門番をしていた召使の女に主イエスの弟子ではないかと問われ、「違う」、と否定します。虚ろな権力に対してであっても人は恐れ怯える者。ペテロだけではない。大祭司と知り合いだったヨハネもまた人の権力を恐れていたのです。
 しかし真の大祭司である主イエスは、アンナスの尋問に対しても黙るべきは黙り、語るべき事はひるまず語られました。また不当な仕打ちに対しても、毅然と正義を主張されたのです。私たちは人ではなく、変わらずまことの権威を持っておられるこの方を恐れつつも、信頼し歩みを進めましょう。
0160 : 2023年 5月 7日主日聖餐礼拝 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/05/14(日) 14:36:28
<導入> その人の本性が現れる時
1.受難の中にあって
 〇祈る姿
 〇神の権威
2.私たちに代わって
 〇弟子は去らせなさい
 〇十字架の意味
3.服従する姿
 〇ペテロの剣
 〇杯を飲み干す

ヨハネ18:1〜11 「輝き出る本質」
<説教要約>
 多くの人は危機的な状況に置かれて、隠された本質が現れると言われます。
ヨハネ18章から、主イエスは逮捕、裁判、拷問、十字架へと向かわれる。その緊迫した状況の中で主はいつものようにゲッセマネお園で祈られます。さらに、ユダに引きつられ大勢で主イエスを捕らえようとやって来る人々に対し、神の御名を口にされる。主は真に神ご自身としての権威を持たれる恐るべき方なのです。
 けれどもまた主は弱く小さな弟子たちを顧みたもうお方でもある。自らの失態の責任を他者や部下に押し付ける権力者は多いが、主は弟子たちを去らすように命じられたのです。そもそも十字架は、何の罪も汚れもない神の御子である主が、罪に汚れた人間にさばきが及ばないように、自ら進んで身代わりに刑罰を引き受けて下さるものなのです。今日の聖餐式においてその贖いのわざを覚えましょう。
 ペテロは慌てふためき剣で応戦しようとしますが、主はそれを止められました。主は父が注がれた杯を飲み干すことによって全き信頼を示されました。これらの姿は、普段もそして危機的状況でも変わらず現れる主の本質なのです。この信頼できる方に私たちも倣い従って行きましょう。
0159 : 2023年 4月30日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/05/01(月) 13:24:41
  ヨハネ17:20〜26「世が愛を知るために」

<導入> 「祈られる」ことの印象について
1.この人のためでなく
 〇 一つに
 〇 三位一体に似せて
2.世が知るため
 〇 世へのあかし
 〇 ともにいるように
3.とりなしの祈り
 〇 祈りのまとめ
 〇 主と祈りをともに

<要約>
 主は祈りの締めくくりに、弟子の宣教によってこれから信じる人々のために祈られた。 
それは、彼らが一つになるように、という祈りでした。単に見た目や行動が一致するというのではなく、御父と御子が一つであるように、と言われました。三位一体の神に似せて造られた人間は、個性も賜物も違うのに一致できるはず、そうで出来ずに痛みがあるのは罪に堕落したからなのです。
 確かに一つであることは、クリスチャンがなすべき証だろう。神が御子と永遠のいのちを与える程に世を愛されていることを、世に知らせたいと主は願っておられるのです。それは主も世を愛しておられるからです。世は罪に堕落しているが、それでも主は私たちとともにいたいと願われるのです。十字架をご自分の栄光と呼ぶ愛は確かなものなのです。
 17章全体の祈りを締めくくられた後、主はいよいよ十字架に向かわれる。私たちは2000年前に概に主により祈られていることを覚えましょう。世に対する主の思いがそうであるのなら、私たちもまた世のために執り成し、これから救われるたましいのために主と思いを一つにし祈る者でありたいもの。祈られる幸いと喜びを証しながら。
0158 : 2023年04月23日主日礼拝 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/04/24(月) 10:43:25
ヨハネ17:6〜19 「祈られて歩む道」

 ヨハネ17章は、主ご自身のための祈り(6-5)、弟子たちのための祈り(6-19)、教会のための祈り(20-26)で構成されています。
 
 導入 日本人と欧米人の挨拶の違い
 1.大祭司として
  〇 神の御名を現した
  〇 失敗ではなく
 2.弟子による栄光
  〇 お守りください
  〇 「世から」ではなく「世にあって」
 3.祈られて
  〇 み言葉による聖別
  〇 天での執り成し

<要約>
 欧米での挨拶(Good morning) は、日本の事実描写(相手の気分、状況変化に関わりがない)の挨拶とは違い、相手のために祝福を願う(I wish)祈りだと言われます。それはキリスト教の信仰が生活の背景にあるからではないでしょうか。主イエスは十字架の前の長い祈りの中で、大祭司のように弟子たちのために執り成し祈られました。主イエスを見て父なる神を見ることが出来た弟子たち信仰を主は喜ばれます。彼らの失敗をあらかじめ知りつつも、その信仰に目を向けられる主の恵みを覚えましょう。
 さらに主は、弟子によって栄光を受けた、と言われます。つまり主にとって弟子たちは誉であり誇りであったのです。それ程の恵みを注がれている弟子たちだからこそ、主はご自分が地上を去った後の弟子たちのため悪から守られるようにと祈られます。迫害の世を去り悪にまみえないように、ではなく、世にあって悪の中にあっても守られるように、です。
 主が弟子たちを「わたしのもの」と言われる資格の根拠は、弟子たちにではなく、真理のみことば、つまり十字架と復活のみこばにあるのです。弟子たちのために命を捨てよみがえられた主が弟子たちのために祈られたのです。私たちもその事実に感謝し、また互いにとりなし祈る者として今週も歩みましょう。 
0157 : 2023年 4月16日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/04/17(月) 10:57:59
桃の花も終わり、周囲に淡い緑の色が競っています。皆様が健康で、主が造らた自然の恵みに感謝する毎日を送くることが出来ますように。

ヨハネ17:1〜5 「父と御子の栄光」

 私たちが祈る「主の祈り」ではなく、主イエスご自身の心の中の祈りの言葉がこれほど詳細に長く記されている箇所は、ヨハネ17章を置いては他にはありません。
主は教えを語り終えて祈られました。弟子たちへの教えが実を結ぶことを思っての大事な祈りだったのでしょう。子の栄光が現れるようにと願う祈りは、子が父の栄光を現すためという目的でありました。私たちの祈りは、どこに目を向け、何のために祈る祈りだろうかと問われるところです。
 主はすべての人を支配する権威を父から与えられた、と言われます。支配というと窮屈な印象を持つかもしれません。が、罪の世においての支配と混同してはならないのです。主は誰よりも低くへりくだられ、私たちに永遠のいのちを与えたもう。その支配に移されたのです。永遠のいのちとは、イエス・キリストに現れた父なる神の愛を体験的に知り経験することなのです。造り主から存在を許され愛されることの恵みは、まさに永遠のいのちを満たす事に他なりません。
 十字架のわざを成し終えた後、主イエスは父による復活と昇天・神の右の着座による栄光を願われました。まことの神の御子にしかできない祈りでありました。私たちは愛を注がれている者として感謝をもって日々を歩みましょう。
 
0156 : 2023年 4月 9日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/04/10(月) 10:45:51
 本日は、イースター聖餐礼拝でした。神の愛による救いの成就には、主イエスの十字架と復活がセットとなっていることが重要でした。
 
 ヨハネ16:25〜33「勝利者イエス」

 パウロが語ったように、主イエスの復活は文字通り起きた事実として受け止めなければ、私たちの信仰はむなしいものとなります。これまで主イエスはたとえを用いて神の偉大さと栄光、愛と恵みを教え、わざによって証してこられました。それは十字架と復活を指し示すものでした。すなわち十字架と復活はたとえでないこと。その事実こそ父なる神の偉大さと栄光、私たちに向けられた愛と恵みそのものでした。
 弟子たちは「今、わかりました。信じます。」と告白します。しかし未だ十字架と復活が起きていない「今」という時点で、果たして本当に彼らは理解し信じたのでしょうか? 主はむしろそう告白する弟子たちの躓きを予告されるのです。だがしかし主は絶望しておられない。それは父なる神が死を超えて共におられるという希望があるからでした。
 主はそのご自身の希望をもって弟子たちを励まされます。苦難とは結局のところ死と孤独に通じるもののことなのでしょう。十字架はまさにその極みですが、主はそれに勝利し、私たちにも平安と勇気を与えたもうのです。イースターの恵みは、私たちの代わりに成し遂げられた主の勝利に私たちも与ることです。苦難にあっても主を褒め称え、平安と勇気をもって歩もうではありませんか。
0155 : 2023年0 4月02日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/04/04(火) 10:38:24
ヨハネ16:17〜24 「悲しみは喜びに」

 「もうしばらくするとわたしを見なくなり、またしばらくするとわたしを見る。」、と主から言われた弟子たちは、何のことか意味が分かりませんでした。数日前に「ホサナ」とエルサレムに迎入れられ、いよいよ王の即位かと期待が高まった分、当惑も大きかったことでしょう。主が見えなくなる、つまり十字架の死は、世とサタンが勝利したかのように見え、彼らは喜ぶかも知れません。しかし、本当は主とその弟子たちの喜びとなるのです。         
 この喜びの真意について、主は出産の際の陣痛に例えられました。子を産む女性は激しい痛みを経験するが、産まれてしまうと新しい命の誕生への喜びがその痛みを覆ってしまうと言われます。同じように主の受難は激しい。そして世とサタンは、救い主や信仰など何の意味もないと私たちに思わせたいでしょう。しかし、その受難によって罪人の私たちもたらされる神の愛に対する確信が、十字架によって与えられるのです。十字架は世とサタンに対する逆転の勝利となる訳なのです。
 そこでもたらされる喜びは、十字架が神の愛の決定的証拠となるため、愛を疑う問いを持つ必要は一切無くなる喜びと替わるのです。また動物のいけにえを通してではなく、いつでもどこでも父なる神に祈れる喜びでもあります。主の受難を覚え、自らの悔い改めと感謝の週を過ごしましょう。
0154 : 2023年 3月26日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/03/29(水) 11:52:10
ヨハネ16:12〜16 「真理の御霊によって」

 イエスは、弟子が受ける迫害について語られた後、「まだ話すことはあるが、今はあなたがたはそれに耐えられない。」と言われた。迫害についての覚悟や心構えは大事であるが、恐れのあまり萎縮してしまう弟子たちへの配慮だったようです。しかし「今は」なのです。御霊が来ると、御霊は十字架についての真理へと弟子たちを導くから、と主は言われました。
 御霊の現す栄光は、人からの場合『誉れ、名誉』とも訳される。がしかし、ヨハネの福音書ではほとんどが十字架の受難と復活に関連づけられているのです。十字架とは、最悪とも言われる苦痛と、徹底的に人の尊厳を奪う処刑方法であり、人々はその言葉を口にするのもはばかる程でした。しかし主はこれを「栄光」、と呼ぶのです。それを信じることは、人間の知恵や経験からは不可能なこと。だからこそ御霊が働いてくださるときにのみ、それが神の救いの計画の成就だと信じることが出来るのです。
 「しばらくするとわたしを見なくなる。またしばらくするとわたしを見る。」、と言われたのは十字架の復活のこと指すのでしょう。「しばらく」はギリシャ語で小さいを意味する言葉「ミクロン」。受難に栄光が現れ、試練に主の恵みが現れるのは私たちが思うより短いのではないでしょうか。
0153 : 2023年03月19日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/03/19(日) 16:06:16
ヨハネ16:1〜11 「御霊を助け主として」

 弟子たちが必ず経験するであろう迫害について語ったのは、彼らが実際に迫害に会ったときにつまずかないため、と主は言われます。サタンは迫害を用いて主の弟子たちをつまずかせ、信仰を失わせようとしてくるに違いないからです。詐欺被害に遭わないためにその手口を知る事が有効であるのと同じように、迫害について知ることは大事なこと。サタンの誘いに惑わされるその先には、取り返しのつかない被害があることを覚えたいものです。
 主イエスが共にいる間は、弟子たちは迫害についてそれほど実感することなく過ごせた。けれども主の十字架の後は、弟子たちが直接迫害を受けることになるのです。それを知った弟子たちの意気消沈ぶりが主の言葉(6節)から伺えるのですが、しかし主はそうした弟子たちをなじったり非難したりはなさりませんでした。
 しかも主が去って行かれた後に、助け主としての御霊が遣わされる約束を重ねてして下さるのです。御霊はいつでもどこでも弟子と共におられ、真の罪、義、さばきについて明らかにして下さいます。そうして私たちが迫害によって信仰を失わないように、本当の勝利はサタンにではなく父子御霊にあることを信じさせてくださるのです。
0152 : 2023年03月12日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/03/19(日) 15:37:46
ヨハネ15:18〜27 「世から憎まれるとき」

 主イエスが、主に従う弟子には必ず迫害が伴うとおっしゃった通り、キリスト教の歴史は迫害の歴史でした。世は身内なら大事にし、それ以外なら拒み疎外するでしょう。それと同じように、キリスト者に対してもそのようにするからなのです。また、師である主イエスが世から憎まれ十字架につけられたなら、その弟子が世から憎まれないことはあり得のです。
 クリスチャンに対する迫害は、クリスチャンの側に原因があるというよりも、世が神を知らないからだと主は言われました。つまり、教会が迫害を回避し宣教を前進させるためにどんなに迎合しようと、福音は広がらないのです。神を知らない、まして知ろうとしない世に原因がある限り、私たちが信仰を捨てる以外に迫害をやめさせることは出来ないでしょう。むしろ迫害はみことばの約束の成就ですらあるのですから。
 であれば、御霊が助け主として下るという約束もまた確かなことばなのです。御霊は私たちが苦難に会うときも共におられ、三位一体の神が共に担って下さるのです。福音は迎合ではなく、御霊と御霊に満たされた弟子の証によって広められていきます。迫害を避けるために私の罪のために死なれた主を裏切ることのないよう、御霊に満たされた愛を実践していこうではありませんか。
0151 : 2023年 03月05日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/03/06(月) 10:43:57
ヨハネ15:12〜17 「友なるイエス」

 「互いに愛し合いなさい」これは主が何度も重ねて命じられていることです。そして後にヨハネやパウロも手紙の中で同じように命じています。その愛とは、とても具体的に「友のためにいのちを捨てる」愛。それはとてもシンプルな教えでした。しかし、そのような愛は誰も持ち得ていません。ただ一人の方を除いては。
 わたしが命じることを行うなら、と主は言われます。しかし、あたかも交換条件のように、そう出来るのならわたしの友だ、というのではありりません。この「命じる:エントレー」という言葉はギリシャ語では、納得できるように教え、諭して委ねる、というニュアンスがあるのです。もしそうでないなら、それは主人と奴隷の関係になります。が、主は私たちを友と呼び、父の御心を教え、励まし合いながら互いに愛し合いなさい、と命じるのです。
 私たちが主を選んだのではありません。主が罪人の私たちを選び、ご自分につなげ、最高の愛を注いで下されました。この愛に留まるなら、私たちも愛という豊かな実を結ぶことが出来るのです。讃美歌「いつくしみふかき」:英題 What a friend we have in Jesus. の作者は悲しい経験を経つつも主が友である恵みを表現し、多くの人を慰めました。主に愛される恵みを胸に、それぞれ愛を示す場に遣わされましょう。
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