0128 : クリスマスコンサート 名前:caiaphas@管理人 投稿:22/12/04(日) 18:44:49
12月3日(土)に行われたTrueVineによるクリスマスコンサート、とても盛況で多くの方が来会してくださいました。教会のYouTubeページに一部抜粋ですが動画がありますのでよろしければご覧ください。
0127 : 2022年12月04日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:22/12/06(火) 10:20:22
待降節第二礼拝 ヨハネ12:37〜43「だれが信じたか」
主イエスの地上の歩みも残り数日となったこの時、ヨハネはイエスの公的生涯を振り返り総括をします。その間になされた宣教としるしにも関わらず、人々は主イエスを信じなかったと、記しています。御子でさえ伝道が実らなかったと言うなら、私たちの伝道は無意味になるのでしょうか。しかしそれには理由があったとイザヤは預言していました<イザヤ53章>。苦難のしもべがメシアであるなどと、人々は受け入れたくないからです。
さらにイザヤの召命の場面で、人々が聞いても信じないように、と神がイザヤに言われたみ言葉が引用されます。であれば不信仰は神の責任になり、神は不当なことをしているのでしょうか。いや、救いはあくまでも神の御業であることを覚えるべきであります。私が他人や自分を救うのではありません。伝道は主への感謝のみ一点が動機となるべきでしょう。
イザヤは「受難のメシア」を見たのです。それこそ主イエスの栄光でした。ユダヤ人はイザヤ53章を教えの中で半ば捨てていると言われます。しかし嘲ってはなりません。ますますへりくだるべきなのです。ユダヤ人の中で主を信じた者がいたが、人の目を恐れたとあります。神の栄光を求める者でありたいもの。あり得ない救いがもたらされた事を覚えアドベントを引き続き過ごしましょう。
0126 : 2022年11月27日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:22/11/29(火) 09:15:42
ヨハネ12:27〜36 「光あるうちに」
2022年のアドベントに入りました。闇の世に光として来られた主イエスを覚えてこの時期を過ごしましょう。ギリシア人の訪問を受けてご自分の十字架の時を改めて宣言された主は、しかしこの時から救って下さいと受難を前に葛藤を覚えておられます。神の御子は決して苦しみを超越しておられる方ではありません。完全な人として来られた主も迷いや葛藤があるのです。けれども父の栄光を願う祈りをもって父に従われるのです。私たちも決意の強さによって主に従うのではありません。「主の祈り」の冒頭にもある主と同じ祈りをもって神に従うのです。
その時天から響いた神の声を、人々は認識することが出来ませんでした。主イエスが偉大な王であって欲しいという自分たちの理想や願望が強かったからでした。そこで主は改めて十字架と平和の救いを説かれます。
それでもなお無理解の人々に、主は光あるうちに光を信じよと招かれます。実際あと数日で十字架に架かられる主からの、最後の群衆への招きだったのです。私たちにとっても、主を信じ受け入れる機会は永遠のものではありません。信じていれば良かった、伝えておけば良かったとの後悔のないよう、アドベント、クリスマスの時期を過ごしたいものです。
0125 : 2022年11月20日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:22/11/21(月) 09:44:06
ヨハネ12:17〜26 「一粒の麦のいのち」
主は、ご自分がへりくだった柔和な王であることを示すためろばの子に乗られたのだが、なおもラザロをよみがえらせた『しるし』のみを証しし続ける人々がいました。その間違った熱狂を見て、パリサイ人たちは妬みとともに「何一つうまく行かない。」と嘆きます。そもそも彼らの計画の良し悪しはさておき、彼らの視点には神の視点がないことの故の嘆きでありました。私たちは人間的な視点でしか物事を判断してはいないでしょうか。
ここでギリシア人たちがピリポに主イエスに会うための取次ぎを願い出ます。何気ない出来事ではありますが、異邦人の庭までしか入れなかった彼らが、メシアに出会うことを通し、すべての人に救いの道が開かれる時が来たのです。私たちも主と主に会いたい人間の間でどう振る舞うだろうか。主はそのことをもってご自分が栄光を受ける時が来たと宣言されます。
主は麦のたとえを用い、いのちを父に献げることによって多くの人のいのちが生かされることになる事を語られます。私たちは自分で生きているのではなく、主のいのちで生かされているのです。ならば私たちが自分のいのちだけを一番に心配せずとも、神が必ず大切にして下さる。平安と感謝をもって主に仕える歩みに進んでいきましょう。
0124 : 2022年11月13日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:22/11/16(水) 14:32:18
ヨハネ12:9〜16 「ろばの子に乗って」
ラザロがよみがえらされた奇跡を聞きつけ、一目見ようと多くの人々がイエスのとろにやって来ます。それを見た祭司長たちは、ユダヤ人が自分たちの処から去ってしまうことを懸念し、ラザロをも殺そうと計画しました。神と人の間に立って間を取り持つべき祭司長たちであるにも関わらず、人々が神の遣わさしたメシアの方に行くことを嫉妬する異常事態だったのです。私たちもこうした誘惑に陥らないように戒めたいものです。
翌日主イエスがエルサレムに入られると、人々はナツメヤシの枝(以前は棕櫚:シュロの枝と訳されていた)を手に、「ホサナ」と賛美をもって迎えました。主は確かに王であるが、彼らはふさわしく主を迎えただろうか。むしろイスラエルの歴史を振り返ると、異邦人を追い払い、民族の誇りの回復を実現してくれる王として主イエスを迎えたのではないだろか。主がどのような王であるのか。私たちは自分の願望ではなく、神の御心を探り求めて行きたいものです。
主はろばの子を見つけ、自ら乗りたもう。荷物用の家畜の、しかも子ろばに乗る事は、決して見た目に良かった訳ではありりません。しかしそれでも主イエスは神の御子として
父のみこころ通りの王として振る舞われたのです。ならば私たちも神の子どもとして素直に柔和にへりくだって神に従い歩もうではありませんか。
0123 : 2022年11月03日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:22/11/07(月) 10:18:05
ヨハネ12:1〜8 「もてなす心」
12章からヨハネの福音書は、過ぎ越しの祭りへの1週間が描かれる後半となります。その冒頭ベタニアに来られた主イエスは、夕食のもてなしを受けられる。ここでも給仕をしたのはマルタ。ルカ10章では給仕を手伝わないマリアへのつぶやきがありましたが、ここでは恐らくラザロの件への感謝から、進んで自分の賜物を用いて喜び一心に主をもてなすマルタの姿が見えます。
一方のマリアはナルドの香油を、それも成人男性の年収程の価値在る300g以上を惜しげもなく主に注ぎ、その御足を自らの髪でぬぐいました。客へのもてなしにはほんの数滴で十分だし、ましてや人前で女性が髪をあらわにするなど、常識外れに見える行為でした。早速弟子のユダはマリアの行為を批判しますが、しかしユダは主や貧しい人をもてなす素振りを見せながら、自分を肥やす事しか考え当ていなかったのでした。
主はご自身に対するマリアの「今しかチャンスがない」というもてなしの思いを受け止めて下さります。私たちも、周りからなんと思われようが主のため隣人のために仕えるべき時があるのではないでしょうか。それは何より、主がご自身の肉と血をもって私たちを救い、もてなして下さったからです。今日の聖餐式でもその恵みを深く味わいましょう。
0122 : 2022年10月30日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:22/11/02(水) 12:51:24
本日は宗教改革記念礼拝です。
ヨハネ11:45〜57 「闇に消されない光」
主イエスに対する殺害の試みは今までもたびたびありましたが、とうとう最高法院でその決議がなされることになります。神から遣わされたメシアの、偉大なすばらしいしるしとしてなされたラザロのよみがえりでしたが、ユダヤ人たちは主イエスに対する妬みと自己保身から主を亡き者としようとしました。罪の暗闇の深まりです。
その年の祭りでいけにえをささげる大祭司カヤパもまた自身のメシアを拒む罪から、主を亡き者として民全体が救われた方が得策だと発言しました。ところが聖書はこの言葉を、神の救いの計画の成就を示す予言だと告げます。つまり神のご計画は、人の罪やそれを用いるサタンによって頓挫させられるようなものではありません。むしろ人の罪さえ用いるほど圧倒的な力をもって成就されるのです。だから罪は容認されると考えるのは間違いですが、この神の恵みと力にへりくだる者でありたいもの。
いよいよ子羊の血による主の救いを記念する過ぎ越しの祭りが近づく事が告げられます。私たちの救いは子羊イエスの血によります。16世紀にルターはこの恵みの再発見によって宗教改革運動を起こしました。私たちの思いも計画を超えて働かれる神の恵みとともに今週も歩みましょう。
0121 : 2022年10月23日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:22/10/25(火) 10:27:43
ヨハネ11:28〜44「信じるなら神の栄光を見る」
主イエスは村の外におられたまま、マリアを呼ばれました。主は私たちの応答を無視してずかずかと踏み込んでくる方ではありません。私たちに呼びかけ、待つお方です。「主が呼んでおられる。」と聞いたマリアは急いで立ち上がり、主の元へ走ります。マルタと同様、主に限界を設け悲しむマリアではありましたが、しかし悲しみの淵にある時、私たちも主の足もとにひれふす以外に出来ることがあるでしょうか。彼女の信仰の姿勢を覚えたいものです。
主は彼女と人々の涙を見て、ご自身も涙を流される。解釈は色々となされてきましたが、やはり人々を縛る死とサタンの対する怒りではないでしょうか。それ程主の愛は深いことを覚えましょう。けれどもメシアのしるしを見てもなお主イエスにはできない、と決めつけるユダヤ人の反応には怒りを覚えられたのではないでしょうか。私たちも
信仰にふたをする『石』を取りのける必要があります。
主イエスの祈りは神との深い一体性と、証のための祈りであることが分かります。その事を信じることができますように。み言葉をもって死者にいのちを与えるみわざをあがめつつ、ともにいのちに与った者同士、互いに対する愛の交わりと奉仕に今週も遣わされましょう。
0120 : 2022年10月16日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:22/10/19(水) 10:42:20
ヨハネ11:17〜27 「よみがえり、いのちの主」
ベタニアはエルサレムから3Km、イエスがおられたヨルダン川から徒歩で1日の距離にある村。主がベタニアに到着された時、すでにラザロは墓に葬られて四日が経っていました。当時の言い伝えで、死者の魂は死後三日の間そのまわりを漂うと言われていました。しかし四日経ったということは、蘇生の可能性がゼロになった、ということが確定したことを意味します。多くの人が慰めのために集まっていましたが、人間の限界はそこで同情し、寄り添う事だけなのでした。
主イエスが到着されて出迎えるマルタは、主がいて下さったら、と期待が強かった分、主がすぐに来て下さらなかったことに失望している様子ではありました。しかしそれでも、主が求められるなら不可能も可能になると一縷の信仰を握りしめていたのでした。主はその信仰を確かなものにして下さり、過去は変えられないと絶望する私たちに、確かな希望を与えて下さいます。
「わたしはよみがえりです、いのちです。」と宣言される主は、ご自身が神であること、そして未来のいつかではなく、いまマルタの目の前によみがえりのいのちがあることを告げられます。この主にあっては、取り返しのつかない希望は皆無なのです。不十分ながらも主を信じる告白を主は聞かれ、わざを成して下さいます。私たちもためらわず主を信仰していきましょう。
0119 : 2022年10月09日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:22/10/11(火) 13:24:21
ヨハネ11:1〜16 「神の栄光のため」
11章では、ヨハネの福音書にある7つの奇跡の最後が記されています。エルサレムに近いベタニアが、マリアとマルタの村であった、と言われるほど主イエスにとってこの兄弟姉妹たちはとても深い関係にありました。ラザロが病気になった時の伝言も、主が自分たちを愛してくださっていることと、自分たちの願いはさておき、主が最善のことをして下さることを完全に信頼するほどに、マリアとマルタの信仰は深いものでした。
しかし主は、ラザロの危篤の知らせを聞いてなおその場所に二日留まられました。ラザロが死ぬことをはっきり分かった上のことでした。それは神と神の子の栄光のためであると主は言われるのです。ヨハネの福音書において『栄光』とは、十字架と復活のことでした。私たちも主の意味の無い沈黙に不安になることあるでしょう。しかしそこに主の御心と時があることを覚えましょう。
主は私たちを決して見捨てられません。不安を覚える弟子たちに、主は共にいる安全を約束しながら、友ラザロを起こしに、反対者の多くいるユダヤ・エルサレム行くことを厭われませんでした。それはやがて死ぬ私たちにも、主が十字架の贖いをもって起き上がらせるために来て下さる事に通じるものがあります。トマスの人間的熱意ではなく、主こそが不可能の解決となられるのです。
0118 : 2022年10月02日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:22/10/04(火) 16:58:03
先週(9/25)は講壇交換にて櫛形キリスト教会は、同じ教団に属する富士川教会(富士市南松野)より井原安祐師による説教でした。10/2は聖餐礼拝、再び茅場師に戻ります。
ヨハネ10:31〜42「わざによって信じる」
聖書の律法によって神でないものを神とすることを忌避するユダヤ人たちですが、「わたしと父は一つ」と言われた真のメシアである主に対しても石打にしようとします。主は彼らの目をご自分の「わざ」に向けさせようとされますが、彼らはそれを自分を神とする冒涜罪の故だと主張しました。聖書は決して、やみくもに言われたことを妄信することを勧めてはいません。むしろよく吟味することを求めています。ユダヤ人にも、主イエスの主張だけで信じることは求められてはいないでしょう。
そこで主は詩編82編のみ言葉を引用されます。神が民の指導者たちを神々と皮肉で呼びながら、しかし神のわざが伴わないことへの裁きを告げている詩編の箇所です。だからわたしのわざを見て、吟味し、そして信じなさいと主は言われるのです。私たちはここでの主のへりくだりを覚え、また主の恵みのわざを心に刻み聖餐式に臨みたいものです。
バプテスマのヨハネが主の言葉とわざを証し、それが間違いなかった、という事で主を信じた多くの人がいました。私たちも主のみわざを日々体験している者として、聖書の証の通りだ、と主を信じる者でありたい。みわざを見ることも吟味することも拒むユダヤ人のようにではなく。
0117 : 2022年09月18日説教要約 名前:Kngh@櫛形 投稿:22/09/19(月) 11:05:42
ヨハネ10:22〜30「永遠のいのちの与え主」
主イエスの評価についてユダヤ人の間での分裂が続きます。
時は『きよめの祭り』(7:1-10:21までは仮庵の祭りの間の出来事、それからおよそ2か月半程経過し)。かつてエルサレム神殿がシリアの支配によって汚されたとき、ユダヤ人の蜂起によってエルサレム神殿を奪還し、主なる神に奉献(ハヌカ)したことを記念する祭りでありました。その時わずかな油で8日間ともしびが消えなかった奇跡から、『火の祭り』とも呼ばれていました。
そこでユダヤ人から主は「はっきり言って欲しい」と説明を求められました。しかしそれは、誠実な問いではなかったのでした。なぜなら主はこれまで何度もはっきりご自分がメシアであることを告げられ、証拠としての奇跡を行ってきたからです。つまりユダヤ人たちは初めから主イエスを信じるつもりがなかったからです。つまり、彼らは主イエスの羊に属していないからなのです。
一方主は、ご自分について来る羊の祝福を語られます。羊は主に最も大切にされているが故に、永遠のいのちの祝福に招かれます。主は私たちのいのちに責任を持たれるのです。主に属していない羊は見捨てられているわけではありません(10:16)。なお主は彼らのためにもいのちを捨てられるよい牧者なのです。主の宮である私たちは、世の光として来られた主の愛によって一つの群れとなり、もう一度神に我が身を献げられる者でありたいと願います。
0116 : 2021年 9月11日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:22/09/12(月) 10:40:47
ヨハネ10:11〜21「いのちを捨てるよい牧者」
聖書を通じて「羊飼いと羊=神と人」の関係が語られていて、主イエスはご自分こそよい(良い)牧者だと語られます。それはご自分のいのちを捨てるほど羊たちを心にかけているからに他ありません。一方雇われの人は自分自身の可愛さに危険から逃げ出し、羊の群れを散らしてしまいます。羊の幸せは羊が関わる事ではなく、羊飼いにかかっているのです。
羊飼いである主イエスは、私たちを「わたしのもの」と呼んで下さいます。私たちも何かが自分の所有になるとき、それは私たちにとってかけがえのないものとなり責任も生じるでしょう。また、私たちを知り、私たちも主を知るという関係が与えられます。それは三位一体の関りにも似ている程の大きなことなのです。
そこで主はご自分の十字架と復活を予言されます。主の十字架は断じて失敗や無理矢理なことではありません。主が自ら私たちのために進んで十字架に刺し通されたのです。そして再びいのちを得る権威をもって私たちをよみがえらせ賜う。この希望を確かに今朝覚えたいものです。残念ながら主の愛と恵みにあふれたみ言葉も、拒む者が多い。しかし少数でも信じる人々がいたことは励ましです。私たちも主を信頼して歩んでいこうではありませんか。
0115 : 2022年09月04日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:22/09/04(日) 15:43:28
「主イエスの羊とされて」ヨハネ10:1〜10
民を導く指導者はとても大事な存在です。9章で、自分たちは盲目でなく目が見えると語ってはばからないパリサイ人たちに、主は一つの例えを語られました。当時、羊はイスラエルの人の霊肉にとって欠かせない家畜でした。馴染み深い牧者と羊の例えで主は、夜、門から出入りする本当の牧者と、盗人・強盗との違いを述べられました。本当の牧者とは主イエス、盗人・強盗とは当時の指導者パリサイ人のことでしょうか。
羊は耳がとても良く、自分の羊飼いの声も聴き分けると言われます。その通り、主が名前を呼ばれると主の羊たちは囲いの外へついて行きます(9:34の「追い出す」と10:3の「連れ出す」はギリシャ語で同じ言葉が用いられています)。その行く先は豊かな牧草地なのです。しかも主は羊たちの安全を守るために先頭を進んで下さる方であります。また、たとえクリスチャン生活の中で世から疎外感を感じる
ことがあったとしても、それは主の視点から見れば、救われて外に連れ出されたからでしょう。
なおも無理解のパリサイ人たちに、主はご自分が羊の門であることを告げられます。主イエス以外に平安、憩い、救いはないのです。救われてなお、私たちは世に住んでいます。しかし主イエスを通して御国を味わうことができます。そのようにして頂く豊かないのちのために、主の御声のみ聞き従おうではありませんか。
0114 : 2022年 8月28日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:22/08/29(月) 11:03:42
「孤独をしのぐ恵み」ヨハネ」9:26〜41
『孤独』は心身ともに人」をむしばませるゆえに耐え難いものです。生まれつきの盲人であった男は主イエスに目を開けてもらった結果、孤独を味わうことになります。パリサイ人たちは主がメシアと知ることを拒み続け、盲人の身に起こったすばらしい出来事を知ろうともしませんでした。彼らは、その事に失望した男が、自分たちをむしろ教えようとしていると怒り、男を会堂から追放してしまう始末に至ります。
しかし、その孤独の中に置かれた男を、主イエスは見つけ出し、来て下さいました。そして「人の子を信じるか。」と問われます。孤独への慰めには、もちろん同情や寄り添いも大事でしょう。が、根本的には創世記の冒頭に生じた、神と人との関係の断絶が修復されなければ真の慰めとはならないでしょう。それには、いつでもどこでもどんな状況でも「わたしはある」とおっしゃって下さる救い主に礼拝を献げる交わりが重要となります。
肉体の目のみならず、主イエスを神と見ることが出来る霊の目が開かれる恵みは、「自分は見える」という傲慢な人にではなく、「教えて下さい」とへりくだる者に注がれるのです。その恵みは、人から味あわされる孤独を凌ぐものなのです。