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0090 : 2021年08月08日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/08/10(火) 11:03:47
 ヨブ記40:1〜23「神の傑作品として」
 敬虔なヨブ。その彼に突如災難が降かかりました。ヨブは神が自分の過ちを探し出し、敵対していると思っていとのです。しかし実際はそうではなく、ヨブの方が神のあら探しをしていたのでした。神の被造物である自然や動物たちを見てヨブはその事に気付かされ、へりくだったのでしょう。人は苦難の説明を聞いたり、そのことに納得したりして癒されるのではなく、神との出会いの中で力をいただくものなのです。
 神はなおもヨブに、自分を義とする事が、意識せずとも神を不義することに気付かせようとされる。私たちも自分の正しさを主張する時に気を付けねばなりません。その上で神はヨブに、だったらお前が神のように高ぶりを抑え悪を閉じ込めよと命じられます。こう言うことにってサタンや悪に対する最終的なさばきは、神のする事だ、わたしに信頼して任せよ、とヨブに伝えようとされたのではないでしょうか。
 さらに神は河馬(カバ)と訳されれている「ベヘモテ」について語られます。ベヘモテは獣の中の獣とういう意味があります。その力、柔和さ、威厳は神の傑作といわれます。いわんやヨブを神は傑作として造りたもうた方。神との出会いとへりくだりこそ苦難の癒しなのです。この恵みを覚え歩もうではありませんか。
0089 : 2021年08月01日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/08/02(月) 09:09:41
ヨブ記39:1〜30「鳥獣に学ぶ」
 最近の出来事を見ていると、私たちの意識の中で多様性を尊ぶという姿勢が低くなっているのではと問われます。自分の潔白を主張し、神こそ間違っているというヨブの主張も、そんな私たちと無関係ではありません。そんなヨブに神は多様性に満ちた生き物たちの姿を繰り広げられる。
 野やぎや鹿は、高地にいるため、人間にはあまり馴染みのない生き物です。しかしその繁殖は神の御手の中にあります。野ロバは家畜のロバとは違い、自由奔放です。その自由さを人間は理解できないかも知れませんが、主が与えられたものなのです。かつて牛を大量に牧していたヨブにとって、野牛の荒々しさは想像を超えていたことでしょう。ダチョウは人間には愚かに見えるかもしれな。しかし、人間には叶わない能力の持ち主なのです。人間が頼る軍馬の能力は、神から与えられた力です。タカやワシは本来汚れた鳥とされるが、それでも神は素晴らしい力を与えられ、命が守られています。
 結局、人間の小さな視野と頭でさばくことが間違っているのです。神に対してそう言っていたヨブは次章で悔い改めることになります。私たちも創造主にあって多様性を尊ぶ歩みに遣わされて行きましょう。
0088 : 2021年07月25日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/07/25(日) 15:10:03
ヨブ記38*1〜41「神からの問い」

 神が現れ自分の疑問に答えてくれることを願っていたヨブに、いよいよ嵐の中から神は現れ  て下さり声をかけられます。私たちも神の言葉を聞くのは、順風満帆な時よりもむしろ、嵐の時かもしれません。ところが神はヨブが抱いていた疑問に答えるのではなく、逆にヨブに問いかけるのでした。聖書は神からの問いに満ちています。私たちも同様に神に問われる存在ではないでしょうか。
 それから神は天地創造から始めて、あらゆる自然現象を問いかけの中でヨブに思い起こさせました。それらを通してヨブの無知を明らかにしていきます。その中で神は、人間にとって恐れられるものもまた、神の御手の内にあることを示されます。また、天の星の運行を通して、神の知恵と支配が圧倒的であることを示されます。
 しかしながら神はヨブに対し、怒りと裁きをもって臨んでいる訳ではありません。神が若獅子やカラスの子の養いにまで目を留め配慮することを通して、ましてやヨブへの愛と慈しみがいかばかりかを示しおられるのではないでしょうか。私たちも無知な者ですが、神に恵みを示していただき、自らも体験し、そして世に証していきましょう。
0087 : 2021年07月18日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/07/25(日) 14:39:30
ヨブ記37:1〜24「雨雲の中の光」

 前36章の終わりからエリフは季節についてヨブに語りかけます。乾季と雨季とはっきり分かれる季節の中(イスラエルにおける乾季は陽暦10月中旬<第八の月>から翌年4月中旬<第一の月>までの間)。ここで語られるのは、雷、大雨、そして寒さです。つまり秋の初めに降る『先の雨』から迎えようとする冬の描写を語っているのです。冬は人間や他の生き物にとって活動を制限させられる時期です。しかし先の雨と冬を通し人は、神に信頼すべきことを学び、いのちの恵みをいただくのです。
 そしてエリフはヨブに、この神の偉大な知恵と配慮とに、あなたは叶うのかと問いかけます。デカルトが「人は知恵を得たら、知らない事が減る。」という立場だったのに対し、パスカルは、「人は知識を得れば得るほど知らない事が増える。」という立場であったといいます。人間の頭が神の知恵と対等であるはずがない、人はへりくだるべきであるとエリフは論ずるのでした。
 しかし主は、雨雲の中に光を照らしたもう方。たとえ今光が見えないとしても、人は神を不正義で愛のない方などとは言ってはなりません。むしろ神を恐れ、神を待つべきなのです。事実、神は次章38章で雲を払いヨブに直接語りかけられます。エリフの存在は確かにヨブが神の声を聞く備えとなりました。私たちもそのように用いられれば幸いである。
0086 : 2021年07月11日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/07/13(火) 09:52:36
 ヨブ記36:1〜33「苦難をも用いて」

 これまでヨブや友人たちに反論する形で語ってきたエリフは、神の代弁者を自負し、さらにヨブに語りかけます。まず、神は公正な裁きをなさる方だ、と言います。決して悪者も苦しむ者も、また正しい者もそのままにはされないと。ヨブの3人の友人たちの過去に原因を求める因果応報論と違う点は、あくまでもエリフは今から未来への視点があるということです。そして、正しい者にさえ苦難があるという点です。
 また、怒りを蓄えることへの危険を警告しています。人は怒りを貯め込むと助けを求めなくなりがちだろうと。ヨブは神に苦難の助けを求めるというシンプルで大切な信仰を抱いていたでしょうか。神は苦難の中でこそ人を信仰による救いに導くことがあるのではないでしょうか。誰であれ神の恵みがいくら大きいからといって、神よりも自らを義としてしまうことが有ってはなりません。滅びに向かい始めてしまうことの無いためなのです。
 エリフは神をすばらしい教師であり、苦難をも用い人を成長させる方であると見ます。神の大きな御業の賛美へとヨブを招くエリフは、神の偉大さと正義と憐みをヨブに気づかせていくことになります。
0085 : 2021年07月04日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/07/05(月) 10:30:08
ヨブ記35:1〜16「あなたは神を待て」

 エリフはさらにヨブに問います。自分は潔白だというが、その義は神からのものだと主張することは正しい事なのか、と。さらに、神を信じることに利益を求めてはいないか、と。因果応報を説いた友人たちはまさにそうでありました。しかし潔白な自分になぜ神は敵対するのかと問うヨブも、実は因果応報に片足を踏み入れている状況にあり、そしてそれはサタンが1章9節で神に挑戦したテーマでもありました。
 それに対しエリフは、創造者である神と被造物の人間との間にある一線を強調し、人の罪も正しさも神に影響を及ぼすものではない、と言う。理神論ではなかった。エリフは、人の振る舞いによって神のみ業が押しとどめられたり進められたりするものでは無い、と言うのです。
 では私たちの祈りは無駄なのでしょうか。否、エリフは人々は苦難の時には叫ぶが、神ご自身をもとめていない、と指摘します。それは結果として神を奴隷として自分の欲望を満たそうとすることではないでしょうか。だから人は、神のもとに叫びが届いていることを信じ、待つべきなのです。神が愛と正義の方ではないと早急に判断してはならないのです。主イエスにある愛を知る私たちはなおさらのこと、神を待ち悪から離れて歩みましょう。
0084 : 2021年06月27日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/07/01(木) 10:34:28
ヨブ記34:1〜37「誤解がもたらすもの」

 エリフの言葉について、しばしば激しい評価がなされることがあります。苦難の中で苦しんでいるヨブに対し冷酷であり、また3人の友人たちの教えの焼き直しに過ぎず、無神経である、という批判です。
 実際エリフのことばの表現は激しいものではあるが、その真実は何でしょうか。まずエリフの主張の土台は、神の絶対主義と公正という点にあります。そして、対する被造物である人間の罪と愚かさ、という点でもあります。もし神が正義をただまっとうされるなら、全ての肉なるものは滅びなければなりません。エリフは、神の裁きの公正さを語りながら、神が人を誤解することは決してない、と言うのです。苦難は個人的なものであるが故に、その苦難を通して人は神をミクロな視点で決めつけ、誤解しやすいもの。しかし、信仰は神をどこまでも正義で最善をなされる方だと信じ続けることではないかとエリフは問うのです。
 私たちは誤解されることを恐れるが、むしろ神を誤解してはいないでしょうか。主イエス・キリストは誤解を受けながらも黙々と父なる神に従いました。神への誤解から神の視点に立つ時、ヨブはやがて癒されることになります。エリフの言葉はその備えとなったのです。
0083 : 2021年06月20日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/06/24(木) 11:46:56
 ヨブ記33:1〜33「苦難の見方」

 いつしかエリフは、上からの目線でヨブを説得しようとした三人の友人たちとは違い、同じく神に造られた被造物としてヨブに語りかけようとします。そのヨブは「自分は潔白なのに神は私に敵対し私を苦しめる」と主張していました。エリフはヨブのその主張を批判します。偉大な創造者と小さな被造物の間には超えられない一線がある、と。
 とはいえエリフは、神は人に様々な方法で語りかけておられる、と主張します。人がそれに気づかないだけだ、と。例えば夢などを通して神は人を戒めるではないか。また、病を通して主は痛みをもたらされることもある。そして一人の仲介者の執り成しと身代金を受け入れ、彼を回復し滅びから救う、と言う。つまりエリフは、苦悩の原因を過去に求めていた3人の友人やヨブに対し、憐みによる将来の救いという神の計画から苦難を考える視点を示すのでした。それはキリストの贖いの預言にさえ繋がる視点の変換でした。
 誰にも、ヨブにさえ地上の歩みには完成はありません。だが、何度でも主は私たちが滅びないように関わって下さる。苦難の経験の最中は分からないかも知れない。しかし後に分かる恵みを信じて、今週も歩みましょう。
0082 : 2021年05月13日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/06/15(火) 11:41:24
 ヨブ記32:1〜22 「エリフという人」
 
 ヨブと3人の友人との間の論争が終わるのを見計らったように、突然エリフという人物が登場します。このエリフについては評価が分かれていますが、彼の言葉から神の御心を探っていきましょう。ウツとの関係のあるブズの出身、バラクエル「神は祝福する」という名の父が紹介されます。エリフは「彼は私の神」という意味の名。若い彼はずっと年上の友人たちとヨブの議論を黙って聞いてきたのですが、ここぞと怒りを燃やし議論に加わります。
 彼は、まずヨブの友人たちに怒りを向けます。初めは彼ら年長者たちの意見に期待するところがあったのですが。しかし年長者だからといって知恵があるとも限らないと言います。また、経験からくる世の知識によって、ヨブの扱いを神に任せると言って、議論から逃げる言い訳をする姿勢に対しても激しく批判します。私たちは、あきらめたり、行動しないことについて、神に委ねることを言い訳にしてしまうことは無いでしょうか。
 エリフはこれ以上黙っていられず、誰にもへつらうことなく語ると言い放ちます。この後のエリフの意見は完全に賛成できるものではありません。がしかし、少なくとも自分のことばに責任を持とうとする姿勢は、実際ヨブが神に出会う橋渡しとして用いられるのです。果たして、私たちは現実の世にある痛みの問題に、逃げも偏りもなく、責任を持って発言できるでしょうか?
0081 : 2021年05月30日説教要約 名前:kng@櫛形 投稿:21/06/03(木) 11:13:26

 ヨブ記31:1〜40「ヨブのことばは終わった。」

 友人たちとの議論の終わりにヨブは、「もし私が○○なら」と語りながら、自分が考えられうる限りの罪や悪を並べ、それについて自分は潔白だ、と語ります。挙げられた12のリストの内の多くで、もし自分のうちにそれらの悪があるなら、呪いを被ってもよい、とさえ言うのです。それ程の自信をもって身の潔白を主張するヨブに、私たちは高い倫理観を感じる一方、傲慢さえも感じてしまうかもしれません。実際、神への信仰の土台に、自らの欠けを自覚する事はとても大切なことだと思います。ゆえにヨブが悔い改める必要を感じる人もいるでしょう。しかし、ヨブ自身、自分の罪を隠したりしないと述べていますので、必ずしも傲慢だとは言えません。一方でヨブを理想的完璧な人とあがめるのも過ちでしょう。
 むしろヨブがなぜここまで執拗に自分の義を主張したいかと言えば、神の沈黙が耐えられなかったからではないでしょうか。自分の訴えに対する告訴でもよい、何か答えて欲しいという思いがあったのでしょう。しかしヨブは、神の沈黙のお陰で言い分を全て語り尽くせた、とも言えます。神は遮らず否定せず黙って聞いてくださる方です。私たちは祈りにおいて語り尽くせているでしょうか。その先に神の答えがあるのです。
0080 : 2021年05月23日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/05/25(火) 14:29:12
ペンテコステ礼拝
ローマ8:26〜27 「我らのうめきをも」

 聖霊が主の弟子たちに注がれたペンテコステ(五旬節、聖霊降臨祭・・)を記念して献げる礼拝を感謝します。ローマ28章は、私たちの弱さに触れています。たしかに私たちが造られる素となった大地のちりはそれ自体には価値が無く弱いものです。だがそれに神の息が吹き込まれて初めて生きるもの、価値ある者となったのです。それゆえ神との交わりがなくては弱いむなしい者となってしまうのです。そんな私たちの弱さを御霊(聖霊)は、共に担うといいます。 
 具体的にどういうことだろうか。私たちは、神との交わり無くしては虚しい存在であり、神への祈りも教えられました。しかし、神に何をどう祈れば良いかわからず、言葉が出てこない現実があるのではないでしょうか。確かに私たちは主イエスの贖いによって救われました。しかし、罪によって歪められたこの被造物世界の中で、完全な回復までには様々な苦しみ、痛みが私たちを覆うことがあります。ヨブがそうであった様に、祈りが出てこないことがあります。しかしそのうめきを、御霊は神に執り成して下さる
のです。
 御霊は、私たちの声にならないうめきを、御心にかなう祈りとして引き上げて、父なる神に取り次いでくださのです。この御霊が与えられ、我が内に住み給う恵みを覚え、今週も御霊と共に遣わされましょう。
0079 : 2021年05月16日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/05/17(月) 10:30:51
ヨブ記30:1〜31 「しかし、今は、」

 かつての神との交わりのあった幸いな日々とは打って変わって、今は、とヨブは嘆きます。取り分けヨブは年下の若者の親に怒りをあらわにします。これは、前章でみなし子を助けたヨブにとって、その子らを愛するが故の怒りだったのではないでしょうか。けれどもその愛した彼らから、今は嘲られ軽んじられ屈辱される悲しみで一杯でした。
 そんなヨブではありましたが、その嘆きの中で、自分への苦しみは神のわざが由来である事を告白するのです。また、病の苦しみさえも神からのものである、と言うのです。私たちだったらどうでしょうか。そんな神を信じる意味は無い、と信仰を捨ててしまわないでしょうか。ヨブはしかし、神が自分に残酷に敵対したとしても、それでもなお神に訴え、祈るのでした。
 ヨブは神との交わり、人との交わりから見捨てられたと告白します。私たちも程度の差はあれその告白に共感するのではないでしょうか。その状況の中でも神にすがる姿は、真に人間らしく在るための最後の砦(とりで)なのです。キリストも神と人に見捨てられたまわれました。その事を通して慰めと救い、回復が人間にもたらされたのです。キリストの受難、ヨブの信仰を覚え、神の前にある人間らしく今週の歩みに遣わされましょう。
0078 : 2021年05月09日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/05/09(日) 17:21:48
「昔の月日のようであったら」ヨブ記29:1〜25

 昔は良かった、と言うことばは、神の知恵から出る言葉とは言えません。では29章のヨブはどうでしょうか。彼は、子宝にも恵まれ、豊かな祝福を手にしていたかつての日々を思い返します。また、多くの人々から尊敬されていたこと、それが貧しく小さい者に施(ほどこ)した親切の故であったことを振り返ります。不正にも厳しくあたり、社会正義の実現にも取り組ました。だからこそ自分の日数が増えること、栄光と力が尽きることはないと思っていた、と言います。さらに、人々はヨブの語る言葉に期待していたし、ヨブはそれに応えて的確なことばを持って助言を与え、慰めを与えてきた、と言うのです。
 けれどもこれは彼の傲慢さでもなく、懐古主義に陥(おちい)って自分を慰めようとしてのでもありません。むしろ神が守り、神が照らし、神と親しく交わり、神とともにいたからこその日々だった、という事を思い出しているのです。だとすると、ヨブの苦悩の根底にあるのは、ヨブにとって今神の姿が見出せず、神が沈黙しておられる事に他なりません。私たちはヨブ程に神との交わりを希求しているでしょうか。インマヌエルの約束を今一度確認し、主の喜ばれる歩みへと遣わされましょう。
0077 : 2021年05月02日説教要約 名前:Kng@櫛形 投稿:21/05/09(日) 16:50:52
[知恵はどこから来るのか」ヨブ28:1〜28

 28章はこれまでのヨブ記の流れからは唐突な印象を受け、人によってはヨブの言葉ではないのではないか、と解釈する意見もあるが、果たしてそうなのでしょうか。ヨブは友人たちとの議論が平行線に終わった後、ほかの生き物もいない鉱山の奥深くから、苦労して貴重な資源や宝石などを採取する様子を語り出します。大きな金鉱石から金を取り出すのは、現在でも簡単な事ではありません。
 貴重な宝石を得るためには、大きな苦労もいとわないのに、知恵はどうだろうか。ヨブは、地上も深みも、どこを見渡しても知恵を見つける事は出来ないと言い、重ねてどんな高価なものと引き換えても手に入れることはできないと言います。確かに現代は知識も文明も進んだが、悪を避けて問題を解決していく知恵はどうでしょうか。
 しかし知恵そのものが無い訳ではありません。それは神の元にある、とヨブは言うのです。自然界を見ても神の知恵の偉大さは計り知れません。人はその神の前にへりくだり、何についても先走って分かったつもりになってはなりません。新約では神の知恵はキリストの内にあると教えられています。謙遜に従い、今週も歩みましょう。
0076 : ぴちぱくキッチン 名前:caiaphas@管理人 投稿:21/05/05(水) 23:34:15
こどもの日の今日、子ども食堂ぴちぱくキッチンを開催しました。
コロナ感染が不安なゴールデンウイークでしたが、パーテーションや換気、消毒など感染対策を万全にした上で、少しでも楽しい時間をと近所の子どもたちと過ごしました。宝石みたいな石鹸づくり、木のブロックでソーマキューブ作り、お弁当での昼食など、2時間半があっという間。楽しかった、といってもらえた事が何よりの喜びです。
JA南アルプス市さんからマスクの寄付、ボランティアさんからひまわりの苗の寄付などもいただき、子どもたちはおみやげたくさん持って帰っていきました。ボランティアさんたちの献身的なお手伝いも感謝でした。
コロナが一日も早く収束し、心置きなくまた集まれる日が来ますように祈りつつ。

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