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0210 : 2024年2月18日主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/02/19(月) 12:03:03
ローマ4:9〜12 「割礼の目的」

手段が目的化することはあらゆる場合で大きな問題である。割礼もそうなってしまっていた。ダビデの告白した幸いは、自らへりくだり罪を認め告白したところに与えられた幸いであった。それはアブラハムの義認を見れば明らかなように、割礼の有無に関係がない。アブラハムもまた罪の中にあった者だが、神の約束のみことばを信じる信仰が義認の根拠として割礼に先立っていたのである。
では割礼とは何なのか。それは神が信仰によって罪人を義と認めた証印である。人はそのしるしを見て、この後も信仰に立ち返ることができる助けとなる。その手段の目的化は、自らを誇り、他者を蔑むことにつながるだろう。そもそも赦しを宣言する事ができるのは、一方的・完全に赦す側にある。人間から割礼を義認の根拠として差し出せはしない。
アブラハムに割礼が命じられた目的は何か。パウロは割礼を無意味とはしない。割礼は神の義認の証である以外に、アブラハムが父となる、とあるように、割礼を受けていない者が信じた時、アブラハムの信仰にならう時、アブラハムに約束された星の数の子孫の一人とされる証となるためである。私たちもその一人。先立つ信仰にいつも目を留めよう。
0209 : 今日のエフデ 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/02/16(木) 20:21:31
寒い日が続く中、ホットドリンクをデザインして作品を作りました。遠近感を意識した平面と壁、マグカップをどうデザインするか。ミルクでもココアでもホットレモンでも、あったかーい飲み物をイメージしながら作ってね、と励ますと、みんなあったかそうな作品にしてくれました。

0208 : 2024年2月11日主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/02/13(火) 09:33:03
ローマ4:1〜8 「神は初めから」
律法の行いによる義を主張する人々は、信仰による義について、旧約聖書と新約聖書の断絶を感じるかもしれない。しかしそうではない、とパウロはアブラハムをあげる。彼はユダヤ人にとって誇りだが、彼は行いによって義とされたのではない。聖書はアブラハムの間違いや失敗も隠さず記録しているからである。
創世記15:6によれば彼は神の約束を信じた信仰によって義とされた。聖書は創世記から一貫して信仰による義を伝えているのである。もし義が行いの報酬であれば、神に支払い義務を与える序列になり、人が神を奴隷としてることになろう。アブラハムはへりくだり、神の全能と真実さとあわれみを信じた。それが彼の義とされたのである。
英雄ダビデもまた、罪を犯さないのではなく、自らの罪を赦され覆われた幸いを詩篇に歌った。レビ記に定められたアザゼルのやぎの儀式のように、罪が運ばれて行ってしまったことによる恵みである。義という漢字は、羊の下に我と記す。正確な成り立は別として、神の小羊キリストの覆いの下に自分自身を置くように見える。神はそれを見て私たちを義としてくださる。神の御心にかなう許しの平安を頂き歩もう。
0207 : 今日のエフデ 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/02/08(木) 18:36:47
今日は諸事情で人数が少なかったですが、先日学校でスキー教室に行ってきたばかり、という子どもたちと一緒に松ぼっくりのスキーヤーを作りました。もうすぐ中学生になるので、中学校になったらどの部活に入るかと聞くと、ある子は美術部に入る予定だそう。この教室で図工・美術が好きになってくれてたとしたらうれしいです。

0206 : 2024年2月4日主日聖餐礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/02/06(火) 16:10:45
ローマ3:27〜31 「本当のみこころを」

私たちは神のみこころをいつの間にか歪め、改変してしまっていることがある。ユダヤ人は律法が与えられたということを誇りに思っていたが、すでに触れたように律法を守って義とされる人はひとりもいない。そもそも律法を落ち度なく行う者を義と認めるために律法は与えられたのではなかった。むしろ信仰によって救われる信仰の律法こそを誇るべきであった。
ユダヤ人が選ばれたのも、そしてその肉体的しるしである割礼も、異邦人を見下すためではない。天地万物の創造者である神がただおひとりなら、割礼を受けている者にとってもそうでない者にとっても神は神である。後にくわしく触れる事になるが、他でもないユダヤ人の祖であるアブラハムは無割礼の時に信仰によって義とされたのだから。
その一方で律法が意味のないものとして廃棄されるのではない。主イエスのたとえでパリサイ人と取税人の祈りが語られたことがあったが、義とされたのは律法によって罪を自覚しへりくだった取税人だった。律法はそのように人を信仰に導くのである。神が与えられた律法も福音も間違って受け取る事がないように。本当のみこころを求めよう。
0205 : 今日のエフデ 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/02/01(木) 19:05:43
今日は2月とは思えないほど暖かい日でしたが、その気候にはそぐわないとは思いつつ、予定通り松ぼっくりのスキーヤーを作りました。ある子は、これまでエフデで作った作品のなかで一番満足した、という子や、迎えに来たあるお母さんは「なにこれーかわいいー」と歓声。もう少し寒かったら気分出たんだけどな、というと子どもたちに笑われてしまいました。

0204 : 2024年1月28日主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/01/30(火) 20:56:03
ローマ3:21〜26 「義とされる恵み」

私たちが罪人であることを一切の自己弁護を捨てて受け入れへりくだる時、主は律法による義とは全く別の道を開かれる。私たちは、律法による義には全く到達することができない。そうするとルターのように神に対して恐怖を抱くしかない。けれどもパウロは、律法とは関わりなく、しかも律法と預言者によって証された神の義が示された、という。
それはイエス・キリストである。すべての人間が罪人であるということに差別がないように、イエス・キリストの真実により差し出される救いもまた差別がない。私たちに必要なのは、それを受け取るかどうか、だけである。イエス・キリストは私たちの身代わりとなってくださった。その理由は、ただ愛という恵みのみである。
では罪の責任を問わず許すことは人間を堕落させる、不正な神がやることなのだろうか。そうではない。旧約聖書で教えられていた贖いの家畜の血ではなく、私たちが義とされるために御子の血という、これ以上ない高価な犠牲が払われているからである。安売りされる安価な恵みならなくなっても惜しまない。しかし主が与える恵みは高価な恵み。その恵みは、主に従う思いを私たちに与えてくださるのである。
0203 : 今週のエフデ 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/01/25(木) 20:14:36
雪の降る街並みテーマで別週クラスの第二弾です。今週の子どもたちは家の大きさもさまざまな家を作り、賑やかな街並みを作っていたのが特徴的でした。透明な折り紙を使ってつららを屋根から垂らした子も。今日も寒い甲府盆地でしたが、風邪を引かないように元気に過ごしてもらいたいと思います。

0202 : 2024年1月21日主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/01/23(火) 16:28:10
ローマ3:19〜20 「口をふさぎ静まれ」

すべての人間が罪の下にあることをパウロは指摘し、ユダヤ人に委ねられた神のことばもそう言っていると述べた。しかしその引用元をみる と、それは異邦人の罪を指摘しているのではないか、ユダヤ人に向けら れたことばではないとの反論が予想される。しかし神のことばは他者の 罪を指摘するために委ねられるものではない。あくまで読者自身の問題 として受けとめ読まれるべきである。
それゆえ神のさばきの前には、神を知っていようが知っていまいが、 ひとりの例外もなくこれまで存在した人間も含めすべての人間が言い 訳なく罪人だと判断されざるをえない。人の目には立派に見える人もい るかもしれない。が、恐らくその人々こそ自分の不足を自覚しているの ではないだろうか。つまりいずれにしてもすべての人は自分の正しさに ついて口をつぐむしかないのである。
ユダヤ人に律法、つまり神のことばが与えられたのは、律法を守る義 を与えるためではない。むしろ罪の自覚をさせるためである。しかし、 そこで私たちの自己正当化の鎧と剣を脱ぎ、口を閉じるとき主は福音を 語られるのである。自らの救いが不可欠な罪人たるを素直に告白しよう。
0201 : 今週のエフデ 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/01/18(木) 19:28:11
今日は雪の降る街並みの作品を作りました。今日の6年生は小学校でスキー教室だったそう。甲府盆地内は雪が全く降っていませんが、今日のスキー場の景色を思い出しながら作品を作っていたのではないでしょうか。作りながらスキーの話をたくさんしてくれる子がいました。みんないろんな個性豊かな家をデザインしてくれました。

0200 : 2024年1月14日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/01/18(木) 19:18:15
ローマ3:9〜18 タイトル「義人はいない」

私たちは神の怒りに対して、自分だけは大丈夫と安心していないだろうか。しかし私たちは他と比べて何もすぐれているところはなく、すべての人が罪の権威の下にあるとパウロは指摘する。罪を意味するギリシャ語はハマルティアといい、原意は弓矢の「的を外すこと」「目標に届かないこと」である。つまり私たちは例外なく何をしても神のみこころにかなう正しさに到達することはできないのである。これはあえて神に背く事だけに限らない。たとえ私たちが良い動機をもって良いことをしようとしたとしても、罪の影響下にあって的を外し、決して目標に届くことはない。このことに神の怒りが向けられるのである。
神のことばもそれを裏付けている。義人は一人もいない、と言われる。すべての人が神から離れた結果、ミルクが腐ってしまったように無用となる。そうなれば捨てられるしかない。また、そうした罪人は、ことばと行いが神のみこころとそぐわないという特徴を持つ。私たちも実際当てはまるだろう。その点ですべての人は神の前に平等であり、程度の差は関係なく、すべて神の目から捨てられるべき存在である。しかし、その罪を認めへりくだり神への恐れを持つことが希望の一歩である。救いをもたらす福音を頂く前にまず神への恐れをもってへりくだろう。
0199 : 2024年1月7日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/01/10(水) 16:01:32
ローマ3:1〜8 タイトル「神は真実な方」

ユダヤ人の頼みにしていた律法も割礼も、守らなければ意味がない。その点でユダヤ人も罪人である。ではユダヤ人の優れた点はあるのか。それはなによりも神のことばを委ねられたことである。イスラエル・ユダヤの歴史を記録した旧約聖書によって、人の目に見えない神ご自身とその愛と聖と力と恵みが証されるのである。ユダヤ人はそのために選ばれた民だった。
しかし彼らの歴史はいつも正しく敬虔だったわけではない。ではその不真実な歴史によって神も不真実となるのだろうか。そうではなく、彼らの罪をさばく公平さ正しさによって、神の正義と聖さが証されるのである。私たちクリスチャンも自分の正しさだけが神を証するのではない。罪や過ちがさばかれること、その前にへりくだることも証なのである。
では罪によって神の正しさが証されるとすれば、神は罪で益を得る不実な方にならないだろうか。しかし、それで人の罪が不問に付されるわけではない。あくまで神は真実な方なのである。私たちにとって神の真実は信頼すべきものである。罪過ある私たちであっても、信仰によって到達点は一つ。この一年、主にあって終末を覚える年として歩もう。
0198 : 2023年12月31日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/01/02(火) 11:39:54
ローマ2:17〜29 タイトル「心に割礼を」

アブラハムの子孫であるユダヤ人は、自分たちが神から律法を与えられた選ばれた民であると自負していた。律法によって他の民族とは違うというアイデンティティを持っていたが、次第に律法を持っていることそのものが他の民族よりも優れている点と受けとめてしまう。その結果他民族を見下し、自分たちが教師、導き手であると考えるようになっていた。
しかし律法は持っているだけで守らなければ意味がない。しかもユダヤ人の教師達は守っていないだけではなく、守っていないことを正当化さえして、守るように人々を教えていた。そのようなことばに説得力があるはずはない。そこで異邦人からは、当然のことながら、神の御名が侮られてしまっていたのである。
しかし、選びの民のしるしとしての割礼があるとユダヤ人は主張するかも知れない。確かに割礼は律法に従う者には有益だが、守らない者には意味がない。私たちの洗礼も同じではないだろうか。心の割礼は神の前にへりくだり、自分の弱さや愚かさにも正直になること。今改めて悔い改め、へりくだり、許される確信をもって新年を迎えたい。
0197 : 2023年12月24日クリスマス礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:23/12/24(日) 13:06:17
ルカ2:8〜20 タイトル「あなたがたのための救い主」

アドベントの間待ち望んだ2023年のクリスマスを迎えられ、感謝。主が誕生された夜、羊飼いたちに御使いが現れる。羊飼いというと牧歌的な雰囲気をイメージするかも知れないが、実際はキルケゴールの父が神を呪うほど仕事は過酷で、律法を守れず人々からも罪人と呼ばれていた。御使いの出現に神の怒りを感じ非常な恐れを抱いたのも無理はない。
しかし御使いは救い主の誕生を知らせ、それはすべての民の喜びのためであると同時に、自分の罪のために神の怒りを恐れていたあなたがたを許すため、と告げる。また、その神の偉大な愛をたたえるとき、強い軍事力による平和ではなく、神と自分との間の平和・平安から、隣人との地上での平和も生まれ出る約束が与えられたのである。
自らを罪人とへりくだる者にクリスマスの祝福の喜びは大きい。羊飼いたちは実際に御使いの告げられた通り飼い葉おけの救い主を見つけ、神を賛美して喜び帰って行った。キルケゴールが記した「死に至る病」にも、自分のあるべき姿との乖離の絶望は、世に下り死んでくださった神を信じることでのみ解決できるとある。私たちもこのクリスマス、羊飼いの喜びをともに味わいたい。そして平和を作り出せるように。
0196 : 2023年12月17日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:23/12/18(月) 18:42:11
ローマ2:7〜16 タイトル「キリストによるさばき」

罪人の不敬虔と不義に対する神の怒りは、いつくしみの忍耐の期間があるとは言え必ず下される。神は完全に公平で、善を行うことができるなら祝福がある。が、交差平行法が用いられ、悪に対する怒りもまた公平に下される、というのがここの強調点である。そこにはユダヤ人であるからとか、ギリシア人だからという区別もない。
しかし、十戒を始めとする文字としての律法が与えられなかった異邦人はどうか。そもそも違反するルールがなければ違反そのものがないのではないだろうか。しかしパウロは、すべての人が神に造られた証としての良心が異邦人にとっての律法だという。確かに律法がなくても正しい事、悪い事の基準をあらゆる人は心の内に持っている。それによって異邦人はさばかれる。
では律法を持っていても持たなくても弁解なく神のさばきがくだるとしたら、すべての人は神の怒りを受けて滅びる絶望しかないのか。しかしパウロはさばきの言及の中で、キリストによるさばきの福音の一端を示す。滅びるべき罪人と正しい神の間にキリストが立ってくださるのである。アドベントの残りの期間、救い主の到来を心から待ち望もう。
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