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0060 : エフデ絵画工作教室 名前:caiaphas@管理人 投稿:21/02/04(木) 18:50:49
今日のエフデ絵画工作教室は、スノードームカードを作りました。セスキ炭酸ソーダを雪に見立てて画用紙とプラバンの間にはさみ、カードを軽く振ると、雪が舞い散り、積もっているように見えます。今年は雪があまり降らず、子どもたちも物足りない様子。せめて工作はとたっぷり降らせ、作った後も遊んでいました。

0059 : エフデ絵画工作教室 名前:caiaphas@管理人 投稿:21/01/30(土) 14:36:37
水墨画パート2。図書館で借りてきた水墨画のお手本教本を眺めつつ、これ描きたい、といって描きはじめた梅の花。生命力あふれる枝の勢い、可憐な梅の花。プロっぽい作品ができました。

0058 : 2021年1月24日礼拝説教 名前:Kng@櫛形 投稿:21/01/27(水) 16:45:20
「絶望の先の光」ヨブ14:1〜22

 まずヨブが神に訴えたかったことは、生まれながらに弱さと罪の中にある人間の儚(はかな)さでした。しかしそのような人間を監視し、断罪する神に、なぜですか?とヨブは問うのです。罪に汚れた人間から、神の目に叶う良いものを出すことは不可能です。ヨブはこのように自らの罪と汚れを自覚するのですが、それでも完璧を求めてくる神に、ハードルが高すぎる、と訴えるのでした。
 そもそも生まれながら弱い罪人が神の目にかなうはずは無く、死ですべてが終わりならば、生きる事に意味はあるのだろうか。それは恐ろしい絶望をもたらすだけです。が、この絶望に際し、ヨブは一縷の希望を告白します。死後行くよみは神の怒りからかくまう隠れ場となるではないか、神はなお私を愛しておられるはずだと。14節の告白は、新約時代に生きる私たちにとっては、それはキリストの預言とも受け止めることができる言葉であるかも知れません。
 ヨブは希望を掴みかけるが、しかし最後に急に弱気になったように見えます。しかしそれは私たちも同じ。ただたとえそうであっても、僅かずつでも希望に近づく歩みへと進んでいきましょう。
 
0057 : エフデ絵画工作教室 名前:caiaphas@管理人 投稿:21/01/21(木) 19:33:50
今日のエフデ絵画工作教室は水墨画に挑戦。黒と白だけで表現するのにちょっと苦労していましたが、月と霞、富士山と枯れススキを情緒たっぷりに描いてくれました。

0056 : 2021年1月17日礼拝説教 名前:Kng@櫛形 投稿:21/01/19(火) 13:51:08
「いのちと引き換えに」ヨブ13:1〜28

 3人の友人たちへのヨブの反論はさらに激しさを増します。それは、慰めの見舞いにきたはずなのに、無用な医者のように的外れの処方箋を下そうとする友人たちに、あるいは、神の側につき、神を弁護しようとしているつもりで不正や欺きを語る友人たちに我慢ができなくなったからでした。そこでヨブは、神と直接論じ合いたい、と願うのです。
 人間が全能の神に直接論争を申し込むことは、傲慢だと言えるでしょう。しかしヨブはそれを自覚しつつ、あえて自分のいのちをかけても直接神に訴えたいと願うのでした。一方でヨブは神の救いを確信し、自分の義を認めてもらえることを信じつつも、もし罪を指摘されたらへりくだる覚悟をしました。私たちの祈りはどうだろうか。私たちの代わりにいのちを差し出した主イエスが、祈りの道を開いて下さった恵みを覚えたい。
 ヨブは罪があるなら言って欲しいと願いつつ、答えられない神の沈黙になぜと訴えます。しかし、それはヨブが願ったとおり、黙って聞いて下さる神の愛の姿ではないでしょうか。御子のいのちを引き換えに私たちの祈りを聞いてくださる主の愛を覚え、私たちも主のことばを、そして兄姉隣人の言葉を聞く者となりましょう。
0055 : エフデ絵画工作教室 名前:caiaphas@管理人 投稿:21/01/14(木) 18:12:59
先週の作品を上げていなかったので送ればせながら。

0054 : エフデ絵画工作教室 名前:caiaphas@管理人 投稿:21/01/14(木) 18:12:11
先週と今日、ダンボールで首振り牛の工作をつくりました。分厚いダンボールを折って組み立てたりするのが少し苦労したようですが、みんな丁寧に作ってくれました。

0053 : 2021年1月10日礼拝説教 名前:Kng@櫛形 投稿:21/01/13(水) 15:11:51
 「知恵は神のもの」ヨブ12:1〜25
 
 これまで、エリファズは神の愛を、ビルダデは神の正義を、ツォファルは神の全知全能を掲げてヨブを説得しようとしてきました。ところが、どの言葉にも因果応報が根底にあったため、苦しむヨブにとっては何の慰めにはなりませんでした。ヨブは、そんなことはわかっている、と反論します。ヨブは神を呼び求め、神に応えてもらっていると自覚していたのだが、彼らの言う因果応報には、とうてい承服できなかったのでした。そのような知恵は所詮人の知恵で、死とともにいずれ無くなってしまう外ありません。
 実際自然界を見ても、神についての心理を人間以上に悟り、不条理に見える苦難をなぜと問わず、惨めにも思わず受け入れている姿があります。だから耳を傾け注意深く聞きべきだ、とヨブは言います。ちなみにヨブはこの12章以降、徐々にではありますが死を希求する言葉が少なくなっていきます。自らの言葉に聞き、鼓舞されたのかも知れません。
 結局、知恵と力は神のものなのだ、人間の権力者や力、知恵ある者であっても、神をとどめることはできないのです。ゆえに神の御心を早急に早合点し裁いてはならないのです。神に、人に、そして自分自身に深く聞くことが自己憐びを脱する一歩ではないでしょうか。
0052 : 2021年 1月 3日礼拝説教 名前:Kng@櫛形 投稿:21/01/08(金) 12:27:46
 明けましておめでとうございます。1月3日は新年最初の聖餐礼拝となりました。コロナ禍での礼拝、窓を開け放ち、3密を避けつつ継続出来るようにと願っています。
 
 「神の深さを見極められるか」ヨブ11:1〜20
 苦難の中で自らのいのちを厭う(いとう)ほどの痛みと苦しみの中にあるヨブに向け、恐らく一番若いと目されるナアマ人ツォファルが語ります。彼は激しい表現で、ヨブの神に対する訴えを、しゃべりすぎの無駄話(泡:ヘブル語)と評します。彼にとってはヨブの、自分を義とするように聞こえる言葉に我慢がならないのです。確かに完全に聖い神の前に、人は例外なく罪人であります。しかしヨブが語っていたのは、神との関係においての言葉であって、ツォファルはヨブのことばを表面的に捉え、言葉狩りをしているに過ぎません。
 ツォファルが握りしめていた信条とはなんだろうか。要するに神の偉大さは人間に計り知れないということでした。その事自体は真理ではあるが。しかしそれはツォファル自身にも問われる事であり、自らを棚に上げ、ヨブの無知を弾劾している姿は、自らの知識に頼り傲慢になる若者のまさにそれでなのです。私たちも気を付けたいものです。
 結局ツォファルも因果応報の理解で神の祝福は得られると説きます。しかし、神と真剣に格闘しているヨブには届きませんでした。私たちは限られた知識で物事を解釈し、決めつけていないだろうか。どれだけ神に、そして隣人に耳を傾けているだろうか。ヘリ下って聞く者となりましょう。
0051 : 2020年12月20日礼拝説教 名前:Kng@櫛形 投稿:20/12/30(水) 13:52:31
 「愛されているはずなのに」ヨブ10:1〜22
 
 自分のいのちを忌み嫌うヨブ。彼の苦悩は危機的な状況にありました。そしてヨブは神に向かって、自分は虐待を受けている、と訴え始めます。躾(しつけ)と虐待の違いは、躾は必ず相手が不快から快へと進むことができるように手助けすることであるのに対し、虐待は、理由もなくましてゴールも示さず言動をぶつけることに終始するもの。ヨブは、自分がなぜ神の怒りを受けるのか分からず、耐え忍しかないと感じたのです。
 しかもヨブは、自分のいのちが神の恵みによって形造られたと確信していました。なまじ愛と恵みを知っていたからこそ、神から受ける仕打ちに戸惑い、神が自分の罪をことさらあげつらい、厳しく監視し裁いていると受け止めたとき、神の意地悪さを見てしまったのでした。その結果彼は、神に放っておいて欲しいとさえ願ったのでした。
 ヨブ10章は陰鬱な箇所です。が、私たちが恵みの言葉を届けるべきはこうした悩みに痛む世であることを覚えましょう。そして、自分のいのちを嫌ったヨブではありましたが、自分の思いを懐深く受け止めて下さる神との太い信頼関係によっていのちが守られたことも覚えましょう。これからも痛む世にこの慰めのみ言葉を宣べ伝え続ける者でありたい。
 ヨブは「神様」とは言わず「あなた」と呼びかけ続けます。彼は神に対し非常な親近感と信頼感を持ちつつ訴えたのでした。
 次年度はコロナ感染の打開策が得られ、適切な対処がなされ終息に至り、無事平安な年となりますよう祈ります。
0050 : キャンドルサービス2020 名前:caiaphas@管理人 投稿:20/12/24(木) 22:03:10
クリスマスおめでとうございます。

換気のために窓を開け、寒い中でのキャンドルサービスでしたが、イエス・キリストの御降誕を心から感謝する一時でした。

0049 : 2020年12月20日礼拝説教 名前:Kng@櫛形 投稿:20/12/23(水) 11:03:39
 「平安は真の王に」マタイ2:1〜12
 東の国から、占星術によってユダヤの王の誕生を知った博士たちが来訪します。その知らせにヘロデ王は動揺します。新しい王に現在の自分の地位が脅かされと思ったからでしょう。彼は博士たちに、自分も礼拝するからと詳しい情報を願うが、それはキリストが幼いうちに殺すためでした。まだ起こってもいない未来を悲観し、他者に対する敵意と排除を思う思いが、私たちにも無いだろうかと問われます。
 ベツレヘムを示された博士たちは、星の導きをおおいに喜びます。それは、博士もまた安心のために未来を予測する者であり、しかしそれが不十分である事を知っていたからではないでしょうか。むしろ星をも支配する偉大な方が、自分の一歩一歩を導いて下さるその愛に信頼することの平安を知った喜びであったのでしょう。
 博士たちは見た目ではなく幼子のイエスが真の王であることを曇りない目で悟り、礼拝と贈り物で彼らの愛を表します。主もまた博士たちの安全と無事を守られました。私たちも未来を知る事は出来ませんが、十字架により、神の愛が確かであることを知っています。不安や悩みを主の導きに安心して任せられることを感謝しましょう。
0048 : クリスマス聖餐礼拝 名前:Kng@櫛形 投稿:20/12/22(火) 17:04:36
 12月20日迎えたクリスマス聖餐礼拝、今年はコロナ感染症の拡大を危惧しつつ、手掌消毒、換気確保、マスク着用にて賛美も声を張り上げることもなく、席も間隔を取りなんとかここまで守られました。今後も気を抜くことなく最大限注意を払いつつ礼拝が継続できるようにと願うものです。
 さて、救い主の誕生を待ち望む形で、教会の会堂にはアドベントクランツが下げられています。それに立つ4本のキャンドルが意味するところは、1本目は「未来の希望;予言のキャンドル」、2本目は「平和;御使いのキャンドル」、3本目は「喜び;羊飼いのキャンドル」、最後は「愛;ベツレヘムのキャンドル」と呼ぶそうです。その意味を噛みしめつつ主のご降誕を祝います。

別枠にて20日の礼拝要約を掲示します。
0047 : エフデ絵画工作教室 名前:caiaphas@管理人 投稿:20/12/17(木) 23:33:06
今日のエフデ絵画工作教室は、ミニプラネタリウムを作りました。作ってる最中からみんな「早く部屋を暗くして見てみたーい」と興奮気味。いよいよ完成して点灯すると、「わぁ」と感動の声が。お迎えに来ていたお父さんも「きれいっすね」と。
ある子は、枕元に置いて寝たい、と言ってました。今晩星を見ながら寝ているでしょうか。

0046 : 2020年12月13日礼拝説教 名前:Kng@櫛形 投稿:20/12/14(月) 15:20:43
待降節第三礼拝
 「恐れから喜びへ」ルカ2:8〜20
 羊飼いは、ユダヤ人にとって不可欠な動物である羊を牧する職業です。が、重労働に加え、人々からは律法を守ることのできない罪人とみなされていました。そんな彼らを主の栄光が照らしたとき、彼らは非常に恐れました。それは罪を自覚していたからでしょう。しかし告げられたメッセージは、すべての人のための喜びのため、「あなたがたのために」の救い主誕生の知らせでした。救い主を「我がため」、と知るところから喜びは生まれるのです。
 さらに御使いたちが告げた救い主のしるしは、彼らにとって高いハードルでは無く。ただ信頼し、立ち上がり町に入れば良かったのです。真実はどうか確かめてみよう、ということでさえ良かったのです。神の栄光は基本的に人に恐れを覚えさせます。しかしへりくだり、差し伸べられた救いの御手を握り返す者にとっては平和が与えられるのです。
 羊飼いたちは実際にキリストに出会い、自分たちの体験したことを証しました。社会的信用のなかった彼らではありましたが、語らざるを得ない感動があったのでしょう。それ以来の彼らは、全く新しくされ、同じ仕事をするにしても、大きな喜びがあったでしょう。恐れ多い現代の私たちですが、恐れを喜びに変えてくださる救い主との出会いを信じ、待ち望みましょう。
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