0218 : 今日のエフデ 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/03/21(木) 20:13:06
小学生対象の教室なので、今日の教室で小学校を卒業し、最後のクラスだった子どもたちもいて、別れの寂しさを覚える一時でした。ある子はお兄ちゃんについてきて幼稚園からずっと6年生まで続けてきてくれた子で、またいつでも遊びにおいで、と声をかけて別れました。作品集のアルバム、大事な思い出になってくれたらうれしいです。
0217 : 2024年3月17日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/03/19(火) 19:48:08
ローマ5:6-11 「和解という救い」
罪人の愛はゆがみ不完全であるゆえに、私たちから誰かに向けられる愛もそうであるに違いない。では神の愛はどう証明されるのだろうか。それはキリストの死という歴史的事実に基づく。世の愛は、愛される価値のあるものへと向かう限界ある愛だろう。しかし、弱く不敬虔で罪人であったときにキリストは私たちのためにいのちを差し出されたのである。
神は天地創造から人間を愛しておられた。しかし神に背いた人間は、神の愛を素直に受け取らず、勝手な方法で得ようとしてしまった。そしてますます神に背く悪循環に陥っている。救いとはそこからの解放である。神に敵対していた者を赦し、役立つ者に変えてくださる神の愛は、教会を迫害し神に敵対していたパウロ自身の経験した現実である。
この救いは本当の喜び、誇りで人を満たしてくれる。誤った誇りをもってしては、自分自身が満たされることはない。そればかりかその欠けを他人を利用して満たそうとする間違いを犯す。私という罪人を赦し愛してくださる神を誇り、神を喜びとするとき、必ず神を愛し、隣人を自分のように愛する正しい愛へと向かうだろう。
0216 : 今日のエフデ 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/03/14(木) 21:57:10
先週と同様、クリアファイルでランドセル作りにチャレンジ。先週と同様、自分たちのランドセルの色などを話しながら作成。自分が小学生だったころは男子は黒、女子は赤って決まっていましたけど、最近はホントにカラフルで個性的ですね。ある子はおまけのミニノートをデスノートに作りかえる、と熱心に作っていました。教会でやる工作としては「・・・(汗)」でしたけどその集中力には感心。
0215 : 2024年3月10日 主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/03/11(月) 22:32:34
ローマ5:1-5 「神との平和」
神が罪ある私たちを義と認められるのは、信仰のみであるとパウロは論じ、アブラハムの姿から実証した。私たちが義と認められるなら、神との平和が与えられる。この平和とは単に争いがないということではなく、人間に全領域で欠けたところがないこと。そのような神との平和は、私たちを大きく変えるに違いない。
では神との平和によってどう変わるのか。まずこの平和は私たちの行いの報いではなく、イエス・キリストを信じるだけで良いという恵みである。罪によって私たちは創造の目的を果たせず役立たずの者だったが、信仰によって神の栄光にあずかり、神に似たものに変えられるという希望が与えられるのである。
その喜びは苦難さえも苦難のまま終わらせない喜びである。神との平和を知らないときは苦難は苦難のままであろう。しかし、神との平和を頂いてから後は苦難さえも神の似姿に造りかえられる過程となる。その希望は、やがて良い事もある、という類いの希望ではない。神の愛が注がれ続けているということの聖霊による確信なので、絶対に失望に終わらないのである。この神の愛をただただ信じて受け取り歩もう。
0214 : 今日のエフデ 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/03/07(木) 19:41:10
今日は予定していたプログラムが試作の段階でちょっと問題発生し、急遽変更して、あるYouTubeで見つけた「クリアファイルでランドセルを作る」というプログラムを拝借して行いました。小学校を卒業する子どもたちも多いので、思い出になれば、と。おまけとしてこのランドセルの中に入るミニノートもプレゼント。子どもたちの中には消しゴムや鉛筆などの文房具を作る子もいました。
0213 : 2024年3月3日 主日聖餐礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/03/06(水) 11:07:26
ローマ4:18-25 「取り去られない平安」
神がアブラハム(アブラム)に、あなたの子孫は星の数ほどになると言われたとき、彼の状況的には決して神の祝福を信じやすい状況とはいえなかった。たとえ報いが与えられても高齢ゆえにその祝福は結局失われると思われた状況である。しかし夜空の星を数えよと言われたとき、彼は目に見える根拠があったわけではなく、神のことばを信じ受け入れたのであった。
信じた時だけではない。彼は失敗しつつもその信仰を15年以上も信じつづけた。しかもますます強く約束を握りしめていたのである。自分達夫婦が子をもうけるには死んだも同然であることを認めてもなお、神が祝福を決して取り去らないことを信じつづけた。神はそれを「それでよい」と認めてくださったのである。
この恵みは私たちにも与えられる。主イエスの復活を信じる私たちも、死んだら終わりではない永遠の祝福の約束を信じるということである。罪人を赦し、信じる私たちをそれでよいと祝福してくださる神だけが私たちの飢え渇きを満たす事ができる。この平安に満たされ生きることがアブラハムの信仰に倣う歩みである。
0212 : 2024年2月25日主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/02/26(月) 09:11:27
ローマ4:13-17 「約束を果たされるのは神」
パウロはなおアブラハムを引き合いにだして、神が人を義とするのは信仰か律法かを論じる。このことはくりかえし念入りに確認すべきである。なぜなら、人間の心の中には自分の行いによる救いを信頼したがり、また、よい行いもなしに救いにあずかるなら不公平感を感じるからである。人が義とされるのは信仰による。強調しすぎることはない。
では、「救いに至るにはほとんどを信仰が助けてくれ、のこりわずか人間の行いが必要」という考えはどうか。しかし律法を完璧に守ることができる人間はいないとすでに証明されている。だとしたら救いに至る99%が達成できても、救われない以上0%と同じである。そして律法は拒否させる選択肢をもたらすため、違反を指摘することができても、律法そのものに人を正しく歩ませる力はない。だとしたらすべての人間は全員失格で、神がアブラハムにした約束は無効になってしまう。
やはり人が義と認められるのは100%神の恵みを信じる信仰による者でなければならない。そもそも約束とは、約束をした方に約束の実現を果たす責任があるはずである。私たちは主の恵みの御手を信じてつかむしかない。しかしそれが神と隣人を愛する平安に進ませるのである。
0211 : 今日のエフデ 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/02/22(木) 19:05:44
先週に引き続き寒い日に飲みたいあったかーい飲み物をデザイン。今日は銭湯の壁みたいな背景デザインに、緑茶がよく似合う湯飲みを作ってくれた子がいました。確かにこれも寒い日に飲みたいと思わせる作品でした。
0210 : 2024年2月18日主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/02/19(月) 12:03:03
ローマ4:9〜12 「割礼の目的」
手段が目的化することはあらゆる場合で大きな問題である。割礼もそうなってしまっていた。ダビデの告白した幸いは、自らへりくだり罪を認め告白したところに与えられた幸いであった。それはアブラハムの義認を見れば明らかなように、割礼の有無に関係がない。アブラハムもまた罪の中にあった者だが、神の約束のみことばを信じる信仰が義認の根拠として割礼に先立っていたのである。
では割礼とは何なのか。それは神が信仰によって罪人を義と認めた証印である。人はそのしるしを見て、この後も信仰に立ち返ることができる助けとなる。その手段の目的化は、自らを誇り、他者を蔑むことにつながるだろう。そもそも赦しを宣言する事ができるのは、一方的・完全に赦す側にある。人間から割礼を義認の根拠として差し出せはしない。
アブラハムに割礼が命じられた目的は何か。パウロは割礼を無意味とはしない。割礼は神の義認の証である以外に、アブラハムが父となる、とあるように、割礼を受けていない者が信じた時、アブラハムの信仰にならう時、アブラハムに約束された星の数の子孫の一人とされる証となるためである。私たちもその一人。先立つ信仰にいつも目を留めよう。
0209 : 今日のエフデ 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/02/16(木) 20:21:31
寒い日が続く中、ホットドリンクをデザインして作品を作りました。遠近感を意識した平面と壁、マグカップをどうデザインするか。ミルクでもココアでもホットレモンでも、あったかーい飲み物をイメージしながら作ってね、と励ますと、みんなあったかそうな作品にしてくれました。
0208 : 2024年2月11日主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/02/13(火) 09:33:03
ローマ4:1〜8 「神は初めから」
律法の行いによる義を主張する人々は、信仰による義について、旧約聖書と新約聖書の断絶を感じるかもしれない。しかしそうではない、とパウロはアブラハムをあげる。彼はユダヤ人にとって誇りだが、彼は行いによって義とされたのではない。聖書はアブラハムの間違いや失敗も隠さず記録しているからである。
創世記15:6によれば彼は神の約束を信じた信仰によって義とされた。聖書は創世記から一貫して信仰による義を伝えているのである。もし義が行いの報酬であれば、神に支払い義務を与える序列になり、人が神を奴隷としてることになろう。アブラハムはへりくだり、神の全能と真実さとあわれみを信じた。それが彼の義とされたのである。
英雄ダビデもまた、罪を犯さないのではなく、自らの罪を赦され覆われた幸いを詩篇に歌った。レビ記に定められたアザゼルのやぎの儀式のように、罪が運ばれて行ってしまったことによる恵みである。義という漢字は、羊の下に我と記す。正確な成り立は別として、神の小羊キリストの覆いの下に自分自身を置くように見える。神はそれを見て私たちを義としてくださる。神の御心にかなう許しの平安を頂き歩もう。
0207 : 今日のエフデ 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/02/08(木) 18:36:47
今日は諸事情で人数が少なかったですが、先日学校でスキー教室に行ってきたばかり、という子どもたちと一緒に松ぼっくりのスキーヤーを作りました。もうすぐ中学生になるので、中学校になったらどの部活に入るかと聞くと、ある子は美術部に入る予定だそう。この教室で図工・美術が好きになってくれてたとしたらうれしいです。
0206 : 2024年2月4日主日聖餐礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/02/06(火) 16:10:45
ローマ3:27〜31 「本当のみこころを」
私たちは神のみこころをいつの間にか歪め、改変してしまっていることがある。ユダヤ人は律法が与えられたということを誇りに思っていたが、すでに触れたように律法を守って義とされる人はひとりもいない。そもそも律法を落ち度なく行う者を義と認めるために律法は与えられたのではなかった。むしろ信仰によって救われる信仰の律法こそを誇るべきであった。
ユダヤ人が選ばれたのも、そしてその肉体的しるしである割礼も、異邦人を見下すためではない。天地万物の創造者である神がただおひとりなら、割礼を受けている者にとってもそうでない者にとっても神は神である。後にくわしく触れる事になるが、他でもないユダヤ人の祖であるアブラハムは無割礼の時に信仰によって義とされたのだから。
その一方で律法が意味のないものとして廃棄されるのではない。主イエスのたとえでパリサイ人と取税人の祈りが語られたことがあったが、義とされたのは律法によって罪を自覚しへりくだった取税人だった。律法はそのように人を信仰に導くのである。神が与えられた律法も福音も間違って受け取る事がないように。本当のみこころを求めよう。
0205 : 今日のエフデ 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/02/01(木) 19:05:43
今日は2月とは思えないほど暖かい日でしたが、その気候にはそぐわないとは思いつつ、予定通り松ぼっくりのスキーヤーを作りました。ある子は、これまでエフデで作った作品のなかで一番満足した、という子や、迎えに来たあるお母さんは「なにこれーかわいいー」と歓声。もう少し寒かったら気分出たんだけどな、というと子どもたちに笑われてしまいました。
0204 : 2024年1月28日主日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:24/01/30(火) 20:56:03
ローマ3:21〜26 「義とされる恵み」
私たちが罪人であることを一切の自己弁護を捨てて受け入れへりくだる時、主は律法による義とは全く別の道を開かれる。私たちは、律法による義には全く到達することができない。そうするとルターのように神に対して恐怖を抱くしかない。けれどもパウロは、律法とは関わりなく、しかも律法と預言者によって証された神の義が示された、という。
それはイエス・キリストである。すべての人間が罪人であるということに差別がないように、イエス・キリストの真実により差し出される救いもまた差別がない。私たちに必要なのは、それを受け取るかどうか、だけである。イエス・キリストは私たちの身代わりとなってくださった。その理由は、ただ愛という恵みのみである。
では罪の責任を問わず許すことは人間を堕落させる、不正な神がやることなのだろうか。そうではない。旧約聖書で教えられていた贖いの家畜の血ではなく、私たちが義とされるために御子の血という、これ以上ない高価な犠牲が払われているからである。安売りされる安価な恵みならなくなっても惜しまない。しかし主が与える恵みは高価な恵み。その恵みは、主に従う思いを私たちに与えてくださるのである。