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0189 : 2023年11月5日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:23/11/08(水) 11:24:49
ローマ1:18 タイトル「神の怒り」

導入 イスラエルのガザ空爆に思うこと

1.神の恵みと怒り
  ○ 「というのは」
  〇 罪が分からなければ恵みも

2.真理を阻む人
  ○ 阻む・・押さえ込む
  ○ 不敬虔と不義

3.啓示された怒り
  ○ 怒り=災い?
  ○ 神の怒りを負ってくださった方

要約
世界で起こる争い事と私たち自身の罪は地続きであると捉えるべきだろう。神は私たちの罪を問題にしておられる。16〜17節で福音の恵みが語られたが、18節になって人間の不義への神の怒りが語られる。話題が変わったのではない。「というのは」と接続詞でつながれる。罪が理解されなければ私たちの救いもまた理解できないのである。
私たちは不義をもって知っているはずの真理を心の奥深くにしまいこみ、見ないように聞こえないように振る舞ってしまう。自分勝手な都合によって神を持ち出したり無視したりする私たち。そうした真理を阻む生き方から、神に身をかがめない不敬虔や、人に対しても不誠実、不義が表れてくる。一般に罪と呼ばれることも、突き詰めれば神をしまい込み見えないふり、聞こえないふりをする問題に突き当たるのである。
そんな私たちを、神は怒られる。しかし災害や禍などがすべて神の怒りなのではない。覆いを取りのけられて天から啓示された神の怒りは、むしろ人を自由勝手な生き方に追いやることすらある。しかしその行く末は永遠の滅びなのだ。主イエスはその神の怒りを身代わりに負われた。罪を悔い改め、主の十字架の贖いに感謝し聖餐にあずかろう。
0188 : 2023年10月29日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:23/10/31(火) 11:36:27
ローマ1:17 タイトル「福音の再発見」

導入 マルチン・ルターの宗教改革

1.私は神の義を憎んだ
  ○ 罪の意識
  〇 どんなに善行を積んでも

2.福音の再発見
  ○ なぜ福音なのか
  ○ 神「の」義

3.神の義を受け取るには
  ○ 信仰のみ
  ○ 聖書にあるとおり

要約
来る10月31日は宗教改革記念日。ルター聖書の重要な教義である信仰義認に目覚めたローマ1:17を読む。神の義とはなんだろうか。普通、神がご自分の議をもって罪人である人間をさばくと受けとめているのではないだろうか。修道士時代のルターもそう受けとめ、どんなに熱心にミサを献げても告解を通して罪の告白をしても、善行を積んでも自らの罪の赦しの確信がないことに悩んでいた。
それがなぜ良い知らせ(福音)と言えるのか。神の義を罪人を裁く神の義と考えると確かに救いの確信は得られない。しかし、神が罪人をあわれんでご自分の義を人間に与えることが神の義であるとルターは目が開かれた。救いは、人間の義、私の義が問題なのではないのである。これが良い知らせ、福音なのである。
その救いを受け取るために必要なのは、最初から最後まで信仰のみである。ましてや贖宥状による免罪はあり得なかった。これは旧約聖書からのメッセージである。ルターはカトリック教会から破門されるが、聖書を多くの人が読めるようになり、さらに多くの人々が信仰義認を理解するようになった。私たちもこの信仰によって平安と感謝を頂き歩もう。
0187 : 2023年10月22日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:23/10/23(月) 13:21:20
ローマ1:16 タイトル「救いをもたらす力」

導入 教団秋の研修会から

1.福音=恥?
  ○ 日本は恥の文化
  〇 ユダヤ人、ギリシア人からも

2.神の力
  ○ デュナミス:潜在能力
  ○ 一見弱く見えても

3.救いをもたらす
  ○ 罪の結果
  ○ 信じる信仰

要約
1:16、17はローマ人への手紙のテーマ。その冒頭パウロは福音を恥としない、と記す。日本人にとって「恥」かどうかは重要な行動基準であろう。しかしわざわざこう記すということは、パウロにとっても福音が恥となりうる前提があったということだろう。事実しるしを求めるユダヤ人、知識を求めるギリシア人にとって福音は愚かなことばだった。
けれども福音を恥としないのは、神の力だからだ、という。力とはギリシャ語でデュナミスで、潜在能力という意味がある。一見力なく見えても、潜在的に確かに力があるということである。弱さを隠し強さを見せたいウィークネス・フォビアを抱える人間から見て、十字架までへりくだる主は確かに愚かかも知れない。しかし、やがて花を咲かせ実を実らせる種に力があるように福音に力があるとしたら恥ではなくなる。
その見た目とは裏腹の福音の潜在能力とは、あらゆる人を救う力である。堕落以降人は神と隣人への誠実さも愛も失ってしまった。しかし福音によって示された神の愛は神と隣人への愛へと私たちを招く。その力にあずかるには、種に力があると信じて地に蒔くのと同じ信仰である。その福音が罪人の私を救ったことを日常の中で世に証して歩もう。
0186 : 2023年10月15日礼拝 名前:caiaphas@管理人 投稿:23/10/18(水) 18:35:56
ローマ1:11〜15 タイトル「福音を伝える思い」

導入 イスラエル・パレスチナ問題から

1.御霊の賜物を
  ○ 恵みのカリスマ
  〇 互いに、ともに励ましを

2.神の計画によって
  ○ 福音宣教の実の収穫
  ○ 人の思いを超えた神の計画

3.負い目
  ○ 自分でとどめるのではなく
  ○ 主から託された赦しの福音

要約
パウロは挨拶や祈りの後、ローマに行きたいという理由を記す。まずはパウロに与えられた御霊の賜物をもってローマのクリスチャンを強くしたいという思いである。御霊の賜物は一方的な恵みによって与えられるもの。しかもそれをもって互いに仕え、励まされるための神からのプレゼントである。それゆえパウロもまたローマのクリスチャンから励まされたいと願うのである。
しかし異邦人伝道によって新しいクリスチャンの誕生を願っていたパウロのローマ行きの願いは、様々な事情でなかなかかなわなかった。けれども彼はそれすら主イエスの支配のもとにあると受けとめていた。そのことによってパウロは、人の思いや願いを超えて、神の計画だけに従う姿勢を学ばせられたに違いない。宣教のわざは徹頭徹尾主のみわざだからである。
パウロはあらゆる人に福音を伝える負債を負っていた。主がパウロを赦した福音を託したからである。私たちも負い目を主に赦された恵みを託されている。私たちも、互いに仕え、上からではなくむしろへりくだり、喜びをもって主から託された赦しの福音を伝えていく者でありたい。
0185 : 感謝ととりなしの祈り 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/10/10(火) 17:16:21
 2023年10月8日 主日聖餐礼拝 ローマ1:8〜10

[導入] 信仰者にとっての祈り
1.感謝
 〇イエス・キリストを通して
 〇あなたがたの信仰が
2.とりなし
 〇ミムネー スコマイ(覚える、心に刻む)
 〇神を証人として
3.願い
 〇具体的な祈りを祈る覚悟
 〇プロセウコマイ(神の声に耳を澄ます)

[説教要約]
 信仰者にとって大切な祈りについて整えられいきましょう。
感謝から始まる形式の手紙は珍しくないのだが、パウロはイエス・キリストを通して感謝するとまず記します。旧約時代は動物のいけにえによって献げられていた祈りは、主イエスの十字架を通して献げられる祈りへと道が開かれました。パウロの感謝は、異教世界ローマにおいてイエスを主とする信仰者がいることでした。私たちもまた、主の目から見てそのような存在であると覚えたい。
 続けてパウロはローマのクリスチャンのために執り成し祈ります。ここでは「思う」はギリシャ語の「ミムネースコマイ」:覚える、心にきざむという言葉が使われています。私たちはしばしば「祈っていますよ」が単なる挨拶の定型句になってしまうことがないでしょうか。神を証人に立てる誠実さをもってとりなしの祈りを真に献げる者となりましょう。
 続けてパウロはローマ行の願望を祈ります。私たちはもし聞き入れられなかったら、と思うと具体的な祈りをすることに覚悟がいるかも知れません。けれども神の前に明確な答えを求めて祈ることはとての大事なことに違いありません。この時の、みこころを求めるパウロの使ったギリシャ語「プロセウコマイ」は、神さまの声に耳を澄ますと解釈することも可能だとも言われる。
神の前に願いを素直に告げ、神の答えを待ち静まる祈りを献げていきましょう。
0184 : 神の福音のために 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/10/09(月) 14:49:31
2023年10月1日 主日礼拝 ローマ1:1〜7

足かけ2年余をかけ読み通した「ヨハネの福音書」を離れ、本日より「ローマ人への手紙」へと進みます。

[導入] マルチン・ルターとカール・バルト
1.著者パウロ
 〇厳格熱心なパリサイ人
 〇キリスト・イエスのしもべ
2.神の福音
 〇イエス・キリストに関する良い知らせ
 〇赦しとの恵みと使命への服従
3.ローマの信徒へ
 〇共通の愛がもたらす祈り
 〇恵みと平安

[説教要約]
 プロテスタント教会の歴史にとても重要な転換点をもたらしたローマ人への手紙を読んで行きます。著者は、元パリサイ人でキリスト教への迫害者から復活の主との出会いによって大宣教者へと回心したパウロ。まだ会ったことの無いローマにいるクリスチャンに対し、パウロは自らをイエス・キリストのしもべ(奴隷)だと自己紹介をします。人の評価ではなくイエス・キリストこそが我が主であるとの告白でした。
 使徒である彼に委ねられた福音とはイエス・キリストに関する事。主は預言通りダビデの子孫として生まれ、よみがえられた事で神の御子として証されたこと。この福音はあらゆる人々にとって「良い」と言える知らせです。主はパウロの罪を赦し、この福音を伝える使徒として新しい使命を与えられました。私たちも罪赦されて救われただけではありません。主に使命を与えられた主のものとなったのです。それ故にすべての責任を負う重荷から解放されたのです。
 神は愛をもって私たちを召したもう方。その共通の土台をもって執り成し祈る関係となるのです。一方的な赦しの恵みと神との関係における平安。それによって私たちは日々新しく主に従う歩みへと遣わされるのです。
0183 : 後悔からの解放 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/10/09(月) 14:07:28
2023年9月24日主日礼拝

[導入]ヨハネの福音書を読んだ期間を振り返って
1.主イエスとペテロ
 〇朝食を終えて
 〇3度の問いと3度の答え
2.主イエスの意図
 〇「愛する」のギリシャ語
 〇3度のフィレオー
3.新しい使命へ
 〇自分を裁く間違い
 〇「わたしに従いなさい」

[説教要約]
本日にてヨハネの福音書を読み終えます。
 ティベリア湖畔での食事の後、主はペテロに3度「あなたはわたしを愛するか」と質問をされます。これは明らかに十字架を前にした状況で、3度主を否んだことと関係しているのでしょう。最後の晩餐の際には「死ぬまで主に従います」と口にしていたペテロは自分自身の弱さを突き付けられていたのでした。だから主の問いに対し「私はあなたを愛しています」とは、はっきり答えられなかったのです。
 しかし主はペテロの弱さをなじったのではありません。愛すると訳されるギリシャ語には、友愛など双方向の信頼に基づいた愛を意味する「フィレオー」と、一方的な無償の愛を意味する「アガパオー」があります。主は2度ペテロに対し「アガパオー」で愛を問われます。しかし自分の弱さを知ったペテロは「フィレオー」でしか答えられなかったのです。すると主は3度目には「フィオレー」で問われたのです。ペテロの限界を知り主自らが彼の元へ降りてきて下さったのです。
 私たちも虚勢を張る必要はありません。自分自身の小ささや貧しさはとうに主がご存知なのです。それでもあなたはわたしを愛するかと主は問われます。私たちの精一杯の告白を期待し、わたに従って来なさいと命じられる。
自分をさばかず、他人と比べず、主に従い行こうではありませんか。
0182 : 徒労から豊かな実りへ 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/09/20(水) 10:38:17
2023年9月17日 敬老礼拝 ヨハネ21:1〜14

[導入] 「なぜヒトだけが老いるのか」
1.テイベリア湖(ガリラヤ湖)にて
 〇漁へ行くペテロたち
 〇徒労に終わる
2.イエス・キリストとの関係
 〇主からの一言
 〇主に従う時
3.祝福の基
 〇ペテロとユダ
 〇主の備えと労(ねぎら)い

[説教要約]
 エルサレムで復活の主イエスに出会ったペテロら弟子たちでしたが、ティベリア湖に戻り、彼らは漁に行くことにしました。復活というすばらしい奇跡を目の当たりにはしたものの、彼らには主を裏切ったという負い目があっただろうし、自分たちに主に派遣される資格があるのかという戸惑いもあったのかも知れません。そんな時に人は、自分のこれまでの経験や知識を引っ張り出して何か実りを得ようとするのではないでしょうか。
 しかし大事なのは主との関係なのです。弟子たちが何も捕れない徒労に疲れ果てていた時、主は岸辺から声をかけられました。私たちもそんな細き御声を聞くことがあるかも知れません。その時へりくだり素直に現状を認める者でありたいと願う。そして主のみ言葉通りに行う時、彼らは抱えきれない実りを手にするのでした。
 ペテロはその声の主が主イエスだと知ると急いで駆けつけるのでした。彼の裏切りはユダのそれと大差はないのだが、自分に絶望する事はせず、とにかく主の愛に信頼したのです。そんな彼を主は労いと収穫を分かち合う喜びの食卓を備え、招いて下さりました。改めて主に従う弟子として下さる主の恵みに感謝し、生涯の終わりまで主に仕えて行こうではありませんか。
0181 : 信じていのちを得るため 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/09/14(木) 10:47:26
 2030年9月10日 主日礼拝

[導入] 「読書の秋」思うこと
1.イエスが神の子キリストである
 〇ヨハネの福音書の(元)あとがき
 〇キリストの証としてのしるし
2.あなた方が信じるため
 〇伝記ではなく
 〇信じ方
3.いのちを得る
 〇罪による死
 〇神からの語りかけへの応答

[説教要約]
 聖書のみことばを読む時に私たちは一体何を得ることができるのでしょうか。今日の箇所はヨハネが一旦福音書を書き終えた後の後書きだと言えます。その後追加で21章を記したとのだろうと考えられています。ここには福音書執筆の目的が記されています。まずナザレのイエスがキリストであるということ。具体的にはヨハネの福音書に記されている7つの奇跡と、十字架と復活がそのしるしだと言えるでしょう。
 しかし、その事実を知る事だけが目的ではありません。聖書は伝記のような書物とは違います。イエスを立派な人物としてしか読まなかったり、ただ神の実在を信じる悪霊でさえ出来る信じ方ではなく、み言葉を読んだ一人ひとりが、イエスが私をも救いたもうことを信頼するためなのです。
 その時、私たちはいのちを得るのです。いや、私たちは生きてるいるではないか、と言うかも知れません。しかし人は神に背く罪を犯してから、神の語りかけに応答することもなく無視し続けるという死んだ状態にあるのです。そのような私たちのために御子イエスが神の子羊として十字架に架かられ、よみがえって下さったのです。そのことを知り信じる時、私たちは神に応答することの出来る「いのち」を得るのです。このいのちのみことばを常に頂き歩みましょう。
0180 : 私の主、私の神 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/09/06(水) 11:51:16
2023年9月3日 主日聖餐礼拝:ヨハネ20:24〜29

[導入] 「百聞は一見に如かず」
 1.トマスという弟子
  〇疑い深い?
  〇主イエスへの思い
 2.罪悪感と自責
  〇「決して信じない」
  〇主の訪れ
 3.信仰告白へ
  〇ユダヤ人にとって
  〇「私の」

[説教要約]
 トマスと言えば疑い深い不信仰な弟子、という評判になっているのではないでしょうか。
しかしトマスという人物は、数少ない福音書内での登場場面の発言を見ると、主を熱心に愛し、主と一緒に死ぬことや主にどこまでも付いて行きたい、といった熱い思いを持っていたことが分かります。しかしそんな彼だったが、実際には十字架を前にして逃げ出してしまった事への罪悪感があったのではないでしょうか。そして人はそういう罪悪感を感じると、むしろ自分の失敗を覆い隠すように周りを否定することがあります。彼の「決して信じない」という強い言葉にそれが表われているように思われます。
 つまり彼は特別疑り深いのではなく、私たちと同様の弟子であるということ。しかし主は
そんな彼を覚え、彼のために再び現れて下さいました。そして十字架の傷に手を入れなさいと促して下さるのです。主は自らへりくだって、一人ひとりの問題に向き合って下さる方なのです。
 その主にトマスは、「私の主、私の神」と主イエスに向かって告白します。ユダヤ人にとっては自分の常識をかなぐり捨てた個人的な告白なのです。トマスはなお弟子たちとの交わりの中にいました。その日曜の集まりにおいて主は現れて下さったのです。私たちも礼拝、聖餐式で主を見ずに信じる幸いにあずかりましょう。
0179 : 平安あれ 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/09/06(水) 11:17:10
2023年8月27日 主日礼拝:ヨハネ20:19〜23

[導入] 恐怖・不安について
 1.ユダヤ人を恐れる弟子たち
  〇同じ週の初めの日
  〇復活を聞き、知っても
 2.主の現れと臨在
  〇恐れの真ん中に
  〇平安があるように
 3.新たな使命
  〇新しい創造
  〇赦し

[説教要約]
 人は恐怖に囚われるときに、その奴隷となり自らを損ない他者を排除するようになります。
ユダヤ人からの脅威を恐れる弟子たちも戸口に鍵をかけ怯え隠れていました。その日の朝には
主の墓が空であったことを聞き、ある者は見、ある者は信じたにもかかわらず。しかし主の
復活を知り信じている私たちも、それはそれとして様々な恐れを抱えてしまう者一人。
 けれども主はそんな私たちの恐れの真ん中に来られるのです。そしてユダヤ人を恐れている弟子たちの不信仰を責めることなく平安を与えて下さるのです。どんなに鍵をかけて縮こまっている私たちにも。さらに十字架の傷を彼らに見せられたのは、復活の証拠とも言えるでしょうが、
弟子たちにとっては裏切りの象徴である傷を見せて、かつ平安を願われることを通して、弟子たちに赦しを確信させて下さるためではないでしょうか。だから弟子たちはその主を見て喜んだのです。
 主は弟子に息を吹きかけ、聖霊をもって弟子たちを新しく再創造されました。そして人々を赦していく、という証をもって主の福音を伝えて行く使命を与えられたのです。恐れがもたらす敵意や分断に和解と平和を作り上げていく主の使命をいただき、私たちも世に遣わされて行きましょう。
0178 : 悲しみは喜びに 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/09/04(月) 16:34:21
2023年8月20日 召天者記念礼拝 ヨハネ20:11〜18

[導入] 「お盆」の風習に思うこと
1.マグダラのマリアの悲しみ
 〇泣き続けるマリア
 〇せめて遺体だけでも
2.再会しても
 〇イエスに気付けないマリア
 〇自分の思っている解決法
3.本当の解決
 〇「マリア」「ラボニ」
 〇天の父のもとでは

[説教要約]
 日本のお盆の風習を見る時、そこには先だった者との再会を希求する思いの強さを感じます。
主に癒され人間らしく生きる道へと解放されたマグダラのマリアは、主イエスの死を深く悲しみ、墓を
離れられず泣いていました。彼女にとっての拠り所は、せめて愛する主のお体を大切にすることであったのです。それは主のご遺体を自分が引き取ろうとするほどでありましたが、それも叶わなかったのでした。
 そんなマリアに主ご自身が現れます。生きている主との再会は彼女にとってこれ以上無いすばらしい出来事に違いありません。けれども彼女はそれが主イエスだと分からなかったのです。私たちも心ここにあらずの状況では見ても聞いても頭に入ってこないという経験があります。彼女も恐らく生ける神との再会は思いもよらず、主の体を見つけることで頭が精一杯だったのでしょう。
 本当の解決は主ご自身から、しかも思ってもみない方向からもたらされます。「マリア」「ラボニ」という言葉のやり取りはアラム語であり、短くとも親密さが深く表現されているところ。主との再会の喜びは彼女にとってどれ程だったでしょうか。天においてはもっとはっきり愛する主に、そして先立たれた者たちとの交わりがあります。私たちも希望の証の日々を送ろうではありませんか。
0177 : 主を愛する恵み 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/09/04(月) 16:03:31
2003年8月13日 主日礼拝 ヨハネ20:1〜10              

[導入] なぜ日曜日に礼拝するのか
1.マグダラのマリア
 〇マリアという人物
 〇墓の異変
2.イエスが愛された弟子
 〇墓に向かうペテロとヨハネ
 〇見て、信じた
3.復活の恵みにあずかる
 〇マリアとヨハネの共通点
 〇愛がなければ

[説教要約]
 主の復活はイースターのみ覚えるのではなく、毎週日曜日ごとに覚えるべきなのです。
その日曜日の明け方早く、マグダラのマリアは主が葬られた墓に向かうのです。主に悪霊を追い出していただいた彼女は主を愛し従い、十字架のそばまでついて行った程でした。
その彼女が墓の異変に気付き主の弟子の元へ伝えに行きます。恐らく彼女は誰かに荒らされたと思い込み、主への愛のゆえになおさら悲しみのどん底にあったのではないでしょうか。
 その知らせを聞いたペテロとヨハネは墓へと走り出します。ヨハネの方が早かった、という記述もヨハネの主への愛を思わせます。そのヨハネは墓の中を見、亜麻布がきれいに巻かれたまま置いてあったのを見て、主イエスの復活を信じたのでした。
 マリアとヨハネの復活の恵みに与る共通点は何だろうか。それは主への愛ではなかったでしょうか。もちろんペテロも主を愛していましたが、彼には否認の後ろめたさがありました。マリアもヨハネも主の愛を充分に受け、彼らもまた主を愛していたのです。私たちも復活の信仰の恵みにあずかろうとするなら、主に愛され主を愛することが必要なのです。 
0176 : 2023年 月 6日 主日聖餐礼拝 名前:Kngh@櫛形 投稿:23/08/07(月) 11:36:14
ヨハネ19:38〜42 「人を変える力」

[導入]2つある!?主イエス・キリストの墓
1.主イエスの葬り
 〇アリマタヤのヨセフ
 〇ニコデモ
2.信仰の表明
 〇信仰を公にできない苦しさ
 〇勇気をもって
3.十字架によって
 〇主のまなざし
 〇ヨハネ12:32の言葉の成就  

[要約]
 主イエスの葬りの場面。そこに2人の人物が登場します。サンヘドリンの議員でもあったアリマタヤのヨセフは弟子でありながらそれを隠していました。また3章で夜主イエスを訪ねてきたパリサイ人のニコデモも、主の教えがすばらしいと思いながらも、それを堂々と告白できない人物でありました。
 私たちも主の弟子であることを恥ずかしく思ったりすることがないでしょうか。けれどもそうやって二つの顔を持つ人間を信用できない人物と評価する私たちの目が、自分に向くことは辛い事です。ヨセフやニコデモもそうだったかも知れません。けれど彼らはここで勇気を出し、犠牲を払って主イエスの体を引き取ることにします。
 何が彼らを変えたのだろうか。それはヨセフやニコデモを何一つ責めることをせず、むしろ彼らへの愛を示すために命を捨てられた主の十字架の愛ではないでしょうか。主は私たちの弱さを知り、自分の信仰を表明出来る機会を静かに待って与えて下さるのです。そしていざという時にその勇気を与えて下さるのです。その時に主の愛を知った臆病な私たちは変えられ、主を証しする者にしていただきましょう。
 
0175 : 今日のエフデ 名前:caiaphas@管理人 投稿:23/08/03(木) 19:27:56
8月7日に山梨県最大の花火大会である神明の花火大会が行われるのを前に、今日は花火を描きました。
まず円状にカラフルな色を下地として塗り、そこにろうそくで花火を描きます。その上から暗い夜の色を塗ると鮮やかに下地が浮き上がってきます。空の絵の具がまだ塗れているうちに塩をまくと、これがまたきれいな模様に。色鮮やかな花火が夜空に咲きました。
来週は天気があまり良くないようですが、きれいな花火が見られるといいですね。

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