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… 「片側の未来」☆樹編 …
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 ――けど。

 どうも、その話はただの冗談では終わらなかったらしい。

 

 翌日、奴は数枚の書類を私に手渡してきた。お店のロゴの入った封筒に入れられている。『Apricot Green』って言う知る人ぞ知る丘の上の雑貨屋さんの名前。シンプルだけどおしゃれなレタリング。ええと、あの変なペン先で書く奴……カリグラフィーとかいうんだっけ。あれに似てる気がする。

「形式だけなんだけど、一応商売だから、いくつか書いて貰わなくちゃならないんだって。で、未成年者は駄目だから、お前の名前のままじゃ駄目だぞ。親の名前でもいいけど……よく考えたら、お前の浪人した兄貴がもう成人してるんじゃないか? 丁度いいから、名前を借りろよ」

 何も言わないウチに、ぺらぺらと説明してくる。こっちが聞く気がないことなんて、全然気にしてないみたいだ。

「あと、売り上げの20%を店に入れることになってるから、商品の値段はそれを考慮した上で各自が決定するんだって。ま、商品管理までしてやるんだから、当然だよな。正直、こっちとしてはそれほどの利はないらしいし……父親もこんなボランティアが好きで困るよ、もっと上手に商売すれば儲かるのに。ま、そんなとこだから」

 弁が立つというのは本当なんだなあ。キャッチセールスとかやったら、大儲け出来たりしてね。ただですら女の子の寄ってきそうな外見なのに、畳みかけるようにまくし立てられたらもうぐらりになっちゃうんじゃない?

 とか何とか。全然違うことを思い浮かべてる私。

 昨日だって、2時までテスト勉強をしていたんだ。頭がぼんやりとして上手く動かない。精神力の全ては授業中の教師とのやりとりに取っておきたいのに、こうして貴重なランチタイムに頭を使わせるのって「作戦」だったりする……? もしかして、中間テストを惨敗させるつもりじゃないでしょうね。

「……おい、聞いてんのか?」

 あまりにも呆けているように見えたのだろうか。槇原樹はすごく不機嫌そうな声を出す。その上、封筒の端で人の頬をつんつんするのだ。

「一応、聞いてるけど」
 ぶすっと返答して、そのままお弁当箱に視線を戻す。ああん、もう。人目に付かないように中庭に逃げてきたのに、コイツがくっついてきてあれこれ言い出すからいつまでたっても昼食がはかどらない。午後の予習がーっ、とかイライラするのは私だけなんだろうなあ。

 だいたいさ、他のみんなはいつ勉強するのよ。

 みんな要領がいいというか何というか。あくせくしてる素振りなんて全然見せないのに、難しい英文法の授業でも慌てる様子なんてない。普通、あてられて慌てて教科書を目で追って、しどろもどろに答えるって感じじゃない? もしかして、そんなのは俗世のことであって、雲の上の住人たちには関係ないのかしら。

 ここにいる槇原樹だってそうだわ。

 実は言い忘れていたけど、ウチの学校は文化祭が梅雨時の6月にある。前は5月だったらしいけど、運動部の大会とか色々忙しくて、その上中間もあったりするから変わったみたい。何でもこれも生徒会が学校側に直談判したらしい。
 あと1ヶ月というスケジュールになって、生徒会の役員であるコイツも忙しいのだ。まだ役職にはついていないヒラの立場だけど、中等部時代の経験もあるから何でも出来るらしくて色んな雑用を回されているらしい。生徒主体のお祭りで教師たちは余り手も口も出さない。その代わりに生徒会や文化祭の実行委員会の仕事が増える。

 分厚いファイル。各クラスや部活動、同好会から提出された資料が詰まっている。ひとつひとつを確認して、不明な部分があったら付箋を貼って、提出元に戻す。中等部とのやりとりもあるし、隣で聞いているだけでも忙しいのは分かった。けど、全然焦ってない。いくらエベレストのような雑務が積み上げられていても、平然としているのだ。

「――何か、むかつく」

 食事時くらい、その口をしゃべることに使うのはやめたら? と思ってしまう。取り合わずにチキンライスのグリンピースをお箸でつまみ上げることに専念していたら、外巻きカールの髪をつんと引っ張られた。

「どうして、そうやって無視を決め込むのかな? 普通の女の子は、目が合わないときでもドキドキの心地が伝わってくるのに、お前はそれもないし。やっぱ、女相手じゃないと萌えないのか? 小杉薫子、レズ疑惑! ……とかね。ああ、可哀想な樹くんってみんなから言われるんだなぁ、俺」

 ――あのっ、ねえっ!!!

 突然、涙声でそんなことを言い出すから、焦ってしまう。こんな馬鹿馬鹿しい話は聞き流せばいいんだけど、下手にシカトを決め込んでまことしやかに噂をばらまかれてもたまらない。
 言葉を返すのも面倒だけど、一応釘は刺しておこうと顔を上げた。そしたら、思いがけずにマジな顔が目の前にずいーっと突きつけられる。

「彼女なら、彼女らしく振る舞え。分かってるんだろうな、お前の西の杜での運命なんて、結局は俺次第なんだからな。こっちが冴えない高校生活に彩りを添えてやろうと努力してやってるのに、どういうつもりだよ」

 そこまで言うと、大袈裟に溜息をついて立ち上がる。そして、私の頭の上にさっきの封筒をぱさりと落として。

「それは明日までにどうにかしろよ。ないないと言っても、ひとつやふたつは作ったのあるんだろ? それを添えて持ってこい。もしも約束を破ったら、その時は分かってるんだろうな……?」

 

 放課後は忙しいから付き合わなくていい。そんな風に言い捨てた背中にひとことも言い返せなかったのはどうしてだろう。もしかすると、瞳の魔力かも知れないって思った。

 


 ――ああ、そうか。槇原樹は私を陥れようとしているんだ。

 

 そう気付いたときに、何だかホッとした。意図も分からずに色々と行動されてはこちらも落ち着かない。いい加減テスト勉強に集中するためにあれこれと思考を巡らせた結果、ひとつの結論に達した。

 きっと、私のビーズ制作の腕なんて箸にも棒にもかからないものであると言うことを知らしめて、さらに落ち込ませようとしてるんだわ。いつまでもいつまでも売れることなく並べられているアクセサリー。それを想像しただけで、薄暗い気持ちになる。そんな復讐を試みたいのだろう。馬鹿みたい、そんなことでへこたれますかって言うの。

 言うことを聞かないとまた文句を言われそうだから、すぐに書類の空欄は埋めて捺印した。「小杉」の印鑑なんて、その辺にゴロゴロしてるし。別に未成年だって、判くらい簡単につけるのよね。それだけにキャッチセールスとかに引っかかりやすいんだけど。悪知恵の働く販売員から「保護者印がいらないように、年齢は18歳以上にしようね」とか言われるみたいだし。
 それに机の引き出しにしまってあった天然石を使ったブレスレットとネックレスのセットを添えて手渡す。これくらいしか見栄えのするものはなかったから。材料費だけでもだいぶ掛かってる、デザインも色んな本を見てアレンジした。ころころすべすべの石が扱いづらくて模様が綺麗にかたちにならなくて。何度も何度もほどいては編み直したものだ。
 女の子好みの淡いピンクとミルクホワイトの色合い。すごくすごく気に入っていたけど、残念ながら身に付けてどこかに出掛けることはなかった。出来ることなら、華奢な長い首やほっそりした手首を持つ女性に大切にして欲しい。

 ……まあ、こんなことを説明したところで、ガラスビーズとアクリルビーズの区別も付いていない奴には分からないだろうから、解釈はナシにしたけど。

 

 その後、すぐに中間テスト。頭の隅っこの方で、ネックレスたちの行方は気になってはいたがそれどころの騒ぎではなかった。気が紛れて丁度良かったかも。

 いつも悠然と構えている槇原樹も、さすがに待ち合わせの場所で参考書を広げている。目印みたいに掛けたままの黒縁眼鏡をいい加減に返して欲しかったけど、何となく言いにくかった。

「お前、肌荒れがひどいぞ。色の白いは七難隠す、って言葉知らない? 手入れしろよ、素材はそんなに悪くないはずなんだからさ」

 会うたびにこんなことばっかり言われる。私はただむっつりと視線を向けるだけ。何か言葉を発したら、そのまま覚えた単語や年号が、ぼろぼろと脳から流れ出てしまいそうだ。そんな私の想いを知ってか知らずか、奴は私にしか聞こえない声で話し続ける。

「何のために勉強してるのか、分かってないんだろ? そんな風にだらだらと時間を掛けて丸暗記で済ませていると、テストが終わる頃には全部抜け落ちてるからな。ぱっと集中して、リラックスとか出来ないのか。やっぱ、融通の利かない奴は困るよな……」

 ――いいよ、もう。要領の悪いことは自分でもよく分かってる。そして、コイツの言葉にいちいちムッと来る本当の意味も。……要するに痛いところをつかれているんだ。もしも自分の心にやましいところがなかったら、気にならないはず。結局は自分の中にあるものが投影されているんだ。

 ふうっと、溜息をついちゃう。視線は石畳に向いたまま。誰もが振り向くアイドルと連れだって歩いているのにこんな風な態度を取るなんて、また何か言われそうだ。

「ほらよ、これ」

 別れ際、差し出されたのは手のひらに乗るほどの四角い紙包み。ベージュのシンプルな袋は、奴の家の店のものだ。ロゴも控えめに入っている。

「ぬるめの風呂にゆっくりつかると疲れが取れるんだってよ、試してみれば?」

 

 透明なセロファンに包まれていたのは、一見あめ玉みたいなキューブタブレットの入浴剤。ほんのりとワイルドローズの香り。もしかして、バスタブにつかるのが面倒でシャワーで済ませていたのに気付いたとか。……まさかね。

 

 不思議な心地で奴の背中を探したけど、同じ色の制服の雑踏ににひときわ目立つはずの姿が紛れて消えていた。

 


 期待しないことには慣れている。誰かに頼って裏切られるなんて馬鹿みたいなこと、もうとっくに忘れた。私は自分だけの力で、二本の足で歩いていけばいい。絶対に、普通の女の子みたいに媚びたり甘えたりしないもの。……そんなの、私らしくない。

 長い長いトンネルを歩くこと。

 人は不憫だと思うかも知れない。けど、私は全然平気。むしろ心地よいくらいだ。ひとつのことだけやってればいい状況はお手軽だし、誰からも文句を言われないのは最高。そう、「枠」からはみ出なければ、両親も私のことを気に掛けないでくれるから。

「何だよー、せっかく戻ってきたのに。全然進展なしか。もうちょっと上手くやれよな、樹くんに飽きられる前に」

 入っていいなんて言ってないのに。兄は週末に帰省するとまっすぐに私の部屋にやってきた。お決まりのアップルトルテを持参で。一度にあんなに食べさせられたら、大好物も見たくなくなる。そんな当たり前のことすら分かってないらしい。

 私たちの「仲」が続いていることは、毎日サイトに報告される情報で知っているみたい。何かUPされてる写真とか、槇原樹のアップばかりらしいけど。いいショットがたくさんあるからお前も見てみろと言われたけど、遠慮する。いつも生の姿を見せつけられているのに、もうこれ以上はたくさんだわ。

 机の前の回転椅子に後ろ向きに腰掛けてぎしぎししている兄。すごく楽しそう。普段はいるかいないか分からない人なのに、槇原ファミリーのことになると別人のように生き生きしてくるのよね。おめでたいなあとつくづく思う。でも、そうしているのは、話によれば兄ひとりではないのだ。世の中には物好きが多いモノだとしみじみしてしまう。

 大学に無事滑り込んだとは言っても。兄はまだまだ両親にしてみれば悩みの種だ。何しろ、以前不登校になりかけた前歴がある。ひとり暮らしの気安さで引きこもられたら溜まったもんじゃない。大学は在籍しているだけで法外な「授業料」を取られるんだ。だぶられたりしたら、たまらない。

「僕も毎日、とても清々しい気分で過ごしているよ。何しろ、妹が樹くんの彼女だぞ? これが喜ばずにいられるかと言うんだ。サイトでもつい口が滑りそうになって、危ないことこの上ないし。本当に薫子のお陰だよ、感謝してる」

 ――別に、感謝されてもねえ……。

 私は何もしていない。槇原樹が勝手に近づいてきて、突然「彼女」にさせられただけ。それに誰もが憧れるようなそのポジションについたとはいえ、何が変わるわけではない。毎日、学校の最寄りの駅から教室まで、一緒に歩くくらいだもの。

 

 まあ、変わったことと言えば。

 朝起きて、鏡を見て。髪型も顔つきもそれなりに整っていることに驚かされる。もしかしたら心労でやつれたのかも知れないけど、頬の辺りもすっきりして。試しに体重を計ったら2キロも減っていた。
 登校時も学校の中でも。何処にいても誰かに見られている気がする。そりゃあそうよね、私の近くに槇原樹が現れるかも知れないんだから。多忙な彼を追いかけるより、あまり動かない私を張っていた方が得策だ。私の姿を見つけて駆け寄ってくる、あの表情。絶対にその他大勢の視線を意識してる。

「思っていたよりも、取っつきやすいのね」……って言うのも、この10日近くの間でたびたび言われたことだ。今まで胡散臭そうに私を遠巻きに見つめていた視線も、何となく好意的なものに変わってきている。私を取り巻く「空気」が変わってきているのは認めなくちゃならないだろう。

 

 ――でも。

 何よりも信じられなかったのは、あんな状況で迎えた中間テストの結果が今までで一番良かったことだ。期末と違って「テスト返却日」があるわけではないから、それぞれの授業の中でテストの返却と答え合わせが行われる。そのたびに、私はキツネにつままれたような妙な気分を感じることになった。

 


 西の空に浮かぶ雲が、夕焼けの残り火に照らされている。久しぶりに部活で思い切り汗を流したのだという槇原樹は、時間通りに校門近くの桜の木までやって来た。

「たまには体育館まで来て、見学しろよ」とか言われたけど、いつものように図書館で暇を潰すことにする。いいじゃない、私がいなくたって応援してくれる女の子たちの黄色い声援が追いかけてくるんでしょう? それで満足しなさいよ。

 

「ほら、これ」

 人気のまばらな時間帯、遊歩道を歩きながら何気なく差し出された封筒。何だろうと中を開けてみると、明細表と千円札が二枚入っていた。

「……え?」
 思わず、声が出てしまった。足を止めて、もう一度しっかりと数字の羅列を眺める。

「何、驚いてるんだよ」

 どことなく、つまらなそうな声が頭の上から降ってくる。側に寄られると、長身のこの男の声は高いところから聞こえるのだ。

「もっと喜べよ、お前の作ったものにわざわざ金を払った奴がいるって言うんだから」

 

 いつもの悪態が、すごく遠く感じた。

 彼の声だけじゃない、脇の車道を走り抜ける車のエンジン音も、風が街路樹を揺らす音も全部消えて。私の頭の中は、一瞬真っ白になった。

 

「売れ……ちゃったの?」

 もっと他に言い方がある気がする。でも、上手い言葉が浮かばない。案の定、彼はとても不機嫌な表情になった。

「何だよ、可愛くない奴。そんな風に言うのかよ?」

 彼の言うことはもっともだ。けど、ごめん。もう、本当に、何て言ったらいいのか全然分からない。私はせめてもの否定を伝えようと、必死で首を横に振った。

「ううん、……ううん、ごめん。何かもう……信じられなくて」

 

 ユカリさんとの大切な思い出。ひとりぼっちになってしまった私が、初めて見つけた自分の場所。そこに散りばめられていた小さな「夢」の粒たち。そのひとつひとつは儚いばかりだったけど、透明な糸で繋ぎ合わせると、新しい輝きが生まれた。

 あの時の感動を忘れたくなくて、私はビーズに魅せられて行ったんだと思う。けど、いくら作品を作っても、それを見て褒めてくれる人なんていない。学校にはもう私の居場所はなかったし、もしも両親に見つかったら「勉強の邪魔になる」って取り上げられてしまうだろう。

 私の気持ちは誰にも届かない、――そう諦めていた。

 

「ふうん、……そっか」

 さっきよりは少し緩んだ声だけど、どんな顔で言ってるのかは分からない。今はもう、とても彼の顔なんて見られない。それどころか、俯いたままの顔を上げることも無理。頬が熱くて、鼻の先がじんとした。こんな風にしてるのは、すごく失礼だと思う。嫌な奴だとは思うけど、今回のことについてはちゃんとお礼を言わなくちゃ。

「んじゃ、頑張った薫子ちゃんにはご褒美あげなくちゃ、な」

 

 何しろ、呆然としていたところだったから、その奇襲を何の構えもなく受け入れていた。

 するり。頬に滑らかなものが触れた。それが槇原樹の指先だと知ったとき、私の唇に湿った吐息が掛かる。

 ……かすかな震え。

 一瞬触れたぬくもりが何とも言えない残り香を残して遠ざかったとき、ようやく私の耳に周囲の全ての音が戻って来た。



 

2004年9月3日更新

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