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… 「片側の未来」☆樹編 …
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「……え?」

 突然の提案だった。お弁当の包みを片付けかけた手が止まる。今までごちゃごちゃと考えすぎていた頭の中が、全て吹き飛んで真っ白。数秒は身体の全機能がストップした。

「何だよ、そんな意外そうな顔して。俺だって鬼じゃないんだからな。お前、少し誤解してるぞ」

 膝の上に置かれたままの包みを彼はさっさと上手に結んで、それを片手に持ったままで立ち上がった。私が慌てて後に続くと、スカートの裾を直してお尻をぽんぽんと叩くのを待って「はい」と手渡してくる。
 ここで当たり前の相手なら、私が正気に戻るのを何時までも面倒くさそうに待っているか、さもなくば包むまではしてくれてもそのまま膝に返すだろう。こちらの動きに支障がないように振る舞うのがすごい。

 ――いや。「善人」は自分のことを「善人」とは言わないものよ。そう言い返したいんだけど、唇が上手く動かない。もう情けないったら、ありゃしないわ。

 

 上履きをはたいて校舎内に戻る。

 まだ予鈴前だから、たくさんの人影。ささっと視線が飛んできた。みんな、槇原樹を見てる。別に呼び止めた訳でもないのに、何か気配を感じるのかな。みんな「はっ」とした感じで振り向いたり顔を上げたりするのよね。

「……条件って、何なの?」

 姿勢のいい背中にようやく私は訊ねることが出来た。その言葉を待ってましたとばかりに、奴は振り返る。

「ここでは言えない、放課後に改めて」

 くすくすっと笑うその表情は、みんなが思い描く彼の姿そのままだろう。その後、何を思ったのか。奴は取り上げたままになっていた私の眼鏡を外す。

「これ、もういらないから返すよ」

 

 それだけのことなのに、私はまた惑わされていく気がした。

 次から次へ、新しいマジックを披露しないでよ。頭が付いて行かないじゃない。

 

「あ……、ありがと」

 自分のものを返して貰うのに、この言い方はないだろう。言葉にしてしまった後、情けない自分に呆れかえってしまった。

 

 ――奪い取るときも突然だったけど、返すのも突然なんだなあ。

 

 久しぶりに手に戻ったささやかな重みに、何となく違和感を覚える。

 毎日身に付けているときには気付かなかった、コンタクトになる前はずっと眼鏡だったんだから。だんだん左右の視力が違ってきて、いわゆる「がちゃ目」の状態になってきて、「これ以上度を違えると、負担が掛かって頭痛がしたりしますよ?」とか行きつけの眼鏡ショップで言われたんだ。

 で、仕方なくコンタクトに変えたというのが本当のところ。そうじゃなくちゃこんな不経済なもの、どうして使いますかって。

 眼鏡を外した自分が、何となく心細くて素通しの眼鏡を掛けてみた。そしたら、急に安心出来て手放せなくなったって感じ。薄いガラスを一枚貼り付けただけの角膜じゃ、心の中まで見えて来ちゃいそう。自分の周りの人たちが嘘偽りで塗り固められた笑顔をしてるって気付いたその時から、絶対に素直になるもんかと思ってた。

 多分。目にゴミが入るよりも、心にゴミが入るのが嫌だったんだろうな。

 

「あ……、でも」

 ようやく長い長い廊下を過ぎて教室の前に来ると、待っていたかのように予鈴が鳴った。斜め前を歩いていた奴が、引き戸に手を掛けながら振り向く。

「薫子も、それを掛けちゃ駄目だから。――キスするときにすごく邪魔だし」

 内緒話をしているように思える声が、一番遠くまで響くみたい。窓際のクラスメイトまでもがこちらに視線を投げかけてくるのに気付いて、もう……このまま廊下に穴を掘って逃げ込みたい気分になった。

 


「……そんなに、むくれることないじゃないか。そう言う顔してもいいのは、絶世の美女だけなんだぞ」

 きっと今の私は誰から見ても、最高に「仏頂面」をしているに違いない。道をひとつ折れて、いつもの秘密の通りに出たとき、奴が最初に言ったのはそんな台詞だった。

「朝のあの態度とあまりにギャップがあると、すぐに下手な演技に気付かれるって知ってるか? まあ、今日は保健体育で中距離のタイムを計ったって言うし、そう言うので疲れてるって思ってもらえるかも知れないけどな。……だから、馬鹿なんだよ。あとさき考えなしの行動をするなって言うの」

 うわあ、空を染める夕焼けの色にも負けないほどの暴言たち。普通、思っていても他人を「馬鹿」って言っちゃ駄目だと思う。何で、この男はこうなのかな。

「だって、……仕方ないじゃない」

 

 元はと言えば、誰のせいだと思ってるのよ。

 いきなり「解放してやる」とか言い出すんだもん、その「交換条件」は何かって考えていたら、午後の授業が全然頭に入らなかったわ。6限目が体育だったのは不幸中の幸い。もっとも隣のクラスと合同で行われる授業って、その分視線も増えるわけで……何とも居心地は悪いんだけどね。

 最初、私の弱みを握っていると言ったとき。奴は「面倒くさいから」という理由で、私を彼女にすると決めた。学校でのイベントがかなり多い高校2年。フリーでいると色々問題が起こるけど、かといって女の子との厄介なやりとりを続けるのももう嫌になったと言っていた。そりゃ、離れたいと願っていたわよずっと。この男の周りって、やたらとうざったいんだもん。いい加減、平穏な生活に戻りたい。

 毎日が、高速のジェットコースターに乗せられているみたいなの。時々、ぐるんと一回転したりして。レジャー施設の乗り物なら、すぐに終点がくる。でも私の場合は、どこまでもどこまでもレールが続いている感じ。疲労の溜まり方も半端じゃない。

 

「じゃあ、改めて質問するけど。お前って、どうして俺と一緒にいるのを嫌がるんだ?」

 急に目の前の背中が止まる。振り向いた彼の言葉が意外すぎて、私はぽかんと口を開けてしまった。

「……は?」

 何を今更、そんなの当然じゃないの。

 馬鹿って言うと自分が馬鹿になるって、本当なのかしら? それとも、これも私を惑わせるための作戦なのかな。そうは思ったけど、質問は質問。これに答えて「解放」されるなら、こんなに楽なことはない。

「だって、こんな風に傷つくような言葉を投げつけられて、嬉しいと思う人間っていないと思うけど。そりゃあ、自分がそんなに素晴らしい人間だとは思ってないわよ。だけど、これほどぼろくそに言われたことはないわ」

 いつも黙っていたのは、いい言葉が思いつかなかったからなの。本当は百倍返しくらいしたかった。でも、ところどころ「図星」なんだから、言い返したら尚更、自分が惨めになるだけかなって思ったし。

「へえ……、そうなんだ」
 目の前の男は、ひどく感心したように何度も頷いていた。そして、すぐに何かを思いついたらしく微笑む。

「じゃあ、薫子は。俺がずーっと優しくしてやれば満足なんだな。やれって言われれば、出来るけど。……それなら今のままでいいのか?」

 ――えっ? えええええっっっ!?

「ちょ、ちょっとっ! それはもっと困るかもっ……! やだ、そんなの!」

 思わず、大声が出ていた。

 だって、だって。すぐに想像しちゃったんだもの。四六時中、どこでどうしているときも、とろけちゃうくらい優しい彼を。べたべたとまとわりつくほど鬱陶しくもなく、かといって心細くなるほど距離を感じることもなく。やわらかい眼差しで守られているみたいに思える完璧さ。

「そんなのっ……、何かもう、息苦しくて窒息しちゃうかも。だったら、ずっと悪態をつかれていた方がマシだわっ……!」

 ぶんぶんと、頭を振ってしまった。軽くなった髪が、私の周りでくすぐったく揺れる。そう言う動きまで計算されたカットだ。

「……だろ?」

 多分。彼は最初から、私がこういう反応をするって分かっていたんだろう。それほど驚いた風でもなく、あっさりと言った。

「女ってさ、本当に訳分からないと思う。こっちは全く落ち度がないはずなのに、何が気に入らないんだろう……? だからさ、お前にそれを調べて欲しいと思ってさ」

 それほど、落ち込んでる風でもない。当たり前のことを当たり前のように語っている。けど、俯いた横顔が何となくこのまま放っておけないほどに切なく見えた。

「……? 調べるって、何を?」

 私の言葉に顔を上げる、猫みたいな目の色。

「決まってるだろ、俺がすぐに振られるその理由を、だよ」

 


 余りにも完璧な演技。それに騙されているんだと思った。すぐに笑い飛ばしたかったけど、そう出来なかったのはどうしてなんだろう。

 

 その日、家に帰り着いても、すっきりしない心地は続いていた。

 まあ、やることやらないとヤバイから、課題と予習復習を片付ける。以前は分からない箇所を何時間も延々と考え込むこともあった。でも、今ではそれほど時間の無駄遣いはしない。人に聞くなり、色々調べるなり、解決方法はいくらでもある。少し情けなくはあるが、いざとなったらあの男に聞けばいいんだ。たちどころにベテラン教師よりも分かりやすく教えてくれるはず。

 何か、短期間のうちに、自分でもびっくりするくらいに時間の使い方が上手になった気がする。それがどういう理由からなのかは、あまり考えたくなかったけど。

 

 ――でもって。

 今、私がどうしてるのかというと。バスタブにこぼれるほどにお湯を張って、そこにのんびりとつかっている。ローズの香りのバスキューブ。もったいないから、特別の時にしか使わないようにしているのよね。何となく、今日はそれの気分だった。おめでたいって言えば、おめでたいんだし。バスキューブをくれたのも、おめでたい状況にしてくれたのも、あの男だと思うとちょっとしゃくだけど、ね。

 お湯がうすピンクに染まる入浴剤。バブとかしか使ったことなかったから、ころんとしたその石けんみたいなかたちがとても不思議だった。ゆっくりとお湯を染めて小さくなっていくその塊。それを見ているうちに頭の中のイライラとかまで、すううっと抜けていく気がする。何となく、肌が色づいてつるつるになる感じ。……気のせいだろうけど。

 ふわふわ。湧き上がる湯気も、バラの香り。その霞の向こうに、槇原樹の顔が浮かんでくる。

 

「彼女たちの名誉のために曖昧にしていたけど、幕切れなんていつも呆気ないもんなんだよ。理由を聞いても誰ひとりとして答えようとしない。ただ、もうおしまいにしようって言われるんだ。それも、ある日突然にね」

 ……そんな風に奴は言った。

「女の方から振ったように見せない」と言うのが彼なりの思いやりらしい。まあ普通だったら考えられないことだけど、これが槇原樹だから頷けることよね。何しろ、ファンクラブだけでも支部がいくつも出来てしまうくらいあるらしい。そんな一般ピープルな彼女たちにとって「樹くんの特別な存在になること」とはどんなにか輝かしい憧れの晴れ舞台だろう。

 誰もが夢見る最高峰の地位。そこから自分の選択で降りるなんて、盲目的なファンたちには考えられないと思う。あの兄をいつも身近で見ていた私は分かる。

 熱烈的な「信者」とはターゲットにした存在を完璧なものとして扱うんだ。すごく偏っているとか思うけど、もしも自分たちの「アイドル」が道でつまづいたとすると、悪いのは本人ではなくて「そこにあった石」さらには「石を放置した地方自治体」とか信じられない考えに発展していく。ちょっと怖いなとか思った。

 ……まあ、そうかも知れないな。私だって、陰で何と言われているか分からないし。でも、何となく想像は出来るから、気が楽だけど。歴代の「樹くんの彼女」となった人たちは本人も「アイドル」か、さもなくば「準アイドル」と言った感じの人ばかり。プライドだってそうとうだろうし、そういう屈辱には耐えられないかも。

 ――いいわ、そんなことは。

 それより問題は、どうしたらこの「条件」をクリア出来るかよね。何かもっとすごいことを言われるかと思ってたから、ちょっと拍子抜け。……いや、すごいことって。またそれを口にすると奴に「オタクの妹は考えることが違う」とか言われそうだから、黙ってたけど。

 でも、知らなかった。……っていうか、今まで誰にも悟られなかったのはすごいなと思う。元彼女さんたちも、すごいよなあ。自分が振られたと思われていても平気なんだもん。そう言えば、この前まで彼女だったテニス部の明日美さん、もうちゃっかりと次の彼が出来たらしい。何て言うかさ、あっさりしてるよね。 

 一番手っ取り早いのは、彼女たちに直接リサーチすることよね。でも、それは無理。槇原樹風に言えば「猿でも考えつきそうなこと」になるだろう。
 曲がりなりとも今「彼女」の地位にいる私が、以前その立場にあった人に「どうして別れたの?」って聞くことが出来るわけない。それが叶うとしたら、私が彼女たちと同じ立場になってからだよな。すっごい嫌みな奴だと反感を買うのが関の山。それだけは避けたいところだ。また、ここに来てトラブルを起こしたくはない。私は静かな生活に戻りたいんだから。

 うーん、じゃあどうしよう。

 簡単なのは「自分の立場に置き換えて、考えてみる」と言う王道のパターンかな。でも、それくらいのことは、頭のいい奴のことだ。とっくにシミュレーションしているはず。だいたいさ、彼が考えて分からなかったことを、どうして私が知ることが出来るだろう。同じ女だから、元彼女さんたちに近いだろうって思ったのかな。

 ……けどさあ。

 

 そこで私はまた、壁にぶち当たっていた。

 目の前はもわもわの湯気、さっきよりも視界が悪くなってる。ぬるめのお湯にしてあるから、一時間やそこらは平気だろうけど。この頃、「長風呂過ぎだぞ」って親からクレームが来てるんだよな。

 いつかのあの風景を思い出す。槇原樹はバレー部の小川さんを始め、たくさんの女子たちに取り囲まれていた。彼女たち、すごい真剣な表情をしていたよ。「この中から、誰でもいいから選んで!」っていいながら、その瞳は「絶対に私よっ!」って訴えてた。

 みんな、なりたいんだよ、奴の彼女に。逃げる相手を追いかけると言うこと自体、私には理解できない。それをしちゃうくらい、パワー全開なんだ。

 大好きな彼と一緒にいられるんだったら、それだけでも嬉しいはず。……なのになあ、どうしてすぐに別れたくなるんだろう? 奴の話では、自分には落ち度はないと言う。余りにも自信過剰なその言いぐさには思わず突っ込みたくなるけど、まあアイツならそれもありそうだなと思う。私のような天敵を相手にしてですら、人前ではあんなに優しく振る舞ってくれるんだもの。

 正直、裏側を知らなければ、槇原樹は気持ち悪いくらい完璧だと思う。一緒にいる間は驚かされっぱなし。こんな理想をコテコテに塗り固めたような人間が実際に存在したんだなって。「この人は私のこと、好きなんだ」って思いながら、あの眼差しで見つめられたら……かなり満たされるだろうな。

 好きな相手にされて一番嫌なこと。それは理由もなく一方的に繋いだ手を振りほどかれることだろう。昨日までとても仲良しだと思っていた相手に、いきなり罵倒された。あの時の全身が凍り付くようなショックは何年経っても記憶に生々しい傷跡を残してる。

 ――だけど、そんな心配がないんだとしたら。

 少なくとも奴は、相手が言い出さなければ何年でも付き合うつもりだったんだと思う。くるくると相手を変えると無駄な労力がいるってほざいていたもの。飽きるくらい一緒にいる夫婦がそれでもその関係をやめないのと似てる。ようするに「慣れ」という状況にに安心したいんだ。

 もしも、とっても好きな相手だったら。きっといつまでもその関係を続けたいと願うだろう。ゴールデンカップルとか言われて、西の杜学園の歴史に刻まれるようなふたりになりたいって。それに手の届く場所にいながら、あっさりとその状況とさよなら出来るとは信じがたい。

 

 頭のいい人の思考回路って、やっぱりちょっと違うのかも。すっごい精巧に複雑に出来ていて、私の理解の範疇を越えるのかなあ……。

 

「一応、断っておくけど。お前がその『条件』をクリアするまでは、今のままでいてもらうぞ。下手なことして誰かに悟られても面倒だからな」

 別れ際、そう釘を刺された。

 

 やっぱり、分からない。一体どういうつもりなんだろう。自分の弱みをあっさりと私に告げてくる、そこにどんな「計算」が隠されているのやら。

 少し踏み込んだ気のする奴の「内部」。その入り口付近で、私は早くも迷子になりかけていた。



 

2004年9月17日更新

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