たとえば。 自分のごくごく近い人間でも、その心内までしっかり理解しているかというとそうでもない気がする。人間って、結局は自分の物差しでしか測れないんだから、あとから気付いて「嘘ぉ〜!」とか思うことだってあるよね。分かってくれて当然と思っていても、そうでなかったり。 そして、今。私の隣にいる男は、そんな中でもスペシャルにつかみ所がなくて、滅茶苦茶に分かりにくい人間だと思う。だから見る人によって、いろんな彼が現れる。それはどれも本当じゃないし、嘘でもない。
――29人。 改めて、その数値を目の当たりにしたときは、思わず溜息が出た。この微妙なカウントは何かというと、他でもない、あの槇原樹が西の杜学園中等部に入学してからこっちの「彼女」の数。あ、私も一応含めて。29番目なんて、中途半端なナンバーになることも情けないわね。 この情報は例の「マキハラ商会」からのもの。そう、私にとってはここしばらくの災難のすべての始まり、諸悪の根源とも言える兄の作ったサイトだ。今まで開くこともなかったけど、この際仕方ない。「敵」を知るにはまず詳細なデーターが必要なんだから。バストショット入りの画像が添えられた歴代の彼女名簿は圧巻で、タウン誌の「街角で見つけたちょっと可愛い子」特集みたいだった。 そして、そのうち今も校内に残っているのは私も含めて20名。その他の9名はどこに行ったかって? 両親の転勤に伴って転校した人や、海外留学したバイリンガール。はたまた、もう卒業してしまった先輩! までいたのにはびっくり。何でも中等部3年の時、高等部2年生の先輩と付き合っていたそうなのだ。そうかと思うと、去年は中等部の1年生とも。 ……まあ、いいんだけどさ。すごい雑食よね。 パソコンの前で「節操なし!」って、叫んじゃったわ。今まで現実から目を背けていた私がいけないんだけど、呆れたわよ。女なら誰でもいいのかなあ……、でもこんな風なのに、まだ「彼女」の座をねらう人がいるんだから、侮れない。 ファンクラブ(もちろん非公認)は校内とそれ以外を含めて9つ。彼を見つめている女子(もしかしたら、男子も)が、どれくらいの数に上るか分からない。ファン層が若い分、父親の透氏よりも華やかな外野の雰囲気だ。芸能界ですら人気アイドルが3年たつと「誰だっけ、この人」になるというのに、長年人気を保っているのはすごいと思う。すごいけど……、ちょっと違和感があるな。
「……ほんと、分からない」
どんなに素晴らしい舞台俳優だって、幕が下りればただの人に戻る。 もちろん、あれこれと制約はあるけど、ここまで四六時中「作られた」自分を演じているのって不自然だ。こんなことして、何の得になるというんだろう。周囲の人たちは驚いたり喜んだりしてくれるかも知れない。でも、それだけのことでしょ?
――結局ね、彼ってナルちゃんなのよ。自分しか、愛せないの。
明日美さんはそう言い切った、自信たっぷりに。私も思わず「そうかも知れない」と頷きかけたほど。そんな男なんだから、もう放っておきなさいと彼女は言いたげだった。しつこく追い回したって、絶対に振り向いてくれないんだから。自分が情けなくなって立ち直れなくなる前に、さっさと匙を投げろって。 そうしたいのは、山々よ。もう、面倒はたくさんだもん。このままずるずると付き合っていたら、次々に歴代の彼女たちが目の前に現れるかも知れない。シミュレーションゲームならそれもアリだけど、現実世界では有り難くない。私は今すぐに、平凡で地味な女子高生に戻りたいの。
けど、……それでいいのだろうか。 自分でも、馬鹿だと思う。あんな男に情けをかけてやる必要もないし、奴だってそれを望んでいる訳じゃない。じゃあ、どうして?
ぼんやりと物思いにふけっていたから、突然声をかけられてびっくりする。近頃、こんなことが増えたのよね、今まで私を掃除用具入れか何かのように無視していたクラスメイトたちが、親しげに話しかけてくるようになった。 「そ、……そうでもないと思うんだけど」 私がひとりで悶々と悩んでいてもらちは開かず、気がつけばもう金曜日。この一週間は、さすがの奴も多忙を極め、私に毒舌を披露するどころか、顔を合わせるのも稀だった。教室で槇原樹の姿を見つけるのも大変なくらい。 まあ、そこは優秀な人材の集まった西の杜だ。委員長が不在でも、文化祭の出し物の準備はどんどん進んでいく。今日は午後の2時限を潰しての準備作業。そろそろ各パーツが仕上がった大道具も組み立てて、明日の本番を待つばかりになっていた。 私は数人の女子と一緒に、ちまちまと内職作業。夜店のアクセサリー作りをしている。あっちの男子たちはメンコや手裏剣、竹とんぼとか。きらきらぴかぴかのお子様仕様。これも槇原樹の提案だった。
ウチの学園の文化祭は、住宅地に囲まれていることもあって、家族連れのお客が多い。小さな子供も多くて、みんな50円とか100円とか小銭を握りしめて買い物に来る。夜店は彼らが喜ぶ出し物のひとつだから、できる限り満足して貰いたいと彼は言う。 でも、いつの間にか。本当にいつの間にか、クラスが元通り一丸となっていた。 あんなに反対意見を述べていたはずの男子が、意気揚々と竹とんぼの羽を削っている。調達した竹がたくさん余ったから、循環式の水路を造るとまで言い出した。水ヨーヨーを流して遊べるようにするんだって。なかなか本格的に仕上がってきて、「打ち上げはこれで流しそうめんかな?」なんて冗談も飛び出す始末。
「あれ〜、そんなに変じゃなかったわねえ……」 今回、教室の真ん中にシンボルとして置かれる張りぼての大樹、その根元に植え込みがセットされた。これも骨組みを丈夫にしてあるから、小学校低学年くらいまでの子供なら木登りが楽しめる趣向になってる。ようするにジャングルジムみたいにしっかりとした竹の骨が入ってるのよね。それを遠くから見守っていた道具係の女子が意外そうに言う。 「この前、造りかけのを見たときは違和感あったんだけどな。うん、……良かった。塗り直さなくていいみたい。一手間省けたわね」 私は一度口を開きかけて、すぐにやめた。胸に湧きかけた感情が、後味の悪いものを残す。だって、知ってる。それは槇原樹がひとりでこっそりと塗り直したもの。あとで話を聞いたら、あの日家に帰り着いたのは夜の10時近かったって言うじゃない。 ……それだけじゃない。 あっちの屋台の柱も、壁に張り巡らした暗幕の端の処理も、彼は生徒会の仕事が済んでからひとりで教室に戻って、せっせと手直しを加えていたんだ。帰宅部の私は重宝がられて、この一週間はクラスに遅くまで残っていることが多かった。だから、今日どこまで進んだかはきちんとチェックしてる。なのに、朝登校してみると、あちらこちらが変わっているんだ。そんなことをするのは奴しかいない。 最初は、なんて気障な奴なんだろうとか思ったよ。いい子ぶっちゃって、自分だけ格好良くなろうとして。今だって、彼の評判は上々、その上文化祭近くなって、表だっての活躍はますます増えてきた。もちろん、主となって動くのは文化祭の実行委員や生徒会の3年生なんだけど、面倒な裏の作業をいろいろと引き受けてるのが彼。クレーム処理なんかもきっちりさばいているみたい。
何かさ、もう思うのよね。いいじゃない、やめようよって。これ以上、頑張って何になるの。 この数日は朝一緒に登校する以外は昼休みも別行動になってた。久しぶりの気楽なランチ。ひとりでのんびりしようとしたら、文化祭のことでいろいろと話し合いとかあって。私は今まで親しくもなかった女子たちと一緒にお弁当をつつくようになっている。 そんな風に過ごしていて。気にしないようにしようって思うのに、無意識のうちに奴の動向ばかりを探っている。みんな彼の表向きな華やかな部分ばかりに目を向けているけど、そうじゃないところもたくさんあるのだ。誰もいないところで地味に努力している彼を、どうして誰も気づかないのだろう。 「木曜日の秘密」だって。少し突っ込んで調べれば、造作ないことだと思うのよね。正直、不自然だもの。白塗りのピエロが子供たちの世話をしてるなんて。 ――本当、分からない。彼がそんな風にしてまで守りたいものって、一体何?
「へええ、ちょっとした配色でこんなに違ってくるのねえ。同じビーズを使ってるとは思えないわ、私もやり直して真似しよう」 きれいな色のヘアゴムに、プラスチックの大振りのビーズを通す。ごくごく簡単なブレスレット。こういうおおざっぱな作業も楽しいのよね。いつもはちまちまと複雑な編み模様を作ってるから、すごく新鮮。ついつい夢中になっていたら、隣で作業していた女子がそんなことを言う。 「私、普段は油絵やってるのに、なんか上手くいかないわ。子供向けに作るのって難しいのね。何か、有閑マダムのネックレスみたいになっちゃう」 その言葉にピンと来た。 ああ、この人って美術部の成川さんだわ。去年も秋の全国コンクールで入賞してたはず。確かお父さんが画家だったんじゃなかった? 日本美術界の新鋭で将来有望と言われている人だ。そんな有名人がゴロゴロいるのもすごいよね。元オリンピック選手の子供、とか言う生徒も何人かいる。 そんな人の隣でちまちまやってるだけで、どきどきしちゃう。色あわせなんて、私が聞きたいくらいよ。いつもいつもそれが一番楽しくて悩む作業だもん。いくら手の込んだ造りにしても、最初のそれで躓いたら何にもならないの。思い通りに仕上がらなくて、テグスをほどくなんて良くあることよ。 「え……ええと。色は、ちょっと足りないかな? ってくらいでいいのかも」 成川さんの選んだビーズは、品の良いアンティークの調度品みたいな色合い。お子様ビーズでどうしてここまで出来るのかというほどの出来映えだけど、確かにちょっとくどいかな? 「ほら、アクセサリーは身につけて用いるものだから、それだけで完成しちゃうと服や肌の色とケンカして浮いちゃうの。選んだビーズをお皿の上で混ぜてみて、目障りに感じたものを抜いていくのもひとつの方法だわ。それから、ちっちゃな子供もセンスいいから、あまり子供だましみたいにしないようがいいかも……」 そう言いながら、私の心臓はばくばくと飛び出しそうになっていた。もしもこんなことを言って笑われたらどうしよう、何こいつ、みんな知ってるようなことを偉そうに言ってるの? とか思われたら恥ずかしい。そう思って、今まで知ってることも知らない振りでやってきた。楽だけど、味気ない生活だったと思う。 「ふうん……そうなんだ。言われてみればそうねえ。小杉さんの作るのって、派手派手でもちゃちでもないけど、まとまりがあるものね〜。そうか、透明な色の組み合わせだから、油絵の具のようにはいかないわよね」 そんな答えを聞いて、ほっと胸をなで下ろした。 まあ、今私が言ったのは、ユカリさんの受け売りだから。彼女にストラップの作り方を習ったのはほんの少しの間だったけど、ビーズについてのあれこれまで親切に教えてくれた。 ――ビーズも、人間も同じじゃないかな。 私はふと、そんな風に思った。槇原樹が胡散臭く思えたのは、彼があまりに完璧だったから。時には失敗したり弱みを見せたりもするんだけど、それすらも計算されているみたいに隙がない。一体どこから突き崩したら真相に迫れるのか、全然分からないんだもの。 彼はどこまでも「槇原樹」を真剣に演じている。だから、明日美さんにあんな風に言われるんだ。確かにあそこまで言う彼女の方にも原因はある。だけど、それだけじゃない気がした。どんなに格好いい彼氏がいたって、自分に対する愛情に疑問を持ったらおしまいだもの。私のように最初から期待していない場合はそれもアリだけど、そうじゃないんだったら。 単純な作業も困るわね。余計なことばっかり考えちゃう。
しばらくして。教室の隅で綿菓子の機械をいじっていた男子が声をかけてきた。手にはコンセントを持っている。少し困り顔。 「これ、普通の電源じゃちょっと合わないみたいなんだけど。どっからか引っ張ってこなくちゃならないかも。どうしたらいいのか、聞いてこられないかな? 試運転してみたいんだけど」 綿菓子の機械も槇原樹が地元の商店街を介して借りてきたものだ。こういうのもいざ借りようとするとピンキリで、困るのよね。メンテナンスがいまいちで、なかなか動かないものもあるし。何でも去年のクラスと比べてレンタル料が半額だったそうだ。やっぱ、何事にもコネってあるんだね。 こんな場合、誰が呼びに行っても同じ気がするんだけど……なんか私にお声がかかるのよね。「彼女」って不思議だなと思う。どこか「夫婦」と似てるところがあって。お互いの動向もきちんと把握しているように思われてしまうんだ。まあ、普通のカップルだったら、相手のことが気になるから一通りのデーターは頭に入ってるわよね。でも、私は違うから。……困ったなあ。 「さっき、呼び出しがかかってたから。今頃は生徒会室にいるんじゃない?」 そんな風に助け船を出してくれた声。振り向くと、そこにはバレー部の小川さん。のこぎり片手に格闘してる。なんか、ガテンな女子が多いと思うのは気のせい? 私はお礼を言うと、教室を後にした。
お祭り前の喧噪って、心地よい。みんな生き生きしていて、すごく熱気に満ちていて。 ほとんどのクラスは自分たちの教室をそのまま会場に使う。視聴覚室や行動のステージを使うクラスもあるから、その空き教室は他の部活や同好会が使用するんだ。みんな思い思いに趣向を凝らした飾り付けで、盛り上がっている。廊下にあふれた道具や人並みを避けながら、私は進んでいった。
生徒会室は特別棟の二階の東端。そこまでたどり着くのだって大変だった。 柱の陰から、まずはその周辺を偵察する。だって、いきなり出て行ったら、また不特定多数の人間に注目されてしまうんだもの。別に私はクラスの用事で来ただけなんだけど、「あ、彼女が会いに来た!」とか思われちゃうのが嫌。 がらりと引き戸が開いて。見慣れすぎている姿が現れる。……ああ、タイミングいいや、早いとこ言付けを済ませて帰ろうっと――そう思って一歩踏み出そうとしたとき。彼の後ろから続いて出てきた人影に私は動きを止めた。 ――中等部の2年生・安藤宏美さん……。 思わず触りたくなっちゃうほどのふわふわのカール。薄茶色のそれは天然パーマなんだそうだ。さすが新体操部、すらりと細身の長身で、中等部の制服がぴたっと決まっている。ふたりはなにやら親密そうに話を続けていた。その雰囲気がとにかく完成されていて、息を飲む。……だって、そうなのだ。彼女って、去年槇原樹と付き合っていた子。 ううん、「付き合っていた」なんて過去形は似合わない。だって、こうして見ていると本当に仲の良いカップルに見えるよ。――何で? 彼女だって、奴のことを振ったんでしょ? 違うの? 確かに奴は言ったよ、別れた彼女たちとも仲良くしてるって。だからって……。
「ふうん、覗き見か。あなたも懲りないわね?」 ぎょっとして、振り向く。いつの間にか背後にぴったりとくっついていた人影がいた。いや、確認するまでもなかったか。もう、声だけで分かるよ。 「ま、懲りないのはあの子も同じか。どうもヨリを戻したくなってるみたいよ? 新しい彼氏と上手くいってないんだって。まあ、オコサマは困るわよね、我が儘で」 くすくす。愛くるしい笑顔。ぺろっと舌を出す仕草もコケティッシュ。何かで読んだことがある、「舌」って、男を誘う有効なアイテムなんだって。明日美さんは何かの作業の途中らしくてジャージ姿だったけど、それでもやっぱり可愛かった。 ここ数日。 あの、彼女に呼び出されていろいろ言われた後も。何となく視線を感じて振り向くと、そこには彼女が立っていた。まるで監視されているみたい、気味が悪いほど。そんなにこだわられることもないと思うんだけど……。もしかすると、今も廊下を歩いている私を見かけて、後を付いてきたのかも知れないわね。 「だいたい、あなたがね。そんな風にのさばってるから、ああやって規約違反が出てくるのよ。彼女だけじゃないから、こういう状況なのにかこつけて、何人もモーションかけて来てるわよ。そりゃあねえ、自分よりもずっとレベルの低い女が勝ち誇った顔でいればおもしろくないわよ。――けど、みんな馬鹿よねえ……」 何も分かってないんだから、そんな風に言って。彼女はしたり顔で頷いた。 「もちろん、鈍感なあなたも気付いてないでしょうけど」 明日美さんはゆっくりと息を吐いた。そして、最高に同情した目で私を見る。私の方が10センチは身長が高いと思うんだけど、こんな表情をされると何歳も年上のように思えてしまう。自信たっぷりで妙に落ち着き払ってるから、言うことが全部本当に聞こえちゃうのね。 瞬きをするたびに震えるまつげから目を離せない。魔法か何かかけられたみたいに。 「あのね、樹くんには最初から、ちゃあんと意中の人がいるのよ。だから、今までの彼女はみ〜んなカモフラージュ。これまでもこれからも、彼は本命なんて作らないわ、……その必要もないんだからね」
2004年10月15日更新 |